第2回 三徳六味を備えた料理
六味と三徳
道元禅師は、永平寺での生活上のルールに関して、宋(そう)の叢林で実践されていた禅宗独自の戒律の書『禅苑清規(ぜんねんしんき)』から多くを引用しており、巻八「亀鏡文(ききょうもん)」に記された「六味(ろくみ)精(くわ)しからず、三徳(さんとく)給らざるは、典座の衆(しゅう)に奉(ぶ)する所以に非ざるなり」という食にまつわるルールにも触れている。
六味と三徳を合わせて「三徳六味」と呼ぶが、これについて『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にその説明がある。まず、六味というのは、古くから陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)で言われている「苦(く)く(苦い)」「酸(さん)(酢い)」「甘(かん)(甘い)」「辛(しん)(辛い)」「醎(かん)(塩辛い)」の五味に、食材の持ち味を壊さないように薄味にする「淡(たん)(淡い)」を加えたものを指している。次に三徳というのは、「軽輭(きょうなん)」柔らかく口当たりが良い、「浄潔(じょうけつ)」清潔でさっぱりしている、「如法作(にょほうさ)」正しい順序・方法(作法)にしたがって丁寧に調理がなされている、の三つをいう。
六味が料理の味付けに関するものであるのに対し、三徳は食事の出来具合、見た目の良さ、内容に関する徳目を表しているのだが、冒頭の言葉に戻れば、これら六味が調っておらず、三徳が備わっていないのでは、典座が修行僧たちに食事を供養したことにはならないということになる。
淡味について
修行僧の食事は、このように調理を司る典座の方針が重要になるわけだが、『禅苑清規』から時代は下って明代末期に書かれた『菜根譚』にも、「濃肥辛甘(のうひしんかん)は真の味にあらず、真の味は是れ只だ淡のみ」とあるように、食材そのものの味を大切にすることの重要性が古くから説かれており、禅僧に広く読まれた。また、江戸中期の人、柳沢淇園(きえん)の『雲萍雑志(うんぴょうざっし)』には、禅宗に帰依していた千利休のこんな逸話が残されている。
室町時代にさしかかったころ、好事家のあいだで珍しいものを食べるのが贅沢だという風潮があった。そんな中、飛喜百翁(ひきひゃくおう)が千利休を招待し、当時珍しい食材であったスイカに、さらに貴重品の砂糖をかけてもてなしたところ、利休は砂糖のかかっていない部分だけを食べて帰り、「百翁は人に饗応(きょうおう)する事わきまえず」と語ったというのである。
このエピソードから察するに、利休は季節をしっかりと感じながら、「スイカにはスイカの味があるのに……」と、食材そのものの味わいを大切にし、食を通してありのままを感じる生き方を実践することが大切である、と考えていたようである。ちなみに、この時代のスイカ、ほとんど味のないものであったことを思うと、百翁の心遣いも理解できないわけではないが、〝淡味〞を理解する上では、もってこいのエピソードであろう。
軽輭について
そして次に三徳だが、現代人が間違えてしまいがちなのが「軽輭」である。〝柔らかく口当たりが良い〞というと、プリンのような柔らかさを想像してしまうが、ここは『禅苑清規』が成立した十二世紀のはじめ頃に共通認識されていた柔らかさであることを理解しておかなければならない。現代の野菜は、農家や研究者の尽力により、昔ほど筋張っていない、極めて食べやすく品種改良されている。つまり、我々の思う柔らかさと、道元禅師の言う柔らかさは、違うものと考えた方が正しいだろう。
そもそも、当時と現代とでは、日本人の顎の骨格も大きく異なり、私たちが固いと感じるものでも、当時の人々はそう感じなかった可能性すらある。となると、「軽輭」の理解は、〝食材を食べやすくする〞程度の理解で良いだろう。先に挙げた『菜根譚』の書名が「菜根は硬くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる」ことからきていることを考えても、何でもかんでも柔らかくすることなく、噛み締められる程度の硬さにとどめておくことも、精進料理で特に重視される「淡味」を表現する上で大切なことと言える。
如法作の心
次に、三徳のひとつ「如法作」。作法に則って調理されているということであるが、その作法とはどういったものだろうか。
それを知る手がかりとして、道元禅師の『典座教訓』にある記述を見ていきたい。
「醍醐味というご馳走を作るときも、それを決して特別上等だとはせず、莆菜羹(ふさいこう)という菜っ葉汁を調理するときも、必ずしも粗末なものと見なしてはならない。菜っ葉を手にして調理するときも、まごころ・誠実な心・清らかな心で、醍醐味を作るときと同じようにしなさい。そのわけはなぜであろうか。清らかな大海にたとえられる仏法の修行道場にいる修行僧たちの中に、供養の食べ物が入ってしまうと、上等な醍醐味と粗末な菜っ葉汁という区別は立たず、百千の川も大海に流れ込めば、清濁の区別もなくなってしまうように、ただ一つの味だけになってしまう。ましてや、悟りを求める心をはぐくみ、仏の智慧を宿すこの肉体を養うことにおいては、上等なものであろうと粗末なものであろうと、全く同じであり、どうして別々のものがあろうか」と。
ここに「醍醐味」とあるが、醍醐とは牛乳を精製して得られる最上級のものを指しており、精製の過程で「乳(にゅう)→絡(らく)→生酥(しょうそ)→熟酥(じゅくそ)→醍醐(だいご)」と次第に上等なものへと変化していく。この醍醐の味が現在私たちの使う「醍醐味」の語源となるが、現在はその製法が失われており、どのようなものかは明確になっていない。ただ、最上のものであるという概念は残っていることから、醍醐は仏教経典の中で涅槃(煩悩の火が吹き消された心が平安の境地)の例えとしてしばしば用いられる。
ここでは、ご馳走を象徴する語として使用されているが、そして、その醍醐味の対語として莆菜羹の語が出てくる。この莆菜羹は、「菜っ葉で作った質素な汁物」を意味しており、道元禅師は、仏道に邁進する修行僧の肉体を十分に養うという観点から、食材や料理に上等も粗末もないのだから、質素な食べ物も賎しんだり軽んじたりすることなく、上等な食材に対して自然と丁寧に扱うのと同じような心持ちで扱う必要があると説いている。
一切の万物を同じく観る心
そして、善し悪しを問うてしまうのは、何も食材に対してばかりではない。道元禅師は『典座教訓』で次のように諭す。
「典座たるもの、修行僧の資質の善し悪しを区別してはならないし、老若も問題にしてはならない。自分でさえ自分を評価することが難しいのに、どうして他人を評価することができようか。自分は間違いだと思うから、他人がそのまま間違っていると捉えるのは、どうして過ちでないことがあろうか。老人と若者、知恵ある者と道理に暗い者などは、形の上ではことなるが、共に仏弟子であることに変わりはないのである。また、昨日まで間違っていても、今日は正しいということもある。悟っているとか迷っているとかということが、誰に分かろうか」と。
現在巷では、仕事のできない人や思いやりのない人に対して「あの人は使えない!」などという言葉が飛び交う。このように、他人の短所を挙げて批判し、他人の欠点を見て批評する者は、結局のところ自己の煩悩によって惑わされていて、しかもそれに気がついていない。そうした迷いの世界にいる人を仏教では「凡夫」と呼ぶ。その反対に、凡夫の自覚を持ち、仏の覚りを実践する人は聖者と呼ばれる。凡夫の振る舞い、つまり普段の私たちのように、自己の主観的な判断で、他人の是非を判断することほど、危険で誤っているものはないわけだが、道元禅師の生きた時代もそうであったように、人間なら誰しもが陥る人類普遍の問題であるといえる。
一方で、「昨日まで間違っていても、今日は正しいということもある」とあるように、我々凡夫も行いによっては聖者として生きることは可能とされる。私にその可能性があるのであれば、他者もまた同様である。「あの人は使えない!」とレッテルを貼り、相手を〝使えない存在〞にしているのは、まさに自分自身の狭い了見によるものであると知る必要があるのだ。
このように、上等なものだとか粗末なものだとかを決めているのは、勝手な自分の判断によるものである。広い視野で捉えれば、何事にも上等も粗末もなく、ただそのままに存在しているに過ぎない。こうした自己のとらわれた視界から離れて〝現実〞に気づき続けて生きることこそ、禅の生き方と言えるのである。
道元禅師は乳製品を口にしていたか?
ところで、『典座教訓』の〝醍醐味〞の記述から「道元禅師を含め当時の禅僧たちは、乳製品を口にしていたのではないか?」と質問されることがある。結論から言うと、その可能性は極めて低いと言わざるを得ない。というのも、歴史的に牛乳や酥を口にしていたのは飛鳥時代・奈良時代・平安時代の一部の貴族が中心で、武家の台頭以降はそうした貴族文化は衰退し、道元禅師の生きた鎌倉時代には乳製品を口にする習慣自体が影を潜めていた。仮に習慣が残っていたとしても、傷みやすい貴重な牛乳を安全に口にできるのは、それなりの権力者でなければ難しいことは明白で、清貧生活を旨としていた禅道場で消費されていたとはとても考えられない。『典座教訓』の醍醐味は、あくまでも説明概念であると理解すべきである。
『春秋』2017年10月号