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存在と意味――哲学探究2 永井均

唯物論的独我論者の場合

 例によって、前回の議論に対する補足的考察から始めよう。
 専制君主に対する臣下たちの賛同が、われわれが最初に問題にした「唯物論的独我論」に基づくものであったらどうだろうか。臣下たちは君主に「陛下はわれわれとはそもそも物理的な造りが違っているのでございます」と語るわけである。だが、専制君主という想定は、彼自身が「私のこの特別さは私のこの特別の身分によるのだろう」と考えるという要素が介入して問題の本質をわかりにくくさせる可能性があるので、ここでは最初の議論にもどって普通の平民を想定しよう。普通のと言っても「ほんとうに独我論的心配をしている(なぜ私だけこんなに他の人と違うのだろう、何か変なのではないか、というような仕方で)」平民ではあるが。なぜか(専制君主の臣下にあたる)彼の周囲の人間たちはみな(彼をからかってか、本心からか)「あなたと私たちとではそもそも物理的な造りが違っているのだ」と言うわけである。それだから「あなたは現実に痛かったり、悲しかったり、ありありと思い出したり、思い通りに体を動かせたり、……するのだ」と*。

*だがもし、彼の周囲の人間たちがそのようなことを言う、、と想定すると、そこにふたたび言語的世界像が前提しているものという要素が介入し、問題の本質をわかりにくくさせてしまう可能性があるとすれば、彼らはとくに何も言わず、彼一人が勝手に唯物論的独我論を信じているという想定にしてもよい。以下の議論はそう読んでもらってかまわない。

 このとき、彼はほんとうに独我論的心配をしているにもかかわらず、他面ではまた懐疑論的傾向の強い哲学者でもあるので、周囲のみんなによって与えられたこの世界像を、あるいは自分自身で作り出したこの世界像を、(逆懐疑論的に)自己論駁することができるだろうか。そういう(逆懐疑論的な)可能性を考えてみることができるだろうか。そういう(逆懐疑論的な)可能性を考えるということがどういうことをすることなのか、その意味を理解できるだろうか。

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 逆懐疑論とは、物理的な造りに違いがあるというのはじつは嘘で、自分も他の人間たちと同じように意識や自己意識をもつだけのふつうの人間にすぎないのではあるまいかと疑う、ということである。彼の場合これはまた、自他のこの根源的な違いはその種の実在的[リアル]な理由によるのではない、、のではあるまいか、と疑うということでもある。これは、われわれがすでにしてごくふつうに持ってしまっているこのごくふつうの世界像を彼もまたごくふつうに持つことができるだろうか、という問いである。ごくふつうの世界像であるにもかかわらず、そこには格別の困難があることを理解していただけるだろうか。そこに格別な困難を見る見方のもつ意味を理解していただけるだろうか。
 彼がもしこのわれわれのふつうの世界像を持つにいたったならば、そのとき彼は、彼と他の人々とのあいだに現実に存在する(彼を「独我論的心配」に導いた)差異を、どのように説明するようになるのだろうか。彼がこの世界像を持つためには、物理的な違いなどはよけい、、、であるということを知らねばならない。この(彼の心配の種である)差異は、じつはそんな違いなどまったくなくても問題なく存在してよいのだ、と納得するにいたらねばならない。われわれはみなもうそう納得してしまっているにもかかわらず、そもそもそんな納得がどうして可能なのかをわれわれもまた知ってはいないのだが。
 彼は当然のようにこう考えている。もし他人たちも私と同じ物理的なあり方をしているのなら、だれの眼からもいっぺんに世界が見えてしまい、だれが殴られても同じように痛く、だれの体も思い通りに動かせる、……等々であるはずだろう。またもし私も他人たちと同じ物理的なあり方をしているのなら、だれの眼からも何も見えず、だれが怪我をしても痛くもかゆくもなく、だれの体も動かせたりはしない、……等々であるはずだろう。複数の機械が(完全に切り離されていても)本質的に同じ仕組みであるなら、どれにも本質的に同じことが起こるはずである。現に一つだけこれほどにも違ったことが起きている以上、その一つにだけ何かしら物理的に本質的な違いがあるにちがいない。
 彼は、どうすればこの考え方を乗り越えることができるのだろうか。こう考えるのはどうだろうか。たしかに、複数の機械が(完全に切り離されていても)本質的に同じ仕組みであるなら、どれにも本質的に同じことが起こるはずである、とはいえよう。それはたしかにそうかもしれないが、どれにも同じことが起こっているという事実とそれらを見渡せるという事実は別のことではないか。別の理由で本質的に見渡せない、ということがありうるのではないか。
 もしこう考えたなら、彼はきっと、私秘性と独在性の違いに思いいたるにちがいない。彼は、意識というものには本質的に私秘性という性質がある、ということを受け入れるかもしれない。すなわち、意識というものは本質的に、だれでも自分の意識状態は体験できるが他者のそれは体験できない、というようにできている、ということである。彼がこれを認めるとは、自分と他者のあいだにある隔絶のある側面は他者どうしのあいだにもある(またはありうる)と認めることである。認めても痛くもかゆくもないだろう。その側面とはまったく別の点で、自分にだけはその側面によっては説明のつかない根源的な違いが生じている、ということが彼の問題意識なのだから。実際、われわれだって、みな本当はそう思っているはずだ。だれだって他者どうしのあいだにも意識の私秘性という関係はある(少なくともありうる)と認めてはいるが、しかし自分自身を他者たちから識別する際には、そうしただれとだれのあいだにもある(またはありうる)隔たりとは別種の隔たり方*に依拠してそれをしているはずだからである。ここには、まったく異なる二種類の隔絶の仕方が存在するのだ。

*それだけが現にあるというあまりにも根源的な隔絶である。

 このことはこれまで何度も言ってきた次のような事実からも裏づけられる。百年前の世界もまた、だれでも自分の意識状態は体験できるが他者のそれは体験できない世界であったが、現実にそのうち一つが体験できるという事実は成立していなかった。百年後も世界もおそらくはそうであろう。この数十年間だけ*そのうち一つが現実に体験できるという事実がなぜか成立しているのだ。おそらくこのことはこの文章を読んでいるすべての人が賛同するに違いない。とはいえもちろん、全員のその賛同が並列的に成立するわけではないが**。

*これまた前にも言ったことだが、この問題を鋭利に理解するためには、そこに別の種類の懐疑論を重ねてしまわないよう繊細な注意をはらう必要がある。たとえば、百年前があったかどうかわからないではないかとか、五年前もそんな唯一現実的な体験はじつはなかったかもしれないではないかとか、このまったく特異な者が(他の人間と同様)数十年で死ぬかどうかわからないではないかとか、そういった懐疑論である。われわれは敵を打ち倒して何かを樹立するための闘争のようなことをしているのではないのだから、作戦は一つ一つ別々に実行して、できるだけ他の影響が排除されたそれ自体の効力を一つ一つ丁寧に検討していかなければならない。
**これは本質的に並列を拒否する事実の存在を問題にしているのだから、これは当然のことである。全員の意見は形式的に一致するだけである。

 唯物論者の彼はこう考えるだろう。現在の世界においては、なぜか現実に、、、体験できる意識状態が存在しており、それはなぜかこれ、、である。このことは、そこに何らかの物理的な違いがあることによってしか説明がつかない。そして、このことは意識というものがもつとされる私秘性という一般的な性質とは――自分がその存在を確証することができないそういう事実がかりにあるとしても――まったく別の問題である。[[[いやその可能的拡張では?]]]
 彼がそのように考えるとき、「意識がある」という概念が二重化されているとみなすこともできる。〈私〉と「私」と同様な仕方で、〈意識〉と「意識」に。彼は他者にも「意識」があることを認め、検証不可能ながらも、それらにはそれぞれ私秘性がある(ありうる)ことを認めたことになる。このように独在性を私秘性から区別することは、別の観点から見れば現実性を中心性から区別することとも重なり、哲学的には歓迎すべき事態である。彼は東洋の専制君主よりも、実在的な単独者よりも、問題を哲学的に一歩先に進めたとみなしうるからだ。
 彼のような特殊に偏執的な人物でないふつうの人々は、たとえ彼のような疑問を持ったとしても、一般的な私秘性の説明をされて「君もその一例であるにすぎない」と言われたら、そこで納得して(させられて)しまうだろう。その納得がじつは錯覚にすぎないことにはなかなか気づきにくい。しかし、彼はいま、ふつうの人々とは逆に、哲学者として、あえて、、、そういう逆懐疑を遂行してみようとしているのだ。だが、頑なに理性的な彼は、どうしてもそれが不可能であるとしか思えない。哲学者としての彼は、私秘性の問題と独在性の問題の(いいかえれば中心性の問題と現実性の問題の)根源的な差異の洞察によって、その不可能性が東洋の専制君主の場合とは異なる理由によっていることを洞察している。それにもかかわらず、依然として「ものごとの理解の基本形式」には固執する彼は、そこに物理的根拠を求める唯物論的独我論の道しか残されていないのだ。彼がこの道から脱することは可能だろうか。
 別の道を見出すことはできないとしても、彼が唯物論的独我論の道もまたありえないことを洞察するにいたる可能性はあるだろう。彼と東洋の専制君主との違いを考えてみよう。彼は独在性を私秘性から、あるいは現実性を中心性から区別しており、そのうえで自分の問題が前者であることを自覚している。専制君主はまさに専制君主であるという特殊な事情に災いされて、他我問題を認識論的に提起する多くの哲学者たちと同様、この区別をすることができなかった*。彼の問題意識は、他者もまた《私》であるか否か(すなわち、第一基準によって自己を他者から識別同定しているか否か)にあった。唯物論的独我論者の問題意識はそれとは違う。彼は他者たちがそれぞれ《私》であること(すなわち、第一基準によって自己を識別する、それぞれが中心性と私秘性をもつ主体であること)は認めてよいと考えている。いやむしろ、じつはそれとは違う問題があるのだということをはっきりさせるためには、それは認めてしまったほうがよいと考えるはずである。そんな些末な自然の事実とはまったく違う種類の真に驚くべきことが起こっていることが彼の問題なのである。彼の問題意識は、諸々の中心性の中にただ一つある現実的な中心性にあって、すでに「いびつな輻輳」の水準に達しているわけだ。

*こう見れば、「東洋の専制君主」という設定それ自体がじつはまさにこの区別を見えなくさせるための設定だったことは明らかである。それは、存在論的な差異を実在する差異にぴったり重ね合わせることで、この差異の本質を見えなくさせていたのである。それならしかし、唯物論的独我論者はどうなのか。

 とはいえもちろん、振り返って考えるなら、東洋の専制君主もまた、時間との類比や言語のもつ前提ににもかかわらず、なおやはり逆懐疑論に乗り切れなかったのは、言い換えれば平板でのっぺりした通常の相対主義的世界像に乗り切れなかったのは、実のところはこちらの(つまり私秘性や中心性ではなく独在性や現実性の)問題がそこにはたらいていたからだろう。にもかかわらず、専制君主という身分が彼から問題の存在論的本質を鋭利に抉り出す視力を奪っていた。

唯物論的独我論者は理性的に自分の信念を捨てることができるか

 それならば、唯物論的独我論者の見解は正当化可能か、といえばけっしてそうはいえない。もちろん、われわれはみなその唯物論的独我論者ではないのだから、他者として彼の誤りを直証するのはたやすいだろう。そうではなく、彼自身に彼の誤りを説得することが、あるいは彼自身が自分の誤りに気づくことが可能であろうか。微妙な問題があるとはいえ、おそらくそれは可能ではあるだろう。
 彼が物理学者でもあって、その物理的根拠を実際に発見した場合を考えてみよう。さらに、その成果に基づいて、その物理的性質をもった、それゆえ問題の点において彼と同じ造りになっている人間を、実際に作ったとしよう。あるいは、生理学的根拠に基づいて現存する他人を彼と同じ造りに変換する技術を開発した、と考えてもよい。後者は、簡単のため、世界中の歴代の人間の中で彼だけ血液の中にI¹という成分が流れていることを発見し、その根拠に基づいて、他者の血管にその成分を注入した、というようなことを想定すればよい。
 はて、しかし、それはどういう意味なのか。新品のその身体や、これまで他人のものであったその身体が、彼がその眼から世界を見ることができ、彼がその手足を動かすことができる、……等々の身体であった(になった)として、それは本当に彼が望んだ結果なのであろうか。それはたんに彼の身体の拡張にすぎないのではなかろうか。彼が二つの身体を持ったにすぎないのではなかろうか*。そのようなことでよいなら、彼の独自の学説に拠らずとも、一般的な物理学(生理学・工学・等)の進展によっても十分に達成可能なはずである。それどころか、彼がI¹によって成し遂げた業績自体、ある人間の統覚の拡張として、客観的に認知されうるものである。彼が解決したいと願う問題自体にはいかなる客観性もないのに、である。そんなことでよいのだろうか。彼の独自の学説は彼に独自の問題に答えているであろうか。

*制作されたその新品の身体にも、すでにして彼とは別の人格がある(たとえばその人をその人たらしめているそれまでの人生の記憶をすでにもっている)としても、もしかりに彼とその新しい人との二つの人格が統合可能であったなら、それはやはり私秘性や中心性が破壊されて一つの統合的主体が作られたにすぎない。これは一つの中心性の成立にすぎず、その人が〈私〉であることはこの統合の本質には関係していない。逆に、中心性という性質の本質からして統合が不可能である(ことがわかる)場合も、この点にかんするかぎりは同様である。

 二つの身体を持ったにすぎないと事態を捉えうるならば、それと同じ、、ことは他人にも起こりうると考えざるをえまい。ということはつまり、それはじつは私秘性・中心性にかんする問題だったことになる。彼がきわめて独自に発見したはずの物理的事実は、じつはきわめて独自のはたらき方ができない。はたらく場所がどこにもない。すなわち、ここで問題になっていることは、彼が「自分にだけはその側面によっては説明のつかない根源的な違いが生じている」と信じているその独自の側面ではなく、むしろ彼がそれによっては説明がつかないと認めた側の、「他者どうしのあいだにもある(またはありうる)」ほうの側面なのである。それゆえ、他者たちもまた彼が成し遂げたのと原理的に同じ、、、、、、ことを成し遂げることができるわけである*。彼の希望に反して、彼の開発した方法が彼に固有の問題に答えることはできないだろう。彼はおそらく、答えようとするあまり、問いの本質を見失ったのである**。


*たとえば、ある他者がI²という物質を発見しそれをその人にとっての他者の血液中に循環させることによって。
**この意味においては、唯物論的独我論者は東洋の専制君主――彼の場合はすでに答えが与えられてしまっていたわけだが――と同じことの物理版なのであって、そういう社会的な答えが与えられていなかったので、物理主義的な方法によって自分を専制君主化しようとした、と見なすことができる。

 彼が制作した奇妙な人間に比べれば、むしろふつうの他人のほうが、彼が問題にしているそのことを体現している存在者であるはずだ、ともいえる。なにしろ彼は、他者における〈私〉の存在をすでに容認しているのだから。彼が制作した人体にはそれがない。とはいえ、彼の失敗にもかかわらず、彼だけが捉えようと試みた問題はたしかにあるのだ。ここで、それを見失ってはならない。重要なことは、どちら側にも落下することなしに、いわば彼を転向させずに棄教させる隘路を見出すことである。
 自分が二つに分裂するという思考実験を思い出してほしい。世の中には思考実験というものの意義を理解できない人は多く、そんなことは起こりえないなどと言う人さえいる。もとより起こりうるかどうかが問題なのでない。分裂などというとんでもないことが起こる必要はないのだ。これは、現実性に基づく事態はいかなる実在的諸性質とも無関係に成立しうるということを象徴的に提示する面白い話であるにすぎない。問題は、唯物論的独我論者の物理的根拠に基づく〈私〉制作の話からも、この分裂の話と同じ教訓を読み取ることが可能だ、という点にある。
 どちらの話でも、もし成立した二人(二体)が単一の「その眼からだけ現実に外界が見え、その身体だけが現実に感覚を感じられ、その身体だけが現実に動かせ、……等々であるような身体」に統合されたなら、たんに身体が二つになっただけのことで、〈私〉の存在の問題とは関係ないことになる。これはすでに確認した。すると、〈私〉の存在の問題と関係するのは、物理的には(精確にいえばもっと広くおよそ実在的には[リアリー]であるが)まったく同一の人間が二人(二体)存在しているのに、なぜか「その眼からだけ現実に外界が見え、その身体だけが現実に感覚を感じられ、その身体だけが現実に動かせ、…等々であるような身体」がその一方だけである、という事態が成立した場合であることになる*。そういう場合、他者とのそのような差異はいかなる実在的[リアル]な性質からも独立に成立していることになるからだ**。通常の自他の差異には異なる二種の差異が輻輳しており、この問題の存在を見抜きにくくさせているのだが、現実世界では分離できないこの異なる二種の差異はこの思考実験によって可能的に分離することができる(ことによって異なる二種の差異であるとわかる)わけだ。

*可能的な意味では、これは必ず成立する、といえる。二人が一緒に〈私〉であることはできないのだから、必ず別々の主体が成立するはずだからだ。現実に〈私〉である人の成立は、そうした一般的なことは前提にしつつも、そのうえに無根拠に成立する。その成立の事実はその内側からしか認められないが、内側からしか認められないというそのこと自体もまた可能的にも言えて、そうすると一般的な私秘性の問題と重なることになる。
**ここで実在的[リアル]といわれているのは、カントの「存在は実在的な述語ではない」のあの「実在的」である。他の個所で「事象内容的」などとも訳されており、拙論「なぜ世界は実在しないのか」(『哲学の密かな闘い』所収)においては、この意味でのリアリティが「内容的規定(性)」と訳されている。物理的事実はその一種であるにすぎない。ここでの論点については、可能的な百ターレルと現実的な百ターレルの差異と、贋物の百ターレルと本物の百ターレルの差異との、二種の差異のあいだの差異について、その拙論の文庫版192頁の注(およびその周辺の本文)を参照されると、より深い理解が得られるはずである。

 同じ問題を〈私〉ではなく〈今〉で考えてみよう。今起こっているすべてのことはその内容をまったく変えずにただたんに過去になる、ということはだれでも知っている。未来は問題含みなので除外するとしても、まったく同じ内容が現在でも過去でもありうることは明らかなことである。したがって、内容によって〈今〉を作り出すこと(こういう内容だから今起こっている、というように)ができないこともまた明らかなことである。(これはつまり、「今である」は内容的な述語ではない、ということであり、これはまた「「存在する」は実在的な述語ではない」の一例である。
 物理的事実もまた実在的・内容的事実の一種であるから、〈今〉であることには物理的根拠もないはずであろう。しかし、それを可能にする(少なくともあたかも可能であるかのように見せる)方法はある。一つのやり方は、その〈今〉を実在化して、「動く今」あるいは「今という場」*というものが存在すると考えることによってである。いや、そんなことを考えずとも、ごく素朴に〈今〉に物理的根拠を与えようとすれば、自然に、否応なく、「動く今」か「今という場」を想定することになる(なってしまう)はずだ。〈今〉であることの物理的根拠がその時にだけN¹という物理的事実が成立していることだとすると、次の瞬間にはそのN¹はその瞬間にだけ成立していることにならざるをえない。十年後には十年後に、百年前には百年前に、だ。これはつまり、「動く今」か「今という場」を想定した、ということである。そうなれば、「動く今」の場合には、それを駆動していく物理力があると考えることができ、「今という場」の場合には、それを成立させている物理的性質があると考えることができることになる。未来や過去にはそれが存在していない、というわけである。

*前者では、出来事系列上を今が動いて行くと表象するのに対し、後者では、出来事系列が今という場の上を動いて行く(到来しては過ぎ去っていく)と表象する。

 さて、しかし、そのように捉えると、もし今が動いているならば、その動く今が今存在している場所というものがあることになるし、もし今という場があるならば、その今という場に今来ている出来事というものがあることにならざるをえない(その他は、現に今ではない、過去における今か未来における今であることになる)。「今」は二重化されることになるだろう。われわれの記法で表現するなら、「その動く「今」が〈今〉存在している場所」や「その「今」という場に〈今〉来ている出来事」というものがあることになるのだ。
 このように考えた場合、その〈今〉のほうの成立にはもはや原理的に物理的根拠はありえないだろう。たくさんの可能な「今」のうち現実の〈今〉はなぜこれなのか、という問いに物理的理由をあげることはできないだろう。N¹が使えないことは言うまでもあるまい。それはどの今にもあてはまるのだから。かりに動く今を駆動している物理力があるのだとすれば、現に成立している現実の今には(それだけが本当の今であるにもかかわらず)物理的根拠はありえないことになるだろう。
 もしかりに、N¹のようなどの「今」にもあてはまる根拠ではなく、現実の〈今〉にだけあてはまる物理的根拠があったとしたら、それはどういうものであろうか。他の時点(かつて今だった時点やこれから今になる時点)にはそれはない、、はずだろう。それらの時点もまた、その時点においては「現実の〈今〉」であったり「現実の〈今〉」になったりするはずなのに*。「今(現在)である」ことには、「現に与えられている」というような特徴しかないが、その特徴は――特徴として捉えられるかぎり――どの今(現在)にも必ずある特徴であることになる。過去における今や未来における今は、内容的(内包的)には、現実の今と異なるところがない。現実の今の現実性を実在性の内部に位置づける方法はないのだ。

*ここでももちろん、「「存在する」は実在的な述語ではない」の時間版である「「今である」は実在的な述語ではない」がはたらいている。この点については、先ほどの拙論の文庫版191頁の末尾の引用文と(先ほど言及した注を含む)その周辺の解説的論述を参照していただきたい。

 神が人間(あるいは生き物)の数だけ独我論世界を創造した、という話を思い出してほしい。その場合、世界が独我論的なあり方をしていること自体は何ら驚くべきことではなくなる。しかし、なぜかそれらのうちの一つが現実世界であることは不可思議なことでありつづけるだろう。それだけが現実世界である理由を、その世界の実在的・内容的(もちろん物理的を含む)特徴によって与えることはできない。なぜなら、神でさえその理由はご存じないからだ。その意味では、そもそもそんな現実世界など実在しない(どの世界も平等にそれぞれにとって現実世界であるにすぎない)わけである。そのような意味においては、専制君主とは違って問いの意味を精確に捉えてしまった唯物論的独我論者にとっては、その問いに答えはない。彼が問うている事実そのものが、そもそも実在してはいないからである。
 彼が以上のような洞察に到達することは十分に可能であろう。しかし、唯物論的独我論に固執して、たとえばI¹がその根拠だと信じつづけることも十分に可能ではあるのだ。なぜなら彼は、なぜかその実在しないものの現実性を生きるしかない羽目に陥っている、幽霊のような存在だからだ。恐らくは、われわれもみなそうであろう。少なくとも、私はそうだ。

連載の終わりに

 今回は、唯物論的独我論者の苦境をめぐる議論に終始することになった。そして、この議論にもまだ続きがある。彼が東洋の専制君主らに比べて問いの意味を精確につかんだ、とみなすのはじつは誤りではないか、とさらに問うことができるからである。だが、それは最後の議論と連結した方がよいと思われるので、今回はここまでとしておこう。
 最後の議論とは、前回の末尾において予告した「方向」の問題の議論である。その箇所ではこう言われていた。「ウィトゲンシュタイン的な問題提起」は「中心性ではなく現実性の問題」ではあるのだが、「方向は伝統的な他我問題と同じ方向を向いて」おり、「私の元来の問いはそれらとは逆向きである」、と。そして、最後の問題はこの「方向」の問題なのだ、とも言われていた。予告に反して、今回はそこまで到達することができなかったわけだ。
 ところで、ここまでの議論において唯物論的独我論者は、外界が見えたり痛みを感じたりする生き物がたくさんいるなかで、なぜ現実に、、、外界が見えたり痛みを感じたりするのはこいつだけなのか、と問うていた。これは、彼が「私の元来の問い」の方向で問題を捉えていた、ということを意味する。しかし、彼と同じ出発点から、むしろ「伝統的な他我問題」と同じ方向に問うこともできたはずである。彼はなぜ、なぜか与えられている類例なき圧倒的な現実を、唯一の現実的実例であるとはいえ、ともあれ何かの一例ではあるとは見なすことができたのであろうか。彼はなぜ、(現実的にではなく)外界が見えたり痛みを感じたりする生き物がたくさんいることを知っているのか。実在性において自分と同種のものが存在することをなぜすでに知っているのか。そんなことさえわからないはずではないのか。これ、、はいったい何なのか、それは類例というものがまったくない、ただむきだしの謎でしかありえないはずではないのか。
 前回の末尾においてはまた、こうも言われていた。「それはまた、東洋の専制君主をめぐる考察の最後にちょっと呟いておいた、「このような考察」には「本当に哲学的に深い意味がある」わけではないだろう、という点とも繋がっている」と。「本当に哲学的に深い意味がある」わけではないと考えた理由は、それが他我構成の問題で、方向が逆だからであった。
 しかし、むしろその逆に考えることもできるだろう。唯物論的独我論者のように、専制君主とは違って中心性と現実性を混同せずにはっきりと後者から出発したとしても、なお専制君主のような方向で問うことが正しいとも考えられるからである。
 これがここで問われるべき最後の問いだが、連載という形式はこれで終わり、その議論は、この連載に修正を加えて一冊の本として出版する際に、そこで直接おこなうことにした。本はこの夏には出版できると思う。

(了)

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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