第1回 仏道修行としての調理
はじめに
「永平寺で修行されたんですね。さぞかし大変だったでしょう。厳しい修行ですもんね。冬でも裸足なんでしょう。私には無理だわぁ……」
かつての永平寺での修行経験を語ると、多くの方がこのような声をかけてくださる。しかし、永平寺での仏道にどっぷり浸かった修行生活がこの上なく楽しかったわたしとしては、微妙に返答に困ることとなる。
仏道修行。そう、〝お坊さんの修行〞と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか?
滝に打たれる? 護摩を焚く? 火の上を渡る? 断食?
仏教に関心のある方なら、いくつか思い浮かぶことだろう。しかし、そんな方でも修行と聞いて「調理」を思い浮かべるのはなかなか難しいかも知れない。というのも、ここに挙げた「滝に打たれる」などの例は、いかにも宗教的な行為というイメージがある一方、「調理」というものは誰でも行うきわめて日常の行為として認識されるからである。
このようにいう以上、「調理」は仏道修行なのだろうな……と薄々感じていらっしゃることだろう。禅仏教においては、ここに挙げた「調理」だけでなく、「洗面」「排泄」「掃除」「入浴」「就寝」など、誰でも日々行っている何でもない行為こそ仏道修行となるのだと言うのである。
では、料理を作ることと仏道とはどのような関係にあるのだろうか。今にいたる精進料理の礎を築いた道元禅師は『典座教訓(てんぞきょうくん)』の冒頭で、六知事(禅の僧堂運営に携わる六つの重要な役職)の一つとして調理を司る〝典座〞を引き合いに出しており、同時に料理を作るという行為の重要性も指摘している。実をいうと鎌倉時代、日本のそう叢りん林では調理など食事にまつわる行為は雑用としか見なされておらず、道元禅師が留学先の南宋の禅道場で目の当たりにした実態とは大きくかけ離れていた。役職としての典座は叢林にもあったものの、典座の任に就いた者が自己の仏道修行として調理を行うということはなく、完全に形骸化していたことを思えば、道元禅師の受けたカルチャーショックといったら大変なものであっただろうと想像に難くない。それこそ、「真の仏道を日本に持ち帰って伝えなければ!」といった使命感すら感じていたことだろう。
禅の修行とは?
さらに道元禅師は『典座教訓』の中で、中国北宋の禅書『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』から「すべからく道心を運めぐらして、時に随って改変し、大衆(だいしゅ)をして受用(じゅゆう)し安楽ならしむべし」という言葉を引用している。現代の言葉に直せば「食事を作るには、必ず仏道を求めるその心を働かせて、季節にしたがって、春夏秋冬の折々の材料を用い、食事に変化を加え、修行僧達が気持ちよく食べられ、身も心も安楽になるように心がけなければならない」となる。
つまり、調理をする者は、ただ単に他の人のために心を込めて食事を作ればいいという話ではなく、そこに仏道を求める姿勢が見て取れなければならないということだ。そして、その仏道を求める姿勢とはどんなものかと言うと、修証一等(しゅしょういっとう)、つまり〝修行〞の在り方と〝覚り〞の在り様は同じであるとする道元禅師の思想を基にすれば、この文脈では食事にまつわる行動全般に関して仏と同じ在り方で向き合うことを意味する。
では、仏と同じ在り方とはどのようなものか? ざっくりとした言葉を使えば、「既成概念や固定観念といった自分の勝手な思考フィルターを通さず、あるがままの現象をニュートラルな状態で受け入れ、今この瞬間の自己を生きること」という仏の生き方を実践することと言える。道元禅師は、『典座教訓』の中で、仏道に邁進する深いこころを持った高僧たちだけが典座の役を任命されてきたことに触れており、普通は見過ごしてしまうような調理という極めて日常的な営みの中にこそ仏の在り様を見出すことを強調している。
調理の際のマインド
「衆僧(しゅぞう)を供養す、故に典座あり」
これは、道元禅師が『典座教訓』のなかで引用した『禅苑清規』の一節である。
修行僧の食事を調えるということは、そこに居る多くの修行僧の心身の健康を司るわけだが、こうしたことが個々人の修行の在り方や、修行道場全体の運営に影響を与えるようなことにも関係していく話である。このような観点に立てば、何でもない雑事と思われている調理も、禅においては極めて重大な責務を担っているものだとわかる。
そこで、再び先の一節を見てみよう。現代語訳をすれば「修行僧たちを供養する必要がある。それゆえに典座の職がある」となる。ここで見ていきたいのは、「供養」の語である。
供養というと、「ご先祖さまを供養する」といった時に使う言葉として一般に流布しているが、そもそもは読んで字のごとく「供え養う」という意味であり、四事供養といって衣服(えぶく)、飲食(おんじき)、臥具(がぐ)、湯薬(とうやく)といった信者の僧侶に対する布施の実践を指す。先祖供養では、ご先祖さまに心を込めたお供え物をして、召し上がっていただくわけだが、これをそのまま自分と同じ立場の修行僧に向けるのが典座の役割ということになる。
ここに、我々が『典座教訓』から学ぶ姿勢の一つが見えてくる。つまり、「己が作った食事を、他者に召し上がっていただく」という姿勢である。翻って、我々の現実はどうだろう。ともすると、普段家庭で調理をしている時には、「わざわざ作ってやっている」というこころの向かい方になってはいないだろうか。
どこまでも、食べてもらう相手に「召し上がっていただく」。ひいては、「作らせていただいている」という姿勢にもつながっていく話ではあるが、飲食店のような対価に見合ったサービスを行う場であれば、このような姿勢は持ち得るかもしれない。ところが、なかなかどうして一般家庭ではこういった姿勢は持ちにくいものである。
であれば、一般的な生活を送る者はどのようにこの姿勢を学べば良いのか? そのヒントは禅の修行の基本的な在り方にある。それは、調理という行為を「今ここに在る自己を、あるがままに見つめる実践」として捉えることに他ならない。
人間関係において、人はどうしても、相手に対して何かをしたら何らかの見返りを求めてしまう。しかし、それが得られなかったとき、多少なりともがっかりするし、その状態が続けば同じようなことをしようとは思わなくなるか、いつも自分ばかりが貧乏くじを引いているような悲しい気持ちになる。また、どうしてもやらねばならないことであれば、手抜きをするようになるのも自然なことであろう。例えば、否応なく調理をする必要があるとき、脳内では、「作らせていただいている」感じよりも、むしろ「作ってやっている」感に気持ちが傾く。わざわざ作ってやっているのだから、少しは感謝の言葉ぐらいかけてくれというマインド(気の持ちよう)である。もちろん、そういう気持ちを持ってはいけないと主張しているわけではない。むしろ、当然の感情である。ただ、そういう気持ちでいっぱいになったとき、自分の心を荒らしているのは、実は自分自身でもあるという事実は知っておくと良いだろう。
そこで、禅の修行僧と同じように、見返りを求めるというマインドを手放して「今ここに在る自己をあるがままに見つめる実践」として調理と向き合ってみる。そのようなマインドに移行するだけで、実は知らないうちに行動も変化していく。そして、自己の行いに意識を向けることで、今まで気づかなかったようなことにも気づきを向けられるようになる。
その背景には、仏教で言うところの心身一如(しんしんいちにょ)の現実があり、こころと身体のつながりもありありと感じられることとなる。
この辺の話は、私のもう一つの専門である臨床心理学(主に行動主義)でも語られるところで、こころと身体は相互作用の関係にあり、お互いがお互いに作用し合う。つまり、マインドをなかなか変えられない場合でも、行動パターンをしばらく変えてみることで、マインド自体に変化が起こる。
ただし、ここで注意しておきたい点としては、禅の修行というものはマインドの変化を目的に実践するものではないということだ。もう少し言うと、修行道場の清規(しんぎ)(ルール)に則って生活していれば、結果的にはマインドの変化も起きようというぐらいのものであり、それは決して目指すべき対象ではない。禅の修行は、むしろこうした目的的に働く〝作為〞を手放すことを重視しているのである。
禅僧の在り方から学ぶ
ここまで、仏道修行を歩む禅僧の在り方が、一般の人にとっても有意義なものとして機能すると期待して述べてきた。というのも、多かれ少なかれ自由な生き様を希求するこころは誰でも持っているものであり、禅僧の「今ここ」の自己の在り様を徹底的に見つめ、何にもとらわれない自由な思考と行動で生きようとする姿勢は、より具体的な行為として我々の日常の中に落とし込むことができるだろう。
これからの連載では、禅僧たちが食事を作ることや食べることを通して、何を感じどう生きているのかについて記していく予定である。どうかご期待頂きたい。
『春秋』2017年8・9月号