フランスでのカンパネッラ 中
自由「でない」自由
カンパネッラという人はよほどツイテいないのだろう。1626年5月23日に念願の釈放となるのだが、「要注意人物」という札つきだった。釈放後彼は、ナポリのサン・ドメニコ修道院へ向かったが、1か月後、(教皇庁の)検邪聖省は秘密裏にカンパネッラをローマに移送する。それも在俗司祭に変装させて偽名の下、海路を用いた。
ローマ到着当初、カンパネッラは「自由」になったはずなのに、それとは正反対の扱いを受けた。ゆえに、なおさら奈落の底に落ち、失望と失意を隠し切れなかった。今度はスペイン当局の牢獄から、検邪聖省の牢屋に閉じ込められたのである。これまで身に受けた苦しみにたいする思いやりも同情もないばかりでなく、新たな敵意と不信感に直面せざるを得なかった。
落胆と苛立ちの心的状態が彼の内面でただならぬ事態になり、ついに1627年4月初旬、異端裁判所長であるイッポリート・ランチ・ディ・アックアネグラ宛てに、懸案となっていた、枢機卿の称号について見解を求める書簡を認めている。即ち、枢機卿の称号を戴く件にかんしてしばらく前から話し合いの機会をもちたかった、と。さらに、なによりも貴下におかれては、私に好意を抱いてくださっており、大いにご評価を戴いている。それも明々白々とした称賛の口調で、と。
カンパネッラは心底から、誉高き枢機卿の称号をほしかったのに違いない。彼は根っからの俗物である。例えば、スペインの苛政にたいして蜂起はしたが、逮捕されると獄中でスペイン擁護の『スペイン帝政論』を平然と書く男だったから。ある研究者など、カンパネッラの政治姿勢を「狡猾さとあからさまな無謀さとが奇妙に入り混じった」ものとしている(Ⅾ・P・ウォーカー)。これは当たっている。
所長宛ての手紙の内容の概略もそれに似たものだった。自分が苦境の下でこの書簡をかいており、いままで当局による束縛の身であったこと。その理由として、教会関係者の方々から好感を少しも得られないがために不満であるのみならず、苦界に身を沈めてもいたこと。それゆえ、28年間の苦境(牢獄での暮らし)のあとの安息を望んでいること。それでいま一度、ヴィルジリオ・チェザリーニ卿の求めに応じて所与の趣旨の小論文を過日執筆したので……。目下、急いで無理を押しても書く所存であること。
こうした文面の手紙を書くに至ったのは、1624年4月4日にチェザリーニ卿宛てに、枢機卿という称号(地位)に関する書信を送ったからだ。結局、チェザリーニ卿の早世(29歳)によって、カンパネッラは卿に面識を得ることができなかった。その事実を知ったカンパネッラは打ちのめされて、運のない自分をしぶしぶ認めざるを得なかった。
総じてこのひとの人生は良いことがあれば、それ以上絶対値の大きい不運に見舞われてきた。この不幸や災難に一喜一憂せず、堅忍不抜の精神と生来のずる賢さで生きて来たのが、カンパネッラの人生そのものだった。
例えば(上)で短く触れた、ウルバヌス8世(在位 1623―44年)に依頼されて、降霊術を行なったこともその良い事例である。ローマ教皇たるもの異教の黒魔術を懇願するなど、端から信じられないことだが、そのお鉢がカンパネッラにまわってきたのは、彼が占星術師として著名だったからだ。彼の名をいまに留める『太陽の都』など、一言でまとめると占星術の本と称しても、あながち間違いではない。それゆえ小冊といってあなどってはならない、きわめて難解な書である。
占星術に関しては公的に、シクトゥス5世(在位 1585―90年)が、1686年の教皇調書(「天と地と」)によって教会法上、有罪とした。前述のウルバヌス8世も1631年の教書(「不可思議なもの」)で占星術を禁じている。
ところで、ローマ滞在中のカンパネッラを最も騒がせた出来事とは、彼自身が占星術に長けていたことに由来する。
教皇ウルバヌス8世が、1626年の釈放以来すでに噂になっていた、占星術師カンパネッラの評価を確かめようと望んだからである。優れた占星術師であることは、晩年、カンパネッラみずからが自分の死を占星術で占っており、その通りに死を迎えたことでもわかる。
カトリック世界では1630年に、最高潮に達する重要な「行事」が問題となるのだが、その起因がスペイン側の動きにあった。それはあたかも「空位」を埋める「教皇選挙会議」に向けてのものだった。占星術と政治とプロパガンダが複雑に絡まりあっていた。
具体的にいうと、ウルバヌス8世(イタリア人)が教皇登位以前にフランス大使を務めていたこともあって、フランス贔屓だった。これにスペイン人の聖職者たちが反発した。そしてあろうことか、ウルバヌス8世には、ローマ駐在の枢機卿たちのホロスコープを占星術師たちに作らせて、彼らの死去の日時を公然と預言するという悪癖があった。早晩、彼はその報復を受けることになる。占星術師たちが、ウルバヌス8世自身の近々の死を予想し始めたのだ。それは口から口へと外部に漏れ、28年頃までにはその噂はもう公然のものとなっていった。これを強めたのが「教皇選挙会議」を密かに準備し出していたスペイン人たちであったのは言うまでもない。教皇の親フランス政策が原因でもあったのは前述の通りである。
危険な年は、1月に月食が、12月に日食が起こる1628年と、6月に日食が起こる1630年だった。これを避けるために、カンパネッラが重用された。1628年の外交文書(ローマ発)には、教皇とカンパネッラが幾度も会って、密議を交わしている記録がある。教皇の死の予言を回避するために、カンパネッラが死の予兆に関わる占星術の行ないに専心している、という。あるいは他の記録には、蝋燭に灯を点し、夜の儀式を挙行していた、と。病患をもたらす、日食・月食と火星・土星の不吉な感化に備えるため、しかるべき手段を取るものだった。二人は以下のような行動に出た。以下は、D・P・ウォーカー(田口清一訳)『ルネサンスの魔術思想――フィチーノからカンパネッラへ』(平凡社、1993年)に寄り添いながら記してゆく。
部屋を外気から遮断して薔薇酢をはじめとする芳香性の強い物質をまき散らし、月経樹、ギンバイカ、マンエンロウ、シダレイトスギを燃やし、白い絹織物を吊るし、木の枝で飾った。それから2本の蠟燭と5本の松明に灯を点した(この7つは「7惑星」を意味している)。食により世界には欠陥が生じるので、この灯は、日が沈んでからランプに点火するのと同じく、不備な点を補うためだった。
これはもはや「降霊術」である。占星術に沿って蒸留された酒も吞んでいる。
こうした行為は、カンパネッラの『占星術』の第7巻である、「星辰によって定められた運命の回避について」のなかの「食」に関する1章に記述されている。『占星術全7巻』はリヨンで出版されている。全6巻まではすでに印刷されていたところに、この最終巻(第7巻)が追加された(1629年)。
ウルバヌス8世との降霊術行使はすぐに検邪聖省の知れるところとなり、カンパネッラは投獄される。人生でいったい何度、投獄されたことか。もうこのへんで終わりとしたいとカンパネッラも想ったことだろう。
さて先述の占星術の第7巻『星辰によって定められた運命の回避について』をカンパネッラは、公にするつもりはなかったようだ。だが公刊されたことで教皇の激怒を買ってしまった。しかしカンパネッラは早晩、教皇の支持を獲得しなおして、問題の論点を公式に検討してもらい、その結果、1629年の4月に釈放された。
1620年に刊行された彼の著書に『事物の感覚と魔術について』がある(執筆は1604年)。本書のなかには多数の魔術についての記述があるものの、降霊術に関する言及はない。だが、代表作『太陽の都』の最終版(第3版、1637年)に降霊術に関する記述がみられる(第1版、1602年、第2版、1612年、ともに出版は1623年にはそうした文面はない)。
ここでわかることはカンパネッラの魔術観に変化が起きたことだ。
『星辰によって……』の食に関する章の終わりで、好ましい食(木星と金星の影響下)に関する章の終わりで、好ましい食から有益な影響を論じるカンパネッラが、自著『形而上学』で、「天の作用によってみずからの生を確立すること」、つまり「天界によって導かれるべき生」の一節が、かのマルシリオ・フィチーノ(1433―69年)の『生について』の全3巻のうちの最終巻である第3巻「天界によって導かれる運命の回避について」の「天界」が「星辰」に名を変えたものとほぼ同じ巻名であることがみえてくる。比べてほしい。
カンパネッラがフィチーノの影響下にあったことが類推できる。フィチーノの魔術を認めていることは明らかだ。『星辰によって……』にカンパネラはこう書いている。
事物をいかにして使用すべきかは、ともに拙著『医学』の第5巻と『事物の感覚と魔術について』の第4巻で述べた。また、宇宙の各部に吹きこまれ、挿入され、全宇宙に充満する〈世界精気〉を吸入するためには、いかなる香気、味覚、色彩、温度、空気、水、葡萄酒、織物、会話、音楽、天空、星辰を利用すべきなのか、さらに星位の下で用いるべきかという点に関しては、この二書からわかるだろう。それゆえ、フィチーノによる不充分な説明にこれ以上の時間を割く必要はあるまい。みなさんは、どの星辰から、そしていかなる事物を通して恩恵を得るのかということだけを考慮すればよいのだ。
この要約には、フィチーノの主たる典拠となっている新プラトン主義者たちの占星術と魔術の著作についての説明が言い尽くされている。ここで重要なのは〈世界精気〉である。カンパネッラは〈世界霊魂〉を用いることはあっても、〈世界精気〉はなかったと記憶している。彼はフィチーノの「精気魔術」をフィチーノから受け継ぎ、さらにその種の魔術の背後に惑星の守護天使に呼びかける祈祷と儀式が潜んでいると気づいていたに違いない。
しかしながら、『事物の感覚と魔術について』の第四巻でも明白であるように、カンパネッラの希求していたのは「自然魔術」で、「悪霊魔術」ではなかった。これは確かだと思われる。
その後、カンパネッラはローマ滞在中に旺盛な執筆欲をみせるが、またまた災難に見舞われる。
1633年、弟子のトンマーゾ・ピニャテッリの反スペイン政府の陰謀の首謀者として政争に巻き込まれ、スペイン当局から刑罰を食らうところ、急遽フランス大使館に逃げ込む。だがスペイン側が執拗に引き渡しを求めてきたので、決心して、ローマからリグーニア海の港町リヴォルノに逃れ、海路、南フランスのマルセイユへと逃避行する。そして1634年10月29日に無事上陸し、徒歩でパリへと向かった。