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フローベルガーと私 桒形亜樹子

旅の始まり シュトゥットガルト

 

 今年(2012年)の5月、ニューヨークのサザビーズ・オークションにかけられたムンクの『叫び』の一つのヴァージョンに、絵画としては史上最高値である1億1992万ドルがついて話題になったことは、まだ記憶に新しい。一枚の絵に100億円近い値がつくということ自体、私には全く理解を超えた、異なる世界の話に思える。100億あったら何ができるか、少なくとも私はムンクは買わないだろうが、小さなコンサートホールくらい建てられるだろうか(この原稿を書いていた2012年、尖閣諸島の値段が20億円と聞いて、さらに驚いたのだった)。

 

オークションに出品された自筆譜

 

 さてサザビーズと言えば、時に我々音楽家にも宝探しの対象となる。例えば2006年11月30日朝10時半開始、ロンドンはニュー・ボンド・ストリートでのオークション「楽譜と自筆」はあまりに魅惑的だった。モーツァルト、ベートーヴェンといった有名どころの自筆楽譜や手紙、サインなどが目白押し、出品数は200を超えた。

 その中に幽林に佇む蘭のごとく「珍しい17世紀の自筆譜。サザビーズとしては、これより古い重要な作曲家の自筆が出た記録はない。1994年のヘンリー・パーセル以来の出物」があったのだ。LOT番号50、赤いモロッコ皮に金箔の豪華な装飾(神聖ローマ帝国皇帝レオポルト一世の紋章、双頭の鷲)が施された259ページの細長い楽譜は、このオークション内での最高額、310,400ポンド(約3900万円)で「誰か」に落札された。ちなみに2番目の高額落札物件はストラヴィンスキーのオペラ『オイディプス王』の1927年の自筆スコアだったが、その半額だった。

 この縦8.5センチ×横24センチという、旅の携帯用か、とでも思わせる変わった形状の楽譜は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーという、1616年にシュトゥットガルトに生まれた作曲家の手書きの鍵盤曲集であった。その20曲の中には未知の作品が多く、音楽史上重大な発見と言える。例えば「マドリッドで作曲」と記されている曲があるのだが、フローベルガーがスペインに行ったなどとは今まで誰も知らなかった。旅の多いコスモポリタン音楽家としても名高いが、これで西ヨーロッパのほとんどの国に足跡を残していたことが証明されたわけである。

 最晩年に書かれたとされるこの美しい本は、1667年に彼が亡くなった後、3世紀半も一体どこに眠っていたのか。保存状態はかなり良いようだし、大切にされてきたのは確かだ。価値のよく判らない人物の家のタンスの奥深くにしまわれていたのか、なにかの事情で世に出せなかったのか。サザビーズの厳格な個人情報守秘のため、現在の持ち主は「個人蒐集家」としかわからない。

 

謎の落札者

 

 実はこの頃ちょうどドイツのベーレンライターという大手楽譜出版社が、フローベルガー新全集の編纂に取り組んでいた(2015年に一応完結した)。その校訂責任者は、偶然にも私とシュトゥットガルトの音大で同時期にチェンバロ科に在籍していたジークベルト・ランペ氏というドイツ人。彼も喉から手が出る思いの一人だっただろう。現在我々はカタログとして公開許可された楽譜の一部分や、研究リポートをウェブサイトで見ることはできるが(図版参照)、これではますますフローベルガーへの想いは募るばかり。一日も早く、持ち主の気が変わることを首を長くして待つのみである。その方はご自分でチェンバロを弾くのだろうか? 手袋をはめてページをめくるのだろうか? 一体どこの国にあるのか? 想像を始めると全くきりがない。

 

サザビーズのオークションに出品されたフローベルガーの自筆楽譜
(Simon Maguire, "J.J. Froberger:A Hitherto Unrecorded Autograph
Manuscript." in: Journal of Seventeenth-Century Music)

 

成長していく音楽

 

 楽譜というのは言ってみれば二次元の図像情報であり、演奏されなければ冬眠状態が延々と続く。音楽とは不思議なもので、作曲家の手を離れてからが本当の勝負時、いろいろな人に演奏されて初めて成長してゆく。良い演奏がなされればなされるだけ、その曲の持つエネルギーは高くなり、次に聴く者の心に訴える力が強くなる。そして聴き手の記憶と融合したそのエネルギーはどこかの空間にプールされてゆく。次の時代の演奏家、聴衆はそこにアクセスし、そのエネルギーを享受し、再び新しい息吹を入れて送り返す。演奏家が自覚しているか否かにかかわらず、彼らはこの偉大なるデータバンク作成に大きく貢献している。もちろん、つまらない演奏もそのまま残ってしまうので、責任は常に重大だ。

 この楽譜を「お買い上げ」になった方がどういう事情で楽譜を非公開となさっているのか定かでないが、実はフローベルガーの死の直後、パトロンで弟子であったヴュルテンベルク公女が、なんと同様の行動を取っているのである。友人たちの楽譜模写の強い要望に対し、それを拒む手紙が残っているのだ。こんなところで歴史は繰り返すのか、と摂理の妙さえ感じてしまう。

 

旅する音楽家フローベルガー

 

 17世紀にフローベルガーほど欧州を縦横に歩いた音楽家も少ないだろう。ドーヴァー海峡、ライン河、内陸での追い剥ぎなど何度も危険な目に遭っている。現代と違い情報は人間が直接運ぶものであったので、彼自身が結果として「音のメッセンジャー」となった。 私も17年間ヨーロッパ4ヵ国に住んで旅行も大変多かったが、これは長距離特急ICEや飛行機の発達した現代の話。パリ‐ロンドン間のトンネルも滞在中に完成、飛行機より便が良くなった。

 ドイツでチェンバロの勉強を始めて間もなく、私にとってこの作曲家は特別な存在となった。烏滸がましくも、初めて彼の作品を弾いたときから異様な親近感に包まれ、まるで長く離れていた従兄にでも再会したかのようだった。演奏家としてはこういう作曲家に出逢えることは非常に稀だし、至福そのものだ。そして旅の足取りがどことなく自分と似ているのも(勝手な物言いだが)、また不思議な繋がりがあるような気がしてならないのだ。

 フローベルガーは確かにヘンデルやバッハに比べたら相当地味な存在ではあるが、彼らの少し前の時代のドイツを代表する重要な音楽家の一人である。

 

シュトゥットガルト

 

 30年戦争勃発直前の1616年、シュトゥットガルトはヴュルテンベルク公ヨハン・フリードリヒの統治下にあった。その宮廷には外国の楽師も多く、奏でられた音楽は国際色豊かであったと想像がつく。現在この城は「旧宮殿」として州立博物館となっている。父バジレウスは末っ子のヨハン・ヤーコプが5歳のとき、宮廷礼拝堂の楽長に昇進、彼の4人の兄たちも皆音楽家として宮廷で働くことになる。

 当時考えられ得る最先端のエリート教育が授けられたことが十分推測されるのは、父の所有していた楽譜のリストが現存するからだ。そこには驚くべきことに、当時出版されていた重要な楽譜・楽書が網羅されている。

 例えば、現代の私たちがイタリアのバロック音楽を学ぶのに必須とされる、ディルータの教科書も、カステッロの新様式ソナタ集もある。おまけに当時ハレの宮廷礼拝堂楽長で「ドイツ三大S」とされる作曲家の一人、ザムエル・シャイトが戦争で定収を失いシュトゥットガルトに仕事を求めてやってきている。もちろん、父と共にその素晴らしいオルガン演奏や作品を堪能しただろうし、教えも受けただろう。当時のドイツでこれほどの刺激的環境に恵まれたとは、まさに神が周到な計画をもって用意していたとしか考えられない。

 

出逢い

 

 前述のように私は1986年から3年間、シュトゥットガルトの国立芸術大学に在籍していた。初めて訪れたときは彼の生地ということで少々興奮したが、街自体は好きになれず、住むことはなかった。それまでの3年はドイツ北西部にあるデトモルトという、音楽大学のみで有名な(ドイツ人にさえ、たびたびドルトムントと間違えられた)人口7万の小さな街でチェンバロの勉強をしていた。旧市街の端から端まで歩いても15分とかからず、1時間も歩けば森の中で鹿やハリネズミに出くわす自然豊かな環境。緯度が高いので、冬は太陽が丘の向こうに隠れて日差しはなく、氷点下の日々が3ヶ月も続いた。さすがローマ軍の進軍北限といわれるトイトブルクの森の近くだけあった。しかしブラームスが滞在して曲を書いたアパートや、小さいながらオペラハウスや侯爵家末裔の居城もある落ち着いた歴史の香り高き町並みは、実に新鮮で心地良いものだった。

 私が初めてフローベルガーと出逢ったのはその頃である。当時のフランス版全集楽譜は、奨学金暮らしの私には目が飛び出るほど高価であったが、どうしても欲しくて思い切って買ってしまった。家賃が月額240マルクだったときに155マルクもしたのだ。レッスンのとき、教授にそれを愚痴ったのだが、フランスの楽譜は高いんだよ、と、にべもない返事しか返ってこない。そんなある日、学校から私あてに手紙が届いた。「学期奨学金150マルクを特別に授与します」。ちょうど楽譜の値段ではないか! 早速教授に御礼を言いに行ったら、ふーん良かったねえ、というまたしてもそっけない返答であったが、彼が学校に頼んでくれたのは自明で、本当に嬉しかった。フローベルガーからのプレゼントだったのかもしれない。

 そして宿題のトッカータ一曲目から大好きになってしまったのだ。初めてのレッスンのとき、Kein Problem!(問題無し!)、日本人はフローベルガーと馬が合うのかな、と教授は言った。その優しかった師、ヴァルデマール・デューリンクが交通事故で亡くなってから久しい。2年間徹底的に基礎を叩き込まれた後、シュトゥットガルトに有名な教授がいるから是非行きなさい、と強く勧められた。それが私の次の恩師、ケネス・ギルバートというカナダ人の音楽学者で演奏家である。彼はシャルトルの大聖堂のすぐ脇に建つ、古色蒼然の石造りの家から月に一度フローベルガーの生地まで通ってきていた。私も負けじとケルンの大聖堂から路面電車で数駅離れた、コンクリートのアパートから3年間通った。もちろん、フローベルガー氏はレッスンにたびたび登場した。

 この後、フローベルガーはウィーンからローマへ、私はパリ経由でローマへ向かうこととなる。

 

(『春秋』2012年11月号)

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著者略歴

  1. 桒形亜樹子

    東京生まれ。東京藝術大学作曲科を経てドイツへ留学。デトモルト音楽院、シュトゥットガルト芸術大学にてチェンバロ専攻。パリ、ブリュージュ、ライプツィヒなどの国際チェンバロコンクール上位入賞。90年代はパリへ移りセルジー・ポントワーズ音楽院等でチェンバロ、通奏低音などの指導にあたりながらヨーロッパ各地で演奏活動。17年間の欧州滞在後2000年に帰国。2017年よりdream window TREE レーべルよりソロアルバム「フローベルガーの眼差し」「J.S.バッハ 平均律曲集第1巻」をハイレゾ世界配信。2018年8月全音楽譜出版よりクープラン『クラヴサン奏法』新訳を刊行。

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