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女に産土はいらない 三砂ちづる

強さについて

 「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」という言葉が、2019年度の東京大学入学式で述べられた祝辞に出てくる。祝辞を述べられた上野千鶴子氏の、時代を捉え、次の時代を引っ張る感覚の鋭さにはいつも敬服するばかりなのであるが、日本のフェミニズムを文字通り牽引なさってきた方に、そのように言われると、あれ、それでいいんだっけ、そういうことだっけ、と考え込んでしまう。

 ここでの「弱者」というのが、いわゆる社会的に理不尽な扱いを受けている人のこと、あるいは声を上げられない人のことで、まさかそういう人たちが、「弱者のままでいい」、「そのままでいてよくて、そのままでも尊重される」ということを言っておられるのではないのであろう、とは思う。おそらくは、ここで想定されている「弱者」というのは、「がんばらなくてもいいよ、ありのままのあなたでいいよ、そんなに無理しなくてもいいよ、そのままでいてもいいよ。お金を稼ぎ、社会を牽引するような“強者”にならなくてもいいよ」というメッセージをこめての「弱者」なのであろうか、と思う。それは、まあ、その通りなのである。社会で活躍する女性を100年以上この国で輩出してきた旗印のような女子大で15年働いてきたわたしも、そのたぐいのことを学生に言ってきたことがあるし、それ以外言えることがないような状況もあった。教育の現場で学生たちと長く深いお付き合いをなさってこられた上野氏がそういうことをしみじみと感じておられることはよく理解できる。

 しかし、それにしても、やはり、「弱者が弱者のままで尊重される」、なんて、どこかに大きなボタンの掛け違いが生じているとしか思えない。ここでいう、「弱者」というのは、「女性」に限られているわけではなく、この性の多様性の時代にあっては「女性」という定義さえむずかしいものである、ということは承知の上で、やっぱり「フェミニズム」は「女性解放」の、「女性をもっと自由にする」ための思想であったはずだから、あらためて「女性」にこだわってみよう。

 女性たちがほとばしるような言葉を得て、力強くなること、言葉にはならなくても、目に輝きが増し、自信に満ちてくること。こういう状態をこそ、エンパワメント、というのだという場に、何度も立ち会って来た。それは社会的評価とか、消費経済社会におけるパイの配分とか、立派なお仕事をしているとかしていないとか、そういうことと、関係ない。自らに立ち上がってくる力と、その力によって人と交わりたい、という求望。あるとき、突然そういう瞬間がたちあがり、いままでのいろいろな言葉や思いや学んできたことひとつひとつがつながり、その人に力がみなぎる。そこに立ち会った人もまた、その人の様子を見て、力づけられる。エンパワメントとは、こういう状態のことを言葉にしたものなのだ、ということが、まさに腑に落ちる。

 そういう瞬間にいたるプロセスはたくさんあると思うし、人類はそういう瞬間を追い求めてきたのではないかとも思う。というか、いわゆる先住民と呼ばれる人たちの記録を読んで感じるのは、近代のずっとずっと前のこと、人間はおそらく、言語学者ダニエル・エヴェレットがアマゾン奥地にいるピダハンたちとの暮らしについて書いているように[1]、「みなぎる幸せ」に満ちていたのであろうか、ということである。自らを恃み、起こってくることは、自らが解決し、生きて、静かにこの世を去る。わたしたちはそのような「みなぎる幸せ」の感じ、自らが自らだけで存在しているのではなくて、いつも誰かとつながっていて、なにか大きなものの一部であるような感覚、そんなことはもうとても感じられなくなったから、その疑似体験を探し続けているとも言える。

 滝に打たれに行ったり、マラソン・ハイになったり、宇宙から地球を眺めたり、そういう非日常的なことを求めるのも、その感覚が欲しいからだし、素晴らしい芸術、というのは、そのような感覚に通じている。自分がやっているのだけれど、自分が「やらされている」ような感じ。自分は単なるパイプのような存在であって、なにか、大いなるものから立ち上がるものを形にしている、という感じ。たとえば、かの天才、マイケル・ジャクソンは、「自分がこの音楽を作った、というのは違うような気がすることもある。だって小川がそこに流れているように、そこにあるものを自分はみつけてそれをとりだしている、という感じだから」というようなことを、生前話していた。村上春樹も、人類の集合記憶みたいなところまで降りて行って、そこから帰って来るために、「体力」のようなものが必要なのだ、という。優れた作品、というのはそういうものだと思う。

 スピリチュアル系のあやしい話をしているわけではなくて、アカデミック・ハイみたいな感覚も同じだ。文科系の人なら、本や論文や文献を山のように読み込んでいると、あるとき、ふと、全てがつながって目の前が開けるような思いをすることがある。ああ、そうだったんだ、と得心して、論文や本が書き上げられてゆく。理科系の学者なら、実験の最中に、手が勝手に動いて導かれるように結果が出て来ることがあるだろうし、フィールドワーカーなら、熱帯雨林の真ん中で突然啓示のように示唆を得ることもあるだろう。アカデミックの仕事でなくても良い。多くの仕事と呼ばれる作業にはそのようなきらめく瞬間が開かれていると思う。ふつふつと力が湧いて来るような、そういう瞬間である。

 滝に打たれなくても、さほどの芸術的才能がなくても、アカデミックライフを送っていなくても、女性の性と生殖、とりわけ、出産の場にも、そのような、一瞬にして視野が広がり、違う人間になったような自信に満ちてゆく瞬間があることがある。こういう経験は特別な人にだけではなく、誰にでも開かれている経験なのだ、と感じられる。時代を経ても、近代にあっても、それはどうやら変わらないようで、性と生殖の研究者である私は、そういうお産に立ち会わせていただいたり、助産院や産院の「お産のノート」を読ませてもらうことがよくあったものだ。「自分の境界線がなくなっていくようだった」、「こんなに誰かから受け止められている、と感じたことはなかった」、「こんな素晴らしい経験をすべての女性たちができるようにしてほしい」、「こうして産んだ子どもの生きて行く世界は、なんとかよきものであってほしい」。長い文章がびっしりと書き込まれている。しかも自分が良い経験をしただけではなく、その経験をぜひ他の人もできるようにしてほしい、とか、生まれた子どもの生きていく世界をよくしたい、とか、突然、社会的なコミットメントも出てきたりする。しっかり自分の体をつかって、助産師さんに受け止められながらお産をすると、女性は本当の意味で、強くなる。強くなれるから次世代を生きる子どもを育てられるのだ。

 こういうことをいうと、また、出産しない人もいるのに、関係ないではないか、とかいわれそうだが、そういう話ではない。エンパワメント、とは、つまりは「強くなる」とは、こういうことではないか、という例として、言っているのである。出産しなくてもいいけれど、する人には、そういう経験が開かれやすい、ということで、別に、そこに限定しなくていいのはもちろんのことだ。何らかの経験を通じて、自分に自信を持てるようになる、はっきりと自分の言葉を持てるようになる、そのことを通じて、誰かとつながりたい、と思うようになる、そういうことこそがエンパワメントであり、どんな人にでも開かれている経験でありうる。そういう強さをもたないままでいても尊重される思想がフェミニズムである、ってほんとうにそれでよいのだろうか。

 たとえば、誰かを支配したい人がいるとする。その人が支配したい人たちがみな、そのような「みなぎる幸せ」を感じて、満ち足りて力強い人たちであれば、支配したい側としては、不安を煽ったり、うまく支配したりできない。そんなに本来の意味で強い人間ばかりでは、支配したい、抑圧したい人間にとっては、うまく支配できない。だからこそ、そのような「みなぎる幸せ」は感じないように、そして本来の強さなど、何か特別な人にだけ経験できること、というふうな状態を無理矢理にでも作り上げてきた、とは、いえないか。そんな状態を、なんとか、跳ね返して、人間本来の強さ、何度も言っているけれど、自分の言葉で語りたい、語らずにはいられない、それを通じて他とつながりたい、という溢れる生き生きした思いをとりもどすことこそがエンパワメント、ではなかったのだろうか。

 

 世界中で読まれている『被抑圧者の教育学』[2]を書いたパウロ・フレイレは、エンパワメント、ということばにいのちを与えていった一人である。彼は、被抑圧者、つまりは、抑圧されて「弱い」、とされているものこそが、この状況を変えていく主体になるのだ、と言った。世界中で字を読めない人たちへの識字教育を行ってきたフレイレは、読み書きを学ぶことで自らの置かれてきた立場が、それこそ目からうろこがおちるようにはっきりとみえてきて、いろいろなことがつながってみえて、語りたい言葉が湧いてきて、もっと広い世界とつながりたい、という希求につながる、という事例を、「被抑圧者の教育学」にあげている。先ほどから書いてきたようなことと同じような、力づけられる経験のことである。フレイレは、識字教育の現場で、なんどもそのように、「弱い」立場にあると言われていた人たちが、自らの言葉を得て、語りたいことがたくさんでてきて、生き生きと動き始める姿を目撃してきたに違いないし、だからこそ、『被抑圧者の教育学』を書いたのである。

 フレイレは、被抑圧的な状況を変えるのは、被抑圧者自身であり、そのように変えていくことで被抑圧者は解放され、結果として、抑圧している方もまた、解放されるのだ、といった。そのプロセスしか、ないのだ、と。東大に入った方々に、「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」と祝辞で述べられているのだが、「そういうひとびと」が自分たちで解決する力をつけていくことがエンパワメントなのである。東大卒の人に助けてもらう、と、そういうのをパターナリズムとよぶのではなかったか。

 声なき人が声を持つこと。繰り返すが、抑圧された側が解放されることで、抑圧する者もそれで解放されていく、とフレイレはいう。東大卒の人によりそってもらわなければ弱い人が弱いままで幸せな世界になるわけじゃない。抑圧された人が、抑圧する人をも解放する。生きづらさを持って最高学府に学ぶ人たちを解放するのは、抑圧された側なのだ。女性が強くなることで、救われるのは男性なのだ。

 

 令和の時代になり、ほどなく、お札のデザインが数年後から変わる、とアナウンスされた。勤め先の女子大の創始者である津田梅子が五千円札になる。彼女は中庸で穏やかな人であったことが、残された記録からうかがわれる。平塚らいてうの率いる「青鞜」に学生が参加することを禁じたりするような方だったようだが、だからといって、女性が弱いままでいい、とは、思っていなかった。強くなってほしい。男の人を押しのけて、ではない。やるべきことをやる人には、扉は開く、と考えていた。そのようにして、今よりももっと難しい時代に、社会的地位も得て、影響力も及ぼしうる「日本初」のポストに就く数多の女性たちを輩出してきたことが、津田塾の誇りであり、津田梅子の夢の体現だったと思う。

 弱くて、地位がないままでよいのではない。しかし、地位を得たことは、結果である。学びと、経験を通じて、数え切れない女性たちが、学生時代に、あるいは卒業後に、みずからのことばを取り戻していき、職場や地域や家庭や個人的な関係の中で、生き生きと生きてきた。そのような中から、いわゆる「強い」、「地位を得た」、女性たちも、結果として、生まれてきたのだ。学ぶことは自由の翼を得ることであり、自由とは他者との交わりの中で強くなること。強い、とは自分の言葉を持つこと、自らに沸き立つような生への喜びを感じること。本来そのようであった女性が、何らかの理由で弱くさせられていたところから、本来の力をとりもどすこと。それがなくして、一体なにが女性解放なのだろう? いかなる意味でも女性は弱いままでは、よくない。女性が弱いままで尊重される、ところにとどまっていてほしくない。もう一度考えるが、「弱い」ってどういうことか。経済的なことを指しておられるのか。社会的な発言力がないことだったか。それならもっと弱くない方がいいわけだし、そもそも、人間が強い、弱いってそういうことではない、ということを述べてきた。

 東大でフェミズムが「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」、と語られるのならば、津田塾のような女子大は、異なるビジョンが必要だ。女たちよ、本来の意味で強くなろう。あなたの力で受け入れ、受け止め、次世代を育み、逝く世代をなぐさめ、また、受け止めるために。そういうことと、社会的な活躍は、別のところにあるわけではない。本来の意味で強い女性に、津田塾で育っていってもらいたい。女が弱いままで尊重されてほしい、と、思っていない。東大卒の方が、助けてくれるのを待っているのでもない。女性はもっと強くなれる。前時代的、と、また、言われそうだけれども、本来の強さは、忍耐と献身と祈りの中心にある強さであることは、キリスト教精神をコアにする学校なので、よく理解されている。2030年に向けての津田塾のモットーは「変革を担う女性であること」。変革を担うために何が必要か、は、上記フレイレが諄々と話しているのでそこにまかせたい。また、ミッションステートメントは、「弱さを、気づきに。強さを、分かち合う力に。不安を、勇気に。逆境を、想像を灯す光に」、という。いま、自らの弱さは、気づきにつながるものであり、そのままで尊重されて良いものではないのだ。と、ここまで書いてきて、ああ、そうか、気づきにもつながるから、弱さは尊重されるべきなのか、と、あらためて、冒頭の祝辞を理解し直すことができたりするような気がするので、やっぱり人間は考えたり、今一度、頭を整理したりする作業(例えばこの原稿を書くとか)って、大切なのだなあ。

 と、そこまで百歩譲っても、やっぱり、「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める」を、よく理解できないのは、この一文を外国語にうまく訳すことができないからである。帰国子女でもなんでもないが、英語とポルトガル語は、大人になって習い覚えて、日常的に使って暮らしていける言語である。英語は、ロンドンで学生の夫と子どもをかかえて、働かなければならなかったから習得せざるを得なかった言語であり(留学程度ではものにならなかったと言える)、ポルトガル語のほうは、もともと英語がほとんど通じないブラジルの、しかも大都市サンパウロ、リオデジャネイロから何千キロも離れた、マリオ・ヴァルガス・リョサが『世界終末戦争』[3](直訳は“世界の果ての戦争”だとおもう)の舞台にしたような辺境に10年も住んでいたから、しゃべらないと生きていけなかったので習得した言語、である。どちらも切羽詰まった必要に迫られて、習得した。おかげさまで英語圏かポルトガル語圏なら、生活していける、と思えるから、若い頃の苦労はやっておきましょう、というのは、あながち、間違いでもなさそうである。   

 結果として、外国語で説明したり話をしたり通訳したりする機会が少なからずあるので、いろいろ自分で腑に落ちない文章だったり、疑問に思ったりすることは、頭の中で英語やポルトガル語に訳してみる習慣がついている。そうすると逆に、その日本語の意味がはっきりわかることもある。日本語の、なんとなくぼんやりして通じるような表現にくわえ、母語であることに甘えてごまかしているところがはっきりしてくるのである。で、この「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」を、英語話者、ポルトガル語話者に説明することを想定して、訳してみようとするが、どうしても訳せない。もちろん、わたしの外国語の拙さ、と言われたらそれまでだ。実際に、東大祝辞だから、英訳なども出ているのかもしれないから、私の力が足りないまでだ、といわれたら言葉もない。しかし、そこをなんとか、手をかえ、品をかえ、ことばをかえ、本質が伝わるように説明してきたから、イギリスの大学で10年、ブラジルで10年、生き延びられたと思うので、なんとか置き換えられないか、本質をとらえて訳せないか。工夫する習慣だけは、ついていると思うのであるけれど、この文章の、「弱さ」をどのことばにおきかえても、英語話者も、ポルトガル語話者も、納得させられそうにない。ましてや、フレイレの思想を体現し、軍政時代を経て、エンパワメントと意識化(conscientization)を血肉化してきたブラジルの人には、どうしても説明できそうにない。階級的な格差がまだあまりに現実的であるブラジルやラテンアメリカでは、この文章は、大きな誤解を生みかねず、うまく訳せない。どうしても訳し切れない文章は、そういうものは、非常にローカルな、ある時代の、ある一部の思想を共有している人にしか、わかってもらえない言い方ではないか、という理解になってしまうのである。

 

 この連載のタイトルは「女に産土(うぶすな)はいらない」という。生まれた土地、育った土地、父祖の地。誰にでもそういう土地があるのだが、女たちは、その土地を離れ、世界中で家族を作り、生活を支え、次世代を育んできた。自分の土地をはなれても、どこでも生きていける強さ。どこでも生活を作り上げていける強さ。どんな逆境にあっても、基本的な生活の必要性を整えて、居心地よくしていく強さ。そういう強さのことについて語りたい。そういうものが「女に産土はいらない」というタイトルに込められている。世界のどこでもどんなところでも女性が暮らしを支えて、つくってきた。そういう強さこそが、記録には残らなくても、歴史を支えてきたのではないのか。とはいえ、そんな生活を支える強さだけではだめだ、もっと社会的に行動し、声を上げられるように、そして生活を支える強さは女性だけに押し付けられるものではない、というのがフェミニズムだったのではないのか。女性が弱いままでいていいほど、安穏とした現状では、まだないように思える。

 

 東大の祝辞のおかげで、女子大のあるべき姿が見えて来たことはすばらしい。さすが最高学府の祝辞であったと思う。通り一辺倒なことを言うのではなく、多くの人の思想的営為を刺激し、議論をおこさせるものこそが、あるべき祝辞であった。私も拙いながら、自分の考え方を今一度まとめてみよう、という気になった。その場を離れたら誰も覚えていないような祝辞の多い中、このような祝辞には、最大級の賛辞こそ、捧げられるべきであろう。

 

 

[1] ダニエル・L・エヴェレット著、屋代通子訳『ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観』みすず書房、2012

[2] パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳『被抑圧者の教育学――50周年記念版』亜紀書房、2018

[3] マリオ・ヴァルガス=リョサ著、旦敬介訳『世界終末戦争』新潮社、2010

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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