宗教事情(一)
キリスト教徒の規範にしたがう旅
バードが望んだのは、「ほんとうの日本」の懐深くに分け入ってゆく旅をすることだった。そこには、異邦人の女など見たこともない人々がいて、予測しがたい出来事が次々に起こることだろう。だから、たいていの人は思いとどまるようにと警告を発した。ところが、英国代表領事のウィルキンソンはバードにたいして、親切なアドバイスをしてくれた。すなわち、「内地を旅するという私の一大計画」はいくらか野心的にすぎるが、この国では「女性が一人で旅してもまったく安全である」と。ただ、日本の旅では「蚤の大群と馬の貧弱なことが大きな障害になる」と言い添えられたが、それはアドバイスを求めただれもが指摘することだった。むろん、バード自身もこの蚤と馬に大いに苦しむことになる。
それにしても、外国人が本州北部について具体的に知っていることはほとんどなかった。バードが思い描いていた踏破ルートについての照会を受けた日本の内務省は、そのうち一四〇マイルについては「情報不足」を理由にして、まったく書き込みのない旅程表を返してきた。それを見たパークスは励ますように、「情報は旅を進めていきながら得ていかなければなりませんね。その方がかえって面白いじゃありませんか」と言ったらしい(「第六報 中国人と従者」)。日本政府はバードに無関心だったわけではない。それどころか、異例なほどに自由度の高い旅程表を交付したことからして、かえって優遇措置をあたえたと考えるべきだろう。
バードはいったい、日本列島の北への旅のなかで、「ほんとうの日本」の何を見ることを望んだのか。『日本奥地紀行』には、日本人の信仰や習俗にかかわる記述が意外なほどに抑制的だった。バードの関心が稀薄だったのではないかと、わたしは漠然と想像していた。長年読み親しんできたテクストが『日本奥地紀行』の簡略版の邦訳であったことに、その理由の一端は帰せられるかもしれない。そこには、ことに日本人の宗教観に関する記述が少なかった。より正確には、簡略版が元版(完全版)をもとにして編集される過程において、省略ないし削除されたなかに宗教にかかわる記述が多く含まれていたのである。ここでは、イザベラ・バードの見た神と仏のいる風景、そのいくつかに眼を凝らしてみたいと思う。テクストは『完訳 日本奥地紀行』である。
それにしても、バードの旅が思いがけず、キリスト教徒としての規範に則っているらしいことに気づいたのは、いつであったか。たとえば、すでに前節で触れたことだが、バードは日曜日には休息を取るという原則を揺るがすことはなかった。気づかずに読んでいたのですか、と笑われたことがあった。不覚であった。私にはそもそも、日曜日には仕事を休むといった習慣がまったくないがゆえに、意識がそこに向かうことがなかったのである。
旅立ちの日はきまって、安息日の明けたあと、つまり月曜日であった。明治十一(一八七八)年の六月十日(月曜日)、バードは三か月におよぶ長い旅へと出立した。列島の北に広がっている未踏の大地、そこに転がっているはずの「ほんとうの日本」を知るために。日光までは人力車を雇った。そこに二週間にわたって滞在し、これから始まる長い旅の準備をしている。日光からの旅立ちは、六月二十四日(月曜日)であった。早朝の六時になると、約束したとおりに、小柄な女が元気そうな雌馬を連れてやって来た。駄馬の背に揺られて出発する。ときには徒歩で、街道をひたすら北上し、会津地方を一気に駆け抜けていった。
六日間にわたって厳しい旅をしてきたあとの日曜日を、高所にあるこの静かな場所で過ごせるのは、ほんとうにありがたい! 山々と峠、谷間や森や集落、これらと併存する無数の水田、また、貧困や勤勉、不潔、荒廃した寺院、倒れた仏像、草鞋をはいた駄馬の列、長く続く何の変哲もない灰汁色の道、さらには無言で見つめる群衆などが、ごちゃ混ぜになって私の記憶の中に幻のように浮かんでくる。(「第十五報 不潔と病気」)
月曜日から土曜日まで、きっかり六日間の会津踏破の旅であった。土曜日の夕暮れには、絵に見るような谷間の集落に着いた。しかし、バードは翌日の安息日をそこで過ごしたくないと思い、さらに強行軍で、高い山の端にあると聞いた峠のうえの一軒宿をめざしたのである。そこでは、群衆に取り囲まれることもなく、ゆったりと過ごすことができた。ここで会津紀行となる書簡を執筆している。明くる七月一日(月曜日)、新潟に向けて出発したのだった。
バードの旅がまさしくキリスト教徒の規範にしたがうものであったことは、否定しようがない。折りに触れて、聖書の言葉が呼び返されて、それを起点に判断が下されている場面に出会う。バードは一八三一年、イギリスのヨークシャーに、国教会派の牧師の子として生まれた。そうして敬虔なキリスト教徒であったことが、異教徒である日本人の宗教や神の観念にたいする関心を遠ざけることはなかった。『日本奥地紀行』の簡略版にも、先に引いた一節はそのままに見いだされる。ただ、その「荒廃した寺院、倒れた仏像」についての具体的な記述が、どこかに見いだされるわけではない。
わたし自身、バードの会津紀行の踏破ルートを何度か辿ったことがあるが、そのいたる所に寺社があり、石仏や石塔が立っていた。バードはきっと、それを目撃していたはずだ。『完訳 日本奥地紀行』には、会津地方における廃仏毀釈の情景が、以下のように生々しく記録されていた。
寺院は近年ごく少なくなっているが、神社よりももっと見栄を張り、境内には通常石灯籠や種々の記念物があるものの、それらは傷んだりみすぼらしくなったり、木の塗料が剝げかけたりしている。そこには活発な「布施」によって補われないままになっている「国教制廃止」の様相が紛れもなく認められる。宗教建造物と種々の宗教的表象物が傷んでいることはこの国のこの地方における最も目につく特徴の一つになっている。鼻が欠け、首にピンクの幅の細い布を巻き付けた仏像が、苔や地衣類に覆われてあちこちに立っている。また草花や雑草の中に倒れている仏像も至る所にある。一日旅する間にこのような仏像を何百体も道の傍らに見るのである。(「第十五報(結) 高度な農業」)
ここに見える「国教制廃止」とは、明治政府によっておこなわれた神道と仏教の分離と、神道を国教化する政策を指している。それが全国に惹き起こした仏教にたいする激しい排斥運動のなかで、寺院や仏像などが数も知れずうち壊されている。地方ごとにその様相は大きく異なっていたが、会津地方においては、まさにバードが記録していたように甚大な被害がもたらされたのである。「宗教建造物と種々の宗教的表象物」は破壊され、うち棄てられていた。バードはほんの一日の旅の行程のなかでも、草むらに倒れ放置された何百体もの仏像を目撃していたのである。敬虔なキリスト教徒であるバードにとっては、この聖性への侵犯行為は眼を背けずにはいられぬものではなかったか。
しかも、バードという繊細な観察者は、さらに興味深いことを記録に留めていたのである。このあとに続く一節に、次のように見える。
宗教的表象物がこのようになおざりにされるのと対照的なのが、墓地が常によく管理され、墓石がいつも倒れないで立っており、たいていの墓には瑞々しい花が供えられているという事実である。鄙びた山の斜面にぽつんとある墓でさえそうなのである。いくつかの村の近くにはそれほど管理の行き届いていない墓地があるが、そこにはこの地方の駄馬が埋葬されており、人間の墓とは形がまったく違う。(同上)
仏像のような宗教的表象物がうち棄てられているのとは対照的に、寺のかたわらに営まれていた墓地は破壊を免れていたらしい。そればかりでなく、ほとんどの墓には新しい花が供えられていた。いや、山の斜面に点在する墓でさえ、きちんと管理されていたのである。それはあきらかに、廃仏毀釈の破壊の矛先が仏教の「国教」的な側面に向けられ、家々の先祖供養の拠点としての墓地はまったく猶予されていたことを示唆している。さらに、バードが村はずれにある馬の墓地にも気づいて、聞き書きをしていたことは、そのフィールドワーカーとしての優れた資質を感じさせるものだ。
廃仏毀釈とともに、国教の神々が姿を現わす
くりかえすが、『完訳 日本奥地紀行』を読んでみれば、簡略版に宗教にかかわる言及が少なかったのは、バードの関心が希薄だったからではないことはあきらかだ。完全版では、随所で触れられていたのである。なぜ、一般読者向けに簡略版を編むに際して、それが省略されたのかは、わからない。わたしは以前から、たとえば廃仏毀釈について、バードがどの程度の深い知識をもっていたのかということに関心があった。完全版を読むかぎり、バードはきちんと廃仏毀釈に関する知識を得ていたように思われる。そのあたりから、日本人の宗教事情にかかわるバードの観察や思索の跡に、眼を凝らしてゆくことにする。
たとえば、日光東照宮について、こんな言及がなされている。
明治維新となり、いわゆる廃仏毀釈が行われると、家康の社[東照宮]の栄光の儀式は停止され、仏教関係の装備も強引に除去された。そして、かつてその栄華に与っていた二〇〇名の僧侶は四散し、今やそれに代わって六人の神官が、神官としての職務を行う一方、僧侶が行っていた入山券を売る仕事もこなしている。(「第十一報 日光」)
じつは、この一節はそのままに簡略版にも見られるのだが、そこではこうした記述は断片と化して埋もれている印象が拭えない。明治維新のあとの廃仏毀釈によって、神仏習合が当たり前であった状態に暴力的な亀裂が入れられ、日本人の宗教的な景観は劇的な変貌を強いられることになった。ここ日光の東照宮でも、表層からは華やかであった仏教的な装いが剥奪され、二百人の僧侶が六人の神官に減じて、もはや昔日の面影はすっかり失われていたのである。
すでに触れてきたように、近世には上野の寛永寺とともに、徳川幕府の菩提所であり、将軍の墓があった増上寺ですら、廃仏毀釈の波に洗われて僧侶たちが追放され、宿坊や寺院が外国人の住まいや礼拝所として提供されていたのだった。会津紀行のなかの「荒廃した寺院、倒れた仏像」が、廃仏毀釈の結果であることに、バードはたしかに気づいていた。修験道の強かった地方では、徹底した仏教的要素の破壊がおこなわれたから、寺社にからんだ景観そのものが近世以前とは大きく変わっている。山形県の羽黒山は修験道のメッカであったが、廃仏毀釈のあとに残った建物は五重塔など、わずかなものにすぎない。いまは羽黒山神社を名乗り、祭祀の表層は神道形式に変わっている。それを見た岡本太郎が厳しく、異和感を表明していたことを思いだす。『神秘日本』に収められた「修験の夜」という山形紀行のなかに、それは鋭利なかたちで指摘されていた。
あるいは、簡略版からは省かれた「序章」には、こんな一節が見られた。
神道は自然崇拝と神話崇拝の原始的な一形態であるが、その神話崇拝はおそらくはこの国固有のものであって、そこには道徳律はまったくなく、宗教的要素も、あるとしてもごくわずかである。その神道が今は、「国(ステイト)」教会的な組織ないし「国が財産を付与する」教会のような組織になっている。これに対し、六世紀に朝鮮から伝来した仏教は、天皇の復位[王政復古]以来排斥されてきているが、神道よりも一般大衆の心をしっかりと掴んでいる。上流階層の人々は、政治目的のために表面的には神道に賛同する一方で、非宗教的な人生観に安んじている。(「序章」)
バードはここでは、明治初年の王政復古によって、仏教が厳しく排斥され、その代わりに神道があたかもイギリスの国教会のように再編されようとしていることを指摘していた。その神道や仏教の理解はかなり偏ったものであり、むしろ皮相なものであったかもしれない。バードによれば、神道とは自然崇拝と、この国に固有の神話崇拝とを基礎においた「原始的な」ものであり、そこにはなにより道徳律が欠けており、宗教性もまた稀薄だった。端的にいえば、宗教とは見なしがたい神道が「国教」として政治的に位置づけられていることの歪みに、バードはどこか不安な眼差しを向けていたのではなかったか。
じつは、この引用の前段には、明治維新による政治制度の大きな変更についての言及が見いだされた。廃仏毀釈と神道の「国教」化にたいして、異なる角度からの照射がおこなわれている。
「聖なる皇帝」[天皇]が京都に隠遁させられ、「世俗の皇帝」[将軍]が江戸で統治するという不思議な状態はもはや存在しない。幕府は廃され、江戸は東京になった。権力と権利を剥奪された〈大名〉は引退して私人としての生活に入っているし、「二本差」の男たち[武士]は絶えた。そして、洋服に身を包み、顔立ちも現代風の天皇(ミカド)は、東京にあって、「装甲艦」「アームストロング砲」「針打ち銃」というヨーロッパの装備と、国教の神々の主神である天照大神(サン・ゴッデス)の直系第一二三代に当たるという〈威信〉を楯として、神授の権利による統治を行っている。その政治は、時には立憲制的な方向に傾きはするものの、形を変えた専制君主政治である。奴隷制は知られていないし、階級による不利な条件ももはや存在しない。(同上)
幕府が廃され、江戸は東京に変わった。それとともに、「聖なる皇帝」=天皇/「世俗の皇帝」=将軍によって、宗教的権威/政治的権力が分掌される近世的な王権の制度が廃止され、天皇による専制君主政治がおこなわれることになった。洋装と、西欧的な軍備とで身を固め、「国教の神々の主神である天照大神の直系第一二三代に当たる」という宗教的権威にもとづき、その「神授の権利による統治」は可能とされている。この神話崇拝を背景とした神授王権的な装いをもつ政治体制は、いまだ像として揺れている。明治二十年代はじめに、明治の帝国憲法が発布されるまでの、ある過渡的な政治体制であり、その記述としては無理からぬものであったかもしれない。
ともあれ、明治初年に、「国教の神々」の主神たるアマテラスを頂点として、その直系の子孫としての宗教的権威を身にまとう天皇が姿を現わしたのである。それを下方から支える神社の群れが、いまや「国教」的に組織され、しかもそれは自然崇拝や神話崇拝を核として再編されようとしていた。この国の歴史のなかに神道が仏教の影に覆われず、純化したかたちで存在したことはなかったはずだ。しかし、仏教は民衆の熱狂的な暴力によって排斥の憂き目に遭い、つかの間ではあれ、日本人の宗教的な景観は大きな変容を強いられたのである。おそらく、バードはその異様さに気がついていた。バードがくりかえし指摘していたのは、神道にはそもそも宗教としてのあるべき輪郭がない、ということだった。ともあれ、明治十一(一八七八)年が大いなる過渡の季節であったことを記憶に留めて、『日本奥地紀行』というテクストは読まれねばならない。