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会社苦いかしょっぱいか――社長と社員の日本文化史 パオロ・マッツァリーノ

昭和の社長よ、いまいずこ

日本人は会社より社長が好き?

 明治八年六月一九日付読売新聞より。富士川で渡し船が沈む事故がありました。乗員乗客のほとんどは助かりましたが、「運輸会社の社長秋火源兵衛はいまだに行方が知れぬという事であります。」
 源兵衛さんの安否が気になるところですが、百数十年前の事故ですから、いまさらどうにもなりません。私はべつのところに注目しました。
 商行為を目的とする団体の名称である〝会社〟も、それを取り仕切る〝社長〟という役職名も、世間のほとんどの人は明治時代になってから知った新語・流行語だったはず。なのに維新からまもない明治八年という段階で、経済とは無関係の事故を報じる新聞記事で〝社長〟という言葉がなんの注釈もなく、あたりまえのごとく使われてます。
 同時期の紙面で〝会社〟という単語には「なかま」とルビがふってあります。つまり会社という言葉・概念が馴染まないうちに、社長という人間の役職名のほうが先にすんなり受け入れられていたということです。

ああ日本の社長

 「社長」といわれてイメージするタレントはだれですか?
 もしもこのアンケートを取った場合、上位に来そうな人を予想してみます。最近だったらやはり『下町ロケット』の阿部寛さんとかになるの……かな? すいません、私あのドラマ観てないんで。そういえばちかごろ、社長が主役の映画・ドラマってあまりないような気がしませんか。
 ちょっと前なら『釣りバカ日誌』のスーさんを演じた三國連太郎。あるいは『男はつらいよ』シリーズのタコ社長なんかもインパクトが強かったけど、あの役を演じてた太宰久雄という役者の名前はなかなか出てこないかもしれません。
 回答者の年齢や世代によっても、答は変わってくるでしょう。
 たとえば四〇代の私なら、「宮尾すすむ」と答えます。これ、ちょっとトリッキーな回答です。なぜなら宮尾すすむには、映画やドラマで社長役を演じてた俳優というイメージはまったくないからです。
 でも四〇代以上のみなさんなら、納得していただけますよね。そう、宮尾すすむといえば、テレビ朝日『モーニングショー』で毎週水曜日に放送されてた人気コーナー、「宮尾すすむのああ日本の社長」でレポーターをつとめていたことで有名です。
 詳しい資料がないのではっきりとはいえませんが、新聞縮刷版のテレビ欄で確認できるかぎりでは、一九八一年一月からはじまり、九九年の五月くらいまでやっていたようです(その後も不定期に放送が続いていた可能性はあります)。裏番組でやっていた「突撃!隣の晩ごはん」と並ぶ、八〇・九〇年代を代表するワイドショー名物企画といえましょう。
 宮尾が毎週、日本各地の社長を取材し、成功までの道のりを紹介するという立志伝企画なのですが、それだけでは人気も出なかっただろうし、あんなに長く続かなかったはずです。
 平日の午前中という放送時間を考えると、本気で起業や立身出世を目指そうとするビジネスマンは見てるわけがないんです。視聴者の大半は、ヒマな(失礼)主婦や年寄りだったはず。つまり視聴者の興味は最初からビジネス的な成功譚にはなかったのです。
 では視聴者はあの企画のどこにそんなに食いついたのか。宮尾は社長の会社での仕事ぶりを取材するだけでなく、毎回必ず社長の自宅豪邸を訪れ、その暮らしぶりをレポートします。重要なのは、そこなんです。成功した金持ちのプライベートをのぞき見したいという庶民のゲスな欲求を、宮尾が視聴者に成り代わってレポートしてくれていたことが、視聴者の興味を惹きつけてやまなかったのです。
 この企画は八四年に書籍化されてます。『新 あなたも社長になれる』というタイトルで著者は宮尾すすむとなってますが、おそらく宮尾が実際に書いたのは、タレントになる前、故郷の鹿児島で洋服店を経営する社長だったが力不足で倒産させてしまった思い出をつづったプロローグだけでしょう(宮尾自身も社長経験者だったんですね)。残りの本文は九九パーセントの確率で、専業のライターが書いたと思われます。
 ただ、各章の導入部だけは、テレビでおなじみだった宮尾の口調をうまく再現したものになってます。宮尾がしゃべったとおりではないにしても、雰囲気はつかめるのでご紹介しましょう。

 乗ってるクルマもスゴイ! 千七百万円のポルシェと千五百万円のベンツ……
 この若さでこの財力、さすがのボクも〝ウーン〟とうなりました。
 血のにじむような努力をしたから現在までになったんでしょうけど……〝苦労しました〟という顔をしてません。その辺が、また、エ・ラ・イ!

 まさにこんな雰囲気。軽~い言葉と低~い腰で太鼓持ちに徹しているのですが、全然イヤミでもないし下品さも感じません。それこそが、宮尾の話術が一流だったことの証拠です。
 宮尾が社長宅の冷蔵庫を勝手に開けて高そうなメロンを発見、そしてずうずうしくごちそうになる、ってのが毎回のお約束だったのですが、これは仕込みだったようですね。事前に番組スタッフから、冷蔵庫にメロンを入れておくよう頼まれていたと、当時出演した社長の息子さんがネットに裏話を書いてます。

社長シリーズ

 七〇代以上のかたにとって、社長イメージの俳優といったらやはり森繁久彌をおいて他にないのでは。
 一九五〇・六〇年代に人気があった喜劇映画「社長シリーズ」で演じた社長役は、森繁久彌の当たり役でした。私もこのシリーズの大ファンですが、もちろん私の歳ではリアルタイムで見られるはずがありません。古い日本映画が好きな私は、DVDやBS放送で観てそのおもしろさを再発見したのです。
 スピンオフ的な作品をカウントするかどうかで諸説あるのですが通常は、五六年の『へそくり社長』にはじまり、七一年まで四〇本あまり作られた東宝映画の作品群を「社長シリーズ」と呼びます。おそらくいちばん有名なのが『社長漫遊記』で、これは若い人でも、タイトルくらいは聞いたことがあるのでは。『漫遊記』を含む六一年から六七年くらいの作品がシリーズの黄金期です。
 社長シリーズが釣りバカや寅さんと異なるのは、キャラが引き継がれず、一作ごとに設定がリセットされるところです。食品メーカーだったり化粧品メーカーだったりと舞台は異なりますが、森繁は社長、小林桂樹はくそまじめな秘書課長、三木のり平は宴会好きの営業部長という同じ役職を演じますし、性格・人格もほぼ一緒。
 で、毎回ライバル企業との競争を勝ち抜くために社長らが地方に出張し、地元企業のキーマンであるフランキー堺を接待し契約を取りつけて大成功。社長の森繁は毎回、出張にかこつけて浮気しようと画策しますが、こちらは必ず大失敗に終わる、というストーリーもほぼ一緒。
 などと説明すると、なんじゃそのマンネリは、といわれそうですが、それいうなら寅さんだって、旅先で知り合ったマドンナに惚れてふられる、って流れの繰り返しじゃないですか。コメディシリーズってそんなもんですわ。
 驚くのは、一五年間で四〇本というその制作ペース。ただし社長シリーズは基本的に正編と続編の二本ワンセットで製作されてますから、実質的には約二〇作です。毎年正月に正編が封切られ、二月か三月に続編が公開されます。映画黄金期だったからこそ可能だったスケジュール。
 いまでも前後編の映画はありますが、ストーリーが長くて二時間でおさまらないから二本にわけてる感じですよね。社長シリーズは喜劇なので九〇分くらいしかないし、基本的に正編だけでも話は完結してます。続編はどれも私には蛇足としか思えない内容なのですが、当時の映画館は二本立てで入れ替えなし、一日中いてもよかった気楽な娯楽です。だからあまり文句も出なかったのでしょう。とはいえ、とにかく数さえ作ればいいという観客をなめた映画会社の姿勢が、六〇年代以降の急激な映画離れ、観客激減を招いた一因だったことは否めません。

凡人社長の魅力

 社長シリーズの魅力は、森繁演じる社長をカッコよく描かないところにあります。それなりに努力もしてるし会社を潰さない程度の器量もあるけれど、じゃあ抜きんでた経営の才があるのか? ノー。キレもので非凡な発想力がある? ノー。
 しょうもない思いつきで社員を振り回したりするし、仕事上の問題は戦略でなく人脈で解決する古いタイプ。妻や娘からは軽んじられてるし、バーのマダムや芸者と浮気することばかり考えてる。宴会好きの営業部長が「芸者呼んでパーッとやりましょう」というと、きみはいつもそればかりだと文句たれつつも、一緒になって玄人はだしの宴会芸を披露します。
 要するに、凡人なんです。雲の上の人みたいな畏れ多い起業家社長でなく、運良く下からはい上がれたサラリーマン社長。あんなヤツがなんでいい給料もらっていい家に住んで、お手伝いさんつきのいい暮らしをしてやがるんだ、みたいにやっかまれたり小馬鹿にされたりする反面、平社員の自分とたいして変わらないじゃないか、自分もあれくらいにはなれるんじゃないか、って親しみが持てるあたりが庶民から支持されたのではないかと。
 喜劇映画なのでもちろんデフォルメされてます。しかしその分を差し引いたとしてもなお、凡人社長というキャラ設定は、まるっきり荒唐無稽な話でもありません。社長シリーズが日本の戦後の社長イメージをうまく設定できたのは、原作小説のおかげなのです。
 社長シリーズはオリジナル脚本であり、直接の原作は存在しません。ただし話の大枠を決めた先行作品があります。五二年公開の『三等重役』という映画。これがヒットしたことで、凡人社長を主役とした喜劇シリーズの製作が決まりました。
 その映画の原作小説『三等重役』を書いたのが源氏鶏太という作家。「という」と紹介しないといけないほど、いまや完全に忘れられた人ですが、直木賞作家でサラリーマン小説の第一人者。現在似たようなポジションにいるのが『半沢直樹』の原作者である池井戸潤さんですね。その何倍もの人気があった人、といっても過言ではありません。
 一九八六年刊のキネマ旬報『映画40年全記録』によりますと、戦後、映画に原作を提供した本数が七八本と、源氏鶏太はダントツ一位です。
 社長シリーズには源氏作品からのアイデアが随所に見られるのですが、なぜか『社長道中記』以外には原作クレジットがないのがずっと不思議でした。今回調べてみましたら、なんと六一年から源氏鶏太は東宝の役員に就任してたんです。これたぶん、実際の経営に参加してもらうためではありません。いちいち人気作家に原作使用許可を取るのは面倒だから報酬払って身内にしてしまえって発想ですか。むかしの会社って思い切ったことしますよね。
 直木賞、ベストセラー、映画原作と、無敵の人気と名声を誇った作家でも、没後三〇年も経つと作品はほぼすべて絶版で世間からも忘れられてしまうという哀しい現実。おそらく一〇〇年後の日本人は、池井戸潤ってだれ? となるんでしょうねえ。

三等重役だらけだった時代

 そもそも三等重役とはなんなのか。これまた源氏鶏太の小説によって広まった流行語で、いまでは完全に死語になってますので説明しなければなりません。
 尾崎盛光の『日本就職史』によると、サラリーマン制度の黎明期だった大正時代には、いまのような部長課長係長みたいな全国共通の役職名がまだ定着していませんでした。一部の大手企業では社員を一等社員から四等社員までにランクわけしてました。つまり社員には本当に牛肉みたいな等級があったのです。
 でもさすがに重役には等級なんてつけません。三等重役という造語の発案者は、源氏が専業作家になる前に勤めていた会社の重役だといわれてます。
 源氏によると、一等重役は起業家・資本家のまぎれもない重役。二等はエリートコースを歩いてきて、なるべくしてなった本命の重役のこと。なお、ここでの重役には、社長も含まれてます。
 日本は敗戦と同時にアメリカに占領されました。進駐軍(GHQ)は戦争に協力した政治家や財界人が公職に就くことを禁じました。これを公職追放、もしくはパージといいます。この措置によって日本中から大量の社長・重役が一挙に姿を消しました。しかし企業トップがいない状態で操業を続けることは困難です。そこで、突如として空いた社長の席に棚からぼた餅状態で座ることができたのが、本来なら到底社長になどなれずに定年を迎えていたであろう部長クラスの人物だったのです。一九五〇(昭和二五)年くらいまでは、日本中がそういうにわか社長だらけだったのです。そんな彼らを揶揄する呼び名が、三等重役です。
 戦後の混乱期にピンチヒッターとして登場した凡人社長を主役に据えたのが小説・映画の『三等重役』であり、その凡人キャラはのちの社長シリーズにも引き継がれていきました。
 にわかとはいえ、それなりに彼らも奮闘しました。四年五年と社長をやれば、板についてきただろうし、社員に威張りはじめていたことでしょう。
 そんな彼らに悪夢が襲います。五一年ごろからGHQは公職追放解除をはじめます。公職追放は永久追放ではなく、あくまで一時的な措置でした。だから解除されれば以前の社長や重役が復帰して、三等重役はもとの社員に降格されてしまいます。
 小説の『三等重役』も冒頭は、追放解除によって前社長が復帰するとのウワサが流れ、主人公である三等重役の桑原が今後の自分の処遇に気を揉む話からはじまります。ところが前社長は復帰直前に脳溢血で倒れてしまい、桑原が引き続き社長職にとどまれることになるのです。そこがまあ小説ならではの虚構です。現実にはそんな強運の持ち主はなかなかいません。部長から社長へ、そしてまた部長へと、戦後の五年間でジェットコースターのような悲哀を経験した人も数知れず。
 ちなみに映画の『三等重役』では森繁は課長役でしたが、社長役を演じた河村黎吉の急逝により、その後の社長シリーズでは森繁が社長役に出世したわけで、これこそなんだか小説の内容を地でいくような奇跡の展開です。

ディテールはどこまで事実だったのか

 古い映画や小説は、ストーリーよりもディテールに注目したほうがおもしろいし、現代史の真実を知る手がかりにもなります。
 映画は誇張も多いと思われますが、小説の『三等重役』は源氏自身のサラリーマン体験が反映されているので、けっこうディテールに真実味が感じられます。そこに描かれる昭和二〇年代の社長や社員の姿は非常に興味深い。
 軽いところでいえば、人事課長が社長を「御苦労さまです」とねぎらうセリフがあります。いまでは目上に対して「御苦労さま」は失礼とされてますが、当時はそうではなかったことがわかります。
 社長行きつけのバーのマダムが月三万円のお手当で旦那を物色中、なんてエピソード。要するに月三万円くれれば愛人になってあげるわよって生々しい話です。それに食指を動かされた社長の桑原は、当市の名門一流企業の社長なら、それくらいのことは許されるだろうと考えます。むかしは出世した男にとっては愛人や妾がいるのがステータスとされていたのです。そういった性的倫理観はいつごろから変化したのでしょうか。
 新入社員の人生観・仕事観が理解できない上司が、あいつらは「アプレ」だとレッテルを貼るのは、いわゆる近頃の若いもんは……って発想がむかしから変わらないことを示します。
 そういったもろもろのディテールが、実際にはどうだったのか。むかしはよかったのか、悪かったのか、ホントのところはどうなのか。次回からはさまざまな切り口で検証していきます。

 


単行本になりました

会社苦いかしょっぱいか

パオロ・マッツァリーノ『会社苦いかしょっぱいか:社長と社員の日本文化史』

 

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著者略歴

  1. パオロ・マッツァリーノ

    イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。著書に『反社会学講講座(正・続)』『偽善のすすめ』『誰も調べなかった日本文化史』『「昔はよかった」病』『怒る! 日本文化論』『ザ・世のなか力』『コドモダマシ』など。

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