錬金術
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人間は何かを何かへ変形するのが大好きだ。21世紀の今は、DX(デジタル・トランスフォーメーション)に精を出している。変形する(transform)という作業は、科学技術の分野ではなくても、人間の歴史を通じて連綿と続いてきた。芸術もそのひとつ。隔月での連載の話をいただいたので、アートのなかでも、言葉のアートにおける変形について、あれこれ考えてみたいと思う。
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知人が学芸員をしているパナソニック汐留美術館がジョルジュ・ルオー展を開催することになり、ルオーが書いた詩も二篇紹介するというので、その翻訳と短い解説を私が担当することになった。ルオーの絵画作品については門外漢の私も、詩の方面でなら力になれるかも、とお引き受けしたのだ。そのための参考になるのでは、と、その知人が『画家のひとり言』を貸してくれた。
その本は、パリで出たばかりのルオーの著作集成で、既刊のテクストと未刊の草稿を網羅し、注や解説や年譜を付けた千頁近い本である。そのなかの「詩のテクスト」のパートに、1947年に出版されたStella vespertina(『夕星』)という色刷り複製画と文章から成る作品集のうちの、その文章の部分が収められていた。芸術的思索や人生論的思索の散文がそのほとんどを占めていて、最後の方に詩が三篇入っている。それは、とても味わいのある文章だ。
ルオーは1871年の生まれだから、執筆したのが出版年と近ければ、もう老境に入った頃の文章である。とはいっても、年を重ねたからといって、人は考えや感性まで老け込んでしまうとは限らない。派手さはないがゆるぎない力が言葉にこもっているように私には感じられた。そこにはこんなことが書いてあった。
絵の具の色はチューブに入って売られている。けれど自分の色調を作り出すのは私たち自身だ。その色調は十全なハーモニーへの欲求に対応している。人は先へ進むにつれ、あるいは先へ進んでいると思うにつれ、あらゆる多様な局面で、沈黙し思慮深くなる。多く知れば知るほど、自分はまだまだ無知だと分かるのだ。
自分がどんなハーモニーを、調和を、欲求しているかによって、その人が表現するときに使う色合いは変わってくる。その人の内面にあるものが、作品のなかで構成される色合いを決定する。特に目新しいことを主張しているわけではないけれど、言葉の裏に作品が控えているので、その画風と響き合う、忍耐強い愛の力のようなものを私は受け取る。
「絵の具」そのものは誰にとっても同じもの。それをどう使うのかによって個性が出る。こうした考えは、年齢的にというよりは、美術や文学の歴史において、古いといえば古い。つまり、相当にロマン主義的である[注1]。19世紀のフランスで、ロマン主義に深く魂をひたしながらその先の現代性へ一歩を踏み出したボードレールも、似たようなことを言っている。もっとも彼は、「沈黙し思慮深くなる」とは言うはずもなく、むしろ、沈黙のなかで溜めこんだエネルギーを危険な形で噴出させ、爆発させるだろうけれども。
その文章のあとに、次のような断章が置かれている。
世間から身を引く、平安をみつけると信じる、何と無謀な賭けだろう、もし君が自分のなかに、どんなみじめな物質をも変容させ、楽園の花々の香りと味わいをそれに与えるもうひとつ別の世界を持っていなければ。
もうひとつ別の世界。人が魂のなかに持っている、外界の現実とは違う夢の領域にある世界。そこに花や楽園という観念を持ってくるところに、いささか安易さを感じてひっかかりを覚えはするが、そんなことはどうでも良い。ルオーが示している、外的な現実世界と、内的なもうひとつの世界、その対置された構造に私は無条件に惹かれるのである。その内的な世界は、物を変形する夢想的なエネルギーに充ちていて、みじめな物質を香り高く甘美なものへ変えることができる。素材はつまらないものでもかまわない。芸術家はそれを自分の心のなかへ放り込み、内的な変形作用のなかをくぐらせ、創り出された音や色彩や動きによって現実の世界のなかへ、はっきり感じられるものとして、新しいものを誕生させる。
この錬金術的な作用を、私は二十代の始めからアートの中心に置いてきた。
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種村季弘『悪魔礼拝』、『黒い錬金術』、ベルヌーリ『錬金術・タロットと愚者の旅』(種村訳)、Frances Yates, Giordano Bruno and the Hermetic Tradition(イエイツ『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』)、ヘルメス叢書(『賢者の術概要』、他)。Haziel, Le Grand Livre de Cabale Magique(アズィエル『魔術的カバラの大いなる書』)はパリのサン=ジャック通りにあるオカルト専門書店で買った本。エリファス・レヴィ(Eliphas Lévi)のHistoire de la magie(『魔術の歴史』)やドナト教授(Professeur Donato)のCours pratique de magie(『魔術・実践コース』)…… こうした本が私の研究室の本棚に静かに並んでいる。
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若い頃、私は魔術や錬金術の本を耽読していた。私と同世代の若者には特に珍しいことではなかったと思う。時代の風潮がそうだったのだ。法学部で学んでいた知り合いの女子学生は、赤い革のコートを羽織るエキゾチックな人で、タロット占いと白魔術を実践する団体の会員になっていた。人の運命を占い、決して見られてはいけないのだけれど、と、大事な秘密を打ち明けるような口調で、土曜の真夜中には蝋燭を灯して鏡の中にあらわれる精霊と会話しているのだ、と教えてくれた。
正統な思想史の裏に異端の系譜があり、そこには生きることの苦しみを価値へ変換するための秘法が記されている。そう私には思われた。私は賢者の石の発見に努めなくてはならず、黒の過程の試練をくぐらなくてはならなかった。
ユルスナールの『黒の過程』を、辞書と首っぴきで原文で読みながら――その冒頭の美しい数節は脳髄に深く記憶され、ロッテルダムの国際詩祭でベルギーのとある町の文化担当の職員がユルスナールの話を始めたとき、私も好きだと言ってそれを暗誦し、驚かれたものだった――ノストラダムスを研究しようかと思ったりもした。
けれども、私は詩や小説や戯曲により惹かれていた。そうした本の一つひとつからは、独特な声が立ちあがり、私の心へ染み通っていった。その声は日々の鼓動の一つひとつに溶け込み、動脈のなかを運ばれ毛細管を通り全身へくまなく行き渡った。細胞は生成と死を繰り返す。けれどもその声は、声の記憶は、生成と死を包み込む形なき器のなかにひとつの印象として保たれ、私が出会うものたちを呼び入れ、いつしか私の日常を、内的なものとも外的なものとも見分けのつかないものにしてしまった。
それに比べれば、魔術や錬金術は、それ自体としては、自分の魂にほんとうの満足を与えてくれるものではなさそうだということが次第に分かってきた。私の興味を惹いていたのは、せんじ詰めれば、ユング的な解釈を施された錬金術で、ちょうど卑金属が特殊な錬成過程を経て貴金属へ変わるように、卑しい魂は試練をくぐり抜けることによって高貴な魂になる、という考えに共感していたのだ。種村氏が、『黒い錬金術』の冒頭で定義する、錬金術、「一口にいえば、それは黄金を人工的に作り出すための「哲学」である」、その「哲学」を自分の思考の中へエッセンスとして採り入れたあとは、王を食べる狼や、火のドラゴンや、塩のように白い切断された四肢、といったイメージに含まれる象徴的な意味をいくら覚えたところで、そこにあるのはただ知的な愉悦の他にはないように感じられた。
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錬金術という言葉の日本語での初出は、辞典によると、どうやらサミュエル・スマイルズ著、中村正直訳の『西国立志編』であるらしい。その第三編の三、「ベットガーのこと」の章に、化学を好んだドイツ人ベットガーが、「尋常の金類を化して黄金となさんと欲し」て、これに心を注ぐこと数年、「みずから錬金術を看いだせりと偽り」、師を欺いた、と書いてある。この第三編は、タイトルが「陶工三大家」で、このいかさま師ベットガーは、有為転変ののち、プロシャのフリードリヒ一世のもとで、粘土を化して磁器をなす者となり、白磁で国を富ました。ただし国王から金銀は与えられたが自由を奪われ、最後は酒に溺れ、三十五歳という若さで死んだ。「あたかも犬を遇するがごと」く、墓に葬られた、とある。
錬金術は、物質界や金融界に入り込めばいかがわしい詐術になるが、こと秘儀参入につながるような精神的な次元のことがらを考える際にはとても興味深い体系である。そしてアート、とりわけ、詩的言語について考え、あるいは詩的言語を作ろうとするときには、そのオペレーションを基礎づける強力な原理となる。
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錬金術はボードレールの詩のなかに出てくる。
ボードレールは、卑しい泥のような現実から、詩という黄金をつくる。そのアーティスティックでポエティックな操作こそ錬金術に他ならない。振り返ってみれば、錬金術を知的な愉悦の素のようにしか感じなくなってしまった私が、それでも懐かしい気持ちでその語を舌にのせるのは、詩人のつくった詩句の響きと美的に結びついているからなのだろう。
ボードレールは、パリの街に「施療院、売春窟、煉獄、地獄、徒刑場」を見、そこに「法外なものが花のように咲く」のを見つつ、パリへ語りかける。
きみは私にきみの泥をくれた、私はそれを黄金にした。
(『悪の華』第二版のエピローグ草稿)
あるいは、『悪の華』草稿の断片にこう書いている。
私は泥をこね、それを黄金にした。
その原文は、« J’ai pétri de la boue et j’en ai fait de l’or. »という十二音綴(アレクサンドラン)の句で、定型の伝統に支えられた美しいリズムと音を持っている。
錬金術の守護神はヘルメス・トリスメギストゥス(三倍(=限りなく)偉大なヘルメス)なのだが、ボードレールの詩の世界では、サタンがトリスメギストゥスとして登場する。
悪の枕元にはサタン・トリスメギストゥス
うっとりしたわれらの精神を長ながとあやしてくれる。
ひとの意欲は貴重な金属、だがそれも
この学識ある化学者によってすっかり蒸発してしまう。
ボードレールの錬金術では、泥を黄金へ換えることもあれば、貴金属を蒸発させてしまうこともあり、さらにはせっかくの黄金を鉄に変えてしまったりもする。その名も「苦悩の錬金術」という詩にはこう書かれている。
自分の熱情できみを照らす者がいる、
きみのなかで自分の喪に服す者もいる、〈自然〉よ!
いっぽうに向かっては「埋葬!」という者が
ほかの者に向かっては「人生と輝き!」という。
未知のヘルメス、ぼくに連れ添い
いつもぼくを臆病にした、
おまえのせいでぼくはミダス王[注2]にそっくりだ、
錬金術師のなかでもいちばん悲しい王様。
おまえのせいでぼくは黄金を鉄にかえる、
天国を地獄に。
雲の経帷子のなかに
ぼくは愛しい屍をみつける、
そうして天の岸辺に
大きな石棺を築く。
(『悪の華』、「苦悩の錬金術」)
せっかくの素晴らしいものも、自分が触れるといつも壊れたりダメになったりして、だんだん自分が嫌になってくる人はいないだろうか。あるいは、自分で自分が嫌いなばっかりに、手に触れる物にもその嫌悪感を投影して、物を毀損してしまうことはないだろうか。十代の頃、私は大いにそうだった。
おまえのせいでぼくは黄金を鉄にかえる
『悪の華』を読み始めた頃、たぶん私は、そんな自分に重ね合わせてその詩句を読んでいた。そのうちに次第に気付き始めた。自分が嫌なとき、好ましいものの基準は他人のなかにある。自分を高める価値として他人の黄金をそのまま自分の人生のなかへ持ち込もうとしているに過ぎない。 けれど、自分がすべきことはそんなことではない。
私は泥をこね、それを黄金にした。
この表現を知ったとき、黄金を鉄にかえることの意味も変化した。そしてその時から、相反するこのふたつの詩句は、言葉の芸術的な使用における私にとっての原理となった。世間ですでに黄金として認められているイメージや語を、その制定された価値にもたれかかったまま、黄金として詩のなかへ持ち込んでも、そこには何の新しさもなければ、驚きもない。そこにあるのは、単なる価値の追認であり、常識の反復でしかない。人生や自然を苦悩や死の側から見れば、世間で賞賛されている輝きは黒く冷たい味気なさに変貌してしまうのだし、他方、世間ではつまらないと思われているものを、詩人は生まれながらの感性に満ちた自分のアートのなかで変化させ、新しい美しさと新しい価値へと作り替えることができる。新しい感性の誕生。それを「黄金」という決まり切った言葉でしか言えないところに限界があるような気はしたが、手垢にまみれた黄金« or »という語自体に、それまで知らなかった、深みへと開かれた底光りのする音色が響き、すでに私の魂に食い込んでいた。
注
[注1] ロマン主義:18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパに起こった思潮。理性に基づく普遍性を理想とする古典主義に対して、個人の感情に基づく表現を重視する。
[注2] ミダス王:ギリシャ神話のフリギアの王。触れるものをすべて金に変えることのできる能力をディオニソス神から授けられた。