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フランスでのカンパネッラ

フランスでのカンパネッラ 下

目的の達成へ向けて

 

 1634年10月29日、すでにマルセイユにてフランスの土を踏んでいたカンパネッラは、ラテン語でプロヴァンス地方の法律家でオリオン星雲の発見者である、ニコラ=クロード・ファブリ・ペレースク宛てに書信を認めた。内容はフランス到着と、ローマをあとにしたのが、とても急だったので、友人・知人たちに挨拶なしでこの地にやって来てしまったことを、含みをこめた筆致で書き送った。そのときまでにペレースクはカンパネッラに、チャベリーのハーバード(1583―1648年。英国理神論〔世界創造としての神は認めるが、創造後の世界にたいする神の支配を否定する考え方〕の父)著の『真実について』(英国人によって書かれた最初の形而上学的論文。禁書目録に挙げられている)についてカンパネッラに意見を求めていた。ペレースクは書簡のなかでかくも精緻で高邁な思想を綴ったドメニコ会士を称賛している。

 そうした手紙を受け取っていたカンパネッラは、すぐにでも自分の立場を理解してくれる庇護者に逢いたいと書き送ったので、ペレースクのほうはエクサンプロヴァンス(ローヌ県の古都。古くからプロヴァンス地方で繁栄した都市で、現在は学術や芸術の中心都市。画家セザンヌの生地でもある)の自分の家にカンパネッラを招くべく駕籠をマルセイユに遣わした。自宅でペレースクは10日あまりカンパネッラをもてなしている。さらにカンパネッラに逢わせるべく同地に招かれていた、フランスの物理学者で数学者でもあるピエール・ガッサンディ(1592―1655年。エピクロスの唯物論を復権。反デカルトの立場を堅持した)の回想によると、ペレースクは、この亡命者を心ひろく愛情ふかく迎えたので、カンパネッラもいつになく気を許し感謝の念を抱いたという。

 数日後、カンパネラがパリへの旅に出発する際、ペレースクが差し出した路銀を手にするや、複雑な気持ちに陥った。カンパネッラはこう告白している。その昔わかいとき、残忍な拷問に耐えることができたとしても、いまここで貴方からの金銭面での援助には涙がでます、と。

 自著『医学』の印刷の進捗状態を確認した都市リヨンでの短い滞在の後、彼はパリへ向けて再度一歩を踏み出した。そして12月1日にパリに入った。最初の数週間、聖フロォーラの司教宅に滞留した。そのあと、改築された聖トノーレ通りにあるドミニコ会の修道院に居を定めた。その翌日、彼は宰相リシュリュー宛にお目にかかりたいと手紙を出した。またペレースクには歓迎してくれたことへの礼状を書いた。と同時に次のような、フランスの風土や気候や民衆のへの称賛にも言及している(1634年12月11日付け)。

 

  ぼくはフランスの国土の広さ、起伏のある山並み、平野……また丘が肥沃なこと、山々、4つに分かれた領国にパンを供給できる平原の豊かさに感じ入り、さらに寒さも覚えませんでした。

 そしてパリまであらゆる田園地帯が緑の草木でおおわれていて、花も咲き
誇っており、広大で穏和な風土が見て取れます。

 実りと色彩豊かな多彩な大地があり、そこでいろいろな血筋のひとたちが働いています。

 イタリアでもそれは同じです。肉やバターなどは豊富にあります。

 云々……施しを求めて、村や部落や居酒屋から出て来る若者たちを除いて、ひとびとはみな陽気で鬱屈しておらず、彼ら青年たちの顔にもすぐに微笑が浮かぶのです。

 

 翌年、1635年2月9日、カンパネッラはカトリックの大王といわれるルイ13世〔在位 1610―48年〕に謁見する。王は二度もカンパネッラを抱擁し、フランス来訪を歓迎した。そしてこの亡命者を襲って来た不幸に同情を寄せ、出逢いをお歓びになった。カンパネッラのほうは、仕合わせの微笑を浮かべながら、「私の苦難にたいして深い思いやりをありがとうございます」といった。

 彼はパリ滞在中にその著述活動は驚くほどの成果をみせた。特に、哲学と科学(客観知)の分野、例えば数学的な書である『一への問いかけ』のような書もものしている。またこれまで書いてきた手稿を印刷して刊行したい気持ちも強かった。

 国王の秘書官に次のような書信を送っている(1637年8月6日付)。

 

  私の精神的地盤は虐待によって充分に培われて、そこに深く根を下ろしています。

 です
が神が仮にユリシーズをポリュペモス(食人種の一種で一眼の巨人キュクロスの首長)の洞窟から逃してくれる驚くべき戦略以上の奇跡で私を自由にして下さらなかったら、りを育むことはできなかったでしょう。

 それですから私は年を重ねて書物を書いて完成
させ、あらゆる学問に栄誉を授けてきたのです。

 二度目のローマ滞在のとき、英明な教
会関係者の恩顧によって、神の息吹きを浴びて著作集を世に問うたものです。―「神の力によって」と言明いたしましょう。なぜなら、私でもなく他のいずれの方でもなく、私が主なる神の御前にひとびとをお呼びしたからです。

 ここでもう一度、(みなさまがお認
めのように)私は清き身ではありませんが、災難に見舞われて来たので、ある種の意外な運命に導かれて自由の本拠地である最良なるキリスト教の王国であるフランスへやって来ざるを得ませんでした。

 

 この書簡からは、カンパネッラのこれまでの苦難に充ちた人生が読み取れるし、パリでの執筆と書籍刊行という意向も感得される。彼はパリの名士と知り合いになって、その人物に手稿を謹呈し、カンパネッラのいう「それなりに思索に充ちて倫理的な力のある著作品の刊行」を求めてくれるよう友人にペレースクに頼むが断られる。

 その理由が振るっている。ペレースクは自分も含めて「そのような虚栄心」がほしいわけではなかったし、「そうした見栄などなくても」ペレースクはカンパネッラのために骨を折るつもりでいたのだった。さらにペレースクはカンパネッラに助言する。それはフランスの学者たちとの会話のときの注意事項だった。フランスでは、とペレースクは坦々と書き送って来た。「われわれはいかなる見解を持つのも許されているし、他のひとたちの意見も認めるという最高の自由がある」(1634年12月11日付)と。この手紙を敷衍すると、人生は短いのだから、自分以外の主義主張を否定するのに精力を注ぎ込む厄介で面倒なことはする価値はない、ということになろうか。

 これまでの人生で自由に浴することがごく稀だったカンパネッラは、おそらく目から鱗が落ちたことであろう。フランスでの自由は本物の自由だったのである。カンパネッラにしてみれば、何十年も自由を奪われて来ていたので、自由は尊ばれるものであるばかりでなく、褒め称えられるものでもあったのだ。それに期待してやって来たフランスだった。ほかでもない「多くの試練のあとに」自由への「渇き」が内面に確実に存在したからにほかならなかったからだ。イタリアとは違って、フランスでは自由は自由として厳然と存在していたのだ。それに彼はすぐには気がつけなかったのだろう。苦労ばかりしていると、労苦のない世界に触れても、すぐにはその心地よさはわからないという良い例だ。

 いってみれば自由な世界フランスで、自由を求めたカンパネッラの「勇み足」といえよう。

 

 さてもう一点、フランスでのカンパネッラの「活躍」を挙げておこう。前提として、彼が心底からカトリック、ドメニコ会の修道士であったこと、スペイン当局に長期間牢獄生活を強いられた苦い思い出があったことを念頭に置いてほしい。

 カンパネッラは政治的には右顧左眄した狡猾な人物で、フランス政府に歓待されたこととも一因だったろうが、フランスのために一肌脱ごうという気になったようだ。それはイングランドのチャールズ一世〔在位 1625―49年〕に嫁いだアンリエット・マリー・ド・ブルボン(1609―69年)への説得力のある書簡の文章にみられる。この王妃はカトリックだったゆえに、プロテスタントの英国国教会では礼拝で彼女への戴冠は禁じられた。これは予定説を唱えるプロテスタントの政治的、宗教的な成り行き上の痛々しさゆえの、王妃への一種の批難とみてよいだろう。カンパネッラは王妃を勇気づけて、カトリックという宗派の信条を主張するために、チャールズ1世に働きかけるよう促した(1637年6月2日付書簡)。カンパネッラの考えでは、カトリックこそが安定した政治と共存できる唯一の信仰形態だったからである。

 ちなみにイングランドは清教徒革命(1642―49年)の真最中であり、そのためアンリエットは一時フランスに避難しており(44―60年)、49年には夫であるチャールズ1世が処刑され、彼女は一時経済的困窮に陥る。息子のチャールズ2世が即位した60年にようやく帰国しているが、この王はしだいに反動化し、フランス王ルイ14世とカトリック復活の条約(ドーヴァー密約)を結んで、議会との対立を深め、名誉革命(1688―98年)の起因となった。

 

 カンパネッラはあくまでカトリックの信者であり、政治的にもカトリックが優位になるよう行動した。カルヴァン派の改宗にも尽力している。そして最晩年に二本の彼らしい論文を残している。

 一本目は、無名の紳士からの問いにたいしての回答という形を取っている。即ち、その時点ですでに疲弊して経済的破綻を来たしていたスペイン帝国の力を、逆説的にどう説明するかを問うたものだった。相も変わらずスペインは世界に覇権を布いているが、その一方でフランスは明らかに、人口、富、軍事力、そして武器にあってスペインより秀でているという内容だった。それに対抗すべくフランスは領土拡大に力を注ぐべきだ、とカンパネッラは答えている。

 二本目は、ルイ13世統治への心の底からの訴えである。それは王がスペインとの平和条約に署名しないことを述べたものだった。カンパネッラはフランス軍の対スペイン戦での繰り返される敗北の後の和平条約を、屈辱としてフランス国民がみなしている、と訴えた。

 これら二本の論考からうかがわれることは、人類の抑圧者であって破壊者でもあるスペインの専制政治にたいしてフランスが、『世界のひとたちの解放者』の役割を果たすべきだ、と示唆している点だろう。

 この覇気の底には、スペイン治下のナポリで受けた牢獄の身であった自分の人生から弾き出た怨念がこもっていたであろう。スペインの世ではなくこれからはフランスの世になると信じている。

 

 イタリアにいた折とは雲泥の差の歓迎ぶりのなか、ルイ13世の後継者となる男子が誕生したとき、この王子こそイルカ座も下に生まれた明るい人士で、後年の太陽王ことルイ14世〔在位1643―1715年〕であり、彼はその星宮図を作成している。これがカンパネッラの最期の仕事となった。

 1638年みずからの死期を悟った彼は、5月1日サン・トノーレ通りのドミニコ会の僧房で息を引きとった。

 この修道院はフランス革命の騒乱で破壊され、今はその痕跡もない。カンパネッラの最期は預言者らしく、占星術どおりに死んでいった。

 詩から出発して、汎感覚主義、反アリストテレス、政治家にして策謀家、牢獄生活と、あらぬ疑惑の渦に巻き込まれ、フランスへの亡命……と実に波乱に充ちた人生だった。

 思うに、カンパネッラにとって、詩(文学)と政治(世俗・預言)と宗教(信仰)とが、分かち難く結びついていて、それらが一となってカンパネッラという人物を創り挙げていたのではあるまいか。

 

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著者略歴

  1. 澤井 繁男

    1954年札幌市生まれ。東京外国語大学卒業後、京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。東京外国語大学論文博士(学術)。専攻はイタリアルネサンス文学・文化論。作家・文芸批評家としても活躍。著書に、『澤井繁男小説・評論集』(平凡社)、『復帰の日』(作品社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『魔術師列伝』(平凡社)、『ルネサンス文化講義』(山川出版社)、訳書に、カンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会特別賞受賞)、バウズマ『ルネサンスの秋』(みすず書房)、カンパネッラ『事物の感覚と魔術について』(国書刊行会)、その他、多様な分野で著訳書多数。元関西大学文学部教授。放送大学(大阪学習センター)非常勤講師。

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