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シアターワークへの扉 小木戸利光

シアターワークという藝術

 

 

波が寄せては返している

私のもとにも、あなたのもとにも、

おんなじ波が寄せては返している

命は、おのずと、呼吸を繰り返している

命ある限り、この鼓動は、寄せては返す、寄せては返している

 

DE-DU()M  DE-DU()M

 

私は私として、鳴り響いている

あなたはあなたとして、鳴り響いている

私は私として、あなたと向かい合っている

あなたはあなたとして、私と向かい合っている

 

遠くで誰かが、あなたを呼んでいる

本来は、それを感じられる

遠くで誰かが、あなたを呼んでいる

本来は、それを感じられる

 

波が寄せては返している

私のもとにも、あなたのもとにも、

おんなじ波が寄せては返している

命は、おのずと、呼吸を繰り返している

命ある限り、この鼓動は、寄せては返す、寄せては返している

 

DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M

 

いつだって、藝術は、この愛とともに生まれている

いつだって、藝術は、この愛とともに、寄せては返している

 

 

この世界で、あなたの心と身体に出会う

 

時が満ちるように、ある日、私のもとに、1つのオファーが届く。CAMPUS Asia ENGAGE――日中韓 早稲田大学、北京大学、高麗大学共同 多層的紛争解決と社会変革のためのグローバルリーダー育成プログラム――にて、演劇を用いた身体知による教育実践プログラムを取り入れたいとのことで、私はシアターワークの実践家として、このプロジェクトに加わることとなる。これが、これ以降、切り開かれてゆく運命のはじまりだった。

シアターワークとは、演劇や芸術表現やボディワークを応用した身体的な教育実践だ。机と椅子から立ち上がり、実際に手足を動かしながら、心と身体の感覚を通して私たちの有機的な命そのものに直に触れながら、私たちの心と身体の調和を探求してゆく創造的な実践だ。そして、私のシアターワークは、今という時代に促されるようにして、おのずと生まれてきた、あらゆる人のための学びの場でもある。芸術家・アーティストのものではなく、国籍や老若男女を問わず、私たち皆のために存在し、生き続けるものとして生まれてきているものだ。演劇や芸術表現は、教育現場だけでなく、臨床におけるドラマセラピー、心理療法やトラウマケアとしてのムーブメントセラピー、リハビリテーションとしての表現活動、自閉症のある子どもたちとの演劇活動、紛争地や被災地における心のケアとしての演劇活動、企業や組織におけるリーダーシップ研修など、さまざまな場で有効活用されうる可能性を秘めている。

 

私が行っているシアターワークには、主に次の3つがある。

1. Theatre for Peace and Conflict Resolution
――平和・紛争解決・和解学において、演劇を応用し、私たちの人間性や多様性やその共生の在り方について身体的に探求していく教育的実践

2. Contemplative Theatre
――マインドフルネス、内観療法、シアターワークを融合させたリトリートプログラム

3. Drama and Movement Therapy
――芸術療法としてのドラマセラピー

いずれも、自分自身、そして、他者への調和的な在り方に気づいていくという点で、軌を一にしている。

 

シアターワークの源流には、その系譜として、私が英国演劇教育から教えられている演劇実践の存在が、そして、私自身のアーティストとしてのこれまでのあらゆる表現実践の存在がある。そのほかに、禅やマインドフルネス、伝統芸能などの叡智に大いに支えられながら、私のシアターワークは形を成している。

この連載では、シアターワークが、今この時代に、この世界で、人びととの出会い・縁に恵まれながら、分野を越境しながら広がるように活用されてゆくさまを、それから、シアターワークという創造的な実践が、どのように現代人である私たちの心と身体に働いているのかを描き出してみたいと思う。人間の生命(いのち)の深層に触れる不思議な力をもつ芸術が、私たちの心と身体と調和するように溶け合うように生かされてゆく景色をともに見てゆくことができれば、本望だ。

 

ハートビートとシェイクスピア演劇――“Iambic Pentameter”

 

英国の詩人・劇作家のウィリアム・シェイクスピアの演劇は、それを鑑賞する私たちを美しい言葉の響きが連なる詩とともに芸術の世界へと導いてくれる。初期近代英語で書かれ、その多くが詩という形態で綴られているために、英国人であってもその一つ一つの言葉の意味を理解するのは難しいと言われている。しかし、シェイクスピア劇においては、その言語的な意味を捉えることがすべてではない。むしろ、その連綿と発語されてゆく言葉たちを音の響き=音楽として聴いていくということに、シェイクスピアという詩劇を鑑賞することの醍醐味の一つがあると思う。極端に言えば、劇場という空間に入り、俳優のもとで身体化されていく人間の感情を纏った言葉の響き、振動、震えを、音楽としてエナジーとして浴びているだけで十分に豊かな体験なのだ。そして、時折、その演劇という芸術は、私たちの心と身体を無意識や潜在意識と結び、夢やファンタジーのような幽玄の世界へと運んでくれる。たとえば、芸術とは、科学が切り落としてしまった生命の神秘や人間の深層の内的な声を、私たちに取り戻させてくれるものではないだろうか。

私たちの生命(いのち)は、時として、その全体性を生きるために、ポエジーを必要としていると思う。シェイクスピアの戯曲は、Verse(韻文)とProse(散文)で綴られている。特筆すべきは、それらの韻文のなかに “Iambic Pentameter(弱強5歩格)” という人間の心臓の鼓動と同期したリズムで書かれている詩が存在しているということだ。とくに、登場人物が、この世界を生きている感触やその感情を表現するセリフのなかに、この神秘的な魔術が潜んでいる。英国のシェイクスピア女優で、シアターワークの師であるKelly Hunter氏は、このシェイクスピアの詩的芸術的な仕掛けについて、“私たちを、芸術という深遠な旅へといざなってくれる”と言っている。

“Iambic Pentameter” が適用されている詩の1行は、10個の音節と5つの詩脚から成っており、その各詩脚における2番目=後ろの音節にアクセントが置かれて発音されてゆく。シェイクスピアの戯曲のすべてが “Iambic Pentameter” で書かれているわけではないが、登場人物が重要な局面で自分自身を内省する時や、誰かに夢中で情熱的になっている時の独白に、この “Iambic Pentameter ”のリズムは潜んでいる。

よく知られるシェイクスピア劇「ロミオとジュリエット」と「ハムレット」の一節を、例に挙げてみよう。

 

But soft()!|what light()|through yun()-|-der win()-|-dow breaks()?

待て、何だろう、あの窓からこぼれる光は? (松岡和子訳)

- William Shakespeare, Romeo and Juliet

  

To be(),| or not() | to be()| that is() | the ques()tion

生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ (松岡和子訳)

- William Shakespeare, Hamlet

 

俳優は、印(|)がある箇所にアクセントを置いて発音・発語してゆく。このリズムこそが、心臓の鼓動と同期しているものだ。

 

英語の擬音語では、その様が、

DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M

(ディ()ム ディ()ム ディ()ム ディ()ム ディ()ム)

と発語される。

 

日本語の擬音語では、

ドッ()ン ドッ()ン ドッ()ン ドッ()ン ドッ()ン 

にあたるものだ。

 

ここで重要なのは、シェイクスピア劇は、戯曲の言葉だけで完結するものではなく、それらが劇場で優れた演出家や俳優によって身体化されて生きた演劇となってはじめて結実するものであるということだ。俳優の身体や声が “Iambic Pentameter” の音楽的な領域に入ってきた時、観客はシーンにつよく引き込まれてゆく。

私は英国のロンドンやシェイクスピアの出生地であるストラットフォード=アポン=エイヴォンを訪れると、グローブ座やロイヤルシェイクスピアカンパニーのシェイクスピア演劇を浴びるように観るのだが、確かに、俳優のセリフが “Iambic Pentameter” のリズムに乗ってきた時、言葉の響きは明らかに変容をはじめる。時折、シェイクスピアの英語が、いよいよ英語ですらなくなってきたように感じることがある。白昼夢のような抽象的な世界にただ美しい言語的音楽が漂っている。言葉の意味などもう分からなくてもいい、この音楽的な美こそが真実だと感じ入る瞬間がある。その時こそまさに、演劇が “Iambic Pentameter” というポエティックなゾーンに入ってきた場面であり、その夢幻の響きとともに、劇場という空間の情景も一段と深まり変容する。

観客が理屈抜きにそのシーンに吸い込まれてしまうのは、やはりその言葉の響き=リズムが私たちの心臓の鼓動と同期しているからだろう。私たちが、この世に生を受けた時、母胎に宿ったその瞬間からずっとずっとずっと包まれている心音。私たちは、本能的に、それにこの上ない親しみを感じるのだろう。

 

DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M  DE-DU()M

 

私たち誰もがもつ心音の存在は、シアターワークの生命(いのち)だ。これこそが、シアターワークの心臓であり、シアターワークは毎瞬、脈を打って、生きている。たとえば私が、先述のCAMPUS Asia ENGAGEや、早稲田大学や慶應義塾大学でシアターワークを行う時、あるいは民間でDrama and Movement Therapyを芸術療法として行う時、実際のシェイクスピアの戯曲を活用したことはほとんどない。シェイクスピアの美しい英詩の存在がなくても、“Iambic Pentameter” の魂は、言語を超えて受け継がれ、シアターワークの血液となって流れている。

私自身が行う、あらゆる感覚ワーク、ムーブメントワーク、ボディワーク、演劇的な即興ワーク、パフォーマンスの創作ワークは、参加者の一人一人が自分自身の心臓の鼓動や呼吸を、そして、目の前の他者の息づかいや心音を存分に感じながら進んでゆくことを基本原理として、創っているものだ。シアターワークのなかでは、それぞれが心の真ん中から、他者へ世界へ向けて、波動のように広がり、繋がり、時には手を伸ばして、触れ合ってゆく。誰かが不安でいたら、誰かがそっぽを向いていたら、誰かの身体が「こわい」と伝えていたら、私たちはどのように反応するのだろう、どのように呼応できるのだろう。

 

ドッ()ン ドッ()ン ドッ()

 

私は私として、あなたと向かい合っている

 

ドッ()ン ドッ()ン ドッ()

 

あなたはあなたとして、私と向かい合っている

 

Kelly Hunter氏は、自身が芸術監督を務める “Flute Theatre -- Shakespeare for Inclusive Audiences” にて、その人生をかけて、世界各地で、自閉症のある子どもたちとの演劇活動を推し進めている。シェイクスピアを心から愛する彼女は、シェイクスピアの戯曲をもとに “The Hunter Heartbeat Method” という独自のシアターワークを開発している。これは、自閉症の子どもたちのために創られた演劇的な感覚ゲームで構成されているシアターワークであり、それらは、自閉症に限らず、あらゆる特性をもつ人たち、大人、若者、子どもの誰もが簡単に参加することができるよう工夫して創られている。

Kelly Hunter氏は、シェイクスピア女優であり、彼女のシェイクスピアの詩の朗読は、極めて美しい。しかし、彼女はここでは、子どもたちに実際のシェイクスピアの戯曲の言葉をそのまま発語させてシーンを創るということはしない。ごくシンプルな覚えやすいセリフと身体での感情表現によってシーンを演じていけるように、シェイクスピア劇が新たにデザインされている。

以下に、Kelly Hunter氏が、早稲田大学演劇博物館主催のワークショップ(2019年8月開催)で語りかけてくれた言葉を引用する。

 

自閉症の子どもたちは、自分の考えや感情や思いを表現することや他者と視線を合わせることに大きな困難と苦労があります。心と身体が別々で一致していないことが多く、空間の概念、時間の概念が定かではなく、時には、自分が自分の身体のなかにいるという認識がなく、自分の身体がどこからはじまってどこで終わっているのか、どこからが他者の身体なのかが、分からずにいます。不安や心配の感覚がつよく、そのうえ、自分の周りで起こっていることをものすごくよく感じていますので、感じるということにとても忙しくてまったく余裕がない状態です。

シェイクスピアは、あらゆる戯曲のなかで、人間の「心の目」や「愛し合う目」のことを一心不乱に描き出しています。私は、登場人物たちの関係性やその人間の普遍的な感情が描かれている物語の重要な場面を抽出して、それらを誰もが簡単に演じられる演劇ゲームとして創りかえています。私はそれらの演劇ゲームを「生きている実感」をより感じ取っていくことを目的として、彼らと何度も何度も、繰り返し行っていきます。時には、何年もかけて。時間をかけて練習し反復していくことで、私たちはお互いに信頼関係を築き、シェイクスピア劇を通して、ともにより豊かなコミュニケーションや生きる感覚を探求していくのです。

シェイクスピアの戯曲を演じることによって、物語のほんの一瞬でも、一行でも、そのエッセンスを感じ取ることができたのなら、それはその物語全体を理解したことになると思います。大事なことは、一瞬でも、一行でも、そのシーンの本質を体感していくことにあるのです。

 


イラスト:沼田 かおり(舞台美術家)

 

たとえば、Hunter氏の感覚的な演劇ゲームの一つに、シェイクスピア劇「テンペスト」のファーディナンドとミランダが出会うシーンを演じ合うものがある。そこでは、お互いに心を向けること、シグナルを送ること、目を合わせること、相手への恋心=気持ちを表現することを、経験していく。視線を合わせることは、自閉症のある子どもたちにとって強い刺激となる。その刺激をすこし和らげるために、真剣なやりとりのなかにコメディーの要素も取り入れられている。目と目が合ったその直後には、お互いに親指と人差し指で丸メガネをつくって自分の両目にあてながら「ドヨヨヨヨ〜ン」と言葉を発することで、愛と興奮と高揚ではちきれんばかりの気持ちを表現する。

これらの演劇ゲームは、自閉症のある子どもたちへの愛に満ち満ちながら、感動的に、本当によくできている。ミランダがキャリバンに言葉や月や太陽の存在を教えるシーンでは、言葉を発すること、受け取ること、交わし合うこと、お互いに反応するということ、相手にニュアンスを伝えるということ、他者との空間を生きるということを、シーンを演じてゆくことを通して、経験していく。激しい怒りや嫉妬、嫌悪の気持ちを相手に表現するシーンもある。場の安全、安心を確保しながらも、ワークのなかにはつねに、すこしばかりの、一歩踏み出す勇気と心身のチャレンジを要する要素が込められている。エアリエルが魔法とともにキャリバンを誘導するシーンでは、全身で他者の存在を感じ取ること、他者に自分の名前を呼ばれること、他者に心を向けられること、見守られること、受け入れられること、他者に身体を委ねてゆくことを、味わう。

早稲田大学でのKelly Hunter氏のワークショップでは、ふだんはシアターワークのプラクティショナーである私も完全に参加者となり、あらゆるワークを体験した。Kelly Hunter氏から「みんなが自分を見つめながら、声を合わせて自分の名前を呼んでくれる時、それがどんな感じがするか、ぜひ感じてみてほしい」と言われて、ワークのなかで、みんなから本当に温かい眼差しを向けられながら、一斉に声を合わせて歌うように自分の名前が呼ばれるという体験をした。その瞬間、私の心と身体は至福感に満たされた。全身の毛穴が開き、自尊心に響いてきて、自分の命が祝福されるような、深く癒されてゆく体験だった。

そう、シアターワークは、頭で理解するものではなく、感得=実際に感じて、体験して得るものなのだ。

 

ここで、今日本社会に起こっているあらゆることに思いを巡らせてみてほしい。このシアターワークで行われている実践は、自閉症のある子どもたちだけのものではなく、社会のなか、組織のなか、教室のなか、家庭のなかの私たち一人一人のために、とても大切な実践だということが分かると思う。

“The Hunter Heartbeat Method” を研究している脳科学者が、ワークを行っている最中の彼らの脳波を調べていて、その脳波の動きを見せてもらった。グループワークのなかで、みんなから一斉に、優しく歌うように撫でるように自分の名前を呼ばれた人物の脳波は、その瞬間に劇的な反応を示す。また、非言語コミュニケーションを目的とした、身体の動きだけで互いに呼応していくペアでのムーブメントワークのなかでは、2人の身体の動きが調和しはじめた頃から、最初はそれぞれ異なった動きをしていた脳波が互いに寄り添っていくような変化をはじめて、2人の身体の動きがほぼ同期した頃には、それぞれの脳波は驚くことにまったく同じ動きになっていった。そして、ワークを終えると、脳波はそれぞれにまた別々の動きをはじめていく。

 

昨今、人と人との直接的な繋がりや触れ合いに慣れない人が増えてきていると言われている。人と出会うこと、話すこと、触れ合うということに馴染めない、あるいは、苦手意識を持っているという人は確かに増えつつあると思う。繋がりと聞けば、「ネットやSNSで繋がる」ということが連想されるような時代でもある。

臨済宗妙心寺派の僧侶で、正眼時住職、僧堂師家の山川宗玄氏は、「NHKこころの時代〜禅の知恵に学ぶ」のインタビューのなかで、次のように述べている。

 

手を使わなくても火を起こせる、暖房もできる、冷房にもなる、食べ物もスイッチ一つでなんとかなる時代です。手足を使わなくても生きていける。そうすると、何かが欠けてくるのです。一生が夢のようになってしまう。手足を使うことによって、原点に帰ることによって、生きているという実感ができます。ここに命があるという実感。そこから、自分とは一体何者なのだという疑問が生まれてくれれば一番いいと思います。今のような時代に、草鞋を履いて、10キロも20キロも先まで行って、托鉢をしてくる、雪の日でも、雨の日でも、決められれば行かざるを得ない。そんな不合理なことはないのではないかと思いますが、そんな実践のなかから、理屈ではない、身体を通して分かることの尊さというのが、今だからこそ一番あるのではないでしょうか。手足を使って毎日を精一杯生きているだけ、それが人を変えるのだと思います。

 

シアターワークは、まさに「手足を動かして生きる実践」だ。演劇空間のなかで芸術表現を通して、たとえるならば、手足でまきを割り、木を切り、掃除をし、ゴミを集めて処理し、火を起こし、釜でご飯を炊き、座禅を組み、命の声に耳を澄まし、感謝や慈悲とともに皆で食事を摂り、祈り、眠り、目を覚ますような体験を重ねてゆくのだ。Kelly Hunter氏のワークのように、シェイクスピア演劇でさまざまな人物の人生の喜怒哀楽を演じ合い、身体レベルで人間というものの存在について学んでいくことも、また手足を動かして生きる実践の一つだと思う。

僧堂においても、Theatre=演劇空間においても、あらゆる実践においても通底していることとは、今ここへ帰ってくるということだ。それは、私たちに心の真ん中から「私の命がここに在る」ということをいつ何時も伝え続けてくれている心臓の鼓動へと帰ってくるということではないだろうか。そして、目の前のあなたにも、それと同じ営みがあるということを、ともに手足を動かしながら実感し慈しんでいくということではないだろうか。

自分、他者、そして、大いなる生命の叡智との繋がりを取り戻し、私たち人間の命の全体性を回復してゆく。シアターワークという世界への扉が、この先の未来でそれを必要としている一人でも多くの人々の手によって開かれてゆくことを心から願って、この連載をはじめたいと思う。芸術(アート)のための芸術ではなく、その出来の評価や芸術性という名のもとの価値づけが意味を成さない、むしろ物事を安易に評価せずありのままを受容し尊ぶことに真の美しさが生まれてくるような、あらゆる人のための実践のことを、熊倉敬聡氏の『藝術2.0』の定義をもとに、ここでは「シアターワークという藝術」と呼んでみたいと思う。

 

 

 

波が寄せては返している

私のもとにも、あなたのもとにも、

おんなじ波が寄せては返している

命は、おのずと、呼吸を繰り返している

 

遠くで誰かが、あなたを呼んでいる

本来は、それを感じられる

 

遠くで誰かが、あなたを呼んでいる

本来は、それを感じられる

 

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著者略歴

  1. 小木戸利光

    Theatre for Peace and Conflict Resolution 代表
    シアターワークの実践家として、国内外の教育機関・企業・民間にて、演劇・芸術表現・ボディワークを応用した身体的な教育プログラムとしてシアターワークを展開するほか、芸術療法としてドラマ・ムーブメントセラピーを施す。講演・講義歴に、へいわフォーラム、国連、CAMPUS Asia ENGAGE(早稲田大学、北京大学、高麗大学)、早稲田大学大学院、慶應義塾大学、東京大学、スタンフォード大学、埼玉大学、関西大学、WorldShift、日本ソマティック心理学協会大会など多数。
    アーティストとしての主な出演作に、長崎の被曝2世の葛藤を描いたNHK「あんとき、」(主演)、映画「菊とギロチン」大杉栄役、TBS「報道特集」密着ドキュメンタリーがあり、著書にエッセイ集「表現と息をしている」(而立書房)がある。

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