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記憶する体 伊藤亜紗

体のローカル・ルール

 

 体について研究する面白さは、合理的に説明がつかない部分が必ず残ることです。

 たとえば、私はこの原稿を近所のコーヒーショップで書いています。これまでに執筆した本や記事も、すべてこの店の小さなテーブルで書いてきました。住み慣れた自宅の書斎や大学の研究室で、仕事をすることができないのです。

 その理由を言うことはできます。「ある目的のためにしつらえられた場所」が苦手なのです。研究するための部屋にいるとそわそわしてしまって集中できないし、書くための机だと思うと違うことをしたくなってしまう。「しつらえられた場所」にいると、なんだか台本どおりに演じている俳優のような、こそばゆい気分になってしまうのです。

 コーヒーショップでは対照的に、空間にまぎれることができます。隣のテーブルでは安定期に入った妊婦さんが弟のハワイでの結婚式に出席するべきかどうか友達と議論していますし、反対側では高校生の一団が試験勉強をしています。みんなが私に無関心。こうしたざわざわした雰囲気のほうがかえって自分のするべきことに集中できるし、原稿に行き詰まったとしても、周囲を見回せば、適度に刺激があって筆が進みます。

 書くというのはどうしても生理的な側面のある行為です。自分にとって快適な環境を整えなければ、うまく言葉が生まれてきません。

 調子の波もあります。いいときは一気に原稿用紙10枚以上進むのに対し、そうでないときは一行も進まないままパソコンのバッテリーだけが虚しく減っていきます。

 その意味では、書くというのは行為というより出来事みたいなものかもしれません。予定通り、思い通りには決して進まない。波に乗れるか乗れないかは自分のコントロールの及ばないところで決まります。ほとんど賭けのような感覚です。

 だからこそ、せめて環境を整えたいのです。自分の体をうまく「乗せる」ために、できるだけのことはしたい。一時期「ノマドワーカー」という言葉が流行りました。私は「ノマドじゃなきゃだめワーカー」。どうしても自宅で仕事をしなければならないときは、キッチンの隅やベッドの上でこっそりラップトップパソコンを広げる「家庭内ノマド」になります。

 

 こんなふうに、私は自分の「書く」という行為/出来事について分析することができます。100パーセントうまくいかなくても、「自分を書かせる」ための方法をある程度自覚しているし、そこにどのような法則があるか言語化することもできます。

 しかし、この私の説明は、明らかに合理的なものではありません。

 なぜ、私はコーヒーショップだと原稿が書けるのか?

「しつらえられた場所が苦手」とか「周囲の会話がいい刺激になる」とか、もっともらしい理由をあげることはできました。

 でも、それらは決して科学的な根拠に支えられたものではありません。いつ、だれに対しても妥当するような理由ではないのです。「合理性」が「普遍性」を意味するならば、この法則は明らかに不合理なものです。

 現に、知人にこの話をしたら、「自分は絶対にコーヒーショップでは書けない」という答えが返ってきました。その人は小説を書くのですが、書くときは必ず自分の書斎にこもって書く、と。研究室ではどうなのかと聞くと、研究室は鍵をかけても無理なのだそうです。

 しかも、書斎にいたとしても、集中するために1時間もの準備時間がかかるのだそうです。年をとるにつれ、準備時間が次第に長くなってきた、とも。

 つまり、その知人には「コーヒーショップだと書ける」の法則は通用しないのです。

 私とて、「書ける法則」が、きっと人によって千差万別であろうことは理解しています。「テレビをつけながらじゃないと書けない」という研究者は案外多いですし、「まじめに話を聞いているわけじゃないけど友達と電話しながらレポートを書く」という学生に出会ったこともあります。

 しかも、納得しがたいことに、自分と同じ理由で逆の結論にたどり着いている人もいる。「自宅だと刺激があって書ける」とか「コーヒーショップは仕事をする場所という感じで逆に落ち着かない」とか……。

 

 あらためて、なぜ、私はコーヒーショップだと書けるのか?

 その理由は、もはや「そうなってるから」としか言いようがありません。

 コーヒーショップの法則を支えているのは、私の個人的な経験の厚みだけです。

 それはいわば、断崖にあらわれた地層のようなもの。地層がそのような順で重なっていることに、理由はありません。あくまで火山の噴火や地殻変動といった地学的イベントの結果として、そのような地層が出来上がっただけです。

 同じように、私のコーヒーショップの法則も、私のこれまでの「書く」という経験が積み重なった結果、そのような法則らしきものができあがっているだけです。

 推測を交えて言えば、おそらくたまたま、あるときコーヒーショップで原稿を書いたら驚くほどうまくいった、ということがあったのでしょう(それはたぶん、学部生で卒論を書いていた頃のことです)。

 そのうまく行った記憶が、験担ぎのようなものとして、行為の反復を促します。コーヒーショップに行けば書ける、コーヒーショップに行けば書ける……。そして気づけば習慣は強化されていて、いつしか「コーヒーショップじゃないと書けない」と法則化するに至ったと思われます。

 その意味では、この場合の法則は一種の自己暗示のようなものとも言えます。「やなぎの下のどじょう」式に成功体験を反復しようとして、こうすれば書ける、と信じこもうとしているのかもしれません。

 重要なのは、そうだとしてもやはり、法則は必要だ、ということです。

 いかに他人から見れば不合理な内容だったとしても、私たちは、自分の体とつきあうために、さまざま法則を見出さずには生きていけません。

 体は完全には自分の思い通りにならない対象です。落ち着かなきゃと思えば思うほど緊張したり、睡眠不足なのに目が冴えて眠れなかったりする。そんなコントロールしきれない相手とそれでも何とかつきあおうとするためには、仮のものであったとしても、なんらかの法則を見出して対処するしかありません。

 法則の中には、「コーヒーショップだと書ける」のような意識的なものもあれば、無意識的なものもあるでしょう。

 たとえば口の中に口内炎ができたとき、私たちは「口の中でどういうふうに食べ物を運べば痛みが少ないか」の法則を探します。最初は反対側で噛んでみたり、あまり噛まずに飲み込んでみたり、意識的な試行錯誤が続くでしょう。やがてだんだんコツがつかめてきます。

 そうすると、次第に意識せずとも「痛まない食べ方」ができるようになります。場合によっては、口内炎が治ったあとも、その食べ方で食べるようになっているかもしれません。こうなると、本来の目的から離れても続けられる、一般には「癖」と言われるような法則です。

 

 意識的なものにせよ、無意識的なものにせよ、私たちが経験の中で獲得するこうしたルールは、究極のローカル・ルールのようなものです。

 体には、「掛け声をかけるとタイミングが合いやすい」のような、ある程度普遍的に妥当する合理的な法則もあります。でもその一方で、その人にしか通用しない、他の人から見ると不合理なローカル・ルールもある。

 企業や役所のような社会的な団体のローカル・ルールは、その組織の体質を強く反映します。同じように、体のローカル・ルールが、まさにその人の体のローカリティ=固有性を作り出します。

 今回で最終回となるこの連載は、「体に刻まれた記憶がどのように作動するか」をテーマにしてきました。

 それはとりもなおさず、その人だけのローカル・ルールを記述するということです。いかに、その人に起こった偶発的な出来事が、その人の現在の体を作るに至ったのか。それはそのまま、その人のローカリティ=固有性を愛でる作業です。

 

 人の固有性を記述する、という意味では、この連載で行なってきたことは、小説を書くことに近いと言えるかもしれません。

 哲学にせよ認知科学にせよ生理学にせよ、科学であるかぎりそれは「身体一般」についての記述を目指します。

 私はさまざまな人へのインタビューをもとに研究を進めていますので、どちらかというと人の固有性に即した身体論を書いてきたつもりです。

 けれども、学問である限り、やはり単なる具体性の記述で終わるわけにはいきません。読んだ人が、自分の体にも当てはめて考えることができるような、ある程度普遍的なモデルを抽出することを意識してきました。

 これに対し、小説はあくまで具体的です。〇月〇日に〇〇という出来事があった。仮に具体的な日付の記述がなくとも、小説は「人一般」ではなく「ある人物」にまつわる「具体的な出来事」を記述する営みです。

 実際、私も研究をしていると、小説のほうに足を引っ張られそうになることがあります。

 特にそれを感じるのは、インタビューをする人と初めて会うときです。たいていは事前にメールでやりとりして待ち合わせ場所を決め、約束の時間に落ち合う、という段取りになります。その、メールでやりとりしていた人が、実際に待ち合わせ場所に現れる。毎回、生の体が持つ情報量の多さに圧倒されます。

 たとえば、連載の2回目で登場していただいたRさん。彼女は待ち合わせ場所に現れたとき、信じられないくらい大量の荷物を抱えていました。

 まず背中にはアウトドアブランドのごついリュック。さらにパンパンに膨らんだショルダーバックを斜めに掛け、脇にはなぜか大きなクマのぬいぐるみを抱えていました。加えて彼女は全盲なので、大きな盲導犬を連れています。今思えば、インタビューに答えるために、いろいろなものを用意してきてくれていたのです。

 しかも彼女は、そんな大荷物とは不釣り合いなガーリーなファッションに身を包んでいました。水色のふんわりしたブラウスにギンガムチェックのスカート、髪は背中の真ん中まであるロングヘアです。第一印象は、「不思議の国のアリスが家出してきたところ」でした。

「信じられないほどたくさんの荷物」と書いたのは、これまでにお会いした全盲の方は、たくさんの物を持って移動することを嫌う傾向があったからです。ただでさえ盲導犬や白杖で荷物が増えがちですし、見えない分、物を確認するためになるべく手を空けておきたい。そう考えるのは当然です。

 ところが、待ち合わせ場所に現れたRさんは、そんな「見えない人の常識」を意にも介していないように見えました。この人の中にあるいったいどんな論理が、この「家出アリス」の状態をOKと認めているのか? そんなことを考えだすと、目の前の具体的な体に対する興味で意識が埋めつくされていきます。

 

 けれども、この連載で行ってきたことは、やはり小説とは違います。体の固有性を記述する。確かにそうなのですが、日付のある出来事という意味での記憶を扱っているわけではないからです。

 注目したのはあくまで「体に刻まれた記憶」であり、「具体的な出来事がローカル・ルール化する過程」です。

 それはいわば、小説が対象とする「具体的な出来事」と、科学が対象とする「普遍的な法則」の間を埋める作業、といえばいいでしょうか。

 特定の日付をもった出来事が、経験の蓄積のなかで熟し、日付のないローカル・ルールに変化していく。つまりこの連載で注目しようとしたのは、記憶が日付を失う過程でした。

 別の言い方をすれば、それは偶然が必然化していく過程です。体は、そんなふうにして作られていきます。

 その人の体にだけあてはまる真理をさぐること。小説と科学のあいだに位置するこの不合理な真理をかき集めること。

 あらためて振り返ると、この連載で私はそんなことを試みようとしていたのだと思います。どこまでうまくいっていたかは分かりませんが……。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

 

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著者略歴

  1. 伊藤亜紗

    東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『どもる体』(医学書院)がある。同時並行して、作品の制作にもたずさわる。

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