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【特集】1850年代の音楽・文化・社会

革命後の盤面の上で──『巡り逢う才能:音楽家たちの1853年』の舞台裏

 一八四八年二月にフランスで七月王政を倒した革命は、いまだ統一国家ではなかったドイツの各地やオーストリア帝国の版図へと飛び火して行き、欧州全土における三月革命となった。音楽に対するその直接・間接の影響は無論のこと極めて複合的だが、ドイツではまず何より政治・社会と音楽についての思索や議論を促した。一八三四年のシューマンによる創刊以来、ドイツで楽壇のオピニオンリーダー的な役割を果している、ライプツィヒの『新音楽時報』は、革命の最初期の三月二一日には、エルンスト・ゴットシャルトなる執筆者による「昨今の重要事件」についての編集部への公開書簡を掲載した。そこで、「自由に基礎をおいた国家の形成」への歩み、その中で音楽が中心的役割を果たすべきことが論じられた。そして、音楽ジャーナリズムは音楽家、専門家と一般聴衆の橋渡しをすべきだと説く。

 そこから五〇年代初頭まで、この新聞では、当時の主筆ブレンデル自らを筆頭に、何人もの寄稿者によりこの課題をめぐって種々の論が展開された。ドイツの音楽家の国民的連盟の結成集会の必要性が説かれ、それは早々と実現した。が、その数年間の議論全体を概観して気づくのは、その極めて思弁的・政治的な性格の一方で、そこに音楽的に熟した具体的議論が欠けていることである。国民的なオペラの創作の必要性は説かれたものの、理念が先行し、その実現は亡命していたワーグナーの息の長い仕事へと持ち越されることになる。政治的・社会的な強い共通理念の一方で、美学的な空白が議論を支配していた。

 こうしてドイツの音楽家たちの活動の場には、政治性を帯びつつも美学的には空白の大きな空間ができていた。その新しい領域に、芸術的に野心的な音楽家が、あらゆる方向から――自分たちのバックグラウンドをもとに、あるいはこれからのキャリア形成のために――実際の創作・演奏活動によって参入していった。このドイツの状況が、革命後の安定した音楽市場で舞台作品が娯楽性を強めていくフランスよりも、音楽シーンを活気あるものにし、ドイツの各都市は音楽家たちの刺激ある出逢いの場となった。

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 そこでまず重要なプレーヤーとなったのは、一八一〇年前後に生まれ、一八三〇年代のロマン主義の音楽革命に二十代で主役となった「一八三〇年世代」の音楽家たちである。彼らはこの革命の中で、知的・芸術的権威を得たのみならず、実際に彼らの革命によって改革され、あるいは創設された制度の主役ともなっていた。その影響力は、個人の存在を越えた、持続的で制度的なものとなった。

 たとえば一八〇九年生まれのメンデルスゾーンは、三〇年代から一八四七年に亡くなるまで当時最も広範囲な人脈網を持った音楽家だが、彼が一八三五年にライプツィヒに呼ばれゲヴァントハウスの指揮者に任命されたこと、そして何より一八四三年にそこで音楽院を設立したことは、この地に多くの音楽家をひきつけ、彼の没後、革命後もこの都市をドイツにおける重要な音楽の中心地にしていった。一八三一年生まれのヨアヒムが、メンデルスゾーンに師事しにライプツィヒにやってきて、そして五〇年代の音楽シーンの重要なプレーヤーとなったのは典型的な一例である。

 一八四八年の革命後も存命で活躍したこの世代の音楽家たちは、自らがすでに経験した三〇年代の音楽革命を、社会との関連で見直すことを余儀なくされた。当時は、進歩によって歴史的正統性を得るという前衛の思想が価値軸となっていたのに対し、五〇年代のドイツにおいては、国民国家の形成のための音楽の社会性の問題が新たに大きなファクターとなってきた。

 例えば、専ら病気との関連で「晩年性」が強調されてきた、シューマンの、四八年以降とくに五〇年以降のデュッセルドルフ時代の創作活動について、近年ではむしろその社会的に活動的な側面に目が向けられるようになってきている。そして彼が、音楽と社会を視野に入れた美学的路線をめぐる自らの思索の中、公的には沈黙を守りながらもワーグナーの影響力の増大を鋭敏に意識し警戒していたことも指摘されている。一八五三年に二〇歳のブラームスが彼のもとを訪れたあと、青年を新時代の旗手とするべく、一〇年の沈黙を破って『新音楽時報』に「新しい道」と題する紹介論文を書いた背景には、ワーグナーの影があった。当時『新音楽時報』はブレンデルの編集のもとに、シューマンの考えとはそりの合わない傾向を示していたが、そうとはいえ、この新聞は彼自身がドイツの音楽シーンに組み入れた「制度」として機能しており、彼は効果的にそれを利用した。そしてそれを闘いへの実質的な最期の参加の証しとして、舞台から去って行く。

 一八三〇年世代で、革命後の時代に磐石の新しいインフラを作ることに成功したのがリストだった。彼は、一八三〇年代よりすでに、音楽と社会についての思索を巡らせていた。そして一八四八年、ワイマール大公国に居を移し、そこで活動を始めることで、革命後の音楽シーンの中で新しい社会的・美学的なテリトリー争いのための強力な陣地を得ることとなった。

 ワイマール大公国は、文化行政の責任者として迎えていたゲーテが一八三二年に亡くなって以来、彼の力でそれまで半世紀以上、小国ながら持っていた威光と文化的センターの役割を失いつつあった。そこに、三〇年代の音楽革命によって、芸術上の権威と一般的な名声の両方を持ったリストに役割が期待された。ハプスブルク支配下のハンガリーにドイツ語を話す両親のもとに生まれて、一一歳よりパリでフランス語を母語として知的形成を行い、ヨーロッパじゅうを演奏旅行し、広範なネットワークを持っていたリストは、小国の文化的な生き残りの戦略にうってつけの人材であり看板だったといえる。音楽が文化の主役になっていた。

 リストは、公的な組織よりも、私的な色彩の濃いサロンを中核に、音楽家の私的なネットワークを組織し、それによってライプツィヒとはまた違った、小国に相応しく、そして自分の戦略にもあった装置を作りあげた。じっさいそれは功を奏し、前述の数量的調査によれば、彼が居を構えた翌年より、五〇年代の半ばにかけてワイマールは最も音楽家を引き寄せる都市となっていく。そして、革命後に出現したこの新しい中心を持つネットワークは、亡命によるドイツに不在のワーグナーを側面から支援し、また、自国フランスでは流行の変化によって受け入れられなくなっていたベルリオーズをも引き入れ、一八五九年には、ライプツィヒの『新音楽時報』のブレンデルによって「新ドイツ楽派」という定式化と理論的な援護射撃を得ることになる。

 そのような地図のなかで、一八四八年の革命から五年を経た一八五三年はまさに、革命によって生じ美学的には空白となっていた新しいテリトリーをめぐる争いが、作品創作や音楽実践において形あるものとして一挙に噴き出てきた年と言ってよいだろう。ヒュー・マクドナルドの『巡り逢う才能――音楽家たちの1853年』は、索引で数えるとそのとき存命の四五〇人ほどの人物に触れながら、ベルリオーズ、シューマン、リスト、ワーグナー、クララ、コルネリウス、ビューロー、レメーニ、ヨアヒム、ブラームスらを主要登場人物として、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、オーストリアの各地を動きまわる彼らの行動とその交差を描いていく。

 一九世紀の後半の音楽史では従来、いわゆる新ドイツ楽派.vs.反新ドイツ楽派、標題音楽派.vs.絶対音楽派の対立の構図が強調され、作曲家がその対立の布陣に占める位置に基づいて、過去の思想や創作様式、そして人間関係についてのエピソードまでが解釈を与えられてきた。本書は、それらを思弁的に論じるよりも、複数の人々の具体的な行動を細部にわたって追うことにより、大きな図式の中の複雑な像を繊細に、先入観を覆しながら描く。

三〇年世代の次の世代に属する一九歳のブラームスが、成功への希望を胸にハンブルクからやって来た。本書の物語がそこから始まる。最初に向かったのはリストのワイマールであった。シューマンの悲劇を扱うエピローグ的な終章の手前の第一三章で、シューマンによって新時代の星として楽壇に紹介され、初めての作品出版にこぎつけたブラームスが、一二月二〇日に帰郷の道にデュッセルドルフを出立していく。それを実質的な結末とすれば、本書の物語は、まずブラームスについての一種の「成長物語」として読める。しかし、本書の真のクライマックスはこの章の中のまた別の箇所にあるだろう。邦訳が独自に選んだ絶妙な章題「三人目の『B』」をもつこの章は、一九世紀を、前世紀とも違う新たな目で振り返ることのできる現代のわれわれに、開かれた問題を投げ掛けてくれる。Bはほんとうは誰なのか。

 

◆『春秋』2018年1月号◆


関連書籍

巡り逢う才能:音楽家たちの1853年

『巡り逢う才能:音楽家たちの1853年』H.マクドナルド著 森内薫訳

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著者略歴

  1. 友利修

    国立音楽大学教授。西洋音楽史。

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