永遠の都 vs. 花の都
「永遠の都」と「花の都」――もちろん、ローマとパリのことである。「ヨーロッパ7日間」などという日本人好みのパック旅行に必ず入るこの二大文化都市だが、住んでみると当然ながら、それぞれ全く違う魅力があった。
2年の予定が7年に伸びてしまったドイツの大学課程も修了、そろそろ帰国と思っていたのだが、ある夏パリに行って、その魅力に降参してしまった。ライン河一つ渡っただけの陸続きなのに、こうも人間のメンタリティーは違うのか、何故スーパーマーケットで売っているものが全く異なるのか、島国人には初めは理解できなかった。
今でこそとても綺麗になったが、当時パリの北駅といったら、列車を降りた途端に異臭が鼻を突き、ホールは浮浪者で埋め尽くされ、街の中も犬の糞やゴミが散乱して、ドイツの清潔さとは雲泥の差。さすがハイヒールが誕生した街だった。でもしばらくすれば、そんなことは気にならなくなるほど、食べ物は美味しく気候も遥かに温暖、服の色彩もデザインも粋、何より自分が「外国人」であるということが全く気にされないことが最大の嬉しい点であった。ドイツでは、どんなに頑張ってドイツ語を操っても「外国人バッジ」を胸に付けて歩いている気がしていたのだ。パリでは思いがけなく仕事も見つかり、その後9年も住むことになってしまった。
フランスへの道
私はローマ軍が諦めた北ドイツから直接パリに行ったのではなく、まさに彼らの「植民地」ケルンに居を移した時期があった。理由はかなり単純だ。3年経ってドイツにも慣れてきたある日、もう少し便利な都会にも住んでみたい、と思って広げた地図「中央ヨーロッパ」の一番真ん中が「ケルン」だったのだ。ライン河辺のこの古都(といっても第二次大戦の空爆で街は9割破壊され、大聖堂と僅かなローマ遺跡が残るのみ)から月1回、シュトゥットガルト芸大ヘレッスンに通うことにした。ベネルクス3国やフランスへも気軽に行けるようになり、行動範囲が俄然広がった。
瞬く間にケルンでの3年が過ぎた頃、ドイツはもういいかな、という気分になった。勉強には最高の国だったが、頑固で融通の効かないところが次第に窮屈に思えてきたのだ。
そんな頃、フランスに引っ越す引き金となった小さな事件は起きた。ある夜遅く、ケルンの街中を家路に急いでいたときのこと、細い一方通行の道路に信号のある横断歩道があった。赤だった。ひとっこ一人おらず、回りは静まりかえって車の気配も全くない。迷わず渡り出した。その途端、もの凄いだみ声が私の背中に突き刺さった。“Rot!”(赤!)振り返るとお婆さんが仁王立ちで、恐い顔で私を睨んでいた。この一瞬で私はフランス行きを決めた、といっても過言ではない。
さて、一方フローベルガーはといえば、生地シュトゥットガルトで音楽の基礎を学んだ後、17歳の頃、スウェーデンの外交官と共にウィーンへ向かったという。美声を買われたという説もある。神聖ローマ皇帝フェルディナンド二世の宮廷オルガニストを務めていたウィーンでの3年余、彼はどんな音楽を聴き、楽譜を見、また自ら演奏していたのだろうか。一つ確かなのは、私と同じく、何としてもイタリアに行きたくなる理由を見つけてしまったことだろう。
イタリアへの道
1637年9月、皇帝からの奨学金200グルデンを手に、彼はローマへ向かった。21歳のときである。当時ウィーンからどうやってイタリアに入ったのだろうか、と再び地図を広げてみた。やはりそのまま南下してアルプスを避け、ヴェネツィア経由なのか? 相当大変な旅であったことには違いない。
そんな彼らには申し訳ないが、21世紀の今なら、北方からイタリアに行くのは、何といっても空からがお勧めだ。何度もパリ―ローマ間を安いチャーター便で飛んだが、天気の良い時は窓からずっと目が離せない。フランスの平原から次第に起伏に富んでくる地面。そしてスイス、イタリアの国境、雪を冠ったアルプスの雄大な山並みの神々しさに息を飲む。続いて地中海の青さに目を奪われ、いよいよローマ上空ではコロッセオや数々の教会のクーポラが初めは点々と、次第にはっきりと姿を現すときの高揚感。これだけはフローベルガーにはできなかっただろう。
彼が師と選んだのは天才ジローラモ・フレスコバルディ。イタリア17世紀の鍵盤音楽作曲家で、彼の右に出るものはいない。当時彼はヴァティカンのオルガニストとして名を馳せており、人気の高かったその即興演奏には3万人もが集まったと言われる。どうやって数えたのかは怪しいが、1626年に既に完成しているサン・ピエトロ大聖堂は床面積約23,000平方メートル、6万人を収容可能だという。
さて、生意気な若造ドイツ人を迎えたフレスコバルディは当時54歳、晩年の傑作『音楽の花束』の出版直後で(のちにバッハがこれを写譜したのは有名)、油の乗り切った時期であった。どう想像しても彼がドイツ語を話したとは思えないので、弟子のフローベルガーがイタリア語を習って会話していたのだろうが、音楽に関しては自分の持ち札すべてを惜しみなく伝授したはずだ。
フローベルガーが受けた影響の大きさは彼の作品を見れば明白だが、対位法に関しては師の方が数枚も上手だった。しかし他のジャンルにおいて、特に舞踏組曲のアルマンド、ラメントや追悼曲に見られる深い叙情性や比類なき和声感覚は、フレスコバルディとは全く異なった感性を持っていたことを証明している。これは私の勝手な推測だが、フローベルガーは留学当初、師の偉大さに正直打ちのめされたのではないかと思う。しかし人生の初期に最大の師に出逢えた彼は、何という幸せ者であることか。
続く旅の数々
約3年半後、ウィーンへ戻る彼の荷物は新しい楽譜でいっぱいであったに違いない。1645年に再び彼がローマにやってきたとき、フレスコバルディの住所は既に天界となっていた。このとき彼は、前回の滞在で知己を得たイエズス会士アタナシウス・キルヒャーや作曲家のジャコモ・カリッシミに学んだらしい。キルヒャーはフローベルガーを高く評価したようだ。1650年に出版した著作『普遍音楽』の中に、フローベルガーの鍵盤楽曲「ドレミファソラによるファンタジア」を掲載している。この曲はのちにW. A. モーツァルトが写譜することになる。
私も欧州滞在中に、日本の合唱団と一緒にヴァティカンのミサでオルガンを演奏させて頂いたことがあったが、フレスコバルディに少し近づいた気がして嬉しかった。演奏家は常に音を出しながら、作曲家と時空を超えて対話しつつ演奏ヒントをもらうのだが、私の場合は、その人物が住んで居た街に行くのが最も手っ取り早いと感じる。特に作曲家が当時演奏していた実際の建物の中で音を出せたときの感慨深さは、筆舌に尽くし難い。同じ響きを共有することにより、彼らの耳に近づく尊い一瞬。何百年も経って東洋人が自分の曲を演奏しているとは彼らも驚きであろうが、きっと喜んでくれていると思うのだ。
さて、フローベルガーはその後ドレスデン、ブリュッセル、ユトレヒトなどに足跡を残すが、1652年にパリに居たのは確かで、9月には演奏会をしている。
滞在中の出来事で最も有名なのは、親友のリュート奏者ブランロシェ氏が家の階段から落ちて死んだときにちょうど居合わせたという事件であり、ルイ・クープランらと共に追悼曲を書いている。クープランの、長調で物悲しくも天国的な曲想に対して、彼の短調での悲痛な音の絵(最後の階段から落ちる様子は素人でもはっきり判る)はあまりに対照的だ。作曲家が描いた音は、産み落とされた瞬間から滑らかに広がってゆき、今度は彼ら自身をそのまま映しだす鏡面となる。
パリではL.クープランほか多くの音楽家と交流、またもや新しい作風を開拓する。現在パリの国立図書館所蔵で、17世紀フランスの鍵盤音楽手稿譜の中で最重要とされる『ボーアン写本』には、フローベルガーの作品が23曲含まれており、いくつかは「パリで作曲」と書かれている(写真参照)。その中にはフレスコバルディの曲も3曲のみ存在する。
「フローベルガー氏がパリで作曲したアルマンド」
パリ、国立図書館所蔵『ボーアン写本』(ca.1690)より
私はドイツで大学を終えたあと、憧れのパリへ移ったのだが、やはりどうしてもローマに行きたいと日本の文化庁から(皇帝からではないが国費には違いない)奨学金を取得した。ドイツ、フランスと暮らしてみて、新しい音楽の生まれる所はいつもイタリアだったということを思い知ったのだ。バロックをやるのにローマに行かなかったら「もぐり」だとも言われた。きっかけの一つはイタリアの友人から勧められたフレスコバルディのCD、私の次の師となるリナルド・アレッサンドリーニ演奏の17世紀のイタリアの修復オルガンを使ったデビュー盤。曲目が『音楽の花束』だったというのは出来過ぎだろうか。
イタリアで初めて訪れた街はミラノだったが、ドイツっぽくて少しがっかりした。しかしその後滞在したシエナやウルビーノでは、見るもの全てに言葉を失った。特に後者の小高い丘からの絶景と光は忘れ難く、ラファエロの生地というのも納得だった。こんな所で育てば、優れた美的バランス感覚が育つのは当たり前ではないか。東京のコンクリートの森で育ったことが今更恨めしかった。
ドイツの生活に慣れた人がイタリアに行くと面食らうよ、とギルバート氏にもさんざん言われていたが、私はイタリアが初日から楽しくて仕方なく、完全に精神が何かから解放されたような気分だった。初めてローマに着いた日はさらに強烈で、ナヴォナ広場でデジャヴュのようなものに襲われ、わけもなく涙が止まらなく困った。レッスンももちろん受けたし、イタリア語の学校にも通ったが、文化庁在外研修の11か月間、ほぼ観光に耽っていた。見るべき教会、宮殿、遺跡が多過ぎる。1か月に、いや1年に1度しか開かない場所もあったし(25年に1度というのはさすがに諦めたが)、地元の人でも訪れたことのない所を探し出してきて呆れられた。もちろんフレスコバルディの住んでいた通り、墓、歩いたと思われる場所も、くまなく辿ってみた。それはきっとフローベルガーの足跡でもあったのだろう。
ローマの話を始めると紙面がいくらあっても足りないので、このへんで先を急ごう。
ところで、フローベルガーはローマで何故かカトリックに改宗している。これが晩年少々不都合を起こすことになるとは予想だにしなかったろう。余談だが、私はわざわざプロテスタントの多い北方デトモルトでカトリックの洗礼を受けたへそ曲がりである。
(『春秋』2012年12月号)