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記憶する体 伊藤亜紗

吃音のフラッシュバック

 

 前回は、幻肢痛をとりあげ、記憶をとりもどすことによって痛みが一時的に消える現象についてお話しました。しかし、記憶は常に痛みを消す方向に作用するとは限りません。トラウマのように記憶が苦痛をもたらす、という逆のケースもあり得るからです。

 今回とりあげたいのは、吃音と記憶の関係です。私は数年前から吃音の当事者へのインタビューや観察を行っていますが、続けるうちに、あるひとつの傾向が気になってきました。吃音の当事者でありながら、吃音に関わることを恐れる人が一定数いるのです。

 たとえば、今年の夏に『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という吃音をモチーフにした映画が公開されました(湯浅弘幸監督)。主人公の女子高生、大島志乃には吃音があり、高校生活初日の自己紹介で自分の名前に詰まってしまいます。そこから始まるクラスメイトたちとのやりとりを描いた物語で、自身も吃音当事者である押見修造の同名の漫画が元になっています。

 この映画は、吃音当事者たちのあいだでも大きな話題になりました。ですが、たとえばtwitter上での反応を見てみると、映画に対する反応はいささか複雑なのです。

「あー志乃ちゃんもう公開してたんだ?見に行こうかな…怖いわー」

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない観てみたいけど、観るのが怖い自分がいる。」

「共感しすぎて見たくないレベルw」

 要するに、映画の内容ではなく、それ以前の見に行くかどうかの時点で複雑な反応が生じているのです。「興味はあるけど見るのが怖い」。一部の当事者たちのあいだに広がっていたのは、そんなアンビバレントな感情でした。中には鑑賞前に、意を決するように宣言する当事者もいます。

「はい、これから武蔵野館にて『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』鑑賞でございます。正直、自分のトラウマをえぐられるようで怖いです。見るのを辞めようかとも思いました。昔ほど喋りに左右されなくなった自分ですが、これを見てかつての自分を振り返ろうと思います。では、行って参ります。」

 確かに、自分がコンプレックスに感じていることや、苦しんでいることに触れて欲しくない、という気持ちは分かります。あるいは自分が当事者である問題が、作品の中でどのように描かれているのか不安である、という場合もあるでしょう。こうしたこと自体は、吃音以外の障害やコンプレックスに関しても、起こりうることです。

 興味深いのは、吃音当事者たちが「怖い」という表現を使っていることです。「不快」や「嫌悪」ではなく「怖い」。つまり映画そのものというより、それを見ることによって自分に起こるかもしれない影響について、自分の身が脅かされるような恐怖を感じているのです。

 なぜ、どもる人はどもる人が怖いのか。今回は、この点について考えてみたいと思います。

 

フラッシュバックの恐怖

 

 柳川大希さんは、必要に応じて、自分の吃音について人に話すと言います。もっともこれは、「カミングアウト」とは少し違います。会話が円滑に進んでいるうちはわざわざ言わないけれど、人に聞かれたり、会話がうまく進まなかったりするようなときに「どもっているから、ちょっと聞きにくくてごめんなさい、というふうに言うことはある」。その程度です。

 柳川さんは、中学、高校のころは吃音が今より重く、親にも吃音のことを感知されるのを極度に嫌がっていました。「しゃべらないで済む職業についたほうがいいんじゃないか」と言われて反発していたそうです。ですが、大学に入ってさまざまな工夫を試みた結果、吃音の状態が軽くなり、さらに卒論や大学でのゼミで障害のことを扱ったことがきっかけで、距離が取れるようになりました。

 本題からはそれますが、柳川さんが大学時代に行った工夫はきわめて興味深いものばかりです。たとえば「一人称を揃える」。柳川さんは、しゃべることに慣れるために、硬派な政治経済研究会から飲み会メインのサークルまで、いろいろな学生団体に顔を出していました。そうするとどうしてもさまざまなキャラクターを使い分けることになる。結果として、「自分がちょっと安定していない、ふらついているなと自覚するときがあった」と言います。その不安定さが、吃音にもネガティブな影響を与えていたと柳川さんは分析しています。

 そこで柳川さんは、それまで「ぼく」「オレ」「私」「自分」と使い分けていた一人称を、「私」に統一することにします。もちろん「私」以外を使うこともあるのですが、使い分けるとしてもあくまで起点は「私」。というのも、一人称の使い分けこそ、キャラクターの使い分けの根源にあると考えたからです。「先輩とか先生と話しているときは吃音がでやすいなというのがあったので、自分自身をどう称するかによって自分のモードが大きく変わっちゃっているんだろうなというのを当時思ったっていうところがありますね。なのですべて『私』に変えてからは、そういうことはあまり起きなくなったかなというのはありますね」。

 あるいは生け花との関わり。叔母さんの影響で柳川さんは大学に入って生け花を始めます。そのきっかけになったのが、「花がしゃべってくれる」という叔母さんの一言。まだかなりどもりが重かった時期にその言葉に出会った柳川さんは、生けた花がその人の体調や気分を映し出すということに魅了されていきます。吃音には深く悩んでいましたが、同時に言葉とは違う表現の手段へと関心を広げて行く余裕が柳川さんにはあったことを示すエピソードです。

 さて、そんなふうに自身の吃音に対して心理的にはかなり距離が取れているように見える柳川さんですが、それでもやはり、他の吃音当事者がどもるところを見るのはちょっと怖い、と言います。吃音との付き合い方を考えるうえで、他の当事者に相談したり関わったりすることはあったか、という私の質問に対して、柳川さんの答えはこうでした。

 

 やっと去年今年くらいから、自分自身の吃音に対することには、メンタル面ではひと段落ついたかなと思っているんですけれども、じゃあ他の人のっていうときになると、見てて大丈夫かなという心配はありますね。昔の自分とかぶせてしまって、フラッシュバックが出てくるじゃないかと。

 

 まさに、映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』に対するtwitter上での当事者たちの反応に通じる答えです。「見てて大丈夫かな」。どもっている人を見ることで自分の身に起こる影響を心配しています。

 その影響は具体的には、「フラッシュバック」だと柳川さんは言います。フラッシュバックとは、トラウマ的な経験の記憶が、何かをきっかけにして、突然鮮明に思い出される現象のことを指します。柳川さんの場合であれば、他人のどもりがきっかけとなって、吃音が重かったときの自分が鮮明に蘇ってくること。それが怖い、だから吃音当事者の集まりなどには参加したくない、と柳川さんは言うのです。

 

引き込み現象

 

 誤解のないように断っておくと、吃音当事者のなかには、自助グループなどの活動を積極的に行い、他の当事者といっしょに吃音との関わり方を考えていこうとしている人もたくさんいます。そうした「ともに考える」連帯のアプローチは国内でも半世紀以上の歴史があり、大きな成果をあげています。それ自体を否定するつもりはありません。

 しかし一方で、柳川さんのように、他の当事者とは関わらずに、吃音については一人で考えたい、研究したい、という人もいる。他の人のどもる姿を見ることに対する恐怖は克服されるべきだ、という考えもありえるでしょうが、ここでは実際にかなりの数の当事者が感じているこの恐怖に寄り添ってみたいと思います。

 どもる人に出会ったらフラッシュバックが起こるかもしれない、という柳川さんの心配は、実際の経験にもとづいています。つまり、柳川さんはフラッシュバックを経験したことがあるのです。ただしそれは、他の人のどもる姿を見たからではなく、自分がかつてどもってしまったのと似た状況に置かれることがきっかけになっています。

 たとえば中学生のとき。クラスのみんなの前に立って話しているときに、保育園のときの記憶がパッと蘇ったといいます。保育園のときも、同じようにみんなの前に立って話す機会があり、しゃべれなくなってしまったのです。「発作みたいな感じで動悸が激しくなったりして」。似た状況に置かれることで、過去に感じたような危機的な感覚が再生されてしまうのです。

 同じようなことが、吃音の人に会ったときにも起こるのではないかと柳川さんは推測します。「大丈夫だとは思うんですが、客観的に見る力、一定の距離を置いて見る力っていうのが今の自分にあるかどうかが分からないので、そこに対する心配っていうのはちょっとあります」。

 柳川さんの説明によれば、フラッシュバックが起こるかどうかは、他の人の吃音を客観的に見られるかどうかにかかっています。裏を返せば、吃音というものは、他人の身に起こっているものであったとしても、まるで主観的な経験として、自分の身に起こっているかのように感じてしまうものである、ということを意味します。現時点ではかなり症状が軽くなり、心理的には吃音と距離がとれているように見える柳川さんであってもそうなのです。

 要するに、どもる体を見る不安とは、それにつられて自分も再びひどくどもり始めるかもしれない、という不安なのです。これは、「かつて〇〇ということがあった」というような単純な出来事の記憶の再生とは異なります。工夫によって言葉が出やすいしゃべり方を獲得したけれども、他のどもる体を目にすることによって、一瞬にして時間が巻き戻り、制御の効かないかつてのどもる体になってしまうかもしれない。そこには、二つの体の物理的な境界を超えた、運動の引き込みのようなものがあります。

 こうした引き込みが、実際に起こるのかどうかは分かりません。つまり、どもる人を見るだけで、本当にその人がどもるようになるのかどうかは分かりません。しかし少なくとも予感としては、多くの吃音当事者が、他の人のどもりを見ることによって、自分のしゃべるペースが乱されるのではないかと感じている。

 その背後にあるのは、おそらく吃音当事者ならではの、吃音に対する感度の高さのようなものがあるでしょう。吃音でない人なら、どもる人を見ても「言葉が出にくいんだな」くらいにしか思わないかもしれない。しかし吃音当事者がそれを見ると、その人の体の内部で起こっている苦労や工夫が、かなり細かく想像できてしまいます。つまり「分かりすぎて」しまうのです。否応無く発動するこの想像を通じて、自分のなかの「体がどもっている状態」が思い起こされてしまう。これが恐怖の実態だと考えられます。

 吃音にかぎらず、こうしたことはよく見られる現象です。たとえば空手の経験者は、そうでない人に比べて、他の人の演武を見だけで呼吸のリズムや力の抜き具合が分かるものです。経験の蓄積が他者の運動を理解する土台となり、一人称で経験される。心理的な距離と身体的な距離は明確に分けられるものではありませんが、こうしたことが、心理的な距離を超えて吃音の引き込みが起こりそうだと感じられる、身体的な基盤であると言えます。

 

しゃべるシステムのもろさ

 

 加えて、どもる人を見るだけで引き込まれてしまうかもしれない、という不安の背後には、しゃべるシステムとは非常にもろいものである、という吃音当事者の実感があると考えられます。

 たとえば、いったん自転車に乗れるようになった人は、補助輪をつけないと乗れない子供を見たからといって、自分が乗れなくなることはありません。それくらい、自転車に乗るシステムは安定しています。

 けれども、吃音の場合はそうではない。工夫によって身につけた「体から声を発する仕組み」は、ちょっとしたことで狂わされ、破壊されてしまいかねない微妙なものです。しかもその仕組みは、いったん失われてしまったら、再び取り戻すことは非常に困難です。このもろさの実感が、どもる人を見ることに対する不安につながっていると考えられます。

 たとえば、わたなべあやさんは、難発で緊張しがちな体に声を出させる感覚を、「果汁たっぷりのゼリーの蓋を汁がこぼれないように、そーっと開ける感じ」と表現します。そーっと開けないと、力が入ってゼリー=吃音が固まってしまい、言葉が出なくなってしまう。ゼリーとはまさにもろさの象徴でしょう。 わたなべさんは絵本作家ですが、線を描くときには息を止めたりして体に力が入りがちなので、制作期間は言葉が出なくなりがちだと言います。

 別の言い方をすれば、このもろさは、意識的に介入し制御することの難しさからくる感覚とも言えます。体から言葉を出す仕組みそのものは無意識的なものであり、発声運動を意識的に調整することはできません。それどころか、自分のしゃべるシステムに何らかの方法で意識的に介入しようとすると、かえってそれを混乱させてしまいかねない。打者がバッティングフォームを変えるときのようなものです。

 たとえばSadakitiさんは、今のしゃべり方をやめて、以前のようなしゃべり方に戻したいと考えています。今のSadakitiさんは、「えーっと」などのフィラーをたくさんつけて、勢いで早く言葉を出すマシンガントークタイプ。しかし最近は、そのしゃべり方をやめて、小学校高学年のころにやっていた、朴訥としたしゃべり方に戻したいとも考えています。

 けれどもそこには、自分のしゃべり方そのものを失うリスクがあります。「言葉が出なくなる恐怖が消えていないのかもしれない」。しゃべり方を変えようと思っても、意識的な介入が破壊的な結果をもたらすかもしれないという恐怖がつきまといます。

 柳川さんが「鈍感さ」を獲得しようと努力したのも、このもろさの実感があるからだと考えられます。以前の柳川さんは、「敏感さ」ばかりでした。どもってしまったことを気にしたり、うまくしゃべれているのかどうか、自分を観察する意識が強すぎたのです。その意識は消すことはできないし、消すべきではないけれども、同時にそればかりにならないよう、柳川さんは「鈍感さ」も獲得しようとした。それはしゃべるシステムに対する過剰な介入をやめ、しゃべるシステムのもろさを認め、許すことでもあったと言えます。

 記憶は、とりわけそれがフラッシュバックのような形で再生される場合には、当事者の意識や意志を超えたところで、本人の体に強く作用します。他人の運動に否応なく引き込まれてしまうほど、無防備でオープンなもろい体。吃音を通して、記憶が現在の体に襲いかかるさまがあらわになります。

 

 

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著者略歴

  1. 伊藤亜紗

    東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。同リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『どもる体』(医学書院)がある。同時並行して、作品の制作にもたずさわる。

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