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文字の渚 岩切正一郎

Fluctuat nec mergitur

Fluctuat nec mergitur[1]

 

 

 セーヌ川に浮かんだ船が、雨のなか、選手団を乗せてパレードしてゆく。オーステルリッツ橋からイエナ橋まで。市の紋章に帆船が描かれているパリで行われたオリンピックの開会式を私はテレビで見ていた。

 画面のなかでは、中継されている映像と録画で嵌め込まれた映像が継ぎはぎされていて、今自分が見ているのは、実際にセーヌ河畔で見ていても眼にすることのできる光景なのかどうか、今ひとつよく分からない。

 船は航路が終わりに近づいた頃チュイルリー庭園の横を過ぎるだろう。コンコルド橋をくぐると次はアレクサンドル三世橋、アンヴァリッド橋、その後二つ橋をくぐるとイエナ橋だ。

 コンコルド橋からアンヴァリッド橋までのセーヌ右岸(北側)の並木道は「クール・ラ・レーヌ」(le cours la Reine)という遊歩道になっている。




 パリに行くと、私はよく、クール・ラ・レーヌを歩く。これといって面白いものがあるというのではないが、石の手すりへ寄ってセーヌの流れを見たり、下を覗きこんで、川ほとりに座って喋っている人を目にしたり、季節ごとにうつろう木の葉の緑や黄葉や落葉や、冷気の中に立つ裸木(はだかぎ)の姿や、春の芽吹きを見たりするのはそれなりに味わいのあるものだ。

 とはいえ、それだけのことなら他にも同じような場所はある。クール・ラ・レーヌを歩くのは、シュヴァリエ・デ・グリューの跡を訪ねてなのである。

 シュヴァリエ・デ・グリューはアベ・プレヴォー(1697–1763)の小説『マノン・レスコー』(1731年、著者による校訂版1753年)の主人公だ。私が留学ならぬ遊学していたアミアンに、このデ・グリュー青年も遊学していた。模範生だった彼は友人と散歩していたとき、駅馬車から降りてきたマノン・レスコーを見て一瞬で恋に落ちてしまい、修道院に入るはずだった彼女と一緒にパリへ向かって駆け落ちした。

 いったんは実家へ連れ戻され、その後、パリの神学校に入って勉学に励んだもののマノンと再会し、そのあとは全身全霊を彼女への恋に捧げつつ人生の道を外れてゆく。マノンは金銭に対しては淡泊ながら、金に不自由することをおそれ、快楽と遊戯を欲している女だった[2]

 マノンへの愛ゆえに、いかさま賭博、脱獄、殺人といった非道を重ねたデ・グリューは、女子監獄ラ・サルペトリエールに収監されていたマノンを、奸計をめぐらして首尾良く脱走させ、そうしてふたりは、今はパリ十六区だが当時は村だったシャイヨの宿屋に身を寄せた。

 彼は金策のためにパリへ向かう。けれども金がないので馬車は雇えず、歩いて行かなくてはならない。そうしてやってきたのがクール・ラ・レーヌだった。この遊歩道は、十七世紀(1616年)にルイ十三世の母マリー・ド・メディシスがパリとシャイヨ村を結ぶ「シャイヨの道」を四列の(にれ)の並木を配した道へつくりかえたもので、今は五百四十メートルの長さだが当時は千五百メートルあった[3]。デ・グリューはそこへ来ると「草の上に座った。そうしてさまざまに思案を凝らした」[4]

 

 私は、草の上に座って思案するデ・グリューのこのシーンがいつからか好きになり、短いサラッとしたその描写を心のなかに入れ、自分で何かを空想するときには、その描写のなかへ入って空想することもあった。そのうちに、実際にそこへ行ってみたくなった。小説のシーンに具体性を持たせたくなったのだ。

 まだGoogle Mapなどはない頃だ。クール・ラ・レーヌを地図で調べてみたら、セーヌ川に沿っていて、多分そこは以前も歩いたことがあるような場所であった。けれどもそれまでは何の思い入れもなく、漫然と歩いていたらしい。

 初めて「クール・ラ・レーヌ」という名前を意識してそこへ来てみると、「草の上」というくらいだからもっと草地の広がっている場所のように想像していたのに、そうでもなく、車の音もうるさくて意外だったが、ともかく地面に腰をおろし、デ・グリューはこんなところに座って、「未来に希望を開いてくれるような方法」[5]を、金策を、思案したのだなあ、と往時を思いながら空を眺めてみるのだった。

 思いはとりとめもなくさまよってゆく。馬車に乗れないと靴が汚れて貴婦人のサロンに入るときみっともない、とバルザックの小説に書いてあったのが思い出される。大学院生時代、先輩の結婚式に出席するのに、折悪しくその朝革靴の底がはがれてしまい、しかもお金がなくて新しい靴も買えず、爪先がパコンパコンとひらくみすぼらしい靴をはいて披露宴に出たのだった、といったことが浮かんでくる。




 子どもが幼稚園生のとき、私の勤めている大学が特別研究期間(サバチカル・リーブ)をくれたので、それを利用して妻と子と私の三人でパリで暮らしたことがあった。

 その年は寒さが続き、五月なのに私は革ジャンを着ていて、家族で食堂に入ってオニオンスープを注文して体を温めたりしていた。

 幸運にも、ケ・デ・グランゾーギュスタン(le quai des Grands-Augustins)というセーヌ左岸に面した通りの一角に建っている建物の、屋根裏部屋とその下の階とがつながっている部屋を借りることができた。サン゠ミッシェル広場からすぐの、ノートルダム寺院の鐘の音が届く界隈だ。あとで知ったのだが、そこはパリで一番古いセーヌ河岸だった。

 石畳の歩道から、重たい門のドアを押して敷地に入ると、小さな中庭があり、中庭は四方から囲まれていて、中庭の奥に建っているのが私たちの部屋がある建物だ。エレベーターはついていなくて、すりへった木の螺旋階段を上り下りする毎日である。門を入ったすぐの郵便受けには、ソフィア・コッポラという札もあった。我が家から中庭越しに見える、通りに面した建物のどこかの部屋が彼女のなのだろう。あの、大きなガラス窓の部屋かも、などと想像してみるが、本人らしい人影は一度も見ることがなかった。

 

 グランゾーギュスタン河岸(かし)からすぐのところに、サンタンドレ・デ・ザールという広場と通りがある。

 デ・グリューは、サン=ミッシェルのカフェで暗くなるまで時間をつぶしたあと、馬車をサンタンドレ・デ・ザール広場に停め、マノンたちがいるはずの劇場(今のフランス劇場(コメディー・フランセーズ)はセーヌ川北側にあるが、その頃はセーヌ川南側、現在のアンシエンヌ・コメディー通り(旧コメディー通り)にあった)へ行ったがそこにはマノンたちはいなかった。馬車へ戻ると美しい少女がマノンからの手紙を彼に渡したが、そこには、マノンは贅沢な暮らしをさせてくれる愛人と今夜一緒にいることにしたので、デ・グリューへの愛は変わらないけれど、日を改めて会うことにする、その間の慰めに、可愛い女の子を遣わしたから、その子と楽しんで欲しい、と書かれていた。

 そのシーンの少し後の描写は、小説『マノン・レスコー』のなかで私が一番好きな箇所だ。デ・グリューは彼女が囲われている家へ入っていった。

 私は難なくその部屋に侵入した。
 マノンは読書に気を取られていた。こんなことがあればこそ私はこの不思議な女の性格を嘆賞するのであった。私の姿を見て、怖れたり、躊躇したりするどころか、彼女は、遠くに在るつもりの人に出会う時に、人々の制しきれぬあの驚きに似たものを僅かに示したにすぎなかった。
 「おや、あなたなの、私の可愛い方、と普段のように優しく私を抱きに来ながら彼女は言った。──本当に、なんて向こう見ずなんでしょう。今日こんな処で、まるで思いがけませんでしたわ。」[6]


 読書しているマノン。彼女は顔をあげる。その一瞬の変化のなかに恋の甘美な残酷さが深々とたたえられている。私はそこへ惹きこまれる。なかば空想の世界にひたりながら、現実世界へもどってきた彼女。デ・グリューを欺したはずなのに、罪悪感や悔恨のたてる爪は、すべすべしたその心臓には食い込んだりしないかのようだ。少し驚いた顔をして、悪びれもせず、優しくなつかしい声と物腰で彼を遇する。世の中の掟など及ばない、不貞も裏切りも罪も彼女からは一瞬にして洗い流され忘却されてしまう。相手の苦しみなど泡に過ぎない愛の無垢がひょっこりそこに姿をあらわしているように私には感じられる。たぶん私が当事者ではないからそんなことも言えるのだろう。デ・グリューは「嘆賞」しつつも彼女の腕をふりほどいてしまうのだ。

 その後マノンとデ・グリューは彼女の愛人を愚弄する計画を立て、実行しようとしたが頓挫して捕まり、二人揃ってシャトレーの牢獄に監禁された。彼は父の骨折りによって釈放されたが、彼女は十一人の娼婦とともに護送車に乗せられ、当時そのような制度のあった白人女性奴隷としてル・アーヴルの港からアメリカ大陸へ送られる。その彼女にデ・グリューはずっと付き従って行く。




 私たちの住んでいる部屋の一階下には、アンチゴーヌさんというお婆さんが住んでいた。セーヌ川の河岸の欄干に沿って古本や古い雑誌や古い絵葉書などを売る屋台が並んでいる。アンチゴーヌさんはその古本屋さん(« bouquiniste »(ブキニスト))のひとりだった。

 ベンヤミン[7]はこの屋台のことをこんなふうに語っている。

すべての都市のうちで、パリほど親密に書物と結びついた都市はない。〔...〕樹木のないセーヌ河岸には、何百年も前から、学識の葉(Blätter(本のページ))をつけた木蔦(きづた)が広がっているのだから。すなわちパリは、セーヌ河に貫流された、ひとつの大きな図書館閲覧室なのだ。[8]


 アンチゴーヌさんは父親がギリシャ出身で、息子さんはブルターニュ地方で古書店を開いていると言っていた。文学好きの人に親しみを感じるらしく、私はボードレールの研究をしていて、妻もプルーストを研究していたというと、顔をほころばせ、モンパルナスのボードレールの墓地にバラの花を献げたことがあるというと、とても喜んでいた。

 アンチゴーヌさんの家のなかは、骨董品と、ガラクタにも見えてしまう人形や置物や小物と、本とで埋め尽くされている。それをかき分けて椅子に座ると、彼女は色ガラスの小さなグラスを出して、秘蔵のマデイラ酒をふるまってくれる。

 そして、一番好きだというボードレールの詩を暗誦する。ベンヤミンがそこにいたら、学識の葉をつけた木蔦が人間の声をしてさやいでいるように聞こえたかも知れない。彼女が愛誦しているのは『悪の華』第三版に追加された作品のひとつで、「良い子でいなさい、〈苦悩〉よ、気持ちを落ち着けて」と始まり、「裳裾をひく長い経帷子のように、優しい〈夜〉が歩いている」と終わる、「沈思」というタイトルの詩で、それをいつも聞かせてくれた。 

 

 アンチゴーヌさんは、青や赤やその他さまざまな色の布や紐を体に巻きつけている、という印象を見る人に与えるいでたちをしていた。ある日、セーヌ河岸を歩いていたら、前方に彼女がいた。その横を若い女性が追い越して行ったが、体が触れるか何かしたのだろう。アンチゴーヌさんは大声で「何だよ、このバカ!」といった感じの罵声をその女性へ浴びせ、手に持っていた物体を振り回した。日頃の気のいい彼女とはかけ離れた姿である。びっくりしながら、やがて追いついて、「こんにちは」と挨拶すると、普段と変わらないにこやかな顔の彼女がそこにいた。

 そのうちに、彼女の気性のあり方がわかってきた。部屋にお邪魔していると電話が鳴る。すると受話器を持ち上げるや否や彼女は怒鳴り始める。「誰?何か用?物なんか売りつけられたって買やしないよ!電話なんかするな!」受話器を置くと、そんな姿を私に見せたことなど何とも思っていない様子だ。あるがままの自分を見せているだけ、とでも言うように。帰国後何年かして、パリへ行く機会があった時に、訪ねて良いかどうか聞こうとして電話したら、私もその怒鳴り声の洗礼を受けた。「あ、ぼくなんですけど、正一郎です」というと、燃える炭に水をかけたみたいに、激しいトーンはすっと消え、「あー、ショイシロ!」と懐かしい声が聞こえてきた。

 もし私がアンチゴーヌさんのことを何も知らずに河岸を歩いていて、彼女を追い越し、突然背後から怒鳴りつけられ物を振り回されたら、私はひとりの狂女を相手にしているのかと思い、びっくりしながら、雑多な配色の服を身にまとった奇矯な老婆を見つめ、そしてその場を去るという、一度限りの出来事と遭遇したに過ぎなかっただろう。

 

 グランゾーギュスタン河岸の家の近所には、バルザックの小説『知られざる傑作』の主人公の画家がアトリエを構えたことになっていて、(のち)にピカソが住んだ家や、ボードレールの生まれた界隈や、ランボーにパリの宿を提供した詩人バンヴィルの住まいがあった建物や(ランボーは中庭に面する屋根裏部屋の窓から裸体を晒して衣類を投げ捨てるという奇行に出たので、閉口したバンヴィルから追い出されてしまった)、サンドラールが「ニューヨークの復活祭」や「シベリア横断鉄道の散文」を書いた屋根裏部屋があり、少し行くと、アポリネールが妻と暮らし息を引き取ったアパルトマンのある建物もあり、本を通じて形成された記憶へ現実の物質性が充当されてゆく楽しみがあった。

 

 パリ南端の大学都市に住んでいた留学時代と、サバチカル・リーブでセーヌ河岸に住むことになった大学教師の時とでは、後者のほうが経済力で優っているし、私の趣味に妻の趣味も合わさっているので、生活の仕方も違ってくる。洋菓子屋のジェラール・ミュロで買った洋梨のタルトの繊細なおいしさに驚いたり、近所のマリアージュ・フレールで紅茶を買ったり、サマリテーヌ百貨店で子どもの靴を買ったり。昼間は私は国立図書館へ行ってボードレールの詩が掲載された新聞を読んだり研究のための資料集めをしたりしていることが多かった。そして時々家族で遠出をした。シャルトルの町でレンタカーを借りてプルーストにゆかりのイリエ゠コンブレの町へ行き、プルーストが子どもの頃休暇を過ごしたレオニー叔母さんの家(プルースト博物館)を見て、野原でサンドイッチを食べた。ボルドーへ行ってレンタカーを借り、ロワール河のお城めぐりをしたあと、アルカションへ行っておいしい白ワインを飲みながら海鮮料理を食べた。色彩の明るい低層のホテルの食堂で朝食をとっているとき、向かいのテーブルにいる少しインテリ風の中年の男は、バカンスに来ているのだろうに何だか疲れて神経質そうな顔をして、左翼系の新聞リベラシオンを読みながら食べ物を口に運んでいる。横では小さな娘さんが虫の居所が悪くてぐずっている。フランスでも新聞を読みながら朝ご飯を食べたりするんだなあ、「食べるときは新聞は置きなさい」という超自我の声が聞こえてきたりはしないのだろうか、こんなことはしない人たちなのかと思っていたけれどそれは自分の思い込みというか、理想化のし過ぎで、結局どこへ行っても、人は生活のなかで面倒くささや投げやりな気持ちをふとした仕草のなかで同じように映しだすものなのだろう、と思い始めるのだった。

 アルカションから松林をぬってヨーロッパ最大のピラ砂丘へ行くと、砂が黄色っぽくて、粒は大きめで重い感じがした。ある日はフォンテーヌブローへ行き、別のときにはチェコのプラハやチェスキー・クルムロフへ行った。プラハの救急車のサイレンはボヘミアの森の奥から聞こえてくるような暗い哀愁をたたえているようだった。街にあるKafkyというカフェは、カフカという名前の格変化なのだろうなと思い、ブルタヴァ川の対岸に大きく広がってどこか茫洋としたたたずまいの塊をなしているプラハ城を初めてみて不意をつかれ、ああ、ほんとうに「城」があるんだなあ、へえ、こんな感じの城なのか、と眺めながら、足元にたまたま見つけた四葉のクローバーを摘み、カレル橋を往復し、橋の上で絵を売っている画家から、板にアクリル絵具で描いたようにみえる小さな絵を買った。プラハ城の黄金小路(かつては錬金術師が住んでいたらしい)にある「カフカの家」は小さくて可愛かった。

 いろいろな土地へ行くたびに、アンチゴーヌさんは、部屋の堆積物のなかから探し出して、その土地にちなんだ本をくれた。

 

 ブキニストは、日中は鉄製のボックスの蓋を開けて商品を展示し、歩行者はそれを品定めする。夕方になると、蓋を閉め、鍵をかける。その箱は、一人ひとりのブキニストが営業権を買って所有しているのだとアンチゴーヌさんから聞いた。彼女は、もう何十年もそれをなりわいにしている。彼女の亡くなったご主人は、水彩画の得意な画家だったという。




 ある日私は、かつて女子の梅毒患者や娼婦や犯罪者を収監していた牢獄で、マノンも入れられ、今では病院になっているラ・サルペトリエール病院へ行ってみた。『マノン・レスコー』の文庫本の注に、「マノンの井戸と称するものが今日でも保存されている」と記されていたのだ。病院の敷地に足を踏み入れてはみたものの広くて見当がつかない。白衣を着た人の何人かに聞いてみたが、誰もそんなものを知っている人はいなかった。それでその日は探すのをあきらめてしまい、以来今日までそのままだ。

 

 『マノン・レスコー』は風変わりな構造を持つ小説である。話自体は、「ある貴族の回想」のなかに埋め込まれている。ルノンクールという名の貴族の男は自分の一生を語っている。その人生のなかで彼はデ・グリューに出会った。デ・グリューは彼にマノンとの波瀾万丈の恋物語を語った。その恋物語が、貴族の回想それ自体からは独立した形で読者に供される。ルノンクール氏はその時侯爵(氏の弟子)と一緒だった。彼は、デ・グリューは自分たちにこんな話をした、と読者へ語り、そして読者は、貴族と侯爵に向かってデ・グリューが語った話に耳を傾けるのである。

 デ・グリューはどうやら二時間余りで物語を全部語ったらしい。第一部の終わりに、「シュヴァリエ・デ・グリューは既に一時間以上も語りつづけたので、私は少しばかり休んで、夕飯を共にしてくれるように頼んだ」とある。夕食をとったあと、彼は第一部と似たような分量の話をする。私が興味を惹かれるのは、前半を語り終わってこれから夕食をとるというときに、デ・グリューが見せる奇妙な自信だ。

これからさきの物語は更にいっそう面白く思われるだろうと彼は請け合った。[9]


 デ・グリューは自分の話が面白いということを自覚しているのである。(もちろん、作者の技法としては、彼にこう言わせることで読者の期待を高めるという効果を狙っているわけだが。)

 あるとき、この自信はどこから来るのだろう、と気になった私は、物語を読み返してみた。すると気付いたことがあった。デ・グリューは、貴族と侯爵に聞かせている話を、部分的に、すでにさまざまなやり方で人に語っていた。人生の語りを稽古していたようなものである。

 

 彼は、サン=ラザール刑務所に入れられていたとき、院長である神父に、「僕はなにもかもお話しいたしましょう」[10]と言って、マノンへの情熱や、それまでの生活のことや自分たちのした犯罪行為について語った。といっても、「実際のところ私は、これらのことを自分たちにいちばん都合のいい方面から話してみせたのだった」という打算的な話し方だった。

 その次は父である。マノンがアメリカ送りになる前、彼は父にこれまでのいきさつを話して聞かせる。

私は正直に、今までの生活をくわしく父に物語った。一つの失敗を告白する毎に、私は少しでも恥を少なくしようとして、名高い例を引いてくるのを忘れなかった。[11]

 

 このときの父への語りにはまだ見栄と自尊心が隠れている。

 次は、マノンがアメリカで死んだあと、彼を探しにやってきた友人のチベルジュと再会したときだ。

私は彼に、フランスを立ってからの一部始終を物語った。[12]


 こうした話の合体したものを含む物語を、彼は貴族と侯爵に聞かせている。今度は、父への語りとは違って、自分を良く見せようという配慮はない。彼はルノンクール氏に言う。


あなたはこれ程までにご親切にして下さいます。ですからあなたに(かく)し立てをしましては卑しむべき忘恩者として心が(とが)めます。何もかもお話しいたしましょう。私の不仕合わせのことや苦労のことばかりでなく、私の不始末のことも、私の一番恥しい欠点もお話いたします。[13]

これは、ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)が『告白』で自分の人生を語る時に採用する態度と似ている[14]。デ・グリューは自分の人生をあらいざらい語ることを決心する。ルソーと違うのは、彼には目の前に聞き手がいるという点だ。彼は本当の自分を世間に知ってもらうために自発的に語るのではなく、請われて語っている。巧みな話術で物語を(つむ)ぐのは、「彼の運命のくわしい物語やそのアメリカ旅行のいきさつを、いち早く知りたいと(あせ)[15]っているルノンクール氏の欲望に誠実に応える行為なのだ。目の前にいる、自分と同じ階級の人であろう貴族から「身上話をせがまれて」している物語。親切の代価としての面白い話。

 こうして彼は、相手に「面白い」と思ってもらえる物語を語り、貴族はそれをすぐさま書き留めた。それを私たちは読んでいるという体裁になっている。もし私たちが、デ・グリューやルノンクール氏の住んでいる虚構の世界へ入り込みその住人になったら、私たちは、自分の人生の物語をますます巧みに語ってきかせる吟遊詩人のような者となったデ・グリューを目にすることになっただろうか。

 

 

 ルノンクール氏が初めてデ・グリューと出会ったとき、彼は「娘のために私の母方の祖父からその権利をもらっておいてやった或る土地の相続に関する要件」[16]のためにしていた旅行の途上だった。

 長い間、私は、デ・グリューとマノンの物語にしか関心がなかったので、ルノンクール氏の娘とはどんな人なのか、とか、土地の相続がどんな意味を持っているのか、といったことには注意を払っていなかった。

 六年前、私は、自分の悦びのために読むだけではなく、授業で『マノン・レスコー』をテクストにして、学生とじっくり読んでみようと思った。それで準備のために読み返してみると、それまでは無関心だった部分が気になりはじめた。私は、物語の大枠になっている貴族の人生については何も知らない、ということに気付いたのだ。「土地の相続に関する要件」って何ですか、と学生に質問されても答えられない。「いや、そこんところは僕も不勉強で、知らないんだよね」と答えておいても良いのだが、なんだかカッコ悪いし、時間もあることだし。好奇心と自尊心に動かされ、夏休みに他大学からアベ・プレヴォー全集のなかの一巻を取り寄せて読み始めた。

 そのことを私は「Kotoba Naute コトバ・ノート」というブログのなかに記している。ブログを始めた当初はときどき思いを綴っていたが、そのうちに年に一回くらいしか書き込まなくなった怠惰なブログである。

アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』は、『隠棲した貴族の回想と冒険』( Mémoires et aventures d’un homme de qualité qui s’est retiré du monde  )という本の第七巻に収められている。書き手で語り手でもあるルノンクール氏の第六巻までの回想に付加して、氏が騎士デ・グリューから語られた騎士とマノンの物語を文字に記した、という形で挿入したものだ。それが物語として独立し、今に到るまで多くの読者を獲得している。この、枠物語のほうの、『隠棲した貴族の回想と冒険』は、今では読む人も少ないのではないだろうか。わたしもこれまで読んだことはなかったのだが、秋学期の文学史で『マノン』を扱う予定なので、これを機に読んでみようと思い、他大学から取り寄せてもらった版を勤務先図書館に通って読んでいる。

これがじつに面白い話で、第一巻目には、祖父や、駆け落ちして長く勘当されていた父母の話、妹が暴漢の一味に襲われ、流れ弾に当たって自分の面前で死んでゆく話などが書かれている。

デ・グリューやマノンに心を寄せるルノンクール氏自身にこんな過去があったのか、と強い印象を受けた。『マノン』の冒頭のルノンクール氏の語りの部分に「娘のために母方の祖父から」という文章があって、今までは気にも止めずにいたけれど、この一文からだけでも実は多くの過去の物語が浮かび上がってくるのだった。「娘」には死んだ妹からとって「ジュリー」という名がついている。

ルノンクール氏自身も、結構波瀾万丈の生涯を送っているらしい。これからしばらく、枠物語と付き合うつもり。「文学史」の授業からすると脇道にそれていて、本道をうまく準備できるのかどうか少々心配ではあるけれど….(2018年8月)

 
 私は夏休みにその物語を読み進めた。ルノンクール氏は、トルコ軍につかまって、イスラム王国で暮らしたこともある人物なのである。その波瀾万丈ぶりはデ・グリューと比べても遜色ないどころかその上をゆくほどだ。もしデ・グリューが、自分が話をしている相手はどんな人なのか知らされたら、ひどく驚いたことだろう。どうして氏がデ・グリューに彼の運命と恋のいきさつを語って欲しいとしきりにせがんだのか、どうして困っている彼に情けをかけてくれたのか合点がいっただろう。ルノンクール氏もまたデ・グリューと同じように、運命に翻弄された人だったのだ。共感する気持ちも強かったに違いない[17]

 『マノン・レスコー』には多くの和訳があるけれど、『隠棲した貴族の回想と冒険』は本邦未訳ではないだろうか。出版したら物語を面白いと思う人も少なからずいるような気がする。それを基にして漫画化するのも面白いだろう。 

 

3

 

 パリ・オリンピックの開会式では、コンシエルジュリーの屋根裏部屋の窓辺で赤いドレスを着たマリー=アントワネットが、斬首された自分の首を腰の高さに抱えながら、フランス革命時に民衆が歌っていた「貴族の奴らは縛り首!」という内容の歌をうたう演出が日本で話題になった。フランスの新聞の記事によるとフランスでも賛否入り交じる反応を引き起こしたようだ。

 ちょうどその頃、私が翻案を担当した舞台『オーランド』(原作:ヴァージニア・ウルフ、主演:宮沢りえ)は東京公演の千穐楽へ近づきつつあった。開演前の楽屋で四方山話をしていた演出の栗山民也氏は、首を抱えて歌う演出を絶賛していた。私も、グロテスクな(「グロテスク(grotesque)」は、一般的な用法では、戯画的で奇妙な外貌によって笑うべきものとなっている、という意味を持つ)その演出はフランス的で面白いと思った。パリで一番古い牢獄だった元王宮が、噴きあがる血しぶきに血塗られ、その最上階で、ギロチンの犠牲となったマリー=アントワネットが自分を血祭りにあげた民衆の歌をうたう演出に、フランス的な演劇性を感じたのだ。批評と諧謔の精神である。

 「自由、平等、友愛」が何を破壊することで成立したのか、それをおためごかしのきれいごとで演出しても仕方ない。開会式ではイエスの最後の晩餐をディオニュソス神が侮辱しているような演出があった、というので教会からも非難されたが、キリスト教の神話的な要素には元々ディオニュソス信仰のパロディの部分があるのだから、そんなに目くじらを立てなくても良いのではないかと私は個人的には思っている。

 革命時、マリー=アントワネットが処刑される約一ヵ月前、パリでは監獄を舞台に「九月の虐殺」が行われていた。「連盟兵やパリの民衆がパリの九つの監獄をつぎつぎに襲撃し、そこに収監されていた約二六〇〇人の囚人のうち、約半数の一一〇〇〜一四〇〇人を〔略〕即決裁判の結果を受けて虐殺し、それ以外の囚人を無罪放免した」のである[18]

 小説の中でマノンが十八世紀初めに収監されていたラ・サルペトリエールでは、一七九二年九月四日の虐殺時に、武装した人々が共同寝室になだれ込み、収監されていた女性たちを解放した。レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ(1734-1806)の『パリの夜』によると、「血みどろの光景ではなかったが、これほど破廉恥なシーンは前代未聞だった。薄倖(はっこう)の女たちは全員、解放者たちの誰にでも、彼女たちが「わたしの処女」とよぶものを捧げた。」この夜は一八七人の女たちが解放されたが、翌日と翌々日には、「サーベルや刃物や棍棒で武装した男たちがラ・サルペトリエールで四十人ばかりの女たちを虐殺した。」[19]

 

 オリンピックの開会式でも活用され、普段は世界中から観光客が観に来る歴史・文化遺産の多くは、王侯貴族やカトリック教会が残したものだ。それらは、自分たちを破壊した、あるいは破壊しようとした民衆の過去を覚えている。そしてもちろん、かつて蜂起した民衆は、自分たちを苦しめている高貴な階級の人々に対して反逆したのだ。その互いの記憶に包まれている空間でオリンピックは行われていた。フランスに限らず、我々市民の血のなかに流れるものは、この先、時代の状況によってどのような形で熱狂しあるいは逆上するのか、誰にも正確なところは分からないだろう。

 

4

 

 アンチゴーヌさんのテーブルの上には聖母マリアの像や燭台や蝋燭があった。日頃の話しぶりからして、彼女の精神は娯楽や享楽で彩られた世俗性とは反対の側にいるようだった。私たち家族が彼女の上の階に住んでいた頃、セーヌ川のほとりでは、夏、砂を敷き詰めて南国ムードを醸し出す「パリ・プラージュ」(パリ・ビーチ)というイベントが始まった。アンチゴーヌさんはそれを軽薄な催し物だとくさしていた。新しい風習であるハロウィーンも槍玉にあげ、あんなくだらないもの、と言っていた。

 

 グランゾーギュスタン河岸のアパルトマンの大家さんは、ハンガリー出身のグレタさんという人で、パリ市中にある物件は人に貸して、自分はパリ近郊の、セーヌ川をしばらく下った先にある中洲の中に家を建てて住み、内装を自分でやっていて、私たちが遊びに行ったときにも家はまだ完成していなかった。

 帰国してグレタさんから届いた手紙には、彫刻家ジャン・アルプ(1886-1966)のユーモラスな箴言が印刷してある。「書くことを通じて、人はザリガニになる」(En écrivant, on devient écrevisse.)というのだ[20]

 我が家の居間の壁には、グレタさんが飼っている二匹のプードルの写真とその手紙がフォトフレームに入って掛かっている。その上には、アンチゴーヌさんがくれた亡きご主人の水彩画の絵葉書が飾ってある。そして少し離れたところに、カレル橋の画家から買った小さな絵が掛かっている。



 

 四十年程前、初めてパリへ旅行したとき、朝、ホテルを出て、スーツケースを転がしながら、セーヌ川右岸から左岸へ移動した。橋を渡りおえるとき、音が聞こえてきた。少し切ない、断続的な、動物の鳴き声のような音。怪訝に思って見回すと、橋のたもとに一隻の船が係留されていて、岸の係柱(けいちゅう)にもやい綱で繋がれていた。音はそのもやい綱から発していた。川波に揺られ船が動くと、もやい綱が軋む。静かに揺れながら気怠(けだる)そうに軋むのだ。私はその音に耳を傾けた。私にはそれが、初めてやってきた街で、パリの音としてしみじみと聞いた音だった。

 しばらくその音を聞いてから、朝の陽光のなかを歩き始めた。

 

 

[1] « Fluctuat nec mergitur » (波に打たれながらも沈まない)はパリ市の標語。 これは十九世紀半ばにパリの街を大改造したオスマン男爵が1853年に公式にパリ市の標語にしたものだと、パリ市のホームページで解説されている。パリ市の紋章に描かれている船の図柄の起源はセーヌ川の水運組合の船をあしらった十三世紀の印に遡ることができる。標語のほうは、パリ市を見舞う洪水に街が耐えることを示唆するそうだ。

[2] アベ・プレヴォー、『マノン・レスコー』、河盛好蔵訳、岩波文庫、p. 67.

[3] Hillairet, Dictionnaire historique des rues de Paris(イレレ、『パリの通りの歴史事典』)による。

[4] アベ・プレヴォー、『マノン・レスコー』、op. cit., p. 120.

[5] Ibid., p. 120.

[6] Ibid., p. 157.

[7] ヴァルター・ベンヤミン(1892–1940):ドイツの批評家、思想家。

[8] ヴァルター・ベンヤミン、「パリ──鏡のなかの都市」、『ベンヤミン・コレクション 3 記憶への旅』、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1997年、p. 232.「学識の葉(Blätter(本のページ))をつけた木蔦(きづた)が広がっているのだから」の箇所に、「セーヌの両岸には、古本を売る屋台が並んでいる」という注が付いている。

[9] 『マノン・レスコー』, op. cit., p. 127.)

[10] Ibid., p. 93.

[11] Ibid., p. 184.

[12] Ibid., p. 226.

[13] Ibid, p. 19.

[14] ルソーは自伝である『告白』の冒頭でこう言う。「最後の審判のラッパがいつ鳴ってもかまわない。私は手にこの書物を持って、最高の審判者のまえに出ていこう。私は声高くこう言うだろう。これが私のやったことです。考えたことです。かつての私の姿です。私は善も悪も同じように素直に語りました。悪いことはなにも隠さず良いことはなにもつけ加えませんでした。[略]私は自分の過去をありのままに示しました。軽蔑すべき、卑しかったときはそのままに、善良で気高く、崇高であったときもそのままに。」(ルソー『告白』、『ルソー全集 第一巻』、小林善彦訳、白水社、1979年、p. 13-14.) 『告白』は死後出版で、第一部は1782年に出版された。

[15] 『マノン・レスコー』, op. cit., p. 18.

[16] Ibid., p. 12.

[17] Jean Sgardが作成した物語のクロノロジー(年表)によると、貴族の男は1662年に生まれ、1730年に亡くなった。回想のなかで最初名前は伏せられていた。1689年にトルコ人の捕虜になり、主人の娘セリマと愛し合って結婚し、解放されて帰国したが、その妻を亡くしたのち、娘の結婚を機に五十歳で一旦隠棲した。その後、1715年から 「ルノンクール」という名の下に世の中に出て新たな人生を始めた。直後に、ル・アーヴルへ向かうデ・グリューと出会う。デ・グリューがアメリカから帰国した1716年にカレーで再会した。ちなみに、デ・グリューがアミアンでマノンと出会ったのは1712年。彼は十七歳、マノンは十六歳だった。(Commentaires et notes, Œuvres de Prévost, sous la direction de Jean Sgard, t. VIII, Presses universitaires de Grenoble, 1986.)

[18] 松浦義弘「フランス革命期のフランス」、柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『フランス史 2』、山川出版社、2005年(1996年)、p. 369.

[19] Dominique Camus, Paris, Guide Arthaud, 1992, « La Salpétrière » (p. 570)の項目による。

[20] ことわざに「鉄を打つことで人は鍛冶屋になる」(C’est en forgeant qu’on devient forgeron.「習うより慣れろ」)とあるのを、作家のレーモン・クノーが『文体練習』のなかでもじって、「書くことで人は書き屋になる」(C’est en écrivant qu’on devient écriveron.)とした(« écriveron »は« forgeron »(鍛冶屋)からクノーが作った造語)。それをアルプはさらにもじって、「書くこと(écrivant)で、人はザリガニ( écrevisse)になる」(En écrivant, on devient écrevisse.)と書いた。ダダ=シュルレアリスム的なユーモアである。

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著者略歴

  1. 岩切 正一郎

    フランス文学研究者・戯曲翻訳家・詩人。著書に『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』(書肆心水)他。詩集に『La Citrondelle』(らんか社)他。書籍化されている戯曲翻訳に、アヌイ『ひばり』、カミュ『カリギュラ』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(いずれもハヤカワ演劇文庫)他。日本を代表する演出家が手がける多くの舞台で戯曲翻訳を担当している。国際基督教大学教授。現在、学長。

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