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存在と意味――哲学探究2 永井均

はじめに

第一回

はじめに

 この連載は、『存在と時間――哲学探究1』(文藝春秋)の続編である。だから副題は「哲学探究2」とした。とはいっても、そこで論じられたことを前提として、その「続き」がなされる、というわけではない。すべてをもう一度、最初から始めるのである。すでに何度も論じた問題を、また新たな視点から、あらたな組み合わせ方で、できるならより深く、論じるのである。だから読者は「哲学探究1」を読まずにこの「哲学探究2」から読み始められても、なんの不都合もない。
 私にとって驚くべき、すなわち哲学すべき主題は、まずは、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きであり、次に、この不思議さを構造上(私でない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さであり(それはまた、にもかかわらず問題の意味そのものが理解できない人が頭脳明晰な人のなかにもかなりいるという意外性でもあり)、そして最後に、本質的に同じ問題が私の存在以外のこと(たとえば今の存在や現実の存在といった)にもあてはまる、という再度の驚きである。この連載の最終的な狙いは、この最後の点に照準を合わせて、それらに共通の構造を解明することにある。のではあるが、さしあたりは、そのことを念頭に置きつつも、問題の広がりと思考の可能性をできるかぎり広範に提示することを目指す。
 これらの問題は、間違いなく実在するのだが、人類史において(私の知るかぎり)まだ一度も表立って徹底的に論じられたことがない。ともあれこういう問題が存在しており、そこからこういう思考の可能性が広がっているということを、可能なかぎり広範に、できるなら縦横無尽にと言えるほどに、書き残しておきたいと思う。したがって、上手く説明したり、全体を体系的にまとめたり、といったことにはさほど意を用いず、ときには羅列的ともいえるような(したがってアフォリズムに近いような)書き方にもなるようにしたいと思っている。読者の方々には、もちろん全体の整合的理解は前提になるとはいえ、個々の問題をさらに自ら深く思考していただけることを願いたい。


第1章
〈私〉の存在にまつわる諸問題

〈私〉の存在という問題の真の意味

 私の存在の不思議さは物理主義的な世界像を前提にして提示されることが多い。たとえば、「人間はみな同じように脳や神経(といった物的なもの)があって、それらが感覚とか意識(といった心的なもの)を作り出しているはずなのに、なぜ現実にはこの一つだけしか感じられないのか?」というように。しかし、この問題の立て方は誤解を招きやすい。すでに問題の意味を理解している人にとっては、これでもその問題を喚起させるに十分な力があるのだが、そうでない人には問いの意味を誤解させてしまうことがありうる。この問いかけは、みな同じ条件であるはずなのに、現実にはそのうち一つしか感じられないことには物理的な理由がないではないか、と言っているのだが、その読み方を変えれば物理的な理由があると解することも可能だからである。その場合の物理的な理由は、たとえば、神経が繋がっていないからだ、といったものである。つまり、「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いを「なぜ他人の意識は感じられないか」という意味に解したわけである。元来の問いの趣旨は「なぜこの一つ(、、)しか感じられないのか」にあったのではなく、むしろ「なぜこの(、、)一つしか感じられないのか」に、つまり、一つだけであることにではなく、その(、、)一つの選択の根拠にあったのだが*。

* とはいえここにも、たとえ神経をつなげても(いや何をしても)他者の感覚は感じることはできない、という哲学的な問題が隠れてはいる。神経をつなげて他者の感覚を感じてみても、感じた以上それは自分の感覚なのだから、それがその他者が感じている感覚と同じ感覚か違う感覚かはやはりわからないではないか、というわけである。ここには生理的な壁ではなく論理的な壁があるのだ、などと言われたりもする。しかし、その正体は、いままさにここで問われている問題そのものにある、というのが私の主張である。しかし、そのことはこの議論が終わってさらに累進構造について議論を経なければ語ることができない。

 だから、この問いはむしろ「なぜ一つは現実に感じられるのか」と肯定的な形で問われるべきなのである。一つでしかないことではなく、一つはあることが問われるべきだからだ。とはいえ、そう問われたとしても、同じように誤解されることはなおありうるだろう。今度は、時間的な対比を導入することが駄目押しになりうる。「百年前の人間たちも、みな同じように脳や神経があって、それらが感覚とか意識を作り出していたのに、なぜそれらのうちの一つも現実には感じられなかったのか?」。そしてまた、「百年後の人間たちも、みな同じように脳や神経があって、それらが感覚とか意識を作り出しているであろうが、それらのうちの一つも現実には感じられないとすれば、それはなぜか?」。これらの問いを付け加えられても、なお同じ誤解の線に沿って答えようとするなら、それは「百年前だって、百年後だって、やはり一つしか感じられなかったし、感じられないだろう。現状もそれと同じことだ」となるはずである。これは、(「この」を取った)「なぜ現実には一つしか感じられないのか」という問いに対する答えとしては有効だろうが、(「この」を付けた)「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いに対しては無効だろうし、おそらくはまた肯定的に表現された「なぜ一つは現実に感じられるのか」に対しても無効であろう。
 このことから二つのことがわかる。第一はもちろん、「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いに対する物理的な理由はない、ということである。もし物理主義者が、問いの意味を理解したうえでなお、それがあると主張したなら、とんでもない主張をしたことになる。地球人類史のなかで(あるいは宇宙生物史のなかで)ただ一人だけ他の人間(あるいは生き物)とは物理的に違う組成で出来た個体があって、だからそれだけが現実に音が聞こえ痛みを感じるこの生き物なのだ、ということになるからである*。

* この唯物論的独我論は、たしかにとんでもない主張であるとはいえようが、じつは本当にそうではないのか、と疑うことは十分に可能ではあるのだ。そして、それが可能ではあることこそが、実はこの問題の哲学的な肝(きも)でもあるだろう。別の観点から言うと、もし、たんに哲学的議論として独我論という考え方に興味を持っているのではなく、ほんとうに「独我論的心配」をしている(なぜ私だけこんなに他の人と違うのだろう、何か変なのではないか、というような仕方で)人がいたら、その人はむしろこの物理主義的な答えを受け入れるのが自然なのではなかろうか。その意味では、唯物論的独我論は決して嗤うべき思想ではないだろう。

 したがって第二は、物理主義的前提から出発する(そして、それに反することを言う)ことは、この問題を提示するために必要ではなく、むしろ問題の本質を見失わせる、ということである。つまり、この問題は物理主義のような考え方と対立するようなものではないのだ。脳や神経などはまったく持ち出さずに、ただ単に「(過去や未来を含めて)たくさんの意識のある生き物が存在するのに、なぜ現実にはこの一つだけしか意識できないのか?(なぜ一つだけは現実に意識できるやつが存在しているのか?)」で十分であり、その際、その「意識ある生き物」に意識があるのは脳や神経のせい(、、)であろうとなかろうと、そんなことはこの問題には関与していない。むしろ、観念論(唯心論)的前提から出発して、それに反することを言うほうが、この問題のポイントをクリアに提示できるであろう。すなわち、「意識」等々の語を唯心論的に捉えたうえで、「(過去や未来を含めて)たくさんの意識(心や精神、あるいは主体や自我)が存在しているのに、なぜ……?」と問うわけである。
 しかし、おそらくは歴史的事実として、この問題は反唯物論的な(すなわち唯心論的な)問題提起であるかのように誤解されてきた。たとえばデカルトは、かの有名な全般的懐疑の果てに、疑いえぬ真理として「我あり」を発見したわけだが、ただちにその「我」を「精神」と同一視し、物心二元論への道を開くことになった。これは自己誤解でなければならない。なぜなら、懐疑の果てに彼が発見した哲学的に最も意味深いことは、「デカルト(という人物)の存在は疑いうるが、私の存在は疑いえない」という事実から導かれる、「私はデカルトではない」であったからだ。そのデカルト(という人物)なるものを物質の塊であると考える必要などはまったくない。たとえそれがもっぱら心的なもの(たとえば感覚や感情や記憶や願望や思考……の塊のようなもの)であったとしても、私はそれとは独立だ、ということこそがデカルトの発見であったのでなければならないからだ。
 本来あるべきデカルトとともに、私がここで提起したい(これまでも提起し続けてきた)問題は、この種の「物と心」の対立とは別の枠組を必要とする問題であり、また、後に詳述する機会もあると思うが、「公共性と私秘性」といった対立とも別の枠組を必要とする問題なのである。あえて伝統的な枠組で分類するなら、それは「実存と本質」の対立に属する問題である。
 (デカルトが私はそれではないと言った)デカルトという人物についていえば、たしかにそれは固有の身体を持つとはいえ、物的というよりはむしろ心的な存在者であるだろう。それは、おそらくは何よりもまず、記憶を中心とする心理的な連続体のことであろうから。デカルトの心理的連続体のことはあまり知らないので、よく知っている永井均という心理的連続体を例に取れば、それには人の知らないきわめて独特のところがある。まあ、永井均と同じ経歴(したがって記憶)を持った人はこの世にほかにはいないのだから、まったく独特であるのは当然のことだともいえる。とはいえしかし、私は私をその独特のところ(の集まり)を根拠にして他から識別し、これが私であると捉えているわけではない。私は自分を他から識別して私であるとして捉えるとき、自分の持ついかなる(固有の)属性も使っていない。私は私をその特徴的な(他に例のない)心理的連続性によって他から識別してはいないのだ。それなら、たくさんの人間(生き物)たちのうちから、何を根拠にして自分を識別しているのか。と問われるなら、ただそれだけが現に与えられているという事実によって、と答えるほかはない*。何が与えられていようと、与えられている内容は関係ないのだ**。何が与えられていようと、ただそれだけが与えられているということだけで十分であり、それだけが不可欠なのである。だから私も、デカルトと同様、「私とは永井均のことではない」といわざるをえないわけである。

* 「哲学探究1」では、この基準を第一基準と呼んでいる。
** 「何が見えていようと、見ているのはいつも私だ」というウィトゲンシュタインの創作した独我論言明は、通常まさに独我論者の自己主張であるかのように捉えられているが、そうではなく、同格の人間が複数存在することを問題なく認めた場合にも、彼らはみなこの仕方で自分を捉えざるをえない、という意味に理解されるべきである。それ以外の自己把握の方法はないのだ。その際、対比されている言明は、「かくかくが見えているから、見ているのは私だ」である。このような捉え方は決してできない、という点こそここでのポイントなのである。

 かりに私がいろいろな点できわめて特徴的な感じ方をする人間であったとしよう。物心ついて以来ずっと、たとえば音の点では、あたかも耳鳴りのように繰り返しあるメロディが低く鳴り続けている、というように。たとえそうであったとしても、私は、その特徴的なメロディが聞こえているがゆえにこれは私だ、と私を(他の人々から区別して)把握することはできない。だから私が、そのメロディを始めとするあらゆる固有の感覚をすべて感じなくなり、まったくもって平凡な感覚しか感じなくなったとしても、その平凡な感覚をもし現に感じているならば、それは私なのである。何が感じられていようと、感じているのは私、だからである*。

* 固有の属性を持った一人の私がその同じ属性を持ったまま二つに分裂したとき、一方が私であるなら他方は(私と同じ属性を持っていても)他人である、という思考実験は、「これが私である」という端的な事実の成立がその人の持つ属性によって決まるのではない、ということを示すための面白い話にすぎない。面白く表現すると、その面白さのほうに目が移ってしまって、分裂するということに何か特別の意味があるのかと思ってしまい、それが可能かどうかなどと論じ始める人がたまにいるが、べつに分裂ということに特別の意味があるわけではない。

 ここで、次のような疑問を持つ人がいるかもしれない(いて欲しい)。そうだとすれば、すべての人が、自己把握をする際にはこの仕方でしていることになるだろう。それなら、そのすべての人たちのうちから、私は私をどうやって識別できているのか。もはや「この仕方」を持ち出しても無駄だろう。すべての人がそうしているのだから。ここではもはや、私だけがもつ独自の特徴を持ち出しても無駄であるだけでなく、ともあれ現実に感じているといったことを持ち出しても、やはり無駄であるはずだ。すべての人がそうしているのだから。このような疑問である。
 だから、この疑問に対して答えようとすると、それでもこの私だけが現実に現実に(、、、、、、)感じている、といったことを言わなければならなくなる。しかし、そのこと自体もすべての人がそう言うだろうから、それらとさらに差異化するためには、もう一度「現実に」を付与するほかはなくなって、言語表現の可能性は破綻する。私がこの連載で問題にしたいのは、「私」の問題だけでなくその他もろもろの事柄に関しても反復して顕れるこの構造の真の意味を考えることである。
 いや、しかし、このような議論の進め方に対して、むしろ逆方向の疑問を持つ人がいるかもしれない(こちらもまた、いて欲しい)。それは、そもそもすべての人がそうしているとなぜわかるのか、という方向の疑問である。私自身はたしかに、どういう心的内容を持っているかではなく、ともあれ現にそれを持っているということによって、だからそいつが私であると捉えている。それは確かだが、他人がそうしているかどうかなんて、どうしてわかるのか。
 この疑問に対しては、さしあたってこう反問しておきたい。だがしかし、たとえ他人であっても、その人が自分を捉えるとき、先ほど述べたような仕方以外の仕方でそうすることが可能であろうか。たとえば、かくかくしかじかの記憶を持っているからこいつは自分だ、とか、繰り返しあるメロディが低く鳴り続けているからこいつは自分だ、とか。そんなことは不可能だろう。なぜなら、そうしたことを捉える主体の側が自分なのだから。その人だって、何であれ(すなわちその内容に関係なく)ただ現に与えられているという理由によって、それが自分の体験(あるいは属性)であるとみなすしかないだろう。どうして(他の体験ではなく)それ(、、)を感じているのが自分なのか、(他の属性ではなく)それ(、、)を持つのが自分なのか、その根拠はさっぱりわからずに、いきなり。
 さてしかし、先ほど私は、永井均という心理的連続体には人の知らないきわめて独特のところがある、と言った。それにもかかわらず、私は私をその独特のところ(の集まり)を根拠にして他から識別し、これが私であると捉えることはできないことが明らかになった。では何を根拠にして自分を識別しているのか、と問われるなら、ただそれだけが現に与えられているという事実によって(細かく言えば、「ただそれだけ」の「それ」によってではなく「ただ…だけ」によって、そして「現に与えられている」の「現に」によって)と答えるほかはないのであった。だから私もデカルトと同様「私とは永井均のことではない」と言えることになったのであった。
 むしろしかし、私がデカルトとまったく同様ではおかしくないか。何といってもデカルトは他人で、私ではない。この端的な(、、、)事実こそが問題で、それをどう考えたらよいのかが問題であったはずなのに、いつの間にか問題がずれてしまっていないか。と、先ほどの「逆方向の疑問を持つ人」がなおも食い下がってきても不思議ではない。いや、食い下がってくるべきだろう。といっても、この食い下がる人は、ここではもはや私自身でなければならないが。
 ところで、よく知られているように、デカルトは「欺く神」と闘った。闘って、「私が「私は存在する」と思うかぎり、私は存在する。神の力をもってしても、ここでは私を欺くことはできない」という勝ち名乗りをあげた。しかし、このとき勝ったのは誰(というより正確にいえば何)だろうか。果たして他者であるわれわれはこのとき勝ったのが何であるかを知りうる立場にいるだろうか。
 こう考えることは確かにできる。デカルトが欺く神に勝ちうる理由は明らかだ。それは、デカルトが自分を捉える際に用いる「ただそれだけが現に与えられているから」という理由を、欺く神の側は決して持ちえないからだ。だから、欺く神の側は、いかなる理由でデカルトが勝ち名乗りをあげているのか、理解できない。欺く神の側からすれば、そのときデカルトが信じている内容はすべて偽であり、欺きは完璧に成功しているからだ。しかし、もし偽なる信念が現にありありと与えられているなら、やはり私は存在する。私は存在するというその信念もまた欺く神が与えた偽なる信念であっても、やはり私は存在する。そのときデカルトが与える「私」の意味を、欺く神の側は決して知ることができない。
 いやいや、そうだろうか。欺く神は悪神であるとはいえ神の能力を持つのだから、いかなる理由でデカルトが勝ち名乗りをあげているのか、理解ができないはずはない。彼は、全知なのだから、いまここで論じられているような自己知に関する一般理論もまた完璧に知っているはずではないか。デカルトがいかなる理由で勝ち名乗りをあげているのかももちろん知っていて、知っている以上その裏をかくこともできるはずではないか。
 かりにもしそうだとすれば、ここで最後に残るのはやはり「逆方向の疑問を持つ人」の問題意識である。この問題を、たとえそれが歴史上デカルトに端を発するとはいえ、デカルトという過去の他人の場合で考えるのは的はずれであったことになる。この意味では、欺く神と闘って勝つことができるのは、文字通り私だけである(デカルトの戦いはまさにそのことを示唆していることになる)。私がデカルトと同じ全般的懐疑を敢行し、欺く神の欺きと対決したとき、私だけが知りうる仕方で、私は欺く神に勝てることになる。
 なぜ私だけが知りうる仕方なのか。なぜ神はそれを知りえないのか。
(続)

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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