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風をみる 開かれゆくアートの場とかたち  日野陽子

豊科の冬の日

 

 2007年2月。安曇野あずみのへ行くのは初めてのことだった。当時、関西方面から信州へ向かう人の多くが利用した特急しなのに私も乗って、松本で降り、大糸線に乗り換えて20分ほどで豊科とよしなに着く。訪問先の安曇野市豊科近代美術館では、翌日に鑑賞教育をテーマにした講演とワークショップを控えていた。

 大糸線は1両のワンマンカーで、キャリーバッグを引いた私は、制服姿の中学生や買い物帰りの人々と並んで、横長の座席に座っていた。窓外には雪に覆われた北アルプスが見渡せたが、列車のすぐ外に雪が積もっているわけではなく、穏やかな日差しが車内に注いでいた。出発前に美術館の学芸員さん達からは、「雪が大変なので、膝まであるブーツを履いて来てください」と連絡をいただいていたが、準備が間に合わず、私はショートブーツを履いていた。しかし、往路のこの穏やかな大糸線では、ブーツが膝までなくても特に困ることは起きないように感じられた。

  翌朝も空は気持ち良く晴れ渡っていたが、何しろ標高約550mの土地の2月は凍てつき、ひどく冷え込んでいたので、美術館の講堂は別世界のように暖房が効き、暖かだった。そこへ、日曜の朝にもかかわらず、長野県内の小中学校の先生方や美術館の学芸員さん達が50人ほど、続々と集まってこられた。

 鑑賞教育の方法はさまざまにあるが、当時注目されていたのは、ニューヨーク近代美術館で研究開発された「言葉による鑑賞」や、ポストカード大の厚紙に作品の写真が印刷されたアートカードを用いて複数人でゲーム的に交流し、楽しみながら、作品を隅々まで丁寧に見る力を養う方法等であった。

 また、2008年に改訂された文部科学省学習指導要領の大きな特徴の一つにも、小中学校の全学年、全教科における「言語活動の促進」が打ち出されていた。それまで、図工や美術の時間は、子ども達が自分と向き合い、自分がつくったり表現したりしたいものを探り、挑戦する時間としてとらえられてきた年月が長かった。また、鑑賞についても、美術館で静かに作品と向き合う――やはり個人の活動として行われる習慣、文化を背景に、学校でも作品についての知識、理解を得る学習としてイメージされていた。このような美術教育の土壌において、どのようにして言語活動を活発に行えばよいのかということは、当時ほぼ手探り状態で、そこに紹介された “言葉による” 交流や鑑賞は、図工や美術の時間にも、また、美術そのものについても、新しい価値観や観点を提案してくれるものとして強く期待されていた。

 そして信州では、長野県信濃美術館(現・長野県立美術館)・長野県教育委員会・東御とうみ市梅野記念絵画館ふれあい館・東御市教育委員会・安曇野市豊科近代美術館・安曇野市教育委員会が中心となって、鑑賞教育のための展覧会「美術館でおしゃべりしよっ!」を企画し、2008年にはこの3つの美術館と喬木たかぎ村立椋鳩十記念図書館の4つの会場をこの展覧会が巡回した。会期中、現地では地域の小中学生や一般の方々を募って自由な対話を中心とした美術鑑賞が熱心に行われた。つまり、前年に私が行ったこの講演とワークショップは、その準備に当たる研修会に相当していた[i]

 

【目の不自由な方々へ】
 この下に2枚の写真を掲載しています。1枚は、2008年10月から11月にかけて東御市梅野記念絵画館・ふれあい館で開催された展覧会「美術館でおしゃべりしょっ!」のフライヤーです。白い紙面の下から4分の1ほどの位置に、展覧会のタイトルが草色の弾むような書体で書かれています。その下に小さな黒い字で会期日程や時間、休館日等の情報が印刷されています。タイトルの上(紙の上部4分の3)には、大きな絵の前で、子グマが3匹おしゃべりをしている後ろ姿が描かれています。子グマ達自身はタイトルと同じ草色の体で、それぞれに左から白とピンクと黄色のシャツを着ています。彼らの前には、額縁に入った池田満寿夫の〈KIRIN〉がかけられていて、その大きさは子グマ達の倍以上はあり、みんな絵を見上げるようにして夢中で話し合っています。〈KIRIN〉は原画の写真ではなく、フライヤー全体をデザインしたイラストレーターがアレンジしています。サーモンピンクの背景に、中国の神話に出てくる架空の動物の麒麟が描かれています。この絵の麒麟は全体の形は鹿に似ていますが、全身に鱗があり、牛の尻尾と馬の蹄、頭部には角が1本あります。尻尾と頭の毛や体の鱗は黄色に塗られています。カラフルでユニーク。強そうで勢いのある動物に見えますが、子グマ達は、この世で見たことのない生き物の絵の前で、おしゃべりが止まらない様子です。

 もう1枚の写真は、豊科近代美術館での会期中、絵の前で数人の中学生と学芸員さんが話し合っている様子です。こちらはそれほど大きくない人物画の前に4、5人の中学生が並んで座り、その前に男性の学芸員さんが1人、しゃがんで同じ絵を見上げています。学芸員さんは恐らくファシリテーターをしていると思われます。中学生は全て後ろ姿ですが、やはり熱心に絵を見上げて考えている様子が伺えます。写真についての説明はここまでとします。
 この2枚の写真の後に、言葉による美術鑑賞について書いた節が続きます。

 

写真左:展覧会フライヤー 写真右:豊科近代美術館・会期中の中学生鑑賞会写真左:展覧会フライヤー / 写真右:豊科近代美術館・会期中の中学生鑑賞会

 

 

 言葉による美術鑑賞 ―2つの潮流―

 

(1)教育の場において

 さて、豊科近代美術館で午前中に2時間ほどかけて私が話したのは、当時私が出会い、その普及に携わっていた2種類の「言葉による鑑賞」のことだった。

 ひとつはここまでで述べてきた、学校や美術館等、教育の場で広がりつつあった「言葉による鑑賞」である。2008年に長野県の四会場を巡回した展覧会は、ニューヨーク近代美術館で「言葉による鑑賞法」を研究開発したアメリア・アレナス氏自身も企画に携わり、アドバイスや指導を行った。1990年代後半から2000年代にかけては、このように全国の幾つかの美術館や小中学校の先生方、また研究者たちが協力し、アレナス氏とも交流しながら「言葉による鑑賞法」を学び、普及の努力を重ね、その後30年の間に急速に全国に広がり、根付いてきて現在がある。それは、学校教育全体に「言語活動の促進」が求められるようになった時宜だけではなく、この鑑賞法には明確な方法を裏付ける強くて柔らかな理念があったからだと私は考える。

 日本の関係者の間では既によく知られていることであるが、アレナス氏は1984年から1996年にかけて、ニューヨーク近代美術館教育部で講師を務め、この間に、同館がニューヨーク市の公立小学校の教師75名と児童3500名を対象に、5年をかけて体系化したVTC(Visual Thinking Curriculum)の開発に携わった。そこから打ち出された鑑賞法が、「言葉による鑑賞」である。Visual Thinkingは、年月をかけた膨大な人数におよぶリサーチから練り出された方法であり、同時にその根本には、それまでの知識主義的な美術鑑賞を大きく覆す理念が育っていた。

 ここでは、Visual Thinkingの基本的な方法のみを紹介しておく。まず、子ども達(鑑賞者)が美術作品を囲んで語り合う際にファシリテーターが存在し、日本の学校では一般に教師がその役割を担ってきた。そして、モチーフや基調色等、多様な観点から類似点がある作品を2、3点選定してスライドで見せながら、それぞれの作品について、以下の活動を進める。

 

1.最初の作品を映す。


2.子ども達は数分間、ひとりで静かに作品をじっくりと見る。
  ファシリテーターは子ども達に、作品をよく見て、よく考えるように促す。

3.基本的な質問をする。
  ①「この絵には何が描かれていますか?」「今ここで何が起きていますか?」
  ②「何を見てそう思いましたか?」「そのように考えるのはなぜですか?」

4.その他にも、「何か他に気がついたことはありますか?」「どんなことを考えましたか?」等ヴァリエーションを持たせた質問をして視点や思考をつなぎ、対話を展開していく。

 

 この簡潔な質問と、子ども達の発言に基づきながら、見る→考える→話す→聞く→見る→考える→……の循環を繰り返すのである。また基本的に、こうしたセッションは1週間に1度、習慣的に行うことも重要とされている。

 ファシリテーターは、作品について、できるだけ多様な意見を引き出し、オープン・エンドに討論させることで、リテラシーとしての思考力を高めていくことが仕事である。また、ファシリテーターは、必ずしも美術史に関する際立った知識を持っている必要はなく、子ども達の意見に対する正誤も言わないように、とされている(必要に応じて知識を出す場面もあるとされる)[ii]

 私が香川大学に在職していた時期、2006年から2007年にかけて大学院に来ていた県内のある小学校の先生は、この鑑賞法を自分の学級で継続的に行い、子ども達の変容を研究としてまとめあげていった。

 図工の授業は、国語や算数のような主要科目と比べて、本来の時間数が少ない上、当時、さらに削減される傾向にあり、授業中に鑑賞ばかりに時間をかけることは不可能であった。そのため、この先生は給食の後や下校前などの隙間時間も利用して、できるだけ鑑賞を継続する努力を行った。そして、この鑑賞を「わくわくアートウォッチング」と名付け、4年生30名のクラスに見事に浸透させていったのである[iii]。私は彼女の指導教員として、子ども達の声や言葉、反応の記録を共に振り返り、また時に、愛媛県との県境に近いその小学校まで赴いて、鑑賞の時間を見せていただいた。

 子ども達はそれまで、作者の意図や作品の背景を探り、それらを結びつけながら作品を理解していく、という鑑賞学習を経験していたため、「わくわくアートウォッチング」の初期において、自由に自分の見方や感じ方を述べることに躊躇している様子がうかがえたと言う。このため、とにかく見つけたことを言葉で出し合ったり、(対話の流れを考えずに)自分の言いたいことを言ったりするだけに終始する段階が暫く続いた。

 しかし、次々に新たな作品と出会い、自分自身がテーマを生み出す話し合いに馴染むにつれて、友達の意見を最後まで聞き、受け入れてから自分の意見を話すようになり始める。また、友達の発言に対して質問をし、「自分ならこう思うけど……」と話題を深める姿勢も生まれるようになる。勿論、全ての子どもが回を追うごとにメキメキとこうした変容を遂げるわけではないが、言葉を出すということ、同じ作品を見ている他者の考えや思いに耳を傾けること、それを受容してさらに考えること、皆で新しい意味をつくりだすこと、といった創造的な流れが少しずつ生まれる過程には感動を覚えた。また、毎週、スクリーンに新たな作品が映し出される度に、まず「わーっ」と歓声が上がる。子ども達の感性のみずみずしさと共に、何世紀も遡る時代の作品が、現代の日本の小学校でスライド映写されただけで子ども達の瞳が輝き、大歓迎を受けるという、芸術作品の持つ底知れぬダイナミズムも思い知った。

  繰り返しになるが、この鑑賞法において、ファシリテーターの役割は、子ども達が常に「自分自身の結論」に到達できるように支援することで、知識情報を得られるようにすることではない。これは、それまでの美術鑑賞とは明らかに異なる理念である。

 アレナス氏はこの方法を「作品の前で子ども達が放っておかれたとき、自然に学ぶことを中心にした教育モデル」であると述べる。この言葉は一見、何を学び、何を身につけるのかが不明瞭な印象を受ける。しかし、彼女は一方で「美術鑑賞は、観察力を高め、その観察を系統立てて思考にまとめる能力を、そして思考を言葉で表現する力を育てる。つまり、知的な成熟に欠かせない技術を磨く」と、提供されて身に付くリテラシーではなく、子ども達が自ら生み出し身につけていくリテラシーの誕生と未来を明らかにしている。

 また、子ども達は、芸術作品に接する体験を重ね、見て考える習慣を身につけていくプロセスで、自然に芸術的な情報も獲得するようになる、と確信している。Visual Thinkingは、子ども達(人間)と芸術作品に潜在する、互いに結びつこうとする力を信じることから生まれたのではないかと私は考えている。

 

(2)見えない・見えにくい人と共に ー対話のはじまりー

 この日、私が長野県の先生方に紹介したもう1つの鑑賞法は、視覚障がいがある人々と共に言葉で鑑賞する方法だった。まずスライドで、2種類の類似した場面の写真を見てもらった。それはどちらも、美術館に展示された絵の前に数人の人が集まって、話し合いながら絵を見ている様子である。しかしよく見ると、相違点がある。1枚の写真は、ここまでで述べてきたVisual Thinkingの様子で、絵の脇にファシリテーターが立ち、それ以外に10人ほどの人々が絵を取り囲むようにして床に座り、話し合っている。もう1枚の写真には、ファシリテーターらしき人物はおらず、3〜5人で絵の前に並び立ち、話し込んでいる。真ん中に立っている人は白杖をついている。つまり、目が不自由な人を挟んで数人の見えている人がいて、皆で話し合っている光景である。

 後者の写真は、京都の市民グループ、ミュージアム・アクセス・ビュー(以後、ビューと記載)が関西の美術館を訪問し、鑑賞を行っている場面で、Visual Thinkingが日本に広がったのと同じ2000年代半ばの様子である。本連載第1回でも述べたように、ビューが正式に設立されたのは2002年のことで、2000年代には京都以外にも東京や名古屋等、同じような活動に挑戦する市民グループが少しずつ全国に生まれ、視覚障がいがある人とない人とで話し合いながら鑑賞する活動が模索されるようになっていた。

 しかし、この2種類の言葉による鑑賞の両方に携わっていた私の知る限り、当時、これらが交叉する場面は未だ無かった。(後年、次第に相互に興味を持つようになる時期を迎えるが、これについては別途述べることにする。)

 私の記憶を辿ると、当時、手探りで始まったばかりのビューの鑑賞は、殆ど枠組みが無く、何を話してもよい状態であった。見えている人が、自分達はどのような作品の前にいるか、という基本的な視覚情報について伝えた後、Visual Thinkingのように自分の見え方や感じ方を自由に話し、見えない人から質問を受け、皆で深めていくような会話もあれば、会話の起点は作品であっても、徐々にその作品とも美術そのものとも無関係な話題へ広がっていくこともあり、と、バラエティーに富んだ会話があちこちで発生することが珍しくなかったように思う。それを数年続けているうちに、「掴みどころがなさすぎる。これでよいのだろうか」という声も聞こえるようになった。しかし、私は当時のその状態に、違和感も問題も特に感じていなかった。というのは、Visual Thinkingは、学校や美術館の教育の場で行われるものとして始まり、「何のために、どのような順序で、何を行う」と、理念や方法が明確で、それが必要とされていたが、ビューで始まったことは、それまで行われたことのないもので、参加者には何が必要で、何が求められ、何に向かっていくのか、が「これからみえてくる」状態、または「自分たちでつくっていく」状態にあると考えていたからである。そして、参加者は私も含め、多様な角度からの成功や失敗を経験しながら、心から楽しみ、笑顔で話し合っていたことが何よりも大切で、次も、また次も、と集まることが続けられた。この頃の私は、急いで先を追求せずとも、どこかで着実に育っているものがある、と漠然と感じていた。

 ビューの活動が年月を経て、美術そのものと深いつながりを育むようになるまでに、中心になって活動を牽引してきた方々が、まず押さえていた重要なことは、一回一回の企画の過程にあったと私は考える。みんなで行ってみようと思う美術館や展覧会の検討、美術館への連絡、連携、会場の下見、参加者募集、会場へのアクセスチェック(視覚障がいがある人々が使用する交通網や経路と集合場所)等々、見えない・見えにくい人が安心して参加できるようにするための入念な準備を、実に細部に渡って行っていたことに、深い感銘を受けた。20年前、鑑賞ツアーを実現するための、そうした過程の出来事は、必ずしもスムースに運ぶことばかりではなかった。私は、家を出て美術館の作品の前に立つまでのプロセスを考えたり意識したりすることが、それまで殆どなかったため、ビューの方々が当たり前の事のように細やかに、活発に、鑑賞ツアーの準備に動き回り、ご苦労に屈しないその様子は、視覚障がいがある人々を巡る社会の状況を知る貴重な入り口となった。

 1995年に名古屋で、障がいがある人々と共に美術館へ行くボランティア団体、アクセス・ヴィジョンを立ち上げたジュリア・カセム氏は、(見えない・見えにくい人が)「ミュージアムを訪れるということは、一人では何もできなくなったことに失望し、わずかな楽しみしか持てなくなった人が思い切って家を出るきっかけとなる」と言う。また、「いったん、ミュージアムに来てみれば、絵画を通じて視覚世界を語り合うことによって、それまでほとんど閉ざされていた視覚という世界とのつながりを取り戻すことができます」と[iv]。視覚障がいがある人にとって、この「いったん、ミュージアムに来る」までの過程もまた大きな意味を持つこと、そして、見える人がそれを支え、保証しなければならないこと。今、目が見えている私達自身も、いつ見えない立場になるかわからないという現実が、美術鑑賞を行う以前にあることは、常に忘れられてはならない。

 滋賀県大津市にある三橋節子美術館へは、2004年5月にビューで一度訪れたことがあったが、私は2018年に、再び視覚障がいがある人々と共に訪れる機会を得た。この2度目の訪問はビューの企画ではなかったが、ビューの創生期からの中核メンバーの戸田直子さんからお誘いいただき、私は大学院生を誘って参加した。それは14年前よりも小人数のミニツアーだったが、私は偶然にも、14年前、同じグループで話しながら鑑賞した全盲の女性その人と再びペアになり、同じ作品の前で語り合うこととなった。

 その方とは、やはり「懐かしいですね」と昔のことを思い出す話題が広がったが、彼女がニコニコと輝くような笑顔で「あの時は、もう、本当に嬉しかった。私が美術館に行けるなんて。テレビ出演に応募したら当選したような、そのくらいすごいことに思えて、とても興奮しました」と言ったことが忘れられない。一緒に見聞きした三橋節子さんの生涯や作品についての思い出も印象深く、胸に蘇りながらも、彼女にとっては、「目の見えない自分が美術館に行くということがどんなに素晴らしい出来事だったか」ということが突出していたらしく、その興奮は14年経っても色褪せないようだった。私は、ビューの活動の黎明期、参加者が全く自由に、時に目の前の作品から離れて自分たちの会話に花を咲かせたことは、彼女のこの思いにも重なるのではないか、と考える。それは、この市民活動が継続し、自立していくために、最初に開かれた緩やかな時間であり、必ず必要なものだったと思う。

 さらに、当時のビューで起きていた、この、枠組みの無い会話の広がりは、作品から離れていくことも起きながら、なお美術作品を介在する場で行われていたこと、対話の起点は必ず美術作品であったこと、は非常に重要である。後に、この活動が「鑑賞」という、作品に向かうかたちをしっかりと成し始めたとき、そのイメージは、個々の鑑賞者のあらゆる経験とつながる可能性を認めるからである。これは、学校の図工や美術の時間に、子どもたちが、教師から提示された課題と向き合いながら、決してその時間内だけに切り取られたイメージや表現を生み出しているわけではないことと重なる。

 ――そして数年後、ビューでは、鑑賞の4つの「しない」ルールを提案し、活動の最初に毎回、共有しあうことが始まった。そのルールとは、

 

1.静かに鑑賞しない。
(おしゃべりしながらの作品鑑賞を楽しみましょう)

2.見える人は一方的な説明をしない。
(自分の声や相手の声、作品の声を「聴く」ことも忘れずに)

3.目の見えない人/見えにくい人は、聞き役に専念しない。
(どんどん困らせる質問をしましょう)

4.全てをわかり合おうとはしない。
(人間、全てを分かり合うのは不可能です。それより気軽に鑑賞しましょう)

 

というもので、ホームページには、このルールの下に「思いがけないところへ会話が飛んで行ったり、発展したり、脱線もOK。新たな発見や、忘れていた感情を思い出すことも、アートの楽しみのひとつです」と添えられている。作品に縛られすぎず、作品を楽しむ。美術作品について、知っていたり、見えていたりしなければ話せないことから、見事に解放されていくルールがここに完結しており、私は今でも、さまざまな鑑賞の場で、このルールを紹介し、利用させてもらっている。

 

 アイマスク鑑賞から ー対話ののびしろー

 

 豊科近代美術館では、このような2種類の言葉による鑑賞のことを話して正午を迎えた。そして、昼食をとっているうちに、窓外では雪がちらつき始めた。午後は、参加された方々に実際に言葉による鑑賞を体験してもらう予定だったが、活動形態はビューの方法を踏襲することにしていた。つまり、4、5名のグループに分かれて作品の前で話し合うが、その中の1人はアイマスクを着ける。作品が見えない人を1人設定することで言葉を誘い、どのような言葉が出てきて対話が展開していくのか、そして鑑賞とは何なのか、を体験してもらいたいと考えていたのである。このため、当館の学芸員さん達には、予め鑑賞作品を選定して会場に並べ、鑑賞活動が始まる前にアイマスク役の人にそれらが見えないように、布を被せて準備をしていただいていた。

 私は活動のあらましを皆さんに説明した後、グループに分かれてもらい、その中からアイマスクを着ける人を決めてもらった。そして全てのアイマスク役の人がしっかりとアイマスクを装着した後、作品にかけられていた布は一斉に取り外された。高田博厚を中心とした彫刻作品を多く所蔵するこの美術館では、この日も、会場に絵画作品と共に彫刻作品も準備してくださっていた。長野県の先生方や学芸員さんは、グループごとに作品の周りに集まり、臆する事なくにぎやかに話し始めた。

 このアイマスクの鑑賞を絵画作品で行うときは、おしゃべりが始まって15〜20分ほど経った頃、私は「いかがですか?」と声をかける。ほとんどのグループで、アイマスクの人は「どんな作品の前にいるのか、大体わかってきた」と言い始め、見えている人々は「ほぼ語り尽くした」「もう話すことがない」といった様子になる。見える人ばかりで行うアイマスクの鑑賞では、大抵の場合、まず、アイマスクを着けた人に、作品の視覚情報が一斉に伝えられる。アイマスクの人も、それを聞いて、頭の中に作品のイメージを作り始める。わからないところは問い直し、見えている人は言葉を変え、工夫して「説明」を充実させていく。そこではいつのまにか、見えていない人がつくっていくイメージの答え合わせが目指されている。鑑賞作品が絵画の場合は特に、パズルが埋められていくようにイメージが出来上がっていくのかもしれない。そこで、私は「鑑賞って、どのような作品なのかが分かる、ということでしょうか? これから、見えている人は、自分にはどのように見え、感じられるか、を話してください。ひとりひとり異なるはずです」と、作品を「わかる」ことから、「鑑賞する」ことへと活動を切り替えていく。アイマスク役の人が、活動の最後にアイマスクを外したとき、自分が思い描いていた作品のイメージと、目の前の作品が異なっていても良いのだ、ということを理解してもらうためである。

 しかし、この日は彫刻もあったので、作品の周囲360度のどの位置からでも作品を見ることができ、同じ作品でも鑑賞者の立ち位置、視点によって異なる表情や雰囲気を見てとることができた。高さのある作品の周りでは、椅子を積んで、上から見てみようとするグループもあり、その様子から、作品はいろいろな見え方や表情があるらしいということをアイマスク役の人も感じ始めたようだった。この日は、見えている人どうしでも異なって見えたり感じたりする内容の対話が、比較的早い段階から始まったので、私は活動を2段階にして進める必要がなかった。アイマスク役の人は、「見えていたら、きっとこんな作品だろう」という到着点に向かうわけではないさまざまな声や言葉を戸惑いながら聞き、首を傾げたり問い直したりしながら、実は自分だけの作品のイメージを形成し始めているのだった。

 

写真左:アイマスク鑑賞①絵画をみる様子、写真右:アイマスク鑑賞②彫刻をみる様子

   

  アイマスクの鑑賞活動は、目が見える人と見えない・見えにくい人とで言葉で鑑賞ができるという方法を知ると共に、鑑賞とはひとりひとりが作品との間に独自な関係を築くことであり、決して知識情報や視覚情報で確認できる解答を求めることではない、ということが体験できる。それは、見えている人ばかりで行ってもわかることであるし、実際に見えない・見えにくい人と共に作品と向き合う時、答え合わせはできず、それを目指すものでもない。生まれつき全盲の人には到達できない答えがあるとするのが芸術であり、鑑賞であるとすると、それはいかに狭い世界のものであるかと思う。個々の美術作品は、そもそも「これが全てである」と語り切れる到達点をもつものではない。

 

 設立からの歴史が最も長い市民グループ、名古屋YWCA美術ガイドボランティアグループ(現・名古屋YWCAアートな美)は、1991年、名古屋市美術館で開催された「手で見る美術展」に参加した際、視覚障がいのある方から、「常設展にあるモディリアニの〈おさげ髪の少女〉も見たい」と言われ、何をどのように話せばよいか考えることになったのがきっかけで、視覚障がいがある人と共に絵画を鑑賞することが始まった、と言う。1980年代に、視覚障害がある人々が彫刻を触って鑑賞できるように、という観点から日本のミュージアムは開かれ始め、90年代になって「触ることが許可されていない平面作品(絵画等)も見たい」という声があがり、いわば「自然発生的に」始まったのが、視覚障がいがある人々と共に言葉でみる活動である。教育の場のように、意図的に推進される力が背景にない点で、成り立ちが全く異なる。ただ、アレナス氏が、子ども達が作品の前で放っておかれたとき、自然に学ぶことに着目したということは、視覚障がいがある人々が絵をみたいと思い、見える人と共に動き出したという、社会に自然に芽吹き始めた現象と、根底では重なっているのかもしれない。

 

 さて、アイマスクを着けた人を交えたグループ編成で、豊科近代美術館の名品を鑑賞しているうちに、建物の外は真っ白に吹雪き始めた。屋内で、長野県の先生方や学芸員さん達が、作品を囲んで楽しそうにおしゃべりを続け、無数の言葉が舞い散っているのと同じような印象を受けた。そのうち、当館の学芸員さんが「このまま雪が降り続けると、列車が止まって、先生が帰れなくなってしまうため、途中になりますが、この辺りで終わりにしましょう」とお声掛けくださり、予定よりも少し早く、この日の研修会は終わりを迎えた。外は、ほんの数時間のうちに驚くほど雪が積もっていて、まだ降り続けていた。館では、駅まで乗せてもらうタクシーを呼んで下さったが、美術館のエントランスからタクシーまでの僅か数メートルを、私は腰まで積もった雪を掻き分けながら歩いた。膝まであるブーツを履いていても間に合わないのではないかと感じたが、声がしたので振り向くと、美術館の窓から、先生方が、「日野先生、頑張ってー」と手を振ってくださっていた。信州の方々はこの程度の雪には慣れていらっしゃるのがよくわかり、私は一人、雪まみれになりながらタクシーに乗り込んだ。 

 

豊科近代美術館前の彫刻と雪だるま

 

 【目の不自由な方々へ】
 本節(アイマスク鑑賞から)にも3枚の写真を掲載しています。これらは、豊科近代美術館から使用許可をいただきました。先の2枚は、この日、アイマスク鑑賞を行っている会場の様子です。1枚は、横長の風景と思われる絵の前で4、5人の人が話し合っています。白いジャケットを着た女性がアイマスクをしていて、顔の前で「いいえ」という風に手を振っています。アイマスク役の人も熱心に会話に参加している様子が伺えます。そして2枚目は、女性の頭部の彫刻を4人の人が囲んで話し合っています。立体作品なので、複数の人で囲んでみるそばに空間が生まれ、皆がそれぞれの角度から見ている様子が伺えます。最後の1枚は、美術館の前に深く雪が積もり、雪だるまがいる様子です。雪だるまは屋外に佇む女性の彫刻を見上げ、彫刻の女性は胸の前で両掌を合わせて優しく雪だるまを見下ろしているように見えます。そして、彼らはまるで対話しているかのようです。写真の説明はここまでです。この後には注釈があります。ご関心がある方はどうぞお読みください。

 


[i] この展覧会は、当時、高知大学教授で、著書『まなざしの共有』淡交社(2001)等で言葉による鑑賞の理念と実際を明快に解き、全国各地でその普及を推進した上野行一氏を中心に、国立教育政策研究所の奥村高明氏(現・日本体育大学教授)、1980年代後半から90年代にかけてニューヨーク近代美術館教育部講師として言葉による鑑賞法を研究開発した後、フリーとなり、世界各国で普及に努めていたアメリア・アレナス氏等、美術教育、鑑賞教育の専門家たちが作品選定や研修の指導、企画に協力し、私も微力ながらその極く一端を担っていた。

[ii] 本稿におけるVisual Thinkingの理念や方法は、前出の上野行一氏の『まなざしの共有』淡交社(2001)やアメリア・アレナス著、福のり子訳『なぜこれがアートなの?』淡交社(1998)、また、アレナス氏がスペインのラカイシャ財団の助成の元、繰り広げた言葉による鑑賞のプロジェクト資料(上野行一代表・科学研究費補助金、基盤研究B, 18330194「対話による意味生成的な美術鑑賞教育の開発」2006−2008、研究分担者:岩崎由紀夫、岡崎昭夫、奥村高明、日野陽子、三澤一実による)等に基づき、まとめている。

[iii] 圖子ひとみ「対話型鑑賞の継続的実践による児童と学級の変容―学校現場における効果的な実践を目指して―」香川大学大学院教育学研究科,美術教育専修,平成19年度修士論文
当時、香川県三豊市立詫間小学校の教諭であった圖子氏は、2006年から2年間、教育委員会派遣で大学院に在籍しながら、勤務校において丁寧で熱心な言葉による鑑賞の実践とその分析を積み重ねた。

[iv] ジュリア・カセム『光の中へ 視覚障害者の美術館・博物館アクセス』小学館, 1998, p.11

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著者略歴

  1. 日野 陽子

    京都教育大学准教授。専門は美術教育学。視覚障がい児・者の美術活動(表現、鑑賞)について、視覚支援学校や市民グループと共に研究を継続中。細見美術館(京都)の所蔵品の対話型鑑賞を収録した「おしゃべり音声ガイド」を作成したり、長野県立美術館のインクルーシブプロジェクト「みるを考える―見えない人と見える人が一緒にみるために」講師、香川県立視覚支援学校と高松市美術館による「みるって何だろう?―見えない・見えにくい人と共に行う美術鑑賞会」アドバイザー等を務めたりしている。

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