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フローベルガーと私 桒形亜樹子

命賭けの旅の果て

 

 

 あるとき、ドイツ外務省のホームページにこんな記事が掲載された。

「2002年5月15日、ベルリン・フィルハーモニーホールに於いて、ドイツ外務大臣J. フィッシャー氏とウクライナ国A. ポノマレンコ大使の出席のもと、ベルリン・ジングアカデミーのアーカイヴ返還式典が粛々と執り行われた」。

 鳴りもの入りでドイツに里帰りした品は、いったい何だったのか。

 

またもや見つかった写本

 

 18世紀半ば、ベルリン宮廷は、度を超えた音楽好きのフリードリヒ二世が君臨していた。

 大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルが彼の宮廷チェンバロ奏者であったことはよく知られているが、その時の第二チェンバロ奏者が、世界最古の混声合唱団を創立した人物で、モーツァルトやハイドンがその合唱団のために作曲していることまで知る人は少ない。C. F. C. ファッシュが自分の曲を試す目的で、弟子を集めて発足したこの団体は、のちに膨大な楽譜のコレクションを保有することになる。

 第二次大戦中の1943年、それらは砲火を逃れるため、ベルリンから低部シレジア地方ウラースドルフの城へ疎開された。厳重に見張られていたはずだったが、案の定、戦後の混乱で241の箱はあっさり「行方不明」となる。しかし何事にも命を賭ける研究者がいるものだ。アメリカ、ハーヴァード大学のクリストフ・ヴォルフ率いるチームの執念に満ちた調査で、当時、ウクライナ赤軍部隊がその地に野営していたことが判明、アリアドネの糸を手繰り寄せた先は、ウクライナの文芸博物館だった。バッハの息子やベートーヴェンの自筆など、26万頁に及ぶ世界遺産級の「紙束」は、すべて丁重に、まさに冷凍保管されていた(これはただの略奪だったのではないか、と勘ぐるのは私だけだろうか)。

 なかに別の宝物が入っていると信じていたに違いない、胸を躍らせながら、箱を開けた時の兵士たちのがっかりした顔が目に浮かぶ。返還式典でのドイツ政府の、皮肉とも思える鷹揚な振舞には思わず唸った。「半世紀にわたる完璧な管理」に敬意を表し、33の楽譜をそのまま献呈したというのだから。

 実はこの中にフローベルガーの、それも曰く付きの手稿譜が含まれていたのだ。18世紀にヨハン・マッテゾンという音楽家が自著で紹介していた「私の所有する特別な標記付鍵盤組曲」に他ならない。今まで発見への手がかりが全くなく、マッテゾンの記述は怪しいのでは、とさえ言われていたが、一挙に名誉挽回となった。

 

ライン河の旅、命懸けの旅

 

 その中の1曲《ライン河航行中、小舟で危険に晒された時のアルマンド》は、フローベルガーが聖ヨハネの祭りのあと、泥酔して船中で眠っていた時の「どたばた劇」を、そのまま音にしたものである。全体が26の部分に分けられて番号がふられ、それぞれにト書きが付いている。読みながら弾けば、紙芝居のように各場面が蘇り、楽しいこと極まりない。

26の事象説明付き《ライン河で危険に晒された時のアルマンド》
(ヨハン・コルトカンプによる?手写譜。ベルリン・ジングアカデミー所蔵)

 ドイツ観光の定番、のんびりとした観光船での「ライン下り」。マインツ=ケルン間の運行だが、それはまる一日かかるので、両岸の古城が美しいリューデスハイム=コブレンツの世界遺産地域のみ航行し(これでも4時間)、あとは特急に乗ってケルンまで、という忙しい現代人が多い(私もその一人であったが)。130メートルある岩壁の上から金髪の妖精が船頭を誘惑し、船を沈没させるという恐い伝説や歌で有名な、ローレライの岩もこの区間である。

 フローベルガーはホルスタインの貴族たちと、ちょうどこの近所の美しい町、ザンクト・ゴアあたりで事件に遭遇した。昔から川幅が狭く急流で難所だったという。彼らはケルンからマインツヘ、なんと「ライン上り(・・)」をしていたようなのだ。

 曲はこんなふうに始まる。「①明け方5時頃、皆は疲れ果て、寝場所を求めて船に戻った。最後にやってきたトゥルン伯の執事ミッテルナハト氏は(ドイツ語で「真夜中」を意味するこの名前もすでにギャグである)、寝るのに剣が邪魔なので船員に渡そうとして身を乗り出し過ぎ、②河に落ちてしまった。③船は上へ下への大騒ぎ」。肝心の作曲者はどうだったのかというと「⑨ようやく目を覚ましたフローベルガーは隣に誰も居なかったので、皆のわめき声を聞き、船が壊れて溺れる、これは助からないと思い、神に全てを委ね、加護を祈り始めた」。

 熟睡していて勘違いしたのだろう。慌てふためく足音、溜息、溺れそうな人の嘆きや、船員が長い竿を持ち出す場面など、音の動きで巧みに表現されている。「⑬泳ぎ疲れて休む」ところが前半の終止形であったり、アルマンドとしても完璧に成立している。まるで音楽修辞学(レトリック)の凡例事典だ。結局「真夜中氏」はなんとか船に引き上げられ、一同ほっとしたところで終了する。劇的な音作りだが、どこかユーモラスな雰囲気さえ醸し出しており、フローベルガーの知られざる一面が見え隠れする。

 ここまで細かい記述のある曲は他に残っていないが、長い添書きのある曲は多い。

 ブリュッセルからルーヴェンへの道中ロレーヌから来た兵士に捕まり、皇帝発行のパスポートを見せたにも拘わらずさんざん鞭打たれ、身ぐるみはがれて怪我をしたまま放っていかれた時の傷ついた魂を癒すために作曲した《ラメント》、フランスからイギリスへ渡る時、地上では追剥ぎに、船上では海賊に遭い、全て強奪された果てに辿り着いたロンドンでオルガンのふいご係に雇われたが、あまりに気分が塞いでいたので、ふいご棒を降ろすのを忘れ、破れた船員服を着ていたこともあって素人と思われ、オルガニストに蹴飛ばされた時のメランコリーを振り払うための《嘆き》、山道から転落した時に作曲した《アルマンド》等々。

 これらもライン河でのようなプロットを想像できれば、どれだけ生き生きとした演奏になるだろうか。フローベルガーは多分、旅行ごとに何かしら事件に見舞われ、時には身一つになるが、毎回その不運を音楽に昇華させてしまい、見事に天に葬ってしまっているのだ。聴き手も初めは一緒に涙ぐんだりするのだが、あまりに大げさなせいか、最後には笑いを禁じ得ない。人生のすべての出来事を喜劇として、自分もその劇中の俳優の一人として演じ切り、何もかも最後には笑い飛ばしてしまうだけの懐の深さを、彼は持っていたのかもしれない。

 

 私も旅は多いが、命賭けの覚悟で出かけた記憶はない。しかし去年(2011年)の大震災ではちょうど仙台空港へ向かう直前、不思議な足止めを余儀なくされ、実は命拾いしている。しかしそれ以前に音楽家は、日々たった一つの音に命を賭けているのだ。ただの振動に過ぎない「音」に魂をこめ、「生きた音」に変換することが我々の最も大切な仕事である。楽器や声の持つ倍音は、人間の耳の可聴範囲をはるかに超え、無限に存在する。音の振動はエネルギー保存の法則によって、形は変わっても必ずどこかに残っているし、自分にも還ってくる。美しいバランスの倍音を持つ音はポジティヴなエネルギーに満ちているので、皮膚や脳に快いだけでなく、細胞に共振を起こし傷ついた部分を癒すことを私たち音楽家は経験的に知っている。心無い音は一つでも出したくないものだ。

 

人生最後の旅へ

 

 フローベルガーの人生は、旅以外でも常に「死」と隣り合わせであった。仕えた王や友人の死は、いつも突然やってきた。彼らへの追悼曲は例外なく、突出した出来映えとなっている。その中でもいぶし銀のような光を放つのは、「自分自身」へ贈られたものだ。《未来の死を想って書いた瞑想、1660年5月1日パリにて》は、冬の日差しの柔らかさと、枯葉の舞うような寂しさが共存する、心が洗われる曲である。結尾にはMemento Mori、ラテン語で「死を忘れるな」という警句。続くジーグの喜ばしい響きは、天国の前味だろうか。「太陽と死は直視できない」と言ったのはラ・ロシュフーコーだが、自身では経験不可能な「死」をフローベルガーは常に直視し、天界への道を見通していたようだ。

 彼は1653年に再びウィーン宮廷に戻ってくるが、庇護者であったフェルディナンド三世が4年後に崩御、政治抗争のとばっちりか、後を継いだレオポルド一世に、曲集の献呈も虚しく解雇されてしまう。晩年はモンベリアール(現フランス東部)近くのエリクール城でヴュルテンベルク公女ジビッラの音楽教師として過ごした。フローベルガーの父の生徒だった彼女とは、故郷シュトゥットガルトでの幼なじみだったらしい。

 

 1667年5月、ある日の夕べの礼拝でフローベルガーは心臓発作に倒れ、そのまま亡くなった。これはジビッラとコンスタンティン・ホイヘンス(オランダの詩人でオレンジ公の秘書、マインツでフローベルガーと邂逅)の間に交わされた書簡に詳しい。彼は死ぬ前日に近所の教会へ金貨を持参し、自分の墓碑の相談と寄付をおこなっている。自分の命の灯が消えかかっていることを知っていたのだろうか。ジビッラは彼の遺志通りカトリックで葬儀をおこない(ヴュルテンベルクはプロテスタント領邦)、壮麗な墓を建立したが、音楽家ごときに手厚すぎると批判を受けた。遺品の中に師フレスコバルディの肖像画があったという。それを知ったとき私は思わず声を上げてしまった。何故か胸の奥を絞られるような気分だった。一生憧れの対象として密やかに敬い、ローマの光に包んで想い続けていたのだろうか?

 ホイヘンスは残された楽譜の公開を懇願するが、公女は自分以外に彼の音楽を正しく理解・演奏できる者はいないと「門外不出」を主張、押し問答が続いた。死後、作品は燃やすようにという遺言もあったようだが、それは幸運なことに反故にされ、ウェルギリウスの二の舞は避けられた。どこまでがフローベルガーの真意なのかは曖昧だが、「楽譜の音価通り」の演奏では全く魅力が伝わらない曲は多い。音と音を繋ぐ時間の魔法を操れなければ、彼の音楽は退屈で、塩を忘れたスープになってしまう。

 

 晩年はエリクール城で悠々自適の日々を過ごしていたと思われていたフローベルガーだが、意外としたたかに各地で就職活動をしていたらしい。サザビーに出品された豪華楽譜(連載第1回参照)は、ウィーン復職を狙っての王への贈り物だったとしか考えられないのだ。ウィーンは彼にとって生涯唯一、腰を落ち着けて仕事ができた街であったのかもしれない。

 

 墓は残っていない。エリクール城にフローベルガーの記念碑が建てられたのは、つい5年前だ。私の次の旅行先はもう決まっている。

(『春秋』2012年1月)

 

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著者略歴

  1. 桒形亜樹子

    東京生まれ。東京藝術大学作曲科を経てドイツへ留学。デトモルト音楽院、シュトゥットガルト芸術大学にてチェンバロ専攻。パリ、ブリュージュ、ライプツィヒなどの国際チェンバロコンクール上位入賞。90年代はパリへ移りセルジー・ポントワーズ音楽院等でチェンバロ、通奏低音などの指導にあたりながらヨーロッパ各地で演奏活動。17年間の欧州滞在後2000年に帰国。2017年よりdream window TREE レーべルよりソロアルバム「フローベルガーの眼差し」「J.S.バッハ 平均律曲集第1巻」をハイレゾ世界配信。2018年8月全音楽譜出版よりクープラン『クラヴサン奏法』新訳を刊行。

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