web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

人と鳥の文化誌 細川博昭

鳥の利用

1 人類史初期の利用

 

◆弓矢と羽毛

  食べることを除いた鳥の利用の筆頭は、なんといっても「羽毛」である。
 今は鳥だけがもつ羽毛。原型の完成は、恐竜時代の1億5千万年以上前に遡ると考えられているが、羽毛がもつ芸術レベルの繊細さは、科学が進んだ今でも再現することができない。
 また、羽毛が、実は恐竜の体表のウロコが変化したものであり、もともとの素材は同じと知ったとしても、その原型を想像するのは、やはりかなり難しい。触れたときの柔らかさとぬくもりが、私たちには、強く印象づけされてしまっているからだ。

  人間は鳥の羽毛を寝具や装身具としたほか、矢羽やばねなどにも活用した。
 そうした羽毛の利用は相当古い時代まで遡ることができると考えられているが、固い骨とちがい、羽毛は比較的短時間で分解されてしまうために証拠が残らず、羽毛がいつから使われだしたのか、正確なことを知るのは、かなり困難である。
 だが、洞窟壁画などに「絵」が残っていれば別だ。最古ではないにせよ、絵が描かれた時代に、絵の内容に沿う形で羽毛が利用されていたことは、おそらく確かだからだ。

 弓矢は、食べ物(=獲物)を狩るために生まれた。同時に弓矢は、人間どうしの争いの場において武器にもなった。ほどなくして矢の尾部には、より正確に、より遠くまで飛ばせるための「矢羽」がつけられるようになる。
 詳しい理屈はわからないものの、それをつけることで正確な射ができるようになった。矢の「射の確実さ」を大幅に向上させた矢羽は、古代における大きな発明となった。

 そんな矢羽が描かれていると見られる岩絵が、スペイン南部、バレンシア州カステリョン(カステジョン)県のヴァルトルタ渓谷に残っている。
 絵はおよそ1万年~5千年ほど前のもので、二組の人間グループが互いに向かって矢を放つ構図になっていて、それらの矢の一部に矢羽らしきものが見える。絵は人類最古の戦争が描かれたものと推測されているが、これが本当に矢羽つきの矢であるなら、羽毛の利用としても最古級であることはまちがいない。

 

◆最古の鳥製品はダチョウ卵?

 鳥の羽毛には、優れた保温・断熱の力があり、それによって自身や雛の体温を維持している。ことに、裸の状態で生まれてくる多くの鳥の雛にとっては、親の体温によって温めてもらえる翼の内側は、まさに「ゆりかご」のようなものでもある。
 こうした羽毛の保温力については、羽毛布団やダウンジャケットを通して多くの人が実感するところだが、はたして誕生した当時の人類もその恩恵を受けたのだろうか?

 人類はアフリカで誕生し、シナイ半島から中近東を経て世界に拡散した。人類発祥の地は南アフリカか東アフリカか、という議論は今も続いているものの、アフリカの「寒くない場所」で誕生して、しばらく「そこ」またはその周辺で暮らしたのは確実とされる。
 医学的、人類学的な分析から、誕生した当時のホモ・サピエンスは、現在のアフリカ人と同様に暑い土地に適応した人々だったことが判明している。そのため、アフリカに居住していたころの人類には、温かい羽毛の衣服は必要なかったと考えられている。

 だからといって、石器時代の人類がまったく鳥を利用しなかったわけではない。
 今から5万年ほど前になると、人類の美に対する意識に変化が出るとともに、「ものづくり」の技術にも向上が見られるようになる。ジャレド・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(草思社)で指摘したように、この時期のアフリカの遺跡からは、ダチョウの卵の殻を加工したビーズ状の装身具も出土している。
 一定の大きさに砕いたダチョウの卵をヤスリに相当するもので削って形を整え、真ん中に穴を空けて紐を通す。長いものはネックレスになるし、コンパクトにつくればブレスレットやアンクレットにもなる。ダチョウの卵殻を使ったこのようなビーズ・アクセサリーは、現在もボツワナ共和国などで土産品として売られている。
 どうやら5万年前にアフリカで暮らしていた人類の祖先たちも、同じようなアクセサリーを身につけていたらしい。形として残っている鳥由来の製品は、おそらくこのあたりが最古となる。

 ローマ時代のダチョウのモザイク画

ダチョウの卵 

 

◆鳥の骨が楽器に

 その後、鳥の利用はさらに拡大する。ドイツの洞窟から、およそ4万年前の、人の手で穴が開けられたシロエリハゲワシの上腕骨が出土したのだ。骨はフルートのように見えた。この骨は、人類最古の「楽器」と推測されるとイギリスのネイチャー誌は報じた。骨には特定の間隔で4つの穴が開けられていたことから、この骨製フルートは、音階のある音楽を奏でることが可能だったと考えられている。

 さらには、そこから時代が下った紀元前6世紀ごろには、今の中国河南省周辺でも鳥の骨を使った笛(骨笛)がつくられていたことが判明している。発掘された笛は、タンチョウの骨と同定された。やはり、鳥の――特に大型鳥の上腕骨など、内部が中空となっている丈夫で長い骨は、楽器として利用しやすかったのだろう。

 

◆羽毛と翼の精神的な利用?

 鳥の羽毛や翼は、長いあいだ人類の憧れだった。
 鳥の後を追うように樹上で進化した人類の祖先は、翼を得ることなく地上生活に戻った。
 手や指を使うことで道具や文明、科学を手にすることになっても、空を飛ぶ能力をもった先達への羨望は、心の底に残ったままだったのかもしれない。いや、世界や、そこに暮らす生き物に対する認知が深まるにつれて、羽毛に覆われた美しい翼への憧れは、さらに強まった可能性もある。 

 今につながる宗教の形ができあがりつつあった数千年前、神の遣いとして、「人間と神をつなぐ存在」が求められた。多くの宗教において、神の座ははるかな天空にあるとされた。そこに行くには翼か、それに代わるものが必要となる。
 源を等しくすることから、宗教分類上の近さが指摘される、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において、ともに、神の遣い(使い)である「天使」の背に翼が付けられたのは必然だったともいえる。

 キリスト教では、「天使」は霊的な存在で実態をもたない。それでも、必要に応じて肉体を得て人間の前に現れるとも考えられている。『聖書』においては、天使の姿、見た目についての記述がほとんどなく、翼の有無も明確にされないが、4世紀以降にキリスト教圏で描かれた天使の絵画には、基本的に翼が描かれている。なお、天使の翼は小鳥や海鳥の翼ではバランスが悪く、人物とうまくマッチしなかったことから、特に絵画においては、現在見られるような猛禽に近い翼になったと考えられている。

 一方、ユーラシアの東端、弥生時代の日本において、一部の宗教的指導者(シャーマン)が行っていた鳥を真似た衣装を纏う「鳥装」は、神の代弁者であることを主張し、より神に近づくためのものでもあった。その意識のあり方には、天使という存在と、ある種の類似性も感じられる。
 また、日本神話における神の遣いの八咫烏も、巨大なカラスという鳥の姿をしてはいるが、与えられた役割としては、キリスト教などの天使に近いイメージもある。

 いずれにしても古代の宗教の現場において、「羽毛」に覆われた「翼」は、人間を超えた特別な存在の象徴であったことはまちがいないのだろう。
 だが、その後、文明の発達とともに、羽毛は霊的な意味を失い、実用的な「もの」として、さまざまな場所、さまざまな場面で活用されることとなる。

 

 

2 保温、断熱に利用された羽毛

 

◆北欧に始まる羽毛の利用

 羽毛を使った保温具として、すぐにイメージされるのは羽毛布団(羽根布団)とダウンジャケットだろう。日本では1970年ころから羽毛布団が、ダウンジャケットも1980年以降、一気に認知が広がり、よく見る製品となった。だが、実は両者の歴史には千年以上もの隔たりがあることをご存じだろうか?

 ダウンジャケットに相当する衣服は、もしかしたら過去にも個人の手で自分用として作られたことがあったかもしれないが、衣料品としてダウンジャケットが量産されて普及したのは1930年代で、まだ100年の歴史もない。日本においては、わずか40年ほどとなる。
 一方の羽毛布団を世界で最初に使い始めたのは、ヨーロッパ最北のノルウェー北部やアイスランドの人々で、9世紀にはすでに北欧一帯に広まっていた。イングランドで西暦1000年ごろに使われていた古英語にも、「羽根布団(feather bed)」という言葉が見られる。
 こうした例からもわかるように、千年以上にもわたる歴史が羽毛布団にはあるのである。

 鳥の羽毛の優れた断熱効果は、1万メートルの上空を飛ぶアネハヅルやマイナス40度にもなる極寒の真冬の南極大陸で抱卵するコウテイペンギンなどが証明している。20世紀になり、アヒルやガチョウなどの家禽の羽毛が大量に採取されるようになると、羽毛布団は日本など、欧州以外でも利用されるようになった。  

 ちなみに、羽毛布団を利用している人に中味はなにか知っているかと尋ねると、だいたい「鳥の羽根でしょう?」というシンプルな答えが返ってくる。利用者であっても、多くの人は羽毛布団の中の「羽毛」の具体的なイメージをもってはいないようだ。

  ふだん私たちが見ている鳥の羽毛は、彼らの体表を覆う「正羽せいう」だ。尾羽や、飛翔力を生み出す風切羽などもこれに含まれる。羽ペンや矢羽、羽箒はぼうきほか、ほとんどの鳥製品は、硬い羽軸をもったこちらの羽毛が使われている。
 一方、羽毛布団やダウンジャケットに使われているのは、鳥の皮膚と正羽のあいだにある、外からは見えない羽毛「綿羽めんう」である。「down feather」(=ダウン)と呼ばれる綿羽は、「綿わたのような羽毛」という名称のとおり固い羽軸がなく、ふわふわで、タンポポの綿毛よりもさらに軽い。

 綿羽(イラスト:安部繭子

 

 服を重ね着する際、服と服のあいだに適度な隙間(=空気の層)があった方が保温効果が高まり、温かくなるが、ダウンはまさに空気の層をその内にもつ極上の羽毛だ。だからこそ、ダウンは軽く温かい。
 羽毛布団は、「雛鳥が感じている安寧を人間も享受できたら……」という寒冷地に暮らす人々の願いを叶えてくれた、すばらしい贈り物となった。

 ガンやカモなどの水鳥は、寒い土地で繁殖するものも多いことから、陸の鳥に比べて綿羽が発達していて量が多い。ことに極地に近い場所で繁殖する鳥ほど、良質の綿羽をもつ。また、ほとんどが大型なので、一羽から採れる量が小鳥類などの比ではない。そのため、過去においては、寝具や保温具に利用される綿羽は基本的に野生の水鳥から採られてきた。
 だが、現在の需要を満たすだけの量の綿羽を野生の鳥から強制的に採り続けると、複数の種が一瞬で絶滅してしまう。よって今は、人間が食用を目的に家禽化した鳥から採取するのが一般的となっている。

 

◆共生のヒントをくれたケワタガモ

 北極海に面し、夏でも寒い北欧の最北の地で繁殖する水鳥の中には、自身の体から抜いた羽毛をふんだんに使い、断熱性に優れた巣を作るものも少なくない。ケワタガモもそうした鳥の一種である。
 「ケワタガモ(毛綿鴨)」という名のとおり綿羽の豊富なカモで、さまざまなイメージが伝わってくるこの名称からは、人間が受けてきた恩恵も透けて見える。

 ヨーロッパで暮らすケワタガモの仲間は、ケワタガモと、それより少し体が大きいオオケワタガモ(ホンケワタガモ)の2種。「Common Eider」という英名からもわかるように、現地でより一般的なケワタガモとして認知されているのは、オオケワタガモの方となる。
 ヨーロッパのカモ類で最大サイズのオオケワタガモは、当然ながら、そのぶん綿羽が豊かで、さらにカモ類は単独で営巣するものが多い中、この種は集団で営巣し、ときに数千羽ものコロニーをつくることがある。つまり、羽毛を取るには最適種といえる鳥だった。

 家禽ではなく野生の鳥から羽毛を採っていた時代、羽毛を使った布団や枕、キルティング製品の中の詰め物などに、この鳥の綿羽が使われた。その期間は、千年以上にも及ぶ。布団にできるほどのまとまった量の羽毛を確保できる鳥が身近にいたことは、北欧の人々にとって幸いなことといえた。 

 世界で初めて羽毛布団をつくり、その恩恵を受けたノルウェー北部やアイスランドの人々は、早い段階で、「鳥を殺して綿羽を奪う」のではなく、巣づくりを始めたつがいから少しずつ羽毛を分けてもらったり(こっそり盗んだり)、育雛が終わった巣から使い終わった羽毛を分けてもらう方が効率的であることに気づいていた。
 殺して奪うと、いずれ羽毛を採れる鳥はいなくなってしまう。それより、鳥はそのままにして、今年も翌年も翌々年も、使い終わった巣から同じように羽毛を分けてもらえばいい。長期に渡って羽毛を確保し続けるには、この方法が最適といえた。オオケワタガモが同じ営巣地を使い続けるかぎり、羽毛が約束されるからだ。

 このシステムが永劫に続くことを願った人々は、積極的に鳥を保護した。
 外敵を営巣地に近づけないように見張り、繁殖率を高めるサポートをし、安心して子育てができることを鳥たちに理解してもらうことで、繁殖するつがいを増やす。すると、野生のままで暮らしながらも、鳥も人間に馴れて、人間を見ても怖がらなくなった。一定の距離を保ったまま、半馴化とよばれる状態で人間も鳥も世代を重ねていった。

 今を生きる人間も参考にできる、よりよい鳥との共生のモデルがここにあったわけである。

  羽毛布団、羽根のベッドはその後、ヨーロッパ南部にも広がり、裕福な人々に使用されるようになった。『オセロ』『ヴェニスの商人』などの14世紀に書かれたシェイクスピア作品にも、羽毛製品が登場する。
 また、ヨーロッパの地でずっとオオケワタガモの綿羽が使われ続けたことは、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話作品である『えんどう豆の上に寝たお姫さま』からも知ることができる。本物のお姫さまであることが証明されることになった、一番下にえんどう豆が置かれたベッドには、ケワタガモの羽毛でつくられた20枚の羽毛布団が敷かれていたからである。

 

◆羽毛を使った衣服

 ニュージーランドの先住民であるマオリ族など、近現代まで文明と深く接してこなかった社会では、衣服を作る材料として羽毛が活用された例があった。やや寒冷で、かつ鳥類が豊富に生息していた原始社会や原始に近い社会においては、羽毛は身を飾る装飾品はもちろん、衣服としても利用されたとことがここからわかる。
 ただ、羽毛の衣服には大きな問題もあった。製造する手間である。

 哺乳類の場合、毛皮はその名のとおり、皮と一体化している。血や脂肪を取り除き、清浄な状態にしてなめすと、毛皮は衣服ほか、さまざまなものに活用できた。
 一方、鳥の皮膚は薄く、ダチョウなど一部のものを除けば、そのまま利用することは難しい。仮に皮膚をはがしたとしても、羽毛はやがて抜け落ちてバラバラになってしまう。
 そのため、服に仕立てるには、基盤となる繊維の中に羽毛を一本一本埋め込んでいく必要があった。さらには、羽毛根元側の羽軸(羽柄うへい)を折り返して簡単に抜けなくする加工を加える必要もあった。つまり、羽毛の衣服をつくるには、かなりの手間と時間を要した。また、一着の服をつくるのにも、数羽から数十羽の鳥が必要だった。
 こうした事情もあって、ダウンジャケット製品化以前の羽毛の衣服への活用は「保温」ではなく「装飾」が中心となっていた。集団の長や王、宗教的な指導者が、その権威・権力の象徴として、美麗な羽毛のついた装飾品で身や頭上を飾ったことがわかっている。

 頭上を鳥の羽毛で飾る文化は世界の各地にあった。中米アステカの地においては、ケツァールの羽毛を中心に作られた冠状の装飾が歴代のアステカ皇帝の頭上を飾っていた。神聖な鳥とされたケツァールの羽毛を利用できるのは、王だけの特権だった。
 スー族など、平原に暮らすネイティブアメリカンの部族長はかつて、戦闘時において、頭にヘアバンド状の羽飾り「ウォー・ボンネット」をつけたが、現在は主に儀式の際につけられている。
 ヨーロッパを中心に帽子などにつけられて頭部を飾った羽飾り「エグレット」。白いエグレットを髪につけたマリー・アントワネットの肖像画も今に残る。なお、東方の国でターバンにつけられた羽飾りも「エグレット」と呼ばれた。
 こうした利用が、服飾における羽毛利用の最たるものといえる。

 ウォー・ボンネット

 

アントワネットのエグレット

 

 マオリ族に話を戻すと、マオリ族には、キーウィやハトの羽毛を使った全身衣装や外套などがあり、20世紀の初頭まで実際に使われていた。
 ポリネシア系であるマオリ族のもともとの居住域は熱帯から亜熱帯の島々である。寒冷な土地も含むニュージーランドに移住してから、この地の豊富な鳥類も衣服の資源として活用するようになったと考えられている。特に、保温効果も高かったと推察されるキーウィの羽毛の衣装は、女性の全身を包むような衣服として活用された。

 

 

3 美しくありたい、特別でありたい

 

◆色鮮やかさの象徴として

 人間は色鮮やかなものに惹かれる感性をもっている。だが、文明が進むまでは多彩な色を人工的に生み出す力をもたなかった。そのため、色のある天然の素材に目が向けられた。花、鳥の羽毛、宝石に関心が集まったのも、そうした気持ちがあってのこと。衣類や装飾品に文字どおり色を添えようと思ったなら、これらを身につけるのがいちばんだった。

 ラピスラズリやトルコ石の青、ヒスイの緑ほか、さまざまな宝石・準宝石がもてはやされ、ネックレスなどの装飾品となり、さらには透明な石にも関心が集まった。
 植物などを使った染色の技術が発達すると、布や衣服の色のバリエーションが増えていったが、それでもなお、鳥たちがもつ鮮やかな羽毛の色をつくりだすことはできず、尾羽や飾り羽のような形状のものも人間の手で創り出すことは困難だった。
 だからこそ、純粋に美を求める人間に加え、儀式を執り行う人間、地位を誇示したい人間、舞台に立つ人間などにも、鳥の羽毛が求められたのである。

 ちなみに鳥は、メラニンやカロチンなど複数の色素を羽毛にもち、それが鮮やかな羽色を生み出す素材となっているが、加えて一部の鳥は、羽毛表面の特殊な構造からも色を創り出している。色素ではなく物理的な構造が生み出した色は一般に「構造色」と呼ばれる。
 例えば、セキセイインコの原種は鮮やかな緑色をしているが、このインコは緑色の色素をもっていない。あるのは黄色い色素と、黒や褐色系の色素だけで、「緑」は実は、羽毛表面の凸凹が光を回折させてつくっている構造色である。
 下地がない状態では、緑に見えているセキセイインコの羽毛は青くなる。下地に黄色い色素があるので、「黄色+青で緑に見えていた」というのが、この鳥の色の真相だった。

 構造色は鳥のほか、モルフォチョウなどの蝶類やタマムシなどの甲虫類ももっているが、こうした生き物の構造色のしくみを再現した繊維をつくり、衣服などに利用する試みも始まっている。より鮮やかな色を手にしたいといういにしえからの願いは、今、叶いつつある。

 

◆近現代ファッションの中の羽毛

 衣服以外でもっとも多く、多彩に羽毛が使われたのは、婦人用の帽子だろう。
 貴族や王家が民衆を支配していた時代も、飾り羽根のついたヘッドドレスや帽子はあったが、社会の上層階層に位置する女性が外出時には必ず帽子をかぶり、その帽子にほとんど例外なく鳥の飾り羽根が装飾されるようになったのは19世紀末からであり、このようなファッションの流行は、20世紀初頭をピークに、半世紀ほど続くこととなった。

 1908~1911年ごろの「マッコールズ」(米)などのファッション誌の表紙には、こうした帽子をかぶった上層階級の女性が毎月登場したほか、日本からもヨーロッパに向け、ダイサギなどの白系サギ類の飾り羽や尾羽が大量に輸出されていた事実がある。
 そして、明治の末から、大正ロマンが謳われた大正時代の日本においても、洋装が進む中で、帽子をかぶる女性が増え、その頭上を鮮やかな鳥の羽が飾ることとなった。

 その後、演劇が大衆の娯楽となった20世紀には、役者の舞台衣装にもさまざまなかたちで羽毛が採用されるようになる。ラスベガスのショウや、日本の宝塚のきらびやかな衣装には、クジャクほかの地上性の大型鳥から採られた長い尾羽などが効果的に使われ、高いエンターテインメント性が発揮されるようになった。
 『羽』(ソーア・ハンソン著/白揚社)によると、ラスベガスの舞台を支えたある衣装工房には、衣装の補修用として、ダチョウ、レア、キジ、シチメンチョウ、ニワトリ、ガチョウなどの羽毛が、いつでも使えるかたちでストックされていたという。 

 羽毛ファッションに関してもう一点だけつけ加えると、少なくともこの半世紀、日本人は毎年、正月や成人式に大量の羽毛を目にしているし、若い女性は直に触れてもいる。振り袖などの女性の着物に合わせた白を基調としたショールの何割かは、柔らかな素材の羽毛製品だからだ。

 

◆羽毛は武士・騎士の兜も飾った

 封建社会だった中世ヨーロッパには、主君に忠誠を誓う騎士がいた。鎧兜姿で描かれることも多い騎士だが、その兜に「赤い羽根」がつけられることがあったことをご存じだろうか? それは、勇気や武勲に優れた真の騎士の証として、仕える主から贈られたものだったという。
 そんな騎士の起源はローマ時代にまで遡る。騎士の兜もしかり。
 「ガレア」と呼ばれたローマ兵士の兜の頭頂部には、習慣的に飾りが付けられることが多かったが、飾りの素材として多用されたのが鳥の羽毛と馬の毛だった。

 ちなみに兜に鳥の羽根が飾られる例は、戦国時代から江戸時代にかけての日本にもあった。「変り兜」と総称される兜の一角をなすもので、戦国武将が実際に戦場いくさばで被ったほか、後の平和な徳川の世においては「見せる兜」として一部の大名が所有した。
 戦場はもちろん、趣味に没頭できる平和な時代においても、誰よりも目立つことが重要だったため、そうした兜においては長い羽根が好まれた。よく使われたのは、キジやヤマドリの尾羽などだが、目玉模様も鮮やかな孔雀の飾り羽根が使われた例もあった。

  例えば、細川ガラシャ(明智玉子)の夫であり、肥後熊本藩の初代藩主となった細川忠興ただおきの「山鳥頭立越中頭形兜やまどりずたてえっちゅうずなりかぶと」は、頭頂から複数のヤマドリの尾羽を垂直に立てたものとなっていた。
 その子孫で、熊本藩の五代目藩主となった細川宗孝も、祖に倣うように「頭形雉子羽根前立兜ずなりきじはねまえだてかぶと」というキジの尾羽を正面に向けて扇形に大きく開いた飾り兜を所有し、今に遺している。
 表面をぐるりと覆うように孔雀の羽毛を天に向かって立てた兜は、だれが使ったものなのかはっきりしないが、毛利家伝来の逸品として知られている。豊臣、徳川に仕えた立花宗茂は、「しだり尾」という言葉のように、後頭部からニワトリの尾をしだらせた兜「大輪貫鳥毛頭形兜おおわねぬきとりげずなりかぶと」を所有していた。

 

 

4 道具となった羽毛

 

◆羽ペンの始まり

 文字が誕生し、”書く”機会が増えるにつれて、いくつもの筆記具も発明された。
 特に、紙やそれに類するものが普及してからは、情報や記録を書き残すための「ペン」が不可欠となった。
 ヨーロッパからアフリカにおいて、もっとも古くから利用されていたのは、乾燥させた葦の茎からつくられた「葦ペン」で、古代エジプトでは、紀元前4世紀ごろからパピルスに文字を記す際に使われていた。

 その後、ヨーロッパで実用化されたのが、鳥の羽毛をペンにした「羽根ペン」である。 羽根ペンは、万年筆やボールペンなど近代的な筆記具が発明されるまで、千三百年ものあいだ利用され続けた。特に、記録を纏めた書類を編纂していた所や、写本の現場では、文章を綴るための不可欠アイテムとなっていたようである。
 一方、アジアでは、殷代かそれ以前の中国で発明された墨と筆が、三千年以上に渡って利用され続けた。日本や中国で羽根ペンがほとんど利用されなかったのは、羽根ペンの発明以前からすでに筆が普及しており、別の筆記具を必要としなかったことが大きい。
 また、1本の筆は羽根ペンよりもはるかに長く使い続けることができたため、コストパフォーマンスの点でも筆に軍配が上がったようである。

 羽根ペンは鳥の風切羽を加工して造るが、ある程度大きさのある羽根でないと、ペンとして使いこなすのは難しい。ヨーロッパにおいては、サイズの大きなカラスとガチョウの羽毛が最適とされ、カラスは主に製図用に、ガチョウは文字を書くことを中心に使われた。ほかに、ハクチョウやシチメンチョウの羽毛が採用されることもあった。
 ガチョウの風切羽が羽ペンの中心素材となったのは、食用にするために大量に飼育されていたことに加え、ある時期からはその綿羽が羽毛布団の材料にもなったため、さらに飼育数が増えて供給が安定したためでもある。

 葦ペンには長い使用実績があったにもかかわらず、利用が減り、しだいに羽根ペンへと置き換わっていったのは、いくつもの使用上の利点が羽根ペンにあったためだ。
 葦ペンも羽根ペンも、定期的にインク瓶にペン先をつけてインクを補充する必要があったが、羽根ペンでは中空の羽軸により多くのインクを溜めておけたため、インク瓶に浸す回数を減らすことができた。また、耐久性もずっと高かったうえに、羽根ペンは羽毛のサイズを変えることで、線の太さも自在に変えることが可能だったこともある。細かい字やイラストを描く際には小型の鳥や羽軸の細い鳥の羽毛を使えばよく、この点でも使い勝手がよかった。

 英語の「ペン(pen)」は、ラテン語で「羽毛」を意味する単語の「ペンナ(penna)」からきている。つまり、ペンの名の由来は「羽毛」にあったということ。ペンと羽毛には、誕生から切っても切れない関係があったのである。
 ちなみに、パソコン全盛の今は「フォント」と呼ばれることも多い文字の形だが、筆で書かれた文字が、筆に由来する形状となって現代のフォントの中に生きているように、羽根ペンの全盛期の文字は、羽根ペンに由来する形状のフォントとなって今に残っている。
 鳥の利用の影響は、文字形状の文化の中にも生きているのである。

 

◆毛鉤と茶箒

 熊本、水前寺公園のササゴイが自身の羽毛や他種の羽毛を疑似餌にして魚を獲るように、人間もまた、餌に似せた釣鉤をつくって魚を騙し、釣り上げてきた。毛鉤やフライと呼ばれたその釣り具には、ときに鳥の羽毛も使われた。日本ではかつて、カツオ釣り用の毛鉤にトキの羽毛が使われたほか、アユ用の毛鉤にはキジなどの羽毛が使われていた。
 欧米のフライフィッシング用の毛鉤に使われたのは、ガチョウ、シチメンチョウ、キジ、コガモ、ニワトリのほか、斑紋の入ったさまざまな小鳥類の羽毛も利用されたという。

 羽毛の箒、羽箒は今でも広く世界で使われているが、日本では、茶道の炭手前で使用されるものがよく知られている。
 茶の湯の席では、ツル類やワシ・タカ類のほか、コウノトリ、ハクチョウ、フクロウ、ノガン、トキなどの風切羽や尾羽から作られた羽箒が使われた。なお、トキの羽箒は国内のみならず、20世紀の初頭には高価な輸出品としてヨーロッパに送られていた事実もある。

 

◆お守りとしての羽毛

 鵜飼の様子を見てもわかるように、ウの仲間は、飲み込んだ魚を苦もなくするりと吐き戻す。そうしたことから、ウの羽毛を安産のお守りとする民間信仰が生まれ、昭和の半ばごろまで、出産にのぞむ妊婦にウの羽根を握らせる、といったことも行われていた。
 日本神話にも、天皇家の祖を産んだ豊玉姫が、安産を願って海辺の産屋の屋根をウの羽毛で覆おうとしたというエピソードがあるが、これも同様の信仰がもとになったと考えられている。かなり特殊な例だが、これもまた羽毛利用のひとつの形といえるだろう。
 ネイティブアメリカンの安眠のお守りに羽毛が使われるケースがあるように、詳しく調べていったなら、鳥の羽毛をお守りがわりにする民間信仰は日本以外にも多数、見つかるように思う。

 

◆武器から遊具、スポーツへ

 戦や狩りの道具として、弓矢には長い歴史が存在する。飛翔性能を向上させるための試行錯誤が行われ、矢羽のかたちや枚数、材質などが最適化されてきた。その過程で矢羽に適した素材として選ばれたのは、ワシ、タカ、キジ、ヤマドリなどの尾羽や風切羽だった。
 19世紀後半になると、スポーツの現場で羽毛の新たな利用がスタートする。
 コルク製のシャンパンの栓にニワトリの羽毛を差し込んだ「シャトルコック」を打ち合うゲーム「バドミントン」が誕生したのだ。シャトルコックの「コック」は、その初期において、ニワトリの羽毛が使われていたことの名残であるが、現在はプラスチック製のもの以外では、ガチョウの羽毛が主に使われている。

 バドミントンの誕生以前にも、羽根を打ち合う遊びは存在していた。日本において、女子の遊戯として発展してきた「羽根つき」もそのひとつ。木製の羽子板で二者がたがいに打ち合ったり、独りで何回つけるかに挑戦する遊びは、室町時代において、すでに現在とほぼ同じルールで行われていたことがわかっている。
 羽根つきで打ち合う「羽根」は、ムクロジという木の種子に鳥の羽毛を差し込んだもので、「羽子はご」とも呼ばれた。魔を祓い、健やかに育つことを祈る縁起物として、武士の家に女児が生まれると羽子板を贈る習慣が江戸時代にでき、やがて庶民にもそれが広まる。そこから、正月の遊びの定番として、羽根つきが定着したと考えられている。

 

◆翼から学んだ技術

 鳥の翼や、風切羽の形状からも、人間は多くのことを学んだ。
 重力に逆らって上空に舞い上がるための力「揚力」、作用・反作用が生む推進力といった力学の理解が進んだ結果、飛行機や、風を受けて舞うグライダーが発明される。飛行機を製造する技術はあっという間に進み、最初の発明から数十年後には、音速を超える機体まで開発された。この分野の技術の進歩の速さには、本当に驚きを禁じ得ない。

 レオナルド・ダ・ヴィンチが、空を飛ぶ機械を夢見て、思考実験を繰り返していたことは有名である。鳥が空を飛ぶ秘密を解き明かし、それを機械に生かしたいと、ダ・ヴィンチは身近な鳥を多数スケッチした。その記録は、「鳥の飛翔に関する手稿」(1505年ごろ)というタイトルの文書となって、トリノ王立図書館に収蔵されている。
 ダ・ヴィンチが鳥のように羽ばたいて飛ぶ飛行機の設計図を描き残したのは、日本がまだ室町時代だった1490年のこと。この図面をもとに飛行機械を製作したとする説もあるが、事実は確認されていない。なお、このタイプの飛行機械は現在、「オーニソプター」と呼ばれている。いずれにしてもダ・ヴィンチの試みは、飛行する機械の開発とその進歩において、大きなステップとなった。

 アメリカ人のライト兄弟が、動力を備え、翼をねじることで飛行方向の制御ができる、いわゆる飛行機を発明して空に飛ばすことに成功したのは20世紀の初頭、1903年のこと。
 もちろん、ダ・ヴィンチ以降、多くの人間が飛行機械の製作にチャレンジしている。そうした人物の中に、1757年(宝暦7年)に備前岡山藩に生まれた日本人、浮田幸吉がいた。
 どういうきっかけ、インスピレーションがあって、幸吉が空に憧れ、飛行機械を作ろうとしたのか詳しいことはわからない。だが彼は、ダ・ヴィンチと同じ発想をもった。
 ハトの体重、翼の長さなどを確認し、人間を中心に据えたと仮定して、その体重に見合うように、計測した鳥と同じ比率の翼を製作すれば空が飛べるはずと結論づける。
 手先が器用で、さまざまな道具づくりに精通した表具師だった彼は、計測結果をもとにグライダータイプの飛行機械を自作。その機体は、わずかとはいえ滑空して空を飛んだ。驚くことに、それはまだ、彼が二十歳になる前のことだった。
 その事実については、管茶山が随筆『筆のすさび』(安政4年:1857新刻刊)で触れているほか、鳥人幸吉の異名とともに、多くの小説作品にも残されている。

 一方で、音を立てずに飛ぶフクロウ類の翼やその風切羽を徹底研究し、それを製品に生かすことで、時速200キロメートルから300キロメートルで走行する新幹線の車両でもっとも大きな騒音のもとだったパンタグラフの騒音を減らすことにも成功する。
 今後も人類は、鳥から得た多くの技術をさまざまな分野、製品に生かして、よりよい暮らしを模索し続けることだろう。

 

関連書籍

鳥を識る なぜ鳥と人間は似ているのか

細川博昭著

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 細川博昭

    作家。サイエンス・ライター。鳥を中心に、歴史と科学の両面から人間と動物の関係をルポルタージュするほか、先端の科学・技術を紹介する記事も執筆。おもな著作に、『鳥を識る』(春秋社)、『身近な鳥のすごい事典』(イースト・プレス)、『江戸時代に描かれた鳥たち』『知っているようで知らない鳥の話』『鳥の脳力を探る』『身近な鳥のふしぎ』(SBクリエイティブ)、『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)、『うちの鳥の老いじたく』(誠文堂新光社)、などがある。
    日本鳥学会、ヒトと動物の関係学会、生き物文化誌学会ほか所属。

キーワードから探す

お知らせ

ランキング

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる