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フランスでのカンパネッラ

フランスでのカンパネッラ 上

数学

 

 私は36歳のとき、イタリア半島の爪先の街レッジョ・ディ・カラブリアに1ヶ月ほど滞留し、その間、シチリア島やカラブリア地方の名所などを巡った。なぜカラブリア地方に居たかというと、私が専門に研究しているトンマーゾ・カンパネッラ(1568―1639年)の生地で生家ものこっている、山村の村スティーロがあるからである。語学研修の傍ら、スティーロを訪ねてみたいと思っていた。

 スティーロ直通の鉄道は地図をみてもみつからなかったので、いちばん近い、イオニア海の駅で下車して、そこから向かう計画を立てた。これからの記述は以前『コメット通信』5号(水声社)に寄稿したことがあるので、「数学」というテーマにそってだけ引用しておこう。

 

 カラブリア地方の山村スティーロを実際に訪ねたときだ。イオニア海に面した駅前から出発したバスは、くねくねした道を昇っていって、ある村の中央広場に停車した。そこがスティーロだった。中央広場には、思索にふけるカンパネッラの姿が、ロダンのような『考える人』のたたずまいで広場をみつめていた。 同乗していた黒いマントを羽織ったギリシア人のような老婆がしゃがれた声でぼくの手を握り、一所懸命この山村がいかに素敵な場所かを説いた。『カットーリカ』というビザンツ様式の会堂を是非、見学してほしいと。やっとたどりついたその『カットーリカ』の管理人の言葉にしたがって歩いていくと、カンパネッラの小体こていな生家があった。そこは(旧)市街地でなく新開地だった。しばらく往時をしのんで広場へともどった。カンパネッラの像を背にしてコンソリーノ山と相対すると、というよりも見上げると、その山全体に石造りの家屋が並んで、道がソフトクリーム状についていて、家々がはいつくばるように建っていた。これは「太陽の都」の街の造りと同じではないか。道伝いに上に向かって歩いていくと、環状形をしているのだ。そのとき小糠雨のような雨が降って来たが、すぐに上がった。歓迎の雨だと思った。南イタリアでは珍しいことに違いない。軒下で雨宿りした山を下るとき小さな本屋がぽつりと一軒、淋しそうに店を出していた。店内に入ると狭い売り場に、カンパネッラ著『数学』があった。手に取ってみて紐解くと、2部構成だった。ラテン語で幾何学が中心(第1部)、そしてガリレイ(1564―1642年)やマラン・メルセンヌ(1588―1648年。神学者にして素数の研究者)それにピエール・ガッサンディ(1592―1670年。物理学者でエピクロスの復権者)など宛ての書簡(第2部)という内容だった。ぼくは迷わず購入した。

 

 いまその『数学』を目のまえにして、ハタと私は考えた。中世の「自由七学芸」の4科のうちには算術と幾何学があるが、ルネサンスの教育科目である人文主義的教育には数学はないと。そしてダンテ『饗宴』の惑星と学問の照応では、『太陽』と「算術(数)」であって、数学ではないこと。算術と数学の違いは、算術が日常生活に密着した具体的な計算を指すのに対し、数学は負の数とか平方根とかの目にみえない抽象的なものを用いて、なぜそうなるのかを理解し顕わしていく教科である、と。

「自由七学芸」のうちの幾何学と算術を合わせると数学になるのだろうかと思いを馳せたが、「ユークリッド幾何学」といった領域もあることゆえ、それに代数学や整数論もあることから、安易な合体は無理であろう。さらに12世紀ルネサンスで初めて、ユークリッドやアルキメデスやプトレマイオスが西欧に入ってくるのだから、それまでおよそ数学という学科を西方ラテン人が念頭に置くことは無理だったかもしれない。そのユークリッドやアルキメデスの著作集がギリシア語から、イタリア語に翻訳されたのが、なんと16世紀のことなのだから(ニッコロ・タルターリャ〈1499―1557年〉による)。

 カンパネッラの『太陽の都』の環状が、知の連携をそれぞれの環状ごとに表しており、その第1の環状の1番目が数学であることから、彼が数学をあらゆる学問の基礎に置いていたことがわかる。これには私も同意見で、もう1つ挙げるとすれば、母国語だろう(カンパネッラならラテン語としたかもしれない)。ダンテが算術(数)を太陽と呼応させたのも頷ける。

 人文主義的教育に数学がなくとも、幾何学、代数学と分かれて進展してゆき、やがて数学とよばれるようになったと類推される。

 レオナルド・ダ・ヴインチの友人であり、近代会計学の父であるルカ・パチョリ(1445―1517年)、16世紀のジェロラーモ・カルダーノ(1501―76年。内科医、三次方程式の解法を『アルス・マグナ』にて公表)、ニッコロ・タルターリャ(数学者。三次方程式の解法を発見。ガリレイの数学上の祖父と称される)、フランソワ・ビエト(1540―1603年。弁護士、既知数の記号化を達成。「代数学の父」といわれる)。このような卓越した『数学者』が世に出て、活躍を始めている。

 カンパネッラが『太陽の都』(1602年執筆、1623年刊行)で、数学を基礎的学科の1番に挙げたのも理解できよう。

 『数学』の第2部は書簡集だと書いたが、カンパネッラとガリレイとの交流の一端がうかがえる書簡が数通掲載されている。そのなかでももっとも長い、1632年8月5日、ローマ滞在のカンパネッラから、フィレンツェの、トスカナ大公付である哲学者にして数学者である令名高きガリレイ宛書簡の中身を一部のぞいてみよう(拙訳)。ガリレイ著の『天文対話』についてである。

 

 ……われわれがプラトンを羨む必要は確かにありません。サルヴィア―ティ(『天文対話』の登場人物で、ガリレイの分身)は産むというより、産ませる偉大なソクラテス(前469―前399年)です。またザグレード(ガリレイの他の分身)は自由な天分の持ち主で、スコラ学派のなかで変更されずに、万事につけ聡明な判断を下しています。すべて私には気に入りました。そして貴下の論証の方法がコペルニクスに較べて、どれほどいっそうの迫力を持つかを私は、御高著が(〈地球の日周運動に対抗して〉云々(Contra motum Telluris ecc.))の法令に、いかに皆が反対の立場をとっているかを弁護します。そもそも誰にせよ、生かじりの文学愛好者などは、この教説の経緯などかき乱せないからです。しかし私の弟子たちは秘密を知っています。あえて申し上げますが、もしわれわれが田舎で1年間一緒にいられたとしたならば、大きな事柄を調整できたでしょう。貴下お一人で充分とはいえ、ご一緒すれば私にとっても有益であることを存じています。そして哲学の第一の諸規定について、アリストテレス学派的でも通俗哲学的でもない多くの疑念を提示したことでしょう。(しかし)神はそれを望んではおられません。神は称えられよ、です。古代的真理の新しさ、新世界、新星、新しい体系、新しい国民、これらの新しさこそ新しい世紀・・・・・の始まりです。万事の先頭に立つ方は急いでください。われわれは言葉でだけですが、応援いたします。(傍点、引用者)

 

 カンパネッラは「新しい世紀」の旗手としてのガリレイを支援する、と述べている。

 1632年(の私信)といえば、同時代では、前掲のメルセンヌ、ガッサンディをはじめとして、ヨハネス・ケプラー(1571―1630年)、フランシス・ベーコン(1561―1626年)、ルネ・デカルト(1596―1650年)、ゴットフリート・ライプニッツ(1646―1716年)、バールーフ・デ・スピノザ(1632―77年)の時代である。カンパネッラは希望を抱いたのだろう。

 しかしながら、このあとのガリレイ宛書簡を読むと、持論であった天動説と、地動説の間を揺れ動き、ガリレイの理論から離れてゆき、地球の回転を「慣性」ではなく「世界霊魂(アヴェロエスが考案した『二重真理説』のうちの神学の分野の一つで、永遠に存在する普遍的霊魂。肉体の死とともに死滅する個別霊魂とともにキリスト教の考える霊魂に対しては異端とされた。カンパネッラはこの世界霊魂の思想の影響下にあった)」に求める方に舵を切ってしまう。そういうカンパネッラをガリレイは早々に見抜いて、手を切るに至る。

 つまり、極論すると、カンパネッラには、言葉の真の意味での数学(天文学)は理解できなかったのではないか。

 

 さて獄中に足掛け27年間も、ほぼ軟禁状態で捕らわれていたカンパネッラだが、友人や弟子たちからの釈放の運動や要求もあってか、出獄するまでの8年間、なんと獄中で(おそらく『新城』の広間か講堂で?)スペイン人やイタリア人相手に講義の許可が出た(1618―27年)。講義の内容は定かではないが、これまで書き留めて置いた『スペイン帝政論』、『太陽の都』、『事物の感覚と魔術について』などに基づいてものか、あるいは出獄以後に執筆、刊行される『神学』や『形而上学』などか。

 カンパネッラはこの8年間を、人生で最上の時期だったと後年振り返っている。彼は、若年の頃、トスカナ大公にシエナ大学での講師のクチの斡旋を依頼していることからも、大学の教授職に就きたかったのに違いない。私見だが、声に出して教えることは知識の確認であり、また新発見でもある。経験した者でなければ味わえない歓びで、カンパネッラもこの極上の味を知ったと思える。

 1626年5月22日(57歳)、スペイン当局の認可が出て、晴れて出獄できた。

 

 『哲学詩集』、詩60「牢獄にて」(ソネット、拙訳)で、みずからの胸の裡をこう詠んだカンパネッラが、ついに外に世界に出られた歓びは、さぞかし大きかったであろう。

 

 あらゆる重い物体が

 地表から地球の中心へと落下してゆくように、

 またイタチが恐れ戯れて、

 ついにヒキガエルの口のなかに飛び込んでしまうように、 

 偉大な学問を愛し、

 死せる沼をわたり、

 愛に充ちあふれて真実の海を目指すひとも、

 みな、最後はぼくたちの独房のなかで涙にくれることになる。

 あるひとは「ポリペソスの洞穴」と呼ぶ、

 またあるひとは「アトラスの宮殿」、「クレタ島の大迷宮」と、

 そしてまた最果ての「地獄の穴」とも。

 (ここには恩寵も叡智もないのだから)

 そのうえぼくはからだの芯まで震えているとあなたに言える、

 ここは隠された苛政の聖域の砦だ。

 

 この詩に対する、カンパッラ自身の「解題」は「以上のことは明白である」の一文である。この世の地獄をみた詩人の声が重たく響いてくる。

 解放されたカンパネッラだが、教皇ウルバヌス8世に依頼され、ローマにて「降霊術」を行ない、発覚してまたもや検邪聖省に逮捕される(27年、58歳)。教皇も教皇だが、不運なのはカンパネッラの方である。翌28年4月、検邪聖省からやっと解放される。次の年(29年、60歳)、ドミニコ会から「神学教授」の称号を授かった。このとき彼は、枢機卿に推されると思った、といわれている。図に乗ったとしか思えないが、こうした安易さこそがカンパネッラらしいとも考えるのだが……。

 その後彼は旺盛な執筆力を発揮するのだが、とにかく身に覚えがないような異端の嫌疑が降りかかってきて、イタリアを去ってフランスへと亡命を企てて実行に移す。34年(65歳)10月21日、リヴォルノからマルセイユ行きの船に乗り、29日にマルセイユに上陸し、パリへと向かう。カンパネッラの身に生じたさまざまな災難(フランス亡命の理由)は次回に譲るとする。

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著者略歴

  1. 澤井 繁男

    1954年札幌市生まれ。東京外国語大学卒業後、京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。東京外国語大学論文博士(学術)。専攻はイタリアルネサンス文学・文化論。作家・文芸批評家としても活躍。著書に、『澤井繁男小説・評論集』(平凡社)、『復帰の日』(作品社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『魔術師列伝』(平凡社)、『ルネサンス文化講義』(山川出版社)、訳書に、カンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会特別賞受賞)、バウズマ『ルネサンスの秋』(みすず書房)、カンパネッラ『事物の感覚と魔術について』(国書刊行会)、その他、多様な分野で著訳書多数。元関西大学文学部教授。放送大学(大阪学習センター)非常勤講師。

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