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世界理解のゆくえ 佐々木俊尚

 私たち人間は、この世界は「物語」によって駆動していると信じている。画家ポール・ゴーギャンはタヒチに滞在していた一八九八年、のちに代表作とされるようになった大きな油彩画に、こうタイトルをつけた。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」

 これが、私たちが求める根源の物語だろう。なぜ私はここに存在していて、何のために生きているのか。なぜ人生は苦しく、悲劇が多いのか。それに納得するためにこそ、私たちは物語を紡いできたのだ。

 

 人の創る物語は、はるか有史以前から存在している。口承で語り継がれてきた神話がそうだ。ハーバード大学の比較神話学者マイケル・ヴィツェルは、世界の神話には二つの流れがあったことを指摘している。現人類は二十万年ぐらい前にアフリカで生まれ、長いあいだアフリカで暮らしていたが、十万年前になってアフリカを出て移動を開始した。初期の移住者は、アフリカから南ルートを進み、インド洋ぞいに中東、インド、東南アジア、そして最後には日本やオセアニアに行き着いた。そのあと二万年前後を経て、第二波がアフリカを出る。こちらは北に向かい、中央アジアからヒマラヤ山脈の北側を通って中国に行き、そこからさらに地続きだったベーリング海峡をわたってアメリカに行き着いた集団もいた。

 この二つの移動ルートによって、語られた神話も異なっているというのがヴィツェルの説だ。最初の南ルートの神話は、エピソードとエピソードの連続がはっきりせず、世界がどのようにして始まったのかという時系列の説明も乏しい。エピソードが相互に繋がり、大きな物語になっていくような構成は取られていなかった。現代の小説のような起承転結や因果律の感覚は乏しかったのだ。

 一方、遅れて現れた北ルートの神話は一貫した時系列と因果律を持っていた。無や混沌から世界が始まり、天の父と大地の母が登場し、人間を生み出す。神々の戦いがあり、やがて台頭してきた人間は神を冒涜し、世界は洪水で破滅させられる。一部の人は洪水を生き延びていく。これは私たちが一般的にイメージする神話そのもので、旧約聖書やギルガメッシュ、日本の古事記、ギリシャ神話など、すべて似たような物語を持っている。

 なぜこのような時系列と因果律の物語が生まれたのだろうか。ヴィツェルはこれに興味深い仮説を提示している。シャーマンが物語を記憶し、後世に伝えやすいようにこのような構成を作ったというのである。神話の物語は、人生と似ている。人が生まれ、発達段階を経て大人になり、やがて老いて死に至るのと同じような過程を、北ルートの神話はたどっている。自分の生に重ね合わせることによって、物語は紡がれやすくなったということなのだろう。

 

 宗教の本当の起源は諸説あるけれども、いまもなお世界の各地にある精霊崇拝的なものの源流をこの時代に探るのであれば、宗教と因果律の物語というのは密接な関係を持っていたことがうかがわれる。

 プリンストン大学教授だった心理学者ジュリアン・ジェインズが一九七六年に書いた『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』という本がある。長らく日本語では読めなかったが、二〇〇五年に邦訳が紀伊國屋書店から刊行された。

 この本はたいへん評価しづらいことでも有名で、なぜなら実証しようがないことが書かれているからだ。どのような内容かというと、人類が言語を獲得した当初は、人は意識を持っていなかった。そのころは人の頭のなかに常に神の声が響いており、この声と会話することで思考を成り立たせていた。しかし紀元前二〇〇〇年ごろになると神の声はだんだんと聞こえなくなり、その代替として意識を生み出した。神の声は人間の頭脳から消滅したが、現代では統合失調症にその痕跡をとどめている――というものだ。

 念のために書いておくと、ジェインズは神の実在を説いていたのではなく、人間の精神の動きとして頭脳の中に二つの心があったのではないかと考えた。これを二分心(バイキャメラル・マインド)と名づけている。

 ジェインズは書いている。

「神々は、言語の進化過程で生まれたただの副産物であると同時に、ホモ・サピエンス自身が誕生して以来の、生命進化のもっとも顕著な特徴だった。神々は誰かの想像から生まれた虚構などでは断じてなく、それは人間の意志作用だった。神々は人の神経系、恐らくは右大脳半球を占め、そこに記憶された訓戒的・教訓的な経験をはっきりとした言葉に変え、本人に何をなすべきか『告げた』のだ」(『神々の沈黙』紀伊国屋書店)

 二分心時代は、人は日常の行動を無意識の習慣で行い、何か新しいものや異常なことに出会ったときは、神の声に導かれていたという。しかし農耕の進化などで都市が発達し、社会が複雑になってくると、内面の素朴な神の声だけでは対応できなくなってくる。そのため徐々に神の声は聞こえなくなっていく。とはいえ人間はその状態には耐えられないので、代替物を求めるようになる。そこで登場してきたのが人間の意識であり、同時に神の代わりにルールを定めてくれるハンムラビのような法典であり、まだ神の声が聞こえていた少数の預言者と宗教であり、そして叙事詩のような物語だったというのが、ジェインズの見立てである。

 その移行期を彼は紀元前二千年ごろに置いていて、これはシュメール文明が滅亡するころに当たる。また紀元前八百年から五百年ごろにかけてはヤスパースが指摘した「枢軸時代」となり、ギリシャ哲学やインド哲学、中国の孔子、老子などが登場して思想が百花繚乱となる。さらにイエス・キリストの登場も含めて、意識を持つ新しい人々に適合した新しい思想が求められていたからだ、とジェインズは論じている。

 ジェインズの言う意識とは、頭のなかで抽象的なことがらなどを分類し、並べて眺めることができる能力のことだ。たとえば、海辺の道を歩いているとする。海風を受け、満ち足りた気分で颯爽と歩いているときには、自分が歩いているという意識はない。でも次の瞬間に「自分は海辺を歩いているのだ」ということを意識すると、そのとたんに無意識から覚め、自分が海のそばを歩いている情景を頭の中にイメージする。これをジェインズは「意識の中で私たちはつねに、自分の人生の物語に出てくる主要な登場人物として代理の自分自身を見ている」と説明する。つまり意識というのは、物語化なのである。無意識の世界から自分が主人公の情景を取り出して、それを物語として理解しているのだ。

 ヴィツェルの論じる神話と宗教の起源にせよ、ジェインズの「神々の沈黙」と意識の誕生にせよ、人間には物語というものが欠かせない。つねに私たちは、時系列で進む物語によって世界を理解しているのだ。何か出来事が起きれば、それには原因がある。さらに出来事は、別の結果を引き出す。

 

 しかし、である。

 この世界は、必ずしも時系列の物語「だけ」で駆動しているわけではない。

 時系列の因果関係だけではなく、他にもできごとが起きる可能性があることを最初に示したのは、確率論だった。因果関係によらなくても、偶然に何かの出来事が起きてくる。それは因果ではなく、確率というパーセンテージで示される。それはサイコロを転がせば誰でもわかることで、サイコロの目には因果関係はない。この確率論を数学の中だけでなく、日常生活にも当てはめて最初に論じたのは、一六六二年にパリで刊行された『ポール・ロワイヤル倫理学』(アントワーヌ・アルノー、ピエール・ニコル)だと言われている。

 人間が物語を見出してから何万年も経った後、近代の黎明期にようやく確率論という世界理解は発見された。なぜこの時期だったのか。ルネッサンスと宗教改革を経て既存のカトリック教会の権威が衰え、神の物語ではなく、新しい近代科学による認識が始まろうとしていたことと無縁ではないだろう。

 もうひとつの世界認識は、「べき乗則」である。

 べき乗というのは二次方程式や三次方程式のことだが、なぜこの数式が世界認識につながるのだろうか?

 世界には、物語でも確率論でも説明できない、破局的で突発的な出来事が常に起きる。たとえばマグニチュード9を記録した東日本大震災がそうだし、二〇〇一年のアメリカ同時多発テロもそうだ。何千人、何万人も亡くなるような出来事は天災人災含めて突然起きるが、これは確率としては非常に小さい数字でしかない。しかしそれは一定の割合で、必ず起きる。これを数式を使って説明するのが、べき乗則だ。

 数式の内容は割愛するが、べき乗則がどのようなものかについては、科学ライターとして定評のあるマーク・ブキャナンの著書『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』(邦訳はハヤカワ文庫)がわかりやすく説明している。

 同書の中に、北アメリカ西部でバッタが稀に大発生する話が出てくるので紹介しよう。

 バッタはいったん大発生すれば植物を食い尽くし、被害は甚大になる。しかしバッタの数を左右する要因は気温や降水量、捕食者の存在など二万以上もの要因が絡んでいて、予測は容易ではない。半世紀の統計を見ると、バッタの密度が一平方メートル当たり八匹という限界値を越えると大発生につながったことが分かっている。しかしこの限界値を超えても大発生になる場合と、小規模な発生にしかならない場合がある。後者は頻繁に起きているが、大発生はごく稀にしかない。この二つを比べても、要因などに違いはまったく見られない。つまり限界値を超えても、大発生になるという明白な理由はないのだ。

 このバッタ八匹の状態を、べき乗則では臨界状態という。たとえば山の斜面に雪が降り積もって、あと少し雪が加われば雪崩になる寸前というのは臨界状態だ。しかし雪が追加で積もっても、小雪崩になる場合と破局的な底雪崩になる場合があり、これも予測はつかない。

 われわれに理解できるのは、臨界状態になれば常に破局的なことが起きる可能性はあるが、その可能性は極めて低い。しかしどこかの時点で必ず起きるということだ。これがべき乗則である。

 これは普通の人間には、とても理解しにくい。このべき乗則を最初にわかりやすい形で提示したのは、ナシーム・ニコラス・タレブの名著『ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質』(邦訳はダイヤモンド社)で、二〇〇七年にこの本が出て多くの人々がべき乗則を理解するようになった。タレブは金融トレーダーの出身で、数学に強い作家だったからこそ、べき乗則を理解し、明快に説明できたのである。

 

 人工知能(AI)の世界理解も、私たちの理解を超えている。AIを神の出現のように語る人もいるが、現在のAIの主流である深層学習という技術ができるのは、ただひとつのことだけだ。それは「人間でさえ気づかないような、さまざまなできごとの特徴や傾向を発見し、その特徴や傾向が今後も起きるかどうかを予測する」というものである。このアプローチによってAIは人間とはまったく異なる世界理解を行い、囲碁や将棋でプロの棋士に打ち勝ち、人間には思いもつかないアイデアを各分野で提供してくれている。AIの思考経路は数式でのみ表され、人間の直感ではほとんど理解できない。これはAIの「魔術化」「ブラックボックス化」などとも呼ばれている。

 これまで、さまざまな新しい世界理解を紹介してみた。これらは人間が古くから持っている時系列の因果関係による物語とは、まったく異なるアプローチである。テクノロジーは進歩し、人間の物語を超えて世界を認識するのが当たり前になってきている。

 かつて宗教は、私たち人間に物語を与えることによって、私たちの世界理解を促し、拠りどころを得ることができた。二十一世紀のテクノロジーと数学の時代にあって、それら新しいアプローチをも取り込み、より包括的に世界を理解する新しい宗教はありうるのだろうか? その時に私たちの世界理解はどう変わって行くのだろうか?

 

『春秋』2018年6月号

 

 

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著者略歴

  1. 佐々木俊尚

    ジャーナリスト。電通総研フェロー。SUSONO運営。TOKYOFM「TIMELINE」、NHK「世界へ発信!SNS英語術」、文化放送「News Masters」。総務省情報通信白書編集委員。シェアリングエコノミー協会adv.。美浜町多拠点活動adv.。東京長野福井の3拠点を移動生活中。

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