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GEIJUTSU論――藝術2.0をさぐる思考の旅 熊倉敬聡

藝術2.0の真相へ:まずは茶道から

 

(1)茶への旅

 

 私は、2012年に、『汎瞑想』1という小著を出版した。その最終章で、私は「茶道」について言及している。

 この書は、東日本大震災と福島第一原子力発電所の災厄の後の世にあって、その災厄に奇しくも象徴・露呈されてしまった資本主義的文明の人類史的・地球史的限界を、人類がいかに乗り越え、“もう一つの”文明・生活を創りなしていけるか、そこにこそ人類、そして地球の生き残りが賭けられているのではないか、と問うた著作であった。

 そして、私は、フランスの思想家フェリックス・ガタリの「エコゾフィ(écosophie)」という思想――人類が脱資本主義的文明を創造していくには、環境のエコロジーと社会関係のエコロジーとともに「主観性(subjectivité)」のエコロジーが不可欠であるという思想2――に依拠しつつ、その主観性のエコロジーの最強の方法の一つとして(ガタリ自身は論究しておらず、代わりにその方法をアートや制度的精神療法に求めたのだが)「瞑想」にフォーカスし、その精神のエコロジーの可能性を社会・生活のあらゆる場面に探索していった。「汎」瞑想の所以である。「そして、その精神的実践を、新たな、来るべきコミュニティ創造の実践へと変奏・展開したものこそ、エコヴィレッジ、少なくとも私の理解する限りでのエコヴィレッジに他ならない3」として、瞑想をいかにエコヴィレッジ的コミュニティづくりに接続しうるか、を最終章で問うていた。論の詳細は拙著に当たってもらうしかないが、少なくとも当時の私は、この「接続」の方途の一つとして(自然農法や修験道と並んで)「茶道」――もちろん家元制度などにより硬直化・儀礼化したそれではなく、例えば哲学者の久松真一が説いたような「綜合的」な「新生活様式」を生みだしうる創造的方法としての茶道――に、全くお点前の経験もないにもかかわらず、着目したのだった。

 

「わび茶」は禅を禅院から在家の露地草庵に、禅僧を居士としての茶人に脱化して、そこで禅院や禅僧にはできなかった庶民的禅文化を創造したものであるといえると思うのであります。4

 

 久松は『茶道の哲学』で、「わび茶」を単に庶民的禅文化の「伝統」に帰することなく、逆に新しい文化、生活様式、しかも日常生活のあらゆる場面を再創造しうる「綜合的」な新生活様式ですらあると宣言する。

 

すなわち利休は庶民的禅文化を形成し、庶民をしてそれに参ぜしめ、新しい様式の生活を創造したのであります。茶道は新生活様式でありまして、その中には日常生活がすべて綜合的に包括されているのであります。人間の生活の低い所から高い所まで全部含んだという点で、茶道は普通の芸道とか、あるいは文化とかいうものとはよほど違った性格のものだろうと思います。5

 

 そして、その「わび」的生活様式とは、何よりも「物を持たないのを生かす」、「無を生かす」生活様式であった。

 

侘茶人というものは、物を持たないのを生かすというところに非常に大きな意義があると思うのであります。〔…〕いわば無を生かす、あるいは無が生きた無であるところに大きな意義があると思います。〔…〕そこまで深く考えなくとも、とにかく、家を建てるにしても金もないし、よい材料もないから、そこら辺から有り合せのものや廃物を集めてきて、ほんの膝を容れるに足るような粗末な小屋を建てる。その小屋の建て方や、有り合せの資材の用い方や、空間の利用の仕方をよく考える。露地ならば、狭隘な土地をどう生かしてゆくか、その生かし方を考える。どう生かすか、その生かし方に侘の問題があるわけであります。6

 

 そして「侘茶人」とは、久松によれば、禅の修行によって自己を空無化した「無相の自己」が住まい働く何者かであり、「茶道の第一の目的は人間形成であった。そして、このような人間形成が茶道文化を生んだのであります。無相の自覚が形に現われてくる、その現われたものが茶道文化である。〔…〕無相の自己が浸透していないような茶道文化はない、茶道文化には必ず無相の自己が浸透しておるのであります。すなわち、茶道文化は無相の自己のインカーネーションであります。7

 無所有・無相の自己が自らを具現化・化身インカーネートする新生活様式としての茶道。この、汎瞑想的文化・生活様式を、現代のエコヴィレッジ的文脈において再生できないだろうか。無相なる者たちの“空”が交響しながら、そこに自ずから溢れだす生命の泉と合一するようなコミュニティ――そこに私は、“もう一つの”文明を創りだしうる「わび」的なエコヴィレッジの可能性を夢見たのだった。

 『汎瞑想』執筆当時、鎌倉に住み、その後京都に移り住んだ私は、幾たびか茶を稽古すべく、席に臨みもした。しかし、それらの席は、久松が同時代の茶を強く批判したように、「巧言令色」に堕した8、およそ無相の自己による新生活様式、「わび」的エコヴィレッジの創造への気配を微塵も感じさせない席であった。そうした落胆が重なり、諦めかけていた時、本連載初回で紹介したPlay On, Kyotoの縁で、面白い試みを行っているらしい若い茶人たちが営む「陶々舎」の噂を耳に、さっそく訪れた。そして、そこに藝術2.0の気配が濃厚にしかも爽やかに立ちこめているのを直感した。

 陶々舎は、2013年、デンマーク人に師事した天江大陸、カナダ人に師事した中山福太朗、そしてチリ人のガイセ・キキという「ハイブリッド」な若者三人が大徳寺の西に開いた「お茶と暮らす家」である。それは、私が見る限り、久松の生きた時代からおよそ半世紀経つとはいえ、まさに現代の文化・社会的文脈において「新生活様式」を創りださんとする、しかし肩の力の抜けた、「軽やかな」実験場となっている。能、雅楽、あるいはヨガといった古からの芸能や身体術に茶を絡ませたかと思うと、鴨川べりで道行く人に野点を供する。さらには無印良品の売り場でそこで売られているアイテムだけで茶会を催す。他方で、身体的・精神的に茶のルーツを体感するため、稲作に励む。京都という土地柄、その遺産を活かしながら、同時代の生活の様々な場面に茶を開き、茶が蔵する創造的潜在力を解き放ち、堪能する。私は、遅まきながらも、その茶の「力」に触れ始め、学び、そして楽しみ始めた。

 

 ところで、現代美術・文学の作家、赤瀬川原平は『千利休 無言の前衛』9という本を出している。彼はそこで、前衛芸術の消滅、そして自身の作品を作ることの不毛について語っている。

 

芸術の概念を、日常の感覚につなげようとする前衛芸術は、そうやって日常への接着を繰り返すうちに、日常に接近しすぎて、接着というよりもその中にはいり込み、日常のミクロの隙間から消えていった。そうやって前衛芸術は消えたのである。〔…〕そこにいた私自身のことでいえば、私もまたキャンバスを丸ごと梱包した作品、千円札を機械的に印刷した作品、という、芸術作品としての臨界ぎりぎり(千円札作品はじっさいに裁判にかけられた)に達した結果、ものを作ることの不毛に目覚めてしまった。芸術の臨界が見えたのである。新しい発見がなくなった。要するに芸術作品に魅力がなくなったのである。10

 

 彼もまた、芸術の「死」をまざまざと味わったのだ。彼はその後、「作る」ことをやめ、「路上観察」に没頭し、「トマソン物件」なる「無用」で「無機能」な「超芸術」の探索をつづけていく。そんなある日、家の電話が鳴る。草月流家元で映画監督でもある勅使河原宏の使いからだった。今度、野上彌生子の小説『秀吉と利休』を映画化するが、その脚本を書いてくれないかという依頼だった。茶のど素人で、しかも「安土桃山とか、鎌倉時代とか、平安時代とかの名前は知っていても、どれが先でどれが後か、その順番がわからない」ほど「本当に日本の歴史を知らなかった」にもかかわらず、「しかし私も前衛である。前衛芸術が消えたとはいえ、おのれの家の中の天井裏に、密かに前衛の神棚は奉ってある。それが人に先を越されていいだろうか。11」という「前衛」の亡霊にそそのかされ、執筆を引き受けてしまう。

 私もまた、赤瀬川同様、茶の「ど素人」ながらも、逆に「素」の視線・感覚で、陶々舎、なかんずく天江大陸と、茶を「習う」というより、その規矩、哲学、そしてその創造的潜在力を共に楽しみつつ、来るべき藝術2.0に思いを馳せている。以下は、未だ「茶的」に素朴な感性と知力が、茶の奥深さを手探りしつつ、しかしだからこそ清んだ心の目で、その深奥のうちに、先に、幻視する藝術2.0の「脚本」とでもいうべきものである。

 

(2)茶道、そして藝道の哲学

 

 ① 茶道の哲学

 

 久松の「茶道の哲学」に立ちもどろう。久松は、その「哲学」の精髄が開陳されている先にも引いた「日本の文化的使命と茶道」で、侘茶人=無相の自己の「無を生かす」特異な創造性を称揚した後、翻って同時代の茶の世界の華麗の美を痛烈に批判する。

 

しかるに今日茶会などへ行ってみますと、花見か都踊りを見に行ったような光景を呈しております。かような美しさは、「わびの美」とは遥かに異なったものであります。侘の美は、栄華や華麗の美の批判と、否定から成り立ったものであるのであります。12

 

 しかし、わびの創造は単に華麗を否定し無に惑溺することではない。それは、無を通して新たな有へと至りつく文化なのだと言う。

 

無一物というと非常に消極的に感じられますが、無一物中無尽蔵というように、そこにはかえって自在な創造性があるのであります。創造とは、有の否定を通して新たな有へということであります。自在な創造性は、絶対無的な主体において初めて可能なものであるといわねばなりません。〔…〕「わびの文化」は有中に無のある文化であり、無が有中に表現されている文化であるのであります。13

 

 有から無、そして無から新たな有へ。またもや例の実存の「V」の字の軌道。すでに私たちは、田辺によるマラルメ(連載第6回)、藤田・魚川による大拙(第9・10回)などで、同じ軌道を見たのではなかったか。私は、この「V」に藝術2.0の実存的要を見ている。が、その詳細の検討は後回しにしよう。ここではさらに久松を追おう。

 「わびの精神」は、しかし、室町末期から江戸初期までが最も溌剌としていたが、以後今日に至るまで、硬直し形式化してしまい、「死んでしまった」とさえ、久松は言う。だから、今日の茶道は、「わびの精神」を復活させ、新しい創造の主体を確立することが急務だとする。そして、茶道の「改革」を四つの視点から提案する(①真の茶道の自覚が欠如 ②茶道の本質に対する認識の欠如 ③茶道の生活からの分離 ④手前の煩瑣、手先の芸)。

 最後に久松は、目を外国に転じ、この「日本の文化的使命と茶道」の結論とする。

 

しかし茶道文化というものは日本に特有のもので、外国においては見られない文化であるといってよいものであります。ですからこの日本に固有の文化内容を、国内において創造的に豊富にして、われわれの生活に寄与してゆくということ、と共に、それを外国にも見てもらって、日本に固有の文化の認識を欧米の人に深めてもらうということ、それから認めてもらうということだけではなしに、それを契機として欧米の新しい文化創造に寄与するということ、つまり欧米の新しい文化創造の契機となるというようなこと、これは日本茶道の非常に大きな使命であると思います。14

 ところで、私は、この連載の第1回を以下の文で締めくくっていた。

「私(たち)はまた、藝術2.0が日本ローカルなものではなく、個々の文化圏で固有の藝術2.0(にあたるもの)があるはずだと予感している。将来的にその探訪にも出かけるにあたり、藝術2.0を「Art 2.0」と訳すことなく、ローマ字で「GEIJUTSU」と称したい欲望に駆られている。なぜなら、それは決して単なるArtのヴァージョンアップでもないし、いわんや新たなArtの〈外部〉の〈内部化〉でもないからだ。「MANGA」が決して「Comic 2.0」でないように、「ANIME」が決して「Cartoon 2.0」でないように、「GEIJUTSU」もまた、その特異な力を世界的に散種するかもしれないからだ。そして「GEIJUTSU」が、各文化圏で特異な藝術2.0を起動するかもしれないからだ。」

この文を書いたとき、私は7年前に読んだ久松の文をすっかり忘れていた。だが、あたかも、久松が半世紀余り後、私に成り代わって書いているようではないか。ということは、藝術2.0は、茶道を「改革」すること、この21世紀初めの文脈で改革し、その改革した茶道を「GEIJUTSU」として海外に示し、さらにかの様々な地に固有な文脈で各々の「GEIJUTSU」に当たるものが起動することに貢献することなのか。その問いに対し、今のところは、「そうとも言えるし、そうとも言えない」という(以前藝術2.0は「手前みそ」づくりなのか?と問うた時と同様)曖昧な返答で、とりあえず問いを宙吊りにしておこう。そして、その問いにやがて答えるためにも、先に進もう。

 

 ② 藝道の哲学

 

 久松は、1957年、ハーヴァード大学で客員教授を務めた帰途、ヨーロッパ諸国、エジプト、パレスチナ、インド等を歴訪する。その間、ティリッヒ、ブーバー、マルセル、ブルトマン、ユング、ハイデッガーら、当時の「一流」の思想家たちと対談している。うち、1958年5月18日にフライブルグ大学で開かれ、ハイデッガーが司会した懇談会「芸術の本質」の記録が残っている。15

 ハイデッガーはまず、アジアでは、「われわれ(西洋人)」が「芸術」と呼んでいるものをいかなるものとして理解しているのかと問う。そして、日本にはそもそも「芸術」を表す言葉があるのかと(ある意味素朴に)問う。

 久松はまず、後者の問いに答え、日本にも(西洋的意味での)「芸術」という言葉があるが、それは、他の西洋由来の概念同様、芸術の概念を自国語の語根を用いて翻訳したものだと応じる。その上で久松は、日本にはもう一つ、ある意味で芸術を表す古い言葉があり、それはヨーロッパ的な影響を受けていない、別様の深い意味を持っていると言う。それが「芸道」という言葉である。「道」は、中国語の「道(タオ)」に由来し、従って芸道としての芸術は、「われわれの生命とか本来の有り方への深い内的な繋がり」をもっていると述べる。

 さらに久松は、芸道と禅の繋がりを訊かれ、芸道を「禅芸術」と言い換えつつ、「芸」には二通りの意味があるとする。第一は、人が「根源に参入する道」であり、第二は人が「一度根源に参入した後、現実に還り来ること」だと言う。そして、芸道=禅芸術の真の面目は、後者にあると言う。この場合の「現実の根源」とは、「根源的な真なる生命とか真実の自己といわれている事柄であり、一切の緊縛を脱した離脱であり、一切の形とそれに由る束縛とを空じて有ることであり、それはまた、無とも言われて」いる。芸道=禅芸術は、畢竟、(西洋では根源がなんらかの仕方で「有」であり「形相」的であるのに対し)「無相」な、「無」としての根源が、一切の「有」「形相」を空じているがゆえに、相無きものとして自由自在に動き得る、その自由が形あるものに現れ来たったものに他ならない。

 したがって、未だ芸道=禅芸術の真相が測りがたいとみえる一芸術学者が、(少なくとも西洋人から見て外見的に似ているように見えないこともない)現代芸術、特に抽象絵画と禅画との類似性について問うた時、久松が断固として両者の差異を強調するのも至極当然である。前者が「形」を破壊し「形」の向こうに行こうとする限り、依然「形」に縛られているのに対し(先ほどの第一の「芸」)、(第二の「芸」たる)禅画は正反対の方向、すなわち無相の自己が形あるものの方に現れ来たることにその真髄があるからだ。

 懇談の最後に、同じ芸術学者から、西洋の考え方では「芸術でないような芸術」、たとえば生花とか茶道も、日本の考え方では「芸術」なのかと問われ、久松は、当然のごとく、根源的自己の自由な働きが形あるものに現れ来たる限り、その現れが西洋的な意味での芸術の諸領域でなくとも(つまり花や茶であっても)、それらはすべて(芸道としての)芸術である、と締めくくる。

 久松がこの懇談で芸道=禅芸術の精髄として強調するのも、またもや「V」である。「根源(=無)への参入」と、そこからの「現実(=有)への還帰」である。抽象絵画を含めた西洋の同時代芸術が未だ前者の途上にあるのに対し、芸道=禅芸術は後者にこそ、その真骨頂を発揮する。Vの要は、根源=無の経験の有無。

 この懇談の冒頭、時間を間違え遅れてやってきたハイデッガーに、久松はユーモアを交えてこう語りかけていた。「ハイデッガー教授はおくれていま到着されましたが、無からでて来られましたので、おそく来られたことを私はすこしも残念には思いません。禅も無から出てくるものですから。ここで無から出て来たもの同志が会えて大変嬉しく思います。(笑声)16

 「無から出て来たもの同志」。確かにハイデッガーは、同時代の「西洋」の思想家の中でも最も「無」に魅せられた者の一人と言えるだろう。だからこそ、久松からもユーモアを込めてこう評されたにちがいない。

 先に、美術批評家椹木野衣も、水墨画的感性の彼方に、西洋近現代芸術を超える「別のアートのあり方」を見定めつつ、その存在論的根拠に、この哲学者の「存在」の「隠れ・なさ」を挙げていたのにも、だから合点がいく。が、はたして、ハイデッガーの「存在」は、その思索・経験の深まりにおいて実際どこまで「無」化されていたのか。少なくともこの懇談(1958年)に先立つある時期、それが「民族」へと、さらに「国家建設」へと再「有」化されうる契機を孕んでいたのではなかったか17。はたしてこの久松との邂逅の折、真に「無から出て来たもの同志」だったのか。その「無」ははたして同質(?)の、禅的(?)無だったのか。それが「無」である限り、私たちも、久松も、そしてハイデッガー本人も、知る由がないだろう。

 いずれにしても、私がここで、さらに久松の「道」論を(件の懇談の翻訳が終始「(術・道)」という字を当てていたが、ここで私たちの語法に戻ろう)、そしてその先に「藝術2.0」論を深掘りしていくにあたって強調したいのは、この「無」の経験の質と在りか、そして「無」からの「現実」=「有」への還帰としての「藝」の様態如何である。その点に注目しつつ、さらに「藝道」の哲学を追究していこう。

 

ここから、久松自身の論を参照しつつも、さらにそれを展開・深化させたと思しき弟子筋にあたる倉沢行洋の藝道の哲学を中心的に検討していきたい。

 倉沢はその名も『藝道の哲学』という著書18、そしてそれに基づき、久松の茶道論・藝道論を解説・敷衍した「禅と茶と藝術」19で、その「藝道の哲学」を開陳している。

 後者で、倉沢は、先の久松とハイデッガーとの懇談における「藝術」と「藝道」との比較に触れたあと、藝が「藝道」となるには何よりも「修行」が必要であり、修行とは「自己変革」のことだと言う。「道」でない藝は「現在の自己の在り方をそのまま肯定して」行い楽しむものであるのに対し、「道」である藝は、「現在の自己の在り方を徹底否定して新しい自己として生まれ変わることをめざす」ものだと言う。その生まれ変わった自己こそ、久松の云う「無相の自己」であり、それを倉沢は(茶道書『南方録』にある「心ノ一ツガネ」という表現に拠って)端的に「心」とも言い表す。畢竟、茶道とは「茶から心へ」そして「心から茶へ」の道、すなわち「茶⇆心」の道であり、藝道も同様に「藝⇆心」の道となる。まさしく「V」。久松が先のハイデッガーとの懇談で藝道=禅藝術を定義した「根源に参入する」道と「現実へと還帰する」道のVを倉沢はこう変奏する。そして、藝によって人はある「姿」を生み出すことから、それを「姿⇆心」とも言い換える。

 続いて倉沢は、「藝(姿)⇆心」に絡めて「型」論を展開する。茶道の「点前」とは、多くの型の「有機的集積」であり、その点で能楽の「型」とも共通すると言う。修行の末、人はいつしかあらゆる型を、もはや何らの努力・緊張なくして安々と行い得る境地に至る。世阿弥はそれを「安き位」と呼んだ。そしてそれには二種類ある。

一、自分が型にすっかり嵌まり込み、型になりきってしまう境地、すなわち「達人」。

二、型を自己表現の形式として用いる境地、すなわち「名人」。

 ただし、倉沢によると、名人の自己は、「普通の個我的自己ではなくて、型への没入を志向してきた自己が、型において死に、絶後に蘇った新しい、普遍的自己で、芭蕉のいう、西行の和歌・宗祇の連歌・雪舟の絵・利休の茶湯に貫道する一なるものとしての自己である。世阿弥は、自己のこういう転換を、仏教用語をかりて『色即是空』から『空即是色』への転換と言い表し、『空即是色』の自己を、これも仏教用語をかりて『無位真人』と言い表している。註20

 「色即是空」から「空即是色」へ。またもやV。名人は、空から色へ、無から有へ、心から藝=姿へと、型を自在に用い、軽やかに無相の自己を表現する何者か、なのである。

 結局、達人においては型が主で自己が従であるのに対し、名人においては自己が主で型が従である。だから名人は、自己の表現にとって型がそぐわない場合、型を「破る」、つまり「破格」する。

 

名人は、次いで、既存の型の一つ一つを検証してゆくことになる。巨視的には、ある型が、彼の生きている時代にふさわしいか否か、彼の生きている地域にふさわしいか否か、が検証され、微視的には、その型が、それの行われる時・場所・状況にふさわしいか否か、また彼の個性にふさわしいか否か、といったことが検証の具体的内容となる。こうして、既存の型のうち、その時、その処、その人にふさわしい型は残され、そうでない型は捨てられ、または改められる。全く新しい型も作られる。これが「破格」である。21

 

 まさに、私が藝術2.0に見てとった二つのクリエーションの弁証法、「冷たいクリエーション」(=型)を再デザインする(=「破格」する)「熱いクリエーション」の弁証法が描かれているようではないか。

 が、名人は、さらに先に行く。「離格」である。「離格」とは、既存の型にも、そして自己表現のために自分が作った型にも束縛されない、どこまでも「軽やかな」境地。「晩年の芭蕉が唱えた『軽み』は、この意味での軽やかさにほかならない。世阿弥が至上の藝境を示すのに用いた『妙』という言葉も、基本的には離格の軽やかさ・軽みと等しい。22」離格の名人こそ、真の名人、名人中の名人である。

 名人はだから、「無法者」でもある。

 

と言ってもこの場合の無法は、普通に言う無法・無秩序・アナーキーとは異なる。何となれば、主体自身が根源法則であって、彼は所謂、己れの欲するところにしたがってのりをこえざる境地にあるからである。23

 

 そして、この「無法者」となった名人こそが、真に新しき創造、「新風樹立」の主体なき主体となる。

 

創造・新風樹立とは、今までになかった新しいものをつくるということであるが、その内実は、「心ノ一ツガネ」が新しい「姿」を取って自己表現するということでなければならない。つまり、創造において「姿」は新しく変るが、その本である「心ノ一ツガネ」は変らないのである、否、変ってはならないのである。その意味では「心ノ一ツガネ」は永遠に古いものである。永遠に古い「心ノ一ツガネ」が絶えず新しい「姿」をとって自己表現するというのが、創造ということの真義である。24

 

 倉沢によれば、こうした「新風樹立」としての創造こそ、芭蕉の説いた「不易流行」、すなわち「万代不易」と「一時流行」の二にして一なる創造となる。

 芭蕉は、世阿弥は、そして利休は、すでに藝術2.0を実践していたのか。久松、そして倉沢が彼らの「藝道」に見た、冷たいクリエーションと熱いクリエーションの弁証法こそ、藝術2.0の実相だったのか。だとしたら、私たちは、21世紀の今、名人の「不易流行」を復活させればいいのか。私はここでも、「そうとも言えるし、そうとも言えない」と、曖昧に答えるにとどめよう。

 いよいよ、藝術2.0の真相に迫るときだ。

 

 

 

 

註1 熊倉敬聡『汎瞑想――もう一つの生活、もう一つの文明へ』(慶應義塾大学教養研究センター選書12)、慶應義塾大学出版会、2012年。

註2 フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』、杉村昌昭訳、大村書店、1997年。

註3 熊倉、前掲書、115頁。

註4 久松真一『茶道の哲学』、講談社、1987年、15頁。

註5 同書、16頁。

註6 同書、19頁。

註7 同書、46-47頁。

註8 同書、21頁。

註9 赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』、岩波書店、1990年。

註10 同書、31-33頁。

註11 同書、50-51頁。

註12 久松、前掲書、23頁。

註13 同書、24-25頁。

註14 同書、28頁。

註15 『増補 久松真一著作集 第五巻』、1995年、法蔵館、461-469頁。

註16 同書、461頁。

註17 「芸術が生起するとき、すなわち原初が存在するときには、いつでも、或る衝撃 [Stoß]が歴史の内に到来し、歴史がはじめて、あるいは再び原初する。ここで言う歴史とは、それがどれほど重大なものであれ、時間の内で生じる何らかの事件の連続ではない。歴史とはある民族を、その民族に備わっているもの[Mitgegebenes]の内へと移し入れることとして、その民族に課せられたもの[Aufgegebenes]の内へと連れ出すことである。」(マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』、関口浩訳、平凡社、2008年、127-128頁)。「真理がそれによって開示された存在するものの内にそれ自体を整え入れる本質的な仕方の一つは、真理が〈それ自体を - 作品の - 内へと - 据えること〉である。真理がその本質を発揮するもう一つ別の仕方は、国家建設の行為である。」(同書、99頁)。

註18 倉沢行洋『増補 藝道の哲学 宗教と藝の相即』、大阪東方出版、1987年。

註19 倉澤行洋「解説 禅と茶と藝術と」(久松真一『藝術と茶の哲学』、京都哲学撰書第二十九巻、燈影舎、2003年、373-417頁。

註20 同書、411頁。

註21 同書、414頁。

註22 同書、416頁。

註23 倉沢『増補 藝道の哲学』、93頁。

註24 同書、94-95頁。

 

 

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。芸術文化観光専門職大学教授。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、『藝術2.0』(春秋社)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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