旅の終わり エリクール
悲願の終焉地訪問へ
「私の次の旅行先は決まっている」と啖呵を切って6年前に『春秋』での連載を終了したあと、もちろんフローベルガーが最後に過ごしたというエリクール詣でを近いうちにするはずだった。そしてエクリールを訪れたあかつきには報告も兼ね第4回を追加で書こう、とも考えてはいたのだが月日は無慈悲に超高速で流れてしまった。しかし人生、どうしてもやらなければいけないことは必ずや死ぬまでにその機会が巡ってくるものである。それが自分の思い描いていた順番通りではなくとも。
エリクール、モンベリアールを訪ねようと企てたことは近年なかったわけでもないのだが、なにせ足の便が悪い。最寄りの大きな都市はミュルーズ、といってもフランス在住経験でもなければぴんとこないだろう。少し西へ行けば、今年日本人女性が優勝して話題になった指揮者コンクールで知られるブザンソンがあるが、それより隣国スイスのバーゼル、またはライン川を渡って少し北上したドイツのフライブルクの方が近い。車を運転できない身としては、接続の甚だしく悪い地方の鉄道に頼るしかない。そのうえ、どうしてもフランスに行かなくてはならない用事がなかったこともあり、全ては机上の計画に終わっていた。
ところがフローベルガーの方がしびれを切らしたらしく、思いがけないことが続けて起こった。録音嫌いなこの私のところに何故かソロ・レコーディングのオファーが舞い込んだのである。曲目もご自由に、ということで迷い抜いた末、フローベルガーの真骨頂と言える鍵盤組曲を入れることにした。2017年の春だった。本来ならその前にエリクールに行ってフローベルガーにヒントを下さい、とお願いするべきだった。しかし、その後さらに想像もしていなかった棚ぼたのようなチャンスが降ってきた。去年の暮れ、突然また録音の打診があったのだ。それもフランスはコルマールのウンターリンデン(ドイツ語で「菩提樹の下」という意味)美術館所有の17世紀に作られたオリジナル楽器で、という非日常極まるものだった。コルマールはミュルーズの少し北に位置し、今でこそアルザス地方の小ヴェニスとも称される観光都市だが、歴史的には大変古く、9世紀には既に文書に登場する神聖ローマ帝国の自由都市。ルネサンスの街並みが残り、日本では有名アニメにそのままの形で登場する家もある――が、そんなことより! 私にとってコルマールは、なんといってもエリクールに近いということが重要だった。録音もさることながら、今度こそ行けるぞと、どちらが主目的かというくらいの意気込みで電車の接続、城の位置などをネットで調べまくった。
コルマールからモンベリアールへ
ところで、このとき弾くことになったコルマールのチェンバロというのは並大抵の代物ではない。実は30年ほど前、学生時代にドイツから見学に行っている。サド侯爵の末裔が売りに出したものを美術館が購入し、多くの演奏家が録音に使い始めて噂になっていたのだ。1642年、アントワープ(現ベルギー)の名工ヨハネス・ルッカースが製作したもので、その後2回の改造が施された末、現在の仕様となった。今年3月に下見に行った時はまだ肌寒く、関係者からは楽器の調子が今ひとつと聞かされていたので、多少の不安を抱えながら久々のコルマールの街に辿り着いた。
とにかく相手は400歳近い気位の高い名器である。恐る恐る、30年のご無沙汰です、今度録音させていただくことになり日本からやってきました、どうぞお手柔らかにお願いいたします……と挨拶して鍵盤に指を添わせた。一瞬で全ての心配は粉々に吹っ飛んだ。なんと軽やかな鍵盤、タッチ、そしてバランス良く共鳴するボディ(箱)。部屋の空気を瞬間で全て味方に率い、振動させてしまうのだ。楽器の置かれている部屋自体はそんなに音響が良いとは言えないのに、ポーンと一つ弾いた音が10秒以上も響く。楽器が既に部屋の一部になっているようだった。実は美術館側からはここではなく、外の騒音があまり聞こえない隣接した回廊部分での録音を強く勧められたのだが、どうしてもこの部屋でやりたい、と決行することにした。夜10時半前は鳥の声と広場のレストランの物音がうるさく開始できない。部屋はエアコンどころか窓の防音設備も一切なく、外の話し声が筒抜けだった。調律師も明け方3時までしか仕事はしない、という厳しい条件の下、当初の予定を一晩増やして録音することとなった。実際、6月の本録音時には大雨になり、それだけでうるさく録音中止という場面もあったほどで、雑音には常に悩ませられた。
下見といっても2日にわたって弾くことができたのは幸運だった。楽器や部屋の特徴もある程度把握でき、それに合わせて曲も少々変更した。テンポも全体的に遅めに取ったほうが良いことにも気がついた。録音曲は全て17世紀フランスで活躍したルイ・クープランの作品、フローベルガーがパリで出会って親しく交友した音楽家の一人である。フローベルガーも1曲追加で録音させてもらった。
楽器との再会後、空いた午後を使ってとうとう念願のエリクール、モンベリアールへ向かった。早く来なさい、と言われているかのように抜けるような青空の下、まずはモンベリアールへ。現在は人口2.5万の街だが(18世紀末には3400人だったという)、15世紀からヴュルテンベルク家の領地となり、フランスでは珍しいルター派の牙城であった。ここはジビッラ公女が未亡人となって最後に過ごしていた城が残っている。カトリック教徒(それもローマへの奨学金を取るために改宗したらしい)のフローベルガーを音楽教師に雇い、優遇したことで周りから非難を浴びた。駅の真ん前、その高い塔の一部が目に入る。昼休みのせいか人影はまばら。小綺麗な通りが続くが、お世辞にも活気あるとは言えなかった。誰もいない城壁の下を半周して中に入り、曲がった坂を登り切ったところでいきなり視界が開けた。
高台から見下ろす小さな城下町、はるか彼方に低い山並み。フローベルガーもここから遠くを眺めていたに違いない。17世紀だったら森か平原以外何もなかっただろう。一体毎日何を考えていたのだろうか。心臓の具合が悪いことに多少自覚もあっただろう。フローベルガーは晩年、幼馴染みの貴族の庇護の下、のんびり隠遁生活を送っていたと一時まことしやかに言われてもいたが、私はこのモンベリアール城で何故か確信してしまった。こんな寂しい町で人生終わりにはしないぞ……という彼の本音が耳の奥で聞こえた気がしたのだ。第1回でも書いたが、明らかにウィーン復帰を狙ったような美しい楽譜を創っているし、本当は虎視眈々と、もっと刺激のある都会でのポストを探していたのではないだろうか。しかし同時に逆の声も聞こえてくる。もう絶対離さない、という未亡人ジビッラの声が……全ては私の妄想にすぎないのだが。城の一部はコンセルヴァトワール(音楽学校)となっていた。
終点エリクール
モンベリアールから北へ10kmほどのところにエリクールという田舎町がある。ここにフローベルガーが住んでいた城が残っていて、ドイツ語とフランス語が彫られた記念碑が近年建立された話は聞いていた。写真も目にしていていたが、実際それがどこにあるのか全くわからない。ネットで地図や町のホームページをくまなく検索し、多分ここだろうというアタリは付けたものの、確証はないまま現地を目指した。多分「教会通り」という袋小路の先だろう、くらいのノリである。人口1万人、ちゃんと公立の音楽学校もある。勘は的中、「教会通り」の行き詰まったところに、見覚えのある4階建ての古びた塔と記念碑は存在した。しかしその横はほぼ廃墟だった。悲しいほどの荒れ方で、戦時の銃弾痕はそのまま、瓦礫が散乱し今にも崩れそうな壁。昔はかなり立派な城だったと思われるが、修復の予算も無いのだろう。隣に続く建物の一部が幼稚園として使われていて、窓には色紙が貼られ、園児の声もかすかに聞こえる。それが唯一の救いだった。なにしろ本当に誰ともすれ違わなかったのだ。天気が良すぎるのが、逆に寂しさを倍増させた。「教会通り」の家並みも、無人かと思われるようなものが多い。オルガンのある大きな教会があったが、中には誰もおらず、高い天井とひんやりとした空気が虚しい。ここからフローベルガーはモンベリアールまで馬にでも乗って通っていたのだろうか。50歳の、音楽家なら脂の乗り切った頃であろう彼が毎日何を考え、何を喜び、何を憂いていたのか。本当にここで人生を終えることを良しとしていたのだろうか、ぐるぐる考えているうち、私もここまで来て一体何をやっているのか、という軽い眩暈のような感覚に襲われた。かなり長い時間廃墟の周りをうろうろしていたが、名残惜しい、というより早く帰りたくなってしまって帰路に着いた。
フローベルガーの旅、私の旅
下見の旅はあっという間に最後の日を迎えた。コルマールでは電車がアナウンスもなく来なかったり、かといえばいきなり止まって、とんでもない田舎の駅で降ろされたり、パリでは長引く「黄色いベスト」デモにぶち当たり白タクしかなかったり……全てが相変わらず「フランス」だった。しかし久しぶりの「花の都」は驚くほど綺麗になっており、路上のゴミが少ないことにも驚嘆した。わずかに空いた時間が日曜だったので、ふらっとサン・シュルピス聖堂にオルガンを聴きに出向いた。実は少し前に入口が火事になって騒ぎになっていたのだ。幸い小火ですみ、オルガンも無事。ミサの後延々と続くD.ロート氏の即興演奏も懐かしい響きだった。そしてこれから録音するクープラン氏に敬意を表するため、一族が代々務めたサン・ジェルヴェ教会にも夕刻出かけた。入り口前に立つ楡の古木は、昔と変わりなく葉を生い茂らせ、パリを見護っているような佇まいにどこか安心した。市役所あたりまで歩いたが、なぜかシテ島までは行かずに帰ってしまった。
そして帰国直後、あのノートル・ダム火災は起こった。フランスの放送をネットで見ていて涙が止まらなくなり、相当に動揺している自分に驚いた。正直大きいばかりでそんなに好きな建築ではなかったのに。それでも10年暮らした街の中心のシンボルは、いつのまにか自分の一部になっていたのかもしれない。そして何とこれを書いている最中に、ジャック・シラク氏の訃報が飛び込んできた。ノートル・ダムが使用できないので葬儀ミサはパリで2番目に大きいサン・シュルピス聖堂、予想通りのフォーレのレクイエム生演奏である。マクロン首相自ら電話で呼んだというD.バレンボイムがシューベルトを弾いているところからライヴ配信に釘付けになり、最後まで見てしまった。誰かの大きな手で「歴史」のページが1枚めくられたような気がした。私のパリ滞在は確かに19年前でピリオドが打たれているのだが、ここまでの一連の出来事を振り返ると、一人一人の人間の過ごしている時間がパラレルワールドのように並行して存在し、それが大河となっていつも自分の傍を流れていたことに気がついたのだ。いや、自分もその流れの中にずっと居たし、今も居続けている。一つ一つのかけがえのない魂と人生の時間軸が織りなす光の潮流の中に。
折り返し地点は過ぎたかもしれないが、私の旅もまだまだ途中である。フローベルガーもまた天界のどこかを旅行中なのだろう。そのうちきっとどこかの星で会うことが出来るだろう、その時には彼に心からの感謝と山盛りの質問を浴びせよう。Bon voyage!