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女に産土はいらない 三砂ちづる

抑えようのない力

 何だか言葉にできない大きな力、コントロール不能な、わき上がるような思い。突き動かされる力、抑えようとしても抑えきれない。「出産」について感じていたのはそういうことであった。自分が出産してそう感じた、というわけではなくて、出産した人の話を聞いたり助産婦(当時)の話を聞いたり、出産した人の手記を読んだり、本を読んだりして、これはただごとではない、なんだろう、これ、痛かったりつらかったりする今まで持っていた出産のイメージと違う、と思ったのだ。

 最初のきっかけは1970年代後半に朝日新聞に連載されていた藤田真一記者の「お産革命」[1]という一連の記事だったか。当時、東京の立川にあった三森助産院のようすなどがえがかれていた。三森助産院を率いていた三森孔子は、1970年代に話題になっていたラマーズ法を自分なりにとりいれ、女性が自分の力をつかって産もうとすることを支え、女性たちが出産によってより強くなっていくことを示し、三森助産院で働いたり、研修したりした助産婦(当時)や、三森助産院で出産した女性に大きなインパクトを与えていた。令和の時代である現在、開業助産所の関係者や、自然なお産の仕事をしている人たちには、この三森助産院で働いたり、お産をしたりして、関わっていた人が少なくない。「お産革命」連載時、大学生だった私は、この本を読んでお産とはなんだか途方もない力を秘めていることで、素晴らしい経験であり得るようだ、ということを知ったのだ。

 日本には開業助産所というところがあり、そこでの開業助産婦の働きは、なにかとても特別なことのようで、自分がお産をするならぜひ、こういう人たちに見守られてお産したいものだ、と思った。その後、私も二度お産をするが、ブラジルとイギリスでお産をしたので、日本の開業助産婦に介助してもらって自らがお産をする、という機会には恵まれなかったのだが。それは、それ。日本の開業助産婦の仕事に憧れ、この人たちは特別な人ではないか、と思い、今も思っている。その最初のきっかけはやはりこの藤田真一の新聞連載であったのだ。

 1983年には、フランスの産科医、ミシェル・オダンがピティビエ病院ではじめた水中出産の取り組みを取材し、詳細な写真を取り上げて紹介された「水中出産」[2]が出版される。オダンは、ピティビエ病院に「野生の部屋」と呼ばれる静かな薄暗い部屋をつくり、ぬるいお湯をいれた水槽を用意する。陣痛中の女性は、その部屋でゆったりとすごし、陣痛がきているときはぬるいお湯にはいるとうまく痛みをのがすことができて、とてもリラックスできる、ということであった。ピティビエ病院では、もともと「水の中での出産」を推奨していたわけではなく、陣痛時にお湯に入る、ということをすすめており、お産自体は水槽の外でしていた。しかし、陣痛中お湯につかってすごしていた女性がそのままここでお産したい、というようになり、結果として、水中出産が行われるようになった、という。水中出産はその後世界で知られるようになり、出産用の水槽もあちこちの産院で見受けられるようになる。1990年代に私自身がロンドンでお産した時も、NHS(National Health Service:イギリスの公的医療制度)の病院にもBirthing Pool(出産用の水槽)があるところもあるのだ、と紹介されたものであった。「水中出産」には、写真がふんだんに使われているが、娩出時、深い喜びに満ちる女性の表情がとらえられている。出産とは、こういう経験でありうるのか。大きな衝撃だった。

 出産は、こういう経験でありうるのか、と書いた。出産はどういう経験でありうるのか。「痛い」、「つらい」、と言われ、アダムに知恵の実をあたえたイブの原罪のように言われるお産の痛み。若い女性たちもみんな、痛くてつらい経験だと思っている。女子大では、「鼻からスイカを出すみたいに痛い」とか「鼻からピアノを出すみたいに痛い」などと、恐ろしげな話がささやかれている。胎児の頭の直径がスイカほどあるはずもなく、産道が鼻の穴の大きさのはずもないとしても、それでなくても痛いこともつらいこと避けられるだけ避けたいと人間は思うのだから、なぜ好き好んで痛くてつらい出産をするのか、ということになってしまうだろうから、少子化が進むのもむべなるかな。若い女性たちが、「無痛分娩」というものが、アメリカやヨーロッパではずいぶん普及しているらしいし、日本でもやっている病院が増えてきたから、そのほうがいいのではないか、と思ってしまうのも仕方がない。お産の本質について、何も聞く機会、知る機会がなければ。そう、出産が、ただ、痛いだけ、つらいだけ、の経験だ、と信じ込んでいるなら。

 東京都国分寺で開業助産所を30年以上にわたって営んできた助産師矢島床子は、子ども時代、少女時代をすごした故郷の岐阜で、高齢女性たちがお産について話していたことをよく覚えているという。彼女たちは、「あれは気持ちよかったなあ」、「そうだよ、本当に気持ちよかったよ。一番気持ちよかったよ」というふうに、晩年にお産を語っていたというのだ[3]。人生終盤に差し掛かってふりかえるとき、人生で一番気持ちよかった経験として、お産を語っている。赤ちゃんがぬるっと産道を通って出てきたときの感覚はなんとも言えず気持ちよかった、というのである。矢島は、だから、一人でも多くの女性にそういう気持ちの良いお産をしてもらいたい、と思っているといい、お産をしっかり感じて欲しい、といって「Feeling Birth」[4]という考え方を提示している。「水中出産」でオダンに支えられて出産している写真の女性も、それはそれは気持ち良さそうな顔をしていたものだ。

 お産の痛みは、痛いといえばもちろん痛いのであるが、切ったり怪我をしたり、という痛みとは、本質的に異なっている。子宮の収縮の痛みなので、波がある。寄せては返す波のように、陣痛の波がきて、その波が引いて、また波が来て、という間隔がだんだん短くなっていって、お産にいたるのである。だから、ずっと継続的に痛い、というわけではなく、痛い時は痛いが、痛みの波が引いて、休めるときがある。うまくお産の波に乗れると、陣痛の波が引いているときは、気持ちよくなって、うとうとと引き込まれるように眠くなったりもする。女性であること、産婦であることが尊重され、あるがままの自分が受け止められ、安心できる環境があれば、女性たちは恐れではなく、自信を持ってお産に向かうことができる。お産の波にも、寄り添ってくれる助産師の存在があれば上手にのれることだろう。

 開業助産所や病院には、お産の手記というか、出産後の感想を書くノートが置いてあることが多い。出産をしている年齢層の人が文章を書くのが得意であるとか、そうではないとか、書くことが好きか嫌いか、とかそういうこととは関わらず、自然なお産を追求している助産所や産院のノートには、夢中になって書いた文章が綴られ、文字が踊っている。書かされた、あるいは書かなければならない文章と、自分がもう、どうしても書いておきたい、と思って無我夢中で書いた文章は、見るからに全く違うのである。お産をすることによって、自分の中から言葉があふれているような状態の女性が書いているのだ。

 

「お産の最中、この分娩室で何人の女の人がこのような時間を過ごしたのだろうか、と、不思議な空間にいる私自身を不思議なカンカクでみていました。よいお産とは、女だけが体験できるお産と言う最も自然な現象の中で感じられる自然の声に耳を傾けられるか、からだの叫びが聞こえるか、自分を取り巻く宇宙の気を感じられるか、人々(自分を見守る)の思いを感じられるか、と言うことではないかなと思います。

 そしてそれを感じて、女性に与えられた能力をして、生活の中に生かさなくてはいけないのではないだろうかと考えます。たとえば病気になったからといって、すぐに人を頼らず、この能力を使うべきだと思います。文明によって鈍らされたわれら女性の能力をとりもどさなくては大変なことになってしまうのではないかな、と」。[5]

 

 「宇宙を感じました」、「自分の境界線がないようでした」、「宇宙の塵としてただよっているようでした」、「どこにでもいけてどこにでもはいりこめるようなかんじがしました」、「何か大きな力がはたらいて、勝手にやっているじぶんがいました」、「先に体が動いていました」、「この経験にいつももどっていける」・・・そんな言葉が何度も現れる。抜き書きしてみると、まるでなんの話か、と思われるであろう。お産の話なのだ、これが。超常体験というか、異次元との接触というか、知らない世界が広がるというか、女性たちはそういう世界を、お産の途中に垣間見ているのだ。

 前述の助産師、矢島は、「あちらに行ってしまうと大丈夫なのよね・・・」といっていた。陣痛中の女性がトイレに言って、スリッパをそろえて出てくるようでは、まだ、産まれない。もうあっちの世界に行っちゃって、現実のスリッパなんてとてもそろえられない、みたいな感じになると、お産が進むのだ。時間の感覚、この世でのいろいろな感覚、そう言ったものを超えて、自らの野生を取り戻し、「あちら」にいくとお産がうまく進むのだ、という。

 お産の手記には、突然、「日本のみなさん」、「女性の皆さん」というアジ演説(死語かもしれない)のような呼びかけも登場する。女性の皆さん、お産ってこんなに素晴らしい経験なんだ、こんなお産ができる場所を大切にして欲しい。女性の皆さん、ぜひ、いい経験をしてください。自分の娘や息子にもこんなお産の場を経験して欲しいから、日本から助産婦さんがいなくなったりしないように、実習の学生さんが研修している時は、ぜひ受け入れてあげてください・・・。私が産んだこの子が住む社会は良きものであって欲しい、世界はこのようにあって欲しい、などと、お産の後に、突然、社会性があふれ出している。お産、という経験を経て、女性は、全く違う人間になっている、というか、バージョンアップされている。「出産くらいで人生を変えたくない」とか「お産くらいで違う人間になりたくない」みたいな物言いもされていて、結構影響力の大きな女性もそう言ったりするのではあるが、現実にこういうお産の経験をすると、女性はまことに一瞬で変わるのだ。自信を持って子どもを育てられる母親になっていく。それは魔法のような経験である。人類がここまで続いてきたのも、出産がそういう経験であり得たからではないのか。

 

 そういう経験を、“原身体経験”とよんでみた。

 

 わたしはわたしのままでいい、と感じられる体験。自分は一人ではない、という経験。十二分に満たされ、自分は大きな何かの一部であり、すべてがつながっている、と思う体験。そのような、みずからの“原身体経験”があれば、それを核にして、ほかの人に、あなたはあなたのままでいい、といってあげられるようになる。温情主義的(パターナリスティック)ではない、ほんとうのやさしさと、人間としての度量の大きさを得られるようになる。つまり、“原身体経験”は、それを経験した人から、波のように広がっていく。それこそが、人間が今生きている世界を自分たちで変えていくための原点である。そのような変革の経験の機会が、お産の場にはあると思う。―中略―

 “原身体経験”とは、自分が宇宙の一部であったということをからだをもって体験することである。自分以外のものと、はっきりつながっている、という身体感覚である。前近代と呼ばれた時代、すべての人間の経験の基礎は、原身体経験であったろう。食すること、食を求めること、生まれること、生の営み、死ぬこと、住まうこと、体に何かまとうこと、人と関わること、祈ること。ブラジルのインディオのくらし、オーストラリアのアボリジニーのくらしなどについて、われわれが学ぶのは、生と性と死を自然にゆだねて、ひと時ひと時をおだやかにすごしている原身体経験のつながりとしての人生のありようである。[6]

 

 前近代には、おそらくは、生活のすべてに満ちていた原身体経験は、合理的でもなく、システマティックでもなかったから、近代社会と併存することはできなかった。こういった、自分が何か大きなものの一部であった、という体感は、特別な環境を手にした人にしか感じられない、いわば贅沢な特別な経験となっていく。宗教的悟り(Enlightenment)の経験を求めて激しい修行をしたり、宇宙に出て行ったり、山に登ったり、森林に隠遁したり、マラソン・ハイを求めたり・・・「宇宙の一部」だったことを思い出すような経験は、そんなに簡単に誰にでもは、得られない。そんな中、出産は、いまだ、だれにでも、その原身体経験への扉を開いている出来事だ、と思ったのだ。女の人ってすごい。信じられない力を秘めている、世界をひっくり返せるような力を秘めている。普段忘れていても、出産でそういうことを思い出せる。忘れていても思い出せる。助産師はそういう原身体経験の最後の砦であるお産の守り手であって欲しい。

 こういう経験こそが、本当の意味でのエンパワメント、であり、潜在能力開発そのものではないのか。自分では産めない、自分には生む力などない、痛いのは怖い、つらいのは嫌だ、と思っていた女性が、出産によって、自分が気付いていなかった力に気づき、子どもが育てられるような母親になっていく。身体に向き合うようなお産をすることで、社会性も出てくる。コントロールできないような力がふつふつと湧いてくる。そういう力こそが私たちの社会をより良くするのだ。

 

 元WHOヨーロッパオフィス母子保健部長であり、公衆衛生医として、自然なお産を推進してきた、故 マースデン・ワグナー氏も、この「女性の力」に言及している。2001年に発表された「魚は水が見えない」[7]という論文で、私たちがいかに産科医療の環境を当たり前のこととして受け取っているか、を語っている。

 

 人間的な出産とは、お産をする女性は「人間」なのであって、決して「子どもを作る機械」や「子どものはいっている入れ物」ではない、ということを理解することだ。人類の半分である女性たちが、力なく、弱く、出産に向いていない、と、彼女たちの持つ子どもを産む力を取り上げてしまう、ということは、すべての社会にとって悲劇以外のなにものでもない。一人の女性を本当に大切でかけがえのない一人の人間として尊重し、その女性のお産の経験を、満ち足りてエンパワーされるようなものにする、ということは、単に「ちょっといいことをする」というようなレベルのものではなくて、女性を本来の意味で強くすることにつながり、それは、私たちの社会を強くしていくことだから、他のこととは比べようもなく重要なことなのである。―中略―

 そうであるにもかかわらず、なぜ、今日、世界中の多くの国で、ほとんどの出産は、このようではない状況で行われているのか? なぜ? なぜならば「水の中で泳いでいる魚は、水を意識して見る、ということができない」からである。医師であろうが助産師であろうが看護師であろうが彼らの経験は全て、「病院」での経験に基づいており、高次の「医療介入」を経験しつつ行われる医療の中の出産しか見たことがないため、自分たちが行なっている医療介入が、出産そのものにどんなに重要な影響を与えているのか、ということを意識することすら、できないからである。あたかも魚が水を意識できないように、私たちも、出産における「医療」を意識できない。病院で働いている医療関係者は(繰り返すが医師であろうが助産師であろうが看護師であろうが)、医療介入のないところでのお産、というのがどういうものなのか、全く知らない、想像することもできない、と言って良い。

(前掲論文[7]の一部を筆者が翻訳)

 

 そんな状況だからこそ、医療介入ができない開業助産所で行われているお産は、「魚は水が見えない」状態の私たちに多くの気づきをくれるのである。このように書くと、「私はそういうお産の経験はできませんでした」、「帝王切開になってしまったので、“向こうの世界”にいくような気持ち良いお産になりませんでした」という人が必ず出てくる。もちろんそういうこともあるし、そういう出産も多い。ワグナー氏がいうように現在のお産のシステムは「魚は水が見えない」ように、高次の医療環境が意識されずに行われることになっているから、原身体経験としてのお産は、なかなか経験できないシステムになっているのだ。そういう中で生きているから、結果として女性の経験も医療の中の出産、と言うことになってしまって、本来お産がどういうものであるか、ありえるか、ということへの考察はできなくなってしまっている。

 私自身も、一人目はブラジルで逆子で帝王切開、二人目はイギリスで吸引分娩、と医療のお世話になった。医療の存在にとても感謝していると同時に、自分の生活態度や仕事のしすぎを反省した。日本の助産所で行われている食事や運動や冷えないような生活など、少しもできていなかったから。そういう意味で、「あちらの世界に行ってしまう」ような「すごく気持ちの良かった」出産経験は、私もしていない。しかし、女性たちの手記を読んだり、開業助産師たちの働きにふれると、本来のお産の持つ力、出産のもつ可能性について語らずにはいられない。できないことがあるからと言って、その素晴らしさと、潜在能力について、女性の本当の力強さについて、追求していくことをやめたくない。

 そういうことを書きたかったので、今まで、書いてきた。なんとか研究の形で、客観的にこういう経験を表せないか、疫学調査をして論文を書いたりもしてきた。出産を称揚すると国家に利用される、とか、出産できない人もいるのに出産が良い経験だとか、何をいうか、とか、帝王切開でお産した私を否定するのか、医療介入を否定するのか、とか、常に批判もされ続けてきた。いろいろと反論されているうちに、結婚する人も減り、出産する人はもっと減り、少子化はどんどん進み、開業助産所は何度目かの危機に陥っている。人間にとって本質的な経験を思い起こさせるような出産のありようについて直感できるような日本の開業助産所をなんとか次世代にまでつないでいってもらいたい。一人でも多くの子どもを産む女性が、冒頭に書いた、言葉にできない大きな力、わき上がるような思い、突き動かされる力、生を大きく拡充する力を経験してもらいたい。そのために何ができるのか、何を言われても考え続けるしかない。40年前に心を揺さぶられた出産、というものの持つ潜在的な力に、今も揺さぶられ続けているのである。

 

 

[1] 藤田真一「お産革命」 朝日新聞出版 1979年

[2] 英隆、コリーヌ・ブレ「水中出産」 集英社 1983年4月1日

[3] 矢島床子 Personal Communication

[4] 矢島床子 「フィーリング・バース――心と体で感じるお産」 バジリコ 2007年

[5] 毛利助産所 お産のノートより

[6] 三砂ちづる「21世紀を生きる助産婦へ――原身体経験の最後の砦の守り手として」助産婦雑誌54巻12号pp.1049-1054. 医学書院 2000年

[7] Wagner M.  Fish can’t see water: the need to humanize birth.  International Journal of Gynecology & Obstetrics 75 (2001): S25-S37

 

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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