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風をみる 開かれゆくアートの場とかたち  日野陽子

はじまりの風景

 

 ――ただ、私たちはどこまでも公平である、ということを芸術を通して求め続けていた。

 

 2022年11月5日。澄み渡るような秋空の下、私は長野県立美術館に到着した。

 当日は、午後から当館のインクルーシブ・プロジェクトの一つ “「みる」を考える 見えない人と見える人が一緒にみるために ” が予定されており、私は数か月前から、学習交流の学芸専門員である青山由貴枝さんと、東御市にお住まいで視覚障がいがある広沢里枝子さんとで打ち合わせや準備を行ってきた。

 広沢さんとはその日の昼食を当館のカフェで一緒にとる約束をしていて、その場には、彼女の仲間であり、このイベントにも参加を申し込んでいる目の不自由な方々も何人か来られ、ご紹介いただくことになっていた。

 美術館の中からカフェのウッドデッキを眺めると、盲導犬のジャスミンを伴った広沢さんを始め、他にも盲導犬連れの方が何人かいて、テーブルの下では、盲導犬たちも友人どうしのように顔を突き合わせ、穏やかな表情で座ったり伏せたりしていた。

 美術館で、こんなにも楽しそうに目の不自由な方々や何頭もの盲導犬が集っている様子に、私は生まれて初めて出会った。

 

 見えない・見えにくい人と美術のこと ー湧き水から流れへー

 

 このイベントは、目が見える人と見えない・見えにくい人とが、対話を通して一緒に美術作品を楽しもうとする鑑賞会である。こうした取り組みは日本では1990年代の後半から始まり、各地で少しずつ、市民グループや美術館、盲学校等が連携し、交流し合いながら、その方法が探られてきた。そして今、ようやく20年余りの時が経とうとしている。

 

 私自身は、2002年に京都で発足したミュージアム・アクセス・ビューという市民グループ(2022年解散。以下「ビュー」と記載)に参加を重ね、さまざまな状況、立場の方に出会い、このような鑑賞の意味と可能性を考えつづけてきた。

 また私は同じ時期(2012年の3月までの10年余り)を香川大学に奉職しており、高松で暮らしていた。その関係から、当時、香川県立盲学校(現・香川県立視覚支援学校)で図工・美術を担当されていた栗田晃宣先生にお会いした。そして、栗田先生が視覚障がいのある子ども達のために、先進的な教材・教具の開発や授業実践に取り組まれるご様子を目の当たりにする機会に恵まれた。

 

 ビューでは、設立当初から主に、絵画を始めとした手で触れることが許可されていない作品を、対話を通して鑑賞する挑戦を重ねていた。

 ビューで行っていたような言葉による活動が、2000年代に各地で少しずつ始まるまではというと、多くの美術館では、視覚障がいがある人を迎える手立てとして、主に、触って鑑賞できる立体作品を準備していた。これは戦後、千葉や神戸等の盲学校を中心に、粘土造形が熱心に行われた流れや、1984年、東京都渋谷区に、村山亜土・治江夫妻が、日本で初めて視覚障がいがある人々が彫刻に触って鑑賞できる場としてGallery TOMを開いたことが大きな契機となっている。

 そして、こうした「触ることが開かれた場」で起きてきたことは、まずは「目が見えないから触れて知る」という出来事であったが、これは同時に、美術の世界そのものを大きく変革していく貴重な播種となった。

 私は普段、大学では教育学部の学生達に、子どもの造形表現の発達や特徴、小・中・高等学校での図工や美術の授業の内容や方法等を指導している。このような美術教育の視点から見れば、TOMに端を発した、見る場所で触ることは、表現活動と鑑賞活動に共に「触れる」という出発点を据えた画期的な出来事であった。

 

 目が見える人にとって美術の世界は、長年、表現する(つくる)ことと鑑賞する(みる)ことという、立ち位置の異なった活動から成るとイメージされてきた。美術を専門的に学ぶことを選ばずにおとなになった多くの人が、美術館で作品を見て感動しながらも、自身が表現することとは一線を画して見つめているというのは、一般によく起きていることであろう。そこでは、見る人と描く(つくる)人が明確に立場を異にしている。

 しかし、みることとつくることは、一旦、人の成長や変容の過程に置かれると、すべからく循環するものとなり、切り離されてはならなくなる。このため、近年の義務教育課程の美術教育において、表現活動と鑑賞活動を一つの授業題材の中で意図的に同居させることは、もはや定着し始めているほどである。

 

 盲学校で栗田先生が行われていた授業は、普通校で目指している美術教育の数歩先を行っている――当時、私が抱いていたこの予感は、さほど時を経ないうちに確信に変わり、感銘を受けることの連続となった。

 それは主に、触覚を鍛え、ものを触り感じることを通して周囲の世界を認識することから始める、丁寧で着実な道筋の中にあった。栗田先生は、日頃の造形活動や感覚遊びにおいては、視覚障がいがある子ども達が色彩について学び、使用できるパレットや、自分が描いた線に触れて確かめながら絵を描ける蜜蝋ペン等の道具を開発された。鑑賞については、絵画作品を触れて鑑賞できるかたちにした触図の作成に、緻密な試行錯誤を重ねられた。これらの研究は、退職後の現在も継続され、視覚支援教育や、私たち美術教育の研究者に、先進的な指針を示し続けてくださっている。

 また、大人の足で、盲学校から徒歩20分ほどかかる美術館や文化会館へも、機会の許す限り生徒さんを引率されていた。美術館等では、開催中の彫刻展の作品の中から許可を得た数点を触ったり、触れると音が鳴るしくみになっていたり、素材の触感が特徴的であったりする現代美術に触ったりしながら、皆でゆっくりと語り合い、楽しむことのできる豊かな時間が流れていった。このような栗田先生の授業の中では、触って表現することも、触って鑑賞することも、同等に世界を知り、広げ、後に子ども達自身が創造的に表現し、生きていく力の原点が育まれていたと考える。視覚障がいがある子ども達の生活、人生にとって、触って知り、実感することが如何に大切か、ということを学んだ貴重な年月であった。

 

 盲学校でこのような場に居合わせ、限りない学びを得ながら、一方で、私はビューの活動にも参加を重ねていた。これは参加者の殆どがおとなで、皆が美術を愛好しながら、しかも皆が美術に多かれ少なかれ克服すべき壁を感じていたのが特徴的であった。

 一般に視覚芸術とみなされてきた美術の世界に対して、目が見えない・見えにくい人が壁を感じてしまうことは自ずと起きてくるとわかる。しかし、見えている参加者も同等に、或いは見えない人よりもさらに高い壁を美術に感じ、戸惑っていたことは興味深い事実であった。それは、「美術を専門的に勉強していないので何を話せばよいかわからない」「間違ったことを話していないか不安である」といった声だった。2000年代当時、参加者層として多かった、こうした見える人々が本当に鑑賞を楽しみ、見えない人とそれを分かち合うためには、「美術は難しい(わからない)から言葉で語るのはもっと難しい」そして「正しさを伝えようとしている」という二重の概念崩しをする必要があった。

                                              

 語り合う美術の出現 ―公平な地平を求めてー

 

 先述のように、京都でビューが設立されたのは2002年のことだった。その前年に京都では、プロジェクト「ひと・アート・まち エイブル・アート近畿 2001」が開催され、障がいがある人の表現や作品の展覧会、ワークショップが数多く行われた。その運営委員であり、作品の出展者でもあった全盲のアーティスト光島貴之さんが、視覚に障がいがある人にも大勢来場してほしい、と願い、鑑賞ツアーを企画したのがビューの発端である。その後、翌年7月に正式設立するまでに、数回の鑑賞ツアーが行われ、参加者の募集や美術館との連携の仕方等、企画の実現に向けてさまざまな角度から検討が行われたと聴いている。

 私は、ビューが設立されて2、3年後から鑑賞ツアーに参加するようになった。当時、私は、見える人と見えない人とで対話を通して鑑賞を行う、という、美術に纏わる出来事そのものにも勿論関心を抱いていたが、実際に参加申し込みをして美術館に集まり、鑑賞ツアーを経験し、解散するまでの一連の流れの中で、随所にこめられた行き届いた配慮に気付く度、深く感じ入るばかりだった。

 設立当初から10年以上もの年月、ビューの代表を務められた阿部こずえさんと、先の光島さんを中心に企画運営に携わっていた方々は、鑑賞ツアーの周知、参加者募集、展覧会の下見、美術館との交渉、会場へのアクセスチェック、集合場所の決定、単独で来られる見えない参加者への連絡等々、細部に至る入念な準備を一回一回、丁寧に行ってこられた。そして、それによって、視覚障がいがある方々が安心して、繰り返し参加できる様子を目の当たりにした。

 

 さて、見えない・見えにくい人と見える人とで対話を通して行う美術鑑賞とは、一体どのような出来事なのか。これは、見える参加者も見えない参加者も、胸に抱いてくる目的が個々に異なっていること、また、見えない参加者の見えない状態や経験も個々別々であること、といった、良い意味で開かれた、そして困った意味で掴みどころのない状況を背景としている。

 私自身のここ20年ほどの、ビューや他地域の市民グループや、各地の美術館で行われた同様の鑑賞会での経験を振り返ると、その本質も実態もすべて異なっていた、と言っても過言ではない。私は、この長い道のりで手探りしながら、自分なりに微かにわかってきたことを少しずつ照らし出すことを本書の目的としたいので、まずここでは、黎明期(2000年代初頭)の状況から紹介することにする。

 

 ビューは法人格を持たない市民グループで、企画運営のメンバーにも参加者にも、年齢や性別、職業、美術を専門的に学んだり経験したりしたかどうか、といった条件は特に無かった。鑑賞ツアーは、見えない人1名と、見える人2、3名程度のグループに分かれて、自由に作品を選び、その前で話し合いながら楽しむ、というものであった。当時は、最初に見える人が作品の大きさやモチーフ、構図、色等、基本的な視覚情報を見えない人に伝えた後は自由に話し合う、というかたちで、話題の展開は殆ど各グループに委ねられていた。

 当時の印象的な場面で、私が今も鮮明に記憶しているものが二つある。

 その一つは、見える参加者の一人が予め展覧会の図録を購入し、それを片手に、作品の前で読み上げるようにして見えない人に解説していたことである。その人の、とても熱心に話し続ける様子から、恐らく事前に自宅でも図録に何度も目を通して予習したであろうことが伺えた。そしてもう一つの場面は、やはり見える人が、どのような作品の前にいるか、ということ、つまり目の前の作品を隅から隅まで滔々と語り続け、見えない人は相槌を打ちながら耳を傾けるだけ、という姿である。その人が滝のように話し続ける様は圧倒的な勢いで、同じグループにいた私も殆ど口を開く隙がない程だった。この二人の見える参加者は、それぞれ学術的な情報と視覚的な情報を伝えることに終始して、見えない人の鑑賞の手助けをしようとしていた。それらの情報を「間違いなく」「漏れなく」伝えようという切迫感にあふれた場面として、私は忘れられないでいる。

 しかし一方で、若い見える参加者がたどたどしく絵の説明をするうち、中途失明で見えなくなった年長者が、見えていた時の記憶を頼りに「それはこういうものではないか」と解釈を手助けすることがあった。また、見える人が、作品に描かれている光景が自分にはどのように感じられるか、ということについて経験を交えながら具体的に話したところ、見えない人も同様にその話題に絡む自分の経験や思いを話し、お互いに共感し合うような場面があった。また、それとは逆に、どんなに話し合っても最後までわかり合えないような場面も見受けられたりした。見えない参加者は、生まれつき全盲で見えた経験がまったくない人、中途失明でもその時期によって記憶のあり方がさまざまに異なる人、弱視の人、と個々別々の状況であった。しかし、それぞれの人の経験や生活があり、その人にしか語れないことがあるのは、見える人と同じである。そして、見える人も見えない人もが、美術鑑賞の中で、自分自身の感じ方や捉え方を、自分の中にあるものを踏まえて「自分の言葉で話し合う」ことが行われているグループでは、誰もが生き生きと口を開いていた。また、同じグループの見える人どうしでも見え方や感じ方が違う点について言葉を尽くし合い、声がどんどん大きくなっていく場面も増えていったのを覚えている。

 

 このようにビューの黎明期の鑑賞ツアーは、最初に基本的な視覚情報を共有する以外、何の方向性もなく緩やかに開いて継続していたが、徐々に、目まぐるしく次々と美術館を訪れるようになったある日、光島さんは「触れるものが無くても言葉のコミュニケーションだけで鑑賞は成立する」とぽつりと言った。

 その頃には、美術の予備知識が無いことを理由に戸惑いがちだった見える参加者は少なくなり、常連の見えない参加者の勢いや元気に押されるようにして、美術館の扉を叩いていたのを覚えている。見えない人は臆することなく口々に、わからないことを質問したり、見える人の言葉から自分に見えてきた作品のイメージを語り、確認したり、どうしても理解できないと感じることを伝えたり、と自分自身の言葉を伴い、毅然として作品と向き合っていた。美術作品を媒介に、居合わせた人それぞれが平らかに自己開示する場では、目が見えている、見えていない、という条件すら薄まっていく驚きと心地よさを誰もがふつふつと感じ始めていたのだと思う。

 しかし、ビューの活動の中で、もう一つ、私には忘れられないことがある。このように言葉による鑑賞が前面で行われる活動であったにもかかわらず、設立当初からのメンバーの一人である大向久子さんが、常に展覧会の数点の作品の点図を作成し、会場で配布してくださったことである。

 見える人も見えない人もどんどん話してください、という勢いの中ではあったが、見えない参加者は点図を手にすると、ぱっと笑顔になり、会場全体に柔らかい火が灯ったようになった。また、ビューの鑑賞活動と共に、見えない人と見える人で行う制作活動も提案し、リードし続けて下さった光島さんは、ご自身の作家活動として一貫して、触りながら制作する材料で、触って鑑賞する作品を、現在もつくり続けている。盲学校で、触る美術教育に心血を注ぎ、新しい方法を開拓し続けている栗田先生の姿とも重なる。

 

 作品を言葉で鑑賞する時には、知識情報にとらわれすぎず、自分や他者のありのままの見え方、感じ方を大切にすることで、その作品との今ここの出会いの意味が浮き上がってくる。これと同じように、見えない人と見える人とで鑑賞する時、視覚情報の正しさにとらわれすぎず語り合うことで、お互いの世界を交流できる意味が生まれてくる。そこに、なお触れる資料(点図)や、触れる作品等、触ることそのものが重要になってくるのは、見える人にとっても触ることが必要だからである。現在の美術教育においては、触ることも見ることも五感の一つとして等しく豊かさの源泉である。そして、これらの感覚のどれ一つ失っても生きづらくなるのは、誰にとっても同じである。

 

 20年前、美術館が見えない来館者のために触れる作品を準備したことは、見えないところを補うためであり、支援しようとする意識からの動きであったかもしれない。しかし、見えない人が見える人と共に美術館の扉を叩き、対話によって鑑賞を積み重ねた年月は、私たちに、芸術は支援ではなく誰もに公平な地平を与えてくれる、ということを教えてくれた。

 大向さんがそっと手渡してくれた点図も、見えない人が携える白杖も、そして盲導犬も、見えない人にとって紛れもなく大切なサポートではあるが、同時に公平に生きていくための象徴であると考える。

 

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著者略歴

  1. 日野 陽子

    京都教育大学准教授。専門は美術教育学。視覚障がい児・者の美術活動(表現、鑑賞)について、視覚支援学校や市民グループと共に研究を継続中。細見美術館(京都)の所蔵品の対話型鑑賞を収録した「おしゃべり音声ガイド」を作成したり、長野県立美術館のインクルーシブプロジェクト「みるを考える―見えない人と見える人が一緒にみるために」講師、香川県立視覚支援学校と高松市美術館による「みるって何だろう?―見えない・見えにくい人と共に行う美術鑑賞会」アドバイザー等を務めたりしている。

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