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驚愕の雅楽 カニササレアヤコ

災いと雅楽

() (いわ)く、人にして不仁(ふじん)ならば、礼を如何(いかん)せん。人にして不仁ならば、(がく)を如何せん。

真心が無ければ、いくら礼儀正しくとも意味がない。仁の心が無ければ、楽を奏でようと何になるのか。

子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。

人は詩によって心を奮い興し、礼によって社会に立ち、音楽によって自らを完成させる。

「雅楽」という言葉の初見は論語にある(「子曰く、紫の朱を奪うを(にく)む。鄭声〔筆者注:鄭の国の淫らな音楽〕の雅楽を乱るを悪む。利口の邦家を覆すを悪む。」論語 陽貨十七)。孔子いわく、正しい楽は正しい礼を生み、社会秩序を整えるものであった。

 そのような力を持つ雅楽はしばしば、災いを遠ざける力をも持つとされたのである。

 

甘州

 甘州という国に海がある。
 甘竹という竹が多く生えている。
 その竹の根ごとに、毒蛇・毒まむし(あるいはいもり)・毒虫が満ちていて、切ることができない。毒虫のせいで多くの人が死んだ。
 しかし、この曲を奏して船に乗り来てこの竹を切ると、その虫は人を害さなかった。
 甘州の曲が金翅鳥(こんじちょう)の鳴き声に似ているために、毒虫が恐れをなして人を害そうと思わなくなるのだ。そうしてこの竹を切ることができた。

 雅楽の「甘州(かんしゅう)」という曲にまつわる伝説である(『教訓抄』ほか)。

 甘州は現在の中国甘粛省張掖市(かんしゅくしょうちょうえきし)に位置したとされる州である。『新唐書』礼楽志には「開元二十四年(736年)に胡部の音楽(中国から見て西域や北方の音楽)が宮廷の堂上で演奏されることを許され、天宝年間(742〜756年)の楽曲は皆「涼州」「伊州」「甘州」などのように辺境の地名を以てつけられた」とある。王媛氏の著書『『教訓抄』に語られる中国音楽説話の研究』ではこれをもとに、「楽舞「甘州」は辺境の甘州という地名を以てなされた曲名であり、その性質は胡楽、つまり西域や北方の周辺民族の音楽であることがわかる。(中略)周辺民族との交流が盛んであった甘州の地理的・文化的位置を考えれば、この楽曲の成立はそういった背景と切り離せない関係にあったことが推測される」としている。

 甘州が位置したとされる張掖市に海は無いが、その近くには「青海湖」という中国最大の湖がある。世界第二位の大きさを持つ内陸塩湖でもあり、中国神話の女神・西王母の住む瑶池にも例えられ、現在でも信仰の地となっている文字通り青い湖だ。『教訓抄』に書かれている「海」は、この湖に関連しているのではないかと王媛氏は推測する。

 金翅鳥(こんじちょう)というのはインド神話に登場する巨鳥ガルーダのことで、日本でも仏教における守護神「迦楼羅天(かるらてん)」として知られる。龍や蛇を喰らい悪を払う、鳥頭人身の天部神である。

 伎楽(ぎがく)(612年に大陸から渡来した仮面劇)には迦楼羅(かるら)という演目があり、これも教訓抄に「ケラハミともいう」とあることからケラ(蛇、虫)を食む(食べる)姿を模していたのではないかと思われる。伎楽は廃絶してしまい今日には伝わっていないが、使われた面は残っており博物館などで見ることができる。また、雅楽演奏家などによる復興も行われており、当時の様子や音楽が偲(しの)ばれる。

 また、鳥と聞いて思い出すのは雅楽の中でも人気の演目「迦陵頻(かりょうびん)」だ。これは極楽浄土に住むと言われる上半身が美女、下半身が鳥の姿をした「迦陵頻伽(かりょうびんが)」という生き物をモチーフとした演目であり、現在は子どもが舞う「童舞」として演じられている。迦陵頻伽は「妙音鳥」とも呼ばれ美しい声で歌うという。舞楽「迦陵頻」は天竺の祇園寺(祇園精舎)の供養の日に迦陵頻が飛来した際、妙音天(弁財天。こちらも美しい声で歌う)が奏でた曲だと教訓抄にある。この舞楽では子どもが背中に美しい羽をつけ、銅拍子(小さなシンバル)を叩きながら舞う。その音は、迦陵頻伽の鳴く声を真似たものだと言われている。


高島千春 画『舞楽図』,出雲寺富五郎,文政11 [1828]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2533120 (参照 2024-09-16)

 迦陵頻伽は「若空無我常楽我浄(にゃくくうむがじょうらくがじょう)」と(さえず)るのだという。これは「空(雲がなければそこにあることもわからない)のように人もただ自分自身のみでは存在できず、他者があるから存在できている。それを知れば常に安楽で、自分本意でない我を得、清らかな境地に達することができる」と、極楽浄土への道を説くものである。小さな子どもが色とりどりの羽を付け踊る姿は大変可愛らしいが、両手で打ち鳴らす銅拍子の表す囀りの内容は思いの外、深い。弁財天が奏でた曲と、浄土へ誘う迦陵頻伽の声を聴くことができるとあればすこし姿勢を正して聴いてみてもいいかも知れない。

 またこの迦陵頻について、田辺尚雄(たなべひさお)は『東洋音楽史』において「菩薩」という舞楽とともに婆羅門僧正菩提僊那(ばらもんそうじょうぼだいせんな)らが伝えた林邑楽(現在のベトナム周辺から伝わった楽)であることに注目し、「金翅鳥が喜び勇んで躍って居るやうな場面ではないか」と、迦陵頻伽よりむしろ金翅鳥のことなのではないかとしている。

 

裹頭楽(かとうらく)

 大唐に金御国というところがある。

 百年に一度、大蜂〔筆者注:虫偏に武。楽家録では蛾とされる〕が千万も来て人を害する。

 その時にこの曲を奏すると、蜂はみんな死ぬとかいう。


高島千春 画『舞楽図』,出雲寺富五郎,文政11 [1828]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2533120 (参照 2024-09-16)

 裹頭楽(かとうらく)は李徳祐の作とも、明帝の作とも言われている。『教訓抄』には「大国の法で、蜂を払う時に錦羅絹綾などで頭を包んで払う。だから裹頭楽というのだ」とあり、また「ある人が語るにはこの曲は『霓裳羽衣(げいしょううい)の曲』だと言うがそういった謂れは無い」とも書かれている。霓は虹、霓裳は虹のように美しい衣装のことで、羽衣は天女が着て空を飛ぶハゴロモである。霓裳羽衣曲とは元々西域の楽曲だったものに玄宗皇帝が手を加えたもの、あるいは玄宗が月の宮で仙人と遊んだ際に仙女の舞を見てこの楽を憶え持ち帰ったものだとされる。玄宗の妻、楊貴妃がこの曲に合わせ美しく舞ったという。謂れは無いとはいえ、我々も月の都の音楽を聴いているのかもしれないと思うとまた浪漫である。

 筆者は時々知り合いの田んぼを手伝いに行くのだが、有機農法で虫除けとして甘州を聞かせた「雅楽米」を作り高値で売れはしないかと画策している。

 

 さて、次も雅楽によって難を逃れた話だが、こちらは曲目による効能ではなく楽器の腕前によるものである。主人公はあの『陰陽師』でおなじみ、源博雅その人だ。

 

源博雅の邸に盗人の入りける話

博雅三位(はくがのさんみ)の家に、盗人入りたりけり。三品、板敷の下に逃げ隠れにけり。盗人帰り、さて後、這ひ出でて家の中を見るに、残りたる物なく、みな取りてけり。

篳篥(ひちりき)一つを置物厨子(おきものづし)に残したりけるを、三位(さんみ)、取りて吹かれたりけるを、出でて去りぬる盗人、はるかにこれを聞きて、感情おさへがたくして、帰り来たりて言ふやう、「ただ今の御篳篥(ひちりき)の音を承るに、あはれに貴く候ひて、悪心みな改まりぬ。取る所の物ども、ことごとくに返し奉るべし」と言ひて、みな置きて出でにけり。

昔の盗人は、またかく(いう)なる心もありけり。(『古今著聞集』)

博雅の家に、盗人が入った。博雅は板敷の下に逃げ隠れた。盗人が帰った後で這い出て家の中を見ると、残った物は無く、みな取られてしまっていた。

篳篥一つが棚に残っていたのを三位が取って吹かれると、去っていった盗人は遠くからこれを聞き感情がおさえられず、帰って来て「今の御篳篥の音、しみじみと尊く、悪心がみな改まりました。盗んだ物を全てお返ししましょう」と言って、みな置いて出ていった。

昔の盗人にはこういった風流を解する心もあったのだ。

源博雅、仕事の方はからっきしだったようだが楽の才能は鬼にも愛されるほどだったという。彼の伝説は他にも数多あるが、それはまた別の機会に置いておこう。代わりに博雅が吹いた「篳篥」という楽器についてご紹介したいと思う。

 

雅楽の花形 篳篥

  篳篥は中央アジア・シルクロード上のオアシス都市亀茲(きじ)(現在のクチャ)で生まれた楽器であると諸書にある。『通典(つてん)(唐の杜佑(とゆう)が著した政書)』には、「篳篥のもとの名は悲篥で、胡中から出たものである。その声は悲しい。」とあり、この「篳篥の音は悲しい」という記述を見れば先程の盗人が改心した話もうなずける。また『教訓抄』には「暁の猿の声を模す」ともある。猿の声というとなんだかうるさそうだが、「暁の」と付されるだけでちょっと物悲しい、霧の立ち込めるような雰囲気も伺える気がする。

 篳篥が迦陵頻の声を写したものだという話もあるらしく、『古今著聞集』には「志我僧正(しがそうじょう)明尊(みょうそん))は元来篳篥を憎んでいた人であった。ある月の夜、湖に船を浮かべてその上で楽を演奏する宴が開かれた。この時みな、「僧正は篳篥ぎらいだから篳篥吹きの和邇部用枝(わにべのもちえだ)は絶対船に乗せるな」とガードしていたが、結局用枝は隙を見て篳篥を吹き始めてしまった。周りの者はみな青ざめたが、素晴らしい演奏を聴いて僧正は「篳篥は迦陵頻の声を学んだものというが、今まで全然信じていなかった。今はじめてそれを思い知りました」と感じ入り、その後もたびたびその話をしては泣いちゃったらしい」というエピソードも残っている。

 篳篥ぎらいで一番有名なのは清少納言だろう。『枕草子』二〇七段にこう残されている。

篳篥は、いとかしかましく、秋の虫を言はば、轡虫(くつわむし)などのここちして、うたてけ近く聞かまほしからず、まして、わろく吹きたるはいとにくきに……

篳篥は本当にうるさくて、秋の虫でいえばクツワムシみたいな感じがして、不快なので近くで聞きたくもないし、まして下手に吹いてるととても憎たらしくなる。

散々な言われようである。クツワムシは別名を「ガチャガチャ」と言われるほど喧しい虫であるらしい(ちなみに転じてうるさい人それ自体をも指すらしく、「引越た先も隣にくつわ虫」という句が『俳諧童の的』に残されている。いつの世も悩みは変わらない)。

 ただこの文には続きがある。「臨時のお祭りの時に、物陰で鳴る横笛を面白く聴いていたら途中から篳篥が入ってきたのはただただ素晴らしくて、髪が全部立ち上がってしまうような心地だった」と絶賛しているのである。

 嫌われやすいが肝心なところでは人に涙を流させる、篳篥とはかくも不思議で魅力的な楽器である。ここから少し楽器の構造についても見てみよう。

 

 篳篥はとても大きく迫力のある音を出すが、楽器の長さは約18cm、片手に収まってしまうほど小さい。吹き口には葦の茎を潰したリードがついており、西洋楽器でいえばオーボエに似た仕組みで音を鳴らす(ちなみに葦を「アシ」と読むと「悪し」に繋がるため、雅楽界ではこれを「ヨシ」と呼んでいる)。指穴は前面に7つ、後面に2つ。しかしこの後面2つの穴のうち1つは「鳴らすと国が滅びる」という亡国の音を出すとされるため演奏中空かないように常に指で押さえられている。なんでそんな危険な穴開けるんだ。

 篳篥に特徴的な奏法が「塩梅(えんばい)」である。指遣いを変えずに口や息の調整によって音を上げ下げする奏法で、現在「いい塩梅」などと言われるあの塩梅の語源になったとも言われている。この滑らかなポルタメントが、雅楽の雅な雰囲気を形作るのに大きな役割を果たしている。

 現在ではこの小さな楽器しか使われない篳篥だが、かつてはひとまわり大きい「大篳篥」という楽器も使用されていた。大篳篥は源博雅もよく吹いたらしく文献にも記述が多いが、平安時代より後には用いられなくなり、小篳篥が現行の篳篥として使われている。このように高い音の楽器だけ残る現象は他の楽器にも見られ、笙にも一オクターブ低い「竽」という仲間があったが現在の雅楽では使われていない。野外のひらけた場所で演奏する都合上低音楽器が淘汰されたのか、日本人の音楽観に低音が合わなかったのだろうか。

 篳篥を演奏する際の息の入れ方について、『楽家録』にはこう書かれている。

息籠の法は、あるいは息で腰を満たし、臍を満たす。しかし、畢竟、息籠には、習いがあって習いがない。ただ、気を主ととらえるべきであり、気を体に満たせば、息は自ずから充実し、そうして管に気が至れば、息も自ずから至り、指それぞれに息が満ち、指の先に触れることがわかるのである。このようにすれば、声(音)の響きは自ずから華麗になるだろう。しかし、その華麗さは、いまだ声音が力を用いることを免れておらず、善の善とは言いがたい。ただ、この所に至って初めて、律声の根源をうかがうことができるのである。管を吹く時には尻穴をすぼめ塞ぐべきで、このようにすると精気が漏れることなく、管声が充実するだろう。

 これはどの楽器にも応用できる心得かと思うので、ここに共有したい。

 ちなみに篳篥のことを「しちりき」と呼ぶ人がよくいるが、よほどの江戸っ子でない限り「ひちりき」と読むのが正しい。

 さて、次に紹介する曲は篳篥も活躍する名曲「蘇合香(そこう) 序一帖」で知られる蘇合香である。Youtubeにもよい動画があるので、ぜひ聴きながら読んで欲しい。

 

蘇合香

 絢爛な舞台に現れるのは、草を被った6人の舞人。お遊戯会の子どもたちが紛れ込んだかと目を擦るも、始まるのは全部で3時間にも及ぶ大曲「蘇合香」である。


正宗敦夫 編『舞圖 : 信西古樂圖』,日本古典全集刊行會,1929. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1085928 (参照 2024-09-16)

 あまりにも面白すぎる被り物だが、「菖蒲甲(しょうぶかぶと)」と呼ばれる菖蒲の葉を並べた形の(かぶと)らしく、そう聞くと急に雅に見えてくる。この甲には、ある人の苦しみを癒した謂れがあった。楽書に見える名を「阿育大王」。古代インドの帝王、アショーカ王である。

『教訓抄』の記述はこうである。

 阿育大王が病を患われ、蘇合香という草を薬に使わなければ命が危ないだろうということで、一国の大事なので探したが、希少な草なので見つからず、七日かかって手に入れることができた。
病がすぐに治ったので、お喜びなさってこの曲を作られたという。

 舞は育偈(いくげ)という人がこの草を甲として舞ったところ、建物の中に(かぐわ)しい匂いが満ちた。

 

 育偈という人物について、『体源鈔』には育偈は阿育王の弟とある(一五〇六頁)。

 アショーカ王は紀元前268年にマウリヤ朝第三代目の王として即位し、ダルマ(法)による統治で古代インド統一国家を建設した。深く仏教に帰依したアショーカ王は全土に仏塔を立て、そこに彫られた法輪(車輪が転がるようにブッダの教えが広まっていくというモチーフ)は現在のインド国旗の中央にも描かれている。

 『阿育王経』巻一には「アショーカ王は肌がざらざらとしていたため父親や周りの者から疎まれていた」とあり(見た目を貶されて激怒し周りの女官を殺しまくるなど「残虐のアショーカ」と呼ばれたが、後に反省して仏教の教えを国中に広めることになる)、アショーカ王は皮膚病を患っていたのではないかと言われている。教訓抄に記述された病とはこの皮膚病のことだろうか。

 「蘇合香」とはもともと、中国で珍重された西域由来の香料である。道教では不老長寿の霊薬「仙丹」の原料として、また仏教においても災い除けや仏教儀礼に使う霊験あらたかな香料として尊ばれた。その実態には諸説あり、中には獣の糞便だという噂もあるそうだが、『教訓抄』には「蘇合香は蘇合国から出たものだ。様々な香草を煎じた汁の名である」とある。現在でも漢方の生薬や香料として売られており、こちらはスチラックスあるいはレヴァントスチラックスという樹木の樹脂を精製したものとなっている。漢方としては皮膚病や去痰に効果があるそうだ。蘇合香の香りを聞きながら蘇合香の楽を聴く、というのもひとつ優雅な楽しみかもしれない。

 この蘇合香の楽を日本に伝えたとされるのが和邇部嶋継(わにべのしまつぐ)である。桓武天皇の御代に遣唐使として中国に渡り、蘇合香を憶えて持ち帰るはずだった嶋継だが、帰国の途のなかでその一部を忘れてしまい伝えられなかったという。しかし現在伝わっているものだけ演奏しても3時間ほどかかるのだから、記憶が飛んでしまったのを千年も語り継がれてしまっている嶋継には同情を禁じ得ない。

 ちなみになぜ「蘇合香」と書いて「そこう」と読むのかというと、『楽家録』には「『そかふかう』で、合の字は()み(ゴウではなくコウ)、通常「香」の字を略する」とあり、『倭名類聚抄』にも「蘇合香 大曲、俗に只蘇合と云う」とある。元々は香の字を略して「そこう」と言っていたものが、いつしか「蘇合香」も「そこう」と読むようになったのだろう。

 蘇合香は「四箇大曲(しかのたいきょく)」という特に重要な4つの曲の一つに数えられ、かつては秘伝ともされ尊ばれてきた。現行で最長の演奏時間を誇るためなかなか全てを聴く機会は無いが、雅楽を楽しむものなら皆憧れる名曲である。

 

慶雲楽(きょううんらく)

 この楽、本当の名を、両鬼楽という。

 大唐に「食べたい、食べたい」と望む二人の鬼があった。
 名を食鬼、飲鬼という。
 人間の食事が気になり、人を悩ませる。
 しかしこの楽の音を聞くと、この鬼神たちは70里の彼方まで去っていった。

このために大国の法では食事の時にこの曲を奏でるのだという。日本で「慶雲楽」と名付けられたのは慶雲年間中に唐から伝わったからだと『教訓抄』には書かれている。

 楽家録には宮中行事「追儺式(ついなしき)」において、蘇合香とともに慶雲楽を奏すとしている。追儺式は今でいう節分のような儀式で、鬼に扮した大舎人(おおとねり)(宮中で雑役を担う役人)を公卿(くぎょう)(上級貴族)達が桃の木の弓と葦の矢で追い払うというものである。やはり慶雲楽の鬼を払う力が買われての選曲なのだろう。

 

廻忽

 昔、大国に一人の大臣がいた。名を貴養成という。

 彼には大忠連という父があったが、にわかに病を受けて死んでしまった。
 父の死から100日が経った。貴養成は父の墓のそばで一つの楽を作り、琴を弾いた。
 楽を7回繰り返した時である。
 にわかに父の骨が息を吹き返し、墓の周りを3回まわって、そして、消え失せた。
 よってこの名を「廻骨」としたのだという。

 骨が3回まわっただけで特にメッセージも無く消え失せてしまったというのも「なんだったんだ」という感じがしなくも無いが、この消化不良感が民話や怪談の醍醐味であるとも言える。怪異に大団円を求める方が野暮である。

 一瞬でも死者蘇生という禁忌を実現できるらしい「廻忽」だが、残念ながら現在は伝承が絶えてしまっている。『教訓抄』には「葬礼に用いる曲らしい」とあるが、葬儀のたびに死者に蘇られてしまっては堪ったものでは無いだろう。

 「廻忽」の由来について、吉田兼好は『徒然草』第二百四段にこう記している。

 「廻忽」も廻鶻なり。廻鶻國とて夷のこはき國あり。その夷、漢に伏して後にきたりておのれが國の樂を奏せしなり。

(雅楽の曲はしばしば元の意味から漢字が変わる、という話を受けて)「廻忽」も「廻鶻」だ。廻鶻國(ウイグル国)という夷(中国朝廷から見た異民族)の強い国がある。その夷が漢に降伏して、後に来朝して己の国の楽を奏したものである。

ウイグルの古い音楽か、あるいは死者蘇生の音楽か。残念ながら現在は伝承が絶えてしまっている廻忽だが、古譜からの復元の試みは行われているようだ。墓の前での演奏は憚られるが、一度耳にしてみたいものである。

ともすると不要不急と言われてしまう音楽も、かつては国や社会を変えるほどの力を持つとされた。人事を尽くしたあとは、楽でも奏しながら気長に天命を待ってみるのもよいかもしれない。

*** 

ご協力者様

中川優子様(東京藝術大学大学院音楽研究科博士後期課程)

***

〈参考文献〉

狛近真 撰述 植木行宣 校注『教訓抄』(日本思想大系 23『古代中世芸術論』 岩波書店 1973年)

安倍季尚 編輯 正宗敦夫 編纂校訂 『楽家録』(覆刻日本古典全集 現代思潮新社 1977年)

豊原統秋 撰述 正宗敦夫 編纂校訂 『體源抄』(覆刻日本古典全集 現代思潮新社 1978年)

王媛(2020)『『教訓抄』に語られる中国音楽説話の研究』 株式会社三元社

安倍季昌(2008)『雅楽 篳篥 千年の秘伝』 株式会社たちばな出版

遠藤徹(2013)『雅楽を知る辞典』 東京堂出版

遠藤徹(2017)『美しき雅楽装束の世界』 淡交社

田辺尚雄 著(1930) 植村幸生 校注『東洋音楽史』 平凡社 2014年

小野亮哉 監修 東儀信太郎 代表執筆『雅楽辞典』音楽之友社 1988年

清少納言 上坂信男/神作光一/湯本なぎさ/鈴木美弥 共著 『枕草子』 株式会社講談社 2001年

大槻如電 著 今泉定介 編『舞楽図説 : 全』吉川弘文館〈故實叢書〉1905年

柳澤良一 注釈『新撰朗詠集全注釈』 新典社 2011年

川口久雄 全訳注『和漢朗詠集』 講談社 1982年

高島千春 画『舞楽図』 1828年

橘成季『古今著聞集』 1625年

孔子 他『論語』

雪麿 編『俳諧童の的』

正宗敦夫 編『舞圖 : 信西古樂圖』 日本古典全集刊行會 1929年

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著者略歴

  1. カニササレアヤコ

    お笑い芸人・ロボットエンジニア。日本の伝統音楽「雅楽」を演奏し、雅楽器の笙を使ったネタで芸人として活動している。早稲田大学文化構想学部卒業・東京藝術大学在学中。サンミュージック所属。「R-1ぐらんぷり」2018年決勝、「ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ」「笑点特大号」などの番組に出演。

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