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記憶する体 伊藤亜紗

「通電」の懐かしさ

 

 前回、右手と左手の連動についてお話しました。ふだん左右の手を使いこなすことに慣れている健常者であれば、二つの手は特に意識しなくても協力しあって動きます。利き手でハサミを持ち、もう一方の手で紙を動かす。切り終わったらハサミにサックをはめ、引き出しにしまう。こうした連動は、成長の過程で自然と身につけるものです。

 このことが意味するのは、体を動かすとは、記憶を再生することである、ということです。なぜなら、私たちの運動を支えている連動は、幼いころから現在に至るまでの運動の蓄積によって身につけた、特定のパターンに他ならないからです。

 だからこそ、記憶がなければ連動も起こりません。前回とりあげた川村さんのように生まれつき片手が欠損している人であれば、「両手を使う」という経験をしたことがないわけですから、当然左右の手の連動のパターンを持っていません。「片手が二つある」を想像することはできても、「両手で何かをする」ということがどういう感覚なのかは、川村さんにとっては未知の領域です。

 では、もともと両手を使っていたのに、事故や病気で「手を失った」場合はどうでしょうか。

 それが今回注目したい、森一也さんのケースです。森さんは17歳のときにバイク事故で左腕神経叢引き抜き損傷を経験し、以来30年近くにわたって消えない痛みを抱えてきました。いわゆる幻肢痛です。そして最近、ある方法によってその痛みが一時的に消える経験をしました。

 実は、この幻肢痛が消える経験に、両手が連動する感覚の記憶が、密接に関係しているらしいのです。以下、詳しく見ていきたいと思います。

 

動物になろうと思った

 

 森さんの左腕は、とても曖昧で複雑です。

 まず、左腕は物理的に存在しています。幻肢痛というと、腕を切断した人のもの、というイメージがありますが、森さんの場合はそうではありません。自分の腕もあって、幻肢もある。幻肢とは必ずしも「なくなった腕をあるように感じる」ことではありません。

 しかも、この左腕は動かすことができます。文字を書くときにはすっと左手を紙に添えている。「連動」は一見すると生きているようにも見えます。

 しかし、運動は限定的です。腕を内側に引き寄せることはできるけど、外側に開くことはできない。指も動かすことができません。文鎮のように紙を押さえることはできても、指で細かい作業をすることは難しい。腕の内側の神経が、辛うじてつながっているだけなのです。

 腕が物理的に存在し、部分的にせよ動くにもかかわらず、先述のとおり森さんは常に幻肢痛を感じています。しかもそれがかなり強い。他にもさまざまな痛みがあり、それは夜も寝られないほどだと言います。「寝ようものなら、眠りのステイタスに入ったとたんに、呼吸が止まって蘇生した人のように飛び起きるんです。もしくは酸欠状態で悪夢の三本立てのループ状態から出られない。なので、寝るのはぼくにとっては無駄なんですよね」。

 日中は幻肢痛があっても、寝ている間は消えるという人もいます。しかし森さんの場合はそうはいかない。文字通り、生活の全場面が痛みに覆われてしまっているのです。とはいえ体を休ませなくてはならない。そこで森さんは、一日おきに麻酔科に通い、麻酔をしてもらうことで寝るという方法をとっていると言います。 

 実は、怪我をした当初は、森さんの痛みは幻肢痛だとは分かりませんでした。整形外科に通っていたため、「神経が切れているんだから痛まないはずだ」と言われてしまっていたのです。欠損しているならまだしも、物理的に腕があって、しかも動いているにもかかわらず、幻肢痛があるとは考えられにくかったのです。結局、その痛みが幻肢痛だと分かったのは、ようやく2005年になってからのことでした。

 それゆえ最初の10年は、痛みの正体も分からないまま、ただ苦しめられる日々が続きました。自殺念慮に苛まれ、引きこもりのような生活を送っていたと言います。同じ病気の仲間も次々と亡くなっていく。「最後まで生きていたらどうなんだろう、と思っていました」。

 生きる方法を手探りするなかで森さんが考えついたのは、「動物になる」という道でした。つまり、人間をやめようと思ったのです。「人間としての思考を止めて、動物のように生きるしかないということで、山の中に入っていって、何日間もおにぎりだけで、何も考えずにひたすら座禅をしたり瞑想をしたりしていました。そのときはまだ体力があったので、静かにすることで痛みを抑えられていました」。

 今の森さんは、研究者さながらに幻肢痛についての学術的な情報を集め、詳細なノートをつける等して自ら分析を進めていらっしゃいます。しかし最初はそうではなかった。むしろ「〇〇したい」という一切の欲望を絶つことで、痛みを現象として眺められるような状態を作ろうとしていたと考えられます。

 

VRの「通電」感覚

 

 そんななか、森さんが今年の4月から始めたのが、VRを用いた幻肢痛緩和法です。これは自身も当事者である猪俣一則さんがディレクターを務める株式会社KIDSが研究開発を進めているもので(https://wrap-vr.com/archives/29804)、森さんはこれまでに、4月と6月に一度ずつ上京し、KIDSのオフィスで実際にVRを体験しました。この緩和法は効果が出る人と出ない人がいますが、森さんにはぴったり。私はこのうち6月の機会に立ち合わせていただきました。

 KIDSが開発している幻肢痛緩和VRを体験するには、まず椅子に座り、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を頭から装着します。すると目の前のヴァーチャル空間に「自分の」二つの手が正常に見えます。欠損した人であっても手が二つ見えるのです。

 「自分の」と言っても、もちろんそれは錯覚です。実際には、見えているのは体験者の健常の腕(森さんなら右腕)の映像を、左右対象に出したもの。したがって、健常の手を握れば、もう片方の(ないはずの、あるいは麻痺しているはずの)手もそれに合わせて握る、というふうに、両手が左右対象に動きます。健常の腕、肩・肘・手首・5本の指の動きを赤外線センターを用いて計測し、リアルタイムで提示しているので、動きに違和感を感じることはありません。

 この幻肢痛緩和システムは、VRが可能にする独特の「憑依」の感覚をうまく利用しています。VRを経験したことのある人であれば容易に理解していただけるかと思いますが、VRでは、目の前に見えるイメージを自分の体の一部であると感じる錯覚がしばしば起こります。足もとに見える足や、前方に見える手が、実際の自分の手足の身体運動と同期して動くと、仮にそれが猫の手やゾウの足の形をしていたとしても、「自分の」手や足だと思ってしまうのです。つまり、自分でない何かに対する「憑依」が起こります。

 少し専門的な言い方をするなら、これは自己所有感(Sense of Ownership)に関する錯覚です。自己所有感とは哲学者のショーン・ギャラガーの概念で、ある出来事に対して、それを経験しているのは自分だ、と感じる感覚のこと。ふだん、私たちの視界には通常、手や足、あるいは鼻といった自分の体の一部が見えています。ところがVR体験中は、そうした体の一部が視界に入りません。すると、VR空間内に見えているヴァーチャルな手や足を、自分の体だと感じるようになる。自分のものでないはずの、しかし自分と連動して動く手や足がする動作を、自分の経験だと感じるようになるのです。

 これはまぎれもない自分の手である。VR体験中に起こるこの憑依の感覚を、森さんは「通電」と呼びます。それはまさに、ヴァーチャルな手と、自分の現実の手がリンクする感覚だと言います。「ぼくの左手は親指と人差し指だけまだ触覚神経が生きています。だから、現実の左手をそのVR画面内の左手の位置まで持って行ったら、自分の手の感覚が、ちゃんとハマるんです」。

 ただし、先ほども指摘したとおり、この憑依=通電の感覚は、目の前の手や足が自分の本物の手や足と似ても似つかなくても起こります。あくまで、見た目の類似性ではなく、動きを手がかりとした同一化だからです。

 実際、VR画面内に写っているヴァーチャルな手は、視覚的には現実の手と似ても似つかない姿をしています。指の数こそ5本ですが、全体的に真っ白で、爪も皺もなく、角ばっています。森さん曰く「白い羊羹がくるっと曲がったような指」。この羊羹の手を、森さんは自分の手だと感じているのです。視覚的な類似ではなく、運動の同期が可能にする憑依=通電。この点についてはまた後で触れます。

 

両手感と指の発見

 

 興味深いのは、この「通電」が、単なるヴァーチャルな左手と現実の左手の空間的な一致の感覚にはとどまらない、ということです。それが冒頭でお話した「両手の連動」の感覚です。左手において現実とヴァーチャルがリンクすることによって、左手と右手のあいだにもリンクが生じるのです。

 森さんは言います「わ、両手動いている! という感覚ですね」。それは最初のVR体験のときにすぐに感じられたといいます。「一発でつながった感じですね。あ、なるほど! と。(…)まさに『両手感』ですね」。かつて両手があったときの、右手と左手が連動して動く感覚。KIDSが開発するVRシステムでは、VR空間内で両手でボールを持ったり、水をすくう動作をしたりすることができます。こうした両手が協働して動く動作をすると、この「両手感」はいっそう強まる言います。

 かつて両手があったときの、あの感覚。開発した猪俣さんも、VRは「思い出体験」だと言います。「私たちは『思い出体験』と呼んでいますが、筋トレするというよりも、かつてできていた動きを再現してもらいます。例えば顔を洗うときに以前は水を両手ですくっていたけれど、片手ではできなくなった。そういう昔できていた動作・体験は、懐かしさよりVRに親和性を感じ、脳に障害なく、すんなり入っていきます」

 この両手感は単なる「両手を持っていた」記憶ではなく、「両手が連動して動いていた」記憶であることがポイントです。森さんの場合、この運動感覚の回復によって、幻肢の感じ方そのものにも変化が生じると言います。

 それは一言で言えば、「指を発見する」感覚です。ふだんは「大きな痛みの塊」として感じられていた幻肢が、指一本一本に分解されていくのです。

 森さんは言います。「感覚的には、ふだんは『でっかい痛み』なんです。でっかいプレス機に挟まったような。そのでっかい痛みが、VRをやると、一本一本に分解されて、「指」になっていく感覚なんです。10分もかからないうちに、指が一本一本に入っていきます。腕は、感覚が残っていて、痛くないんです。実際には指は動いていないんですが、動いている感覚があります」。

 痛みが指になる。このとき、森さんを24時間苦しめていた痛みが消え、無痛状態が訪れます。つまり「動かす」が幻肢痛緩和のポイントなのです。

 私は脳科学の専門ではないので、幻肢痛の原因の詳細には立ち入りませんが、幻肢の運動ができないと、幻肢の痛みが大きいことが報告されています★4。幻肢を動かす、というのは経験したことのない人には想像しにくい感覚ですが、幻肢を現実の手のように動かせると痛みが少なくなり、そうでないと痛みが大きくなる。VR体験が痛みの緩和につながるのは、それが幻肢を動かすことを可能にするからだと考えられます。

 

テレビ画面の真ん中に白い手が

 

 ただし、VR体験は憑依体験ですから、きわめて没入的で、集中度の高い経験です。数十分もつづけると、疲れてぐったりしてきてしまう。

 そこで、HMDを外したあとでも、VR体験の効果をいかに持続させるか、無痛状態をいかに持続させるかがポイントになります。VR体験そのものが、切断前の体の記憶に関連していましたが、今度は、VR体験の記憶をいかに維持するかが問題になるのです。

 通常、VR体験中は痛みが消えていても、数時間すると痛みが復活してきてしまいます。ただし痛みは体験以前に比べて弱い。したがって、この治療には継続が必要です。繰り返しVR体験を行うことで、痛みが消えている時間を引き伸ばしていくのです。

 ところが森さんは遠方に住んでいることもあり、なかなか継続的に治療を行うことが難しい状況にあります。そのため、VRで感じた「両手感覚」を忘れないように、自宅でさまざまな工夫を独自に行っています。

 まず行うのは、体験したVR空間内の手を意識的に思い出すこと。もっとも、森さんによれば、その際に思い出すのは、必ずしも純粋に視覚的なものではないようです。「そういう[羊羹のような]テクスチャーや形のディティールを、指先から手首まで、順繰り順繰り思い出していくんですよ」。つまり体験した手の単なる姿かたちだけでなく、それを動かすときの触覚的な感触をも、森さんは思い出そうとしているのです。

 実際、森さんは体験の一部始終を出来事として頭のなかに映像的に再生しているわけではありません。じっとしたまま念じるように思い出すのではなく、健常側の右手を物理的に動かしながら、記憶の中の手を動かすことが重要なのです。そうやって思い出の手を動かしていくうちに、やがて「通電」が起こり、痛みが和らぐと言います。

 そんなふうに、記憶の中で手を動かす訓練をしていた森さんですが、最初にVR体験をしたときは、1ヶ月もするとだんだんと記憶が薄れてきてしまった、と言います。そこで記憶を補完するために行ったのが、忘れかけている記憶の中のVRの手を、とある有名な映画のキャラクターの白い手に差し替えるということ。何とも大胆なやり方ですが、通電のためにとって重要なのが、視覚的なディティールではないことをよく表しています。

 差し替えたのは、『スター・ウォーズ』に出てくるストームトルーパーの手でした。最初の記憶とは異なるけれど、鮮明にイメージすることのできる手です。果たして、それはうまくいきます。「VRの中の白い手を、映画でルーク・スカイウォーカーが被っていたあの手に変えちゃったんです。こっちの方がかっこいいわって。そしたらすんなり反応してくれました」。

 頭のなかで、自分の体からストームトルーパーの手が生えているように感じながら、右手を動かし続ける森さん。思わぬ副作用は、次にVRを体験したときに、VR空間内の手がストームトルーパーでないために違和感を感じてしまったこと。「あれ、ストームトルーパーじゃないんだ、って思ってしまって、ちょっと時間かかっちゃうんですよ(笑)」。

 

 現在、森さんは2回目のVRを終え、さらに記憶を定着させるために訓練を独自に行っています。VRのときの感覚を思い出しながら、日々それに没入して右手を動かしているのです。「家にいるときは、苦しい思いをするくらいなら、起きてずっと手を動かす訓練をしています。なので、かなり星飛雄馬的な、スポ根漫画レベルでずっとやっています」。

 手を動かしている時間は、1日にゆうに10時間以上。それが、痛みから肉体的に遠ざかることのできる方法だからです。ふつうならリラックスする時間であるテレビを見る時間も、森さんは記憶をたどりながら右手を動かしているそう。そうすると、記憶の中のイメージと現実のイメージがダブって見えることがあると言います。何と「テレビの画面の真ん中に白い手が動いている」ことがあるのだそうです。

 森さんは、この通電の訓練を続けることで、意識しないでもそれができるようになり、通電が常態化するのではないか、と仮説を立てて訓練を続けています。読経や座禅と同じように、やりこむことで、やりながら他のことを考えられるレベルにまで行けるのではないか、と。記憶の疼きとも言える幻肢痛を、記憶を通して書き換えていく。森さんの取り組みには、私たちの意識を超えて作用する記憶と体の深い関係を見ることができます。

 

 

 

★1 Shaun Gallagher, “Philosophical conceptions of the self: Implications for cognitive science,” in Trends in Cognitive Sciences, vol.4, No.1, 2000, pp. 14-21.

★2 https://wrap-vr.com/archives/29804

★3 VRによる幻肢痛緩和の効果は、現時点では、すべての人に見られるというわけではありません。猪俣さんによれば「幻肢のことを忘れようとされている患者さんは、訓練で幻肢を動かそうとすると幻肢が騒ぎ、痛み出すので逆に辛い」とのこと。前掲URLの記事を参照。

★4 Michihiro Osumi, Masahiko Sumitani, Naoki Wake, Yuko Sano, Akimichi Ichinose, Shin-ichiro Kumagaya, Yasuo Kuniyoshi, Shu Morioka, "Structured Movement Representations of a Phantom Limb Associated with Phantom Limb Pain," Neuroscience Letters Online Edition: 2015/08/10 (Japan time), doi:10.1016/j.neulet.2015.08.009. 

 

 

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著者略歴

  1. 伊藤亜紗

    東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。同リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『どもる体』(医学書院)がある。同時並行して、作品の制作にもたずさわる。

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