web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

カントの「弁証」と仏教の「分別」

 

弁証の意味

本稿はカントの『純粋理性批判』に現れる「弁証」(Dialektik)と仏教の「分別」(vikalpa)が概念的に深い関係にあることを論じるものである。Dialektik はふつう弁証法と訳されるが、厳密にいえば、弁証法は dialektike techne の訳であるべきである。私が「分別」と比較するのは「弁証」であって「弁証法」ではないことを断っておきたい。

弁証という日本語は分かりにくい。明治時代に西洋論理学の術語でギリシャ語である dialektike techne が弁証法と訳された。dia は「2」(duo)に由来し、lektike は「言葉」(logos)と関係がある。techne は「技術」だから、dialektike techne は「対話術」を意味する。しかし、近代の論理学の術語としては弁証法と訳され、カント哲学の場合には弁証論と訳される。

アリストテレスによれば弁証法の創始者はゼノンである。ふつう哲学者は自己の思想を一方的な陳述の形で発表する。ところがゼノンは論敵との対話を通じて、論敵の主張を矛盾(例えば、アキレスは亀に追いつけないという矛盾)に導き、間接的に自己の主張の正しさを証明する方法をとった(1)。弁証法は他者との対話に留まらず、自己自身との対話をも含む真理探究の道となった。

日本語の「弁証」についていうと、弁は辧の略字である。辧は刀でものを二分することを表わす。証の字は言と正からなり、言葉で正当性を明かすことを表わす。したがって、「弁証」は事象をまず二分し、そこから出発して一つの真実を見いだすことを意味する。分かりにくい「弁証」という言葉も字源に遡れば分かりやすくなる。

 

矛盾律を超えるカントの弁証論

西洋論理学ではアリストテレス以来、同一律、矛盾律、排中律が論理の基本原則であった。矛盾律は「Aは非Aではない」という形で示される。別の言い方では、「AはBである」と「AはBでない」とは同時には成り立たない、ということである。これらの原則を認めなければ議論は成り立たないから、この原則に反することは考えても言ってもならない、というのである。

ところが近代西洋では、矛盾律の枠に捉われない論理が真面目に議論されるようになった。カントが『純粋理性批判』で説く超越論的弁証論がそれである。カントによると、ひとは気づかずに弁証論を用い、しかも誤って用いるので、さまざまな過ちを犯す。例えば、宇宙は有限である、いや無限である、というような決着不能で無益な論争(二律背反、アンティノミー)を繰り返す(2)

 

二つの対当

カントは分析論と弁証論を対比させる。前者は単純に矛盾律に従う論理であり、後者はある意味で矛盾律に従わない論理である。カントはアンティノミーの解説の中で、対当(=対立)をめぐる分析的と弁証的の違いを示しているので、それを見てみよう(今日の論理学書では、カントのいう分析的対当と弁証的対当はそれぞれ矛盾対当と反対対当と呼ばれる。)

カントは対当の説明を、分かりやすい「匂い」についてのそれから始めるが、本稿では紙面の節約のために、カントが批判の対象の本命にしている「宇宙は有限である」「宇宙は無限である」の対当に直参しよう。

 

〈分析的対当〉

第一命題(定立)宇宙は有限である

第二命題(反定立)宇宙は有限である、ということはない

 

〈弁証的対当〉

第一命題(定立)宇宙は有限である

第二命題(反定立)宇宙は無限である

 

前者の場合、第二命題は第一命題の丸ごと否定である。第一命題と第二命題のほかに命題は存在しない。排中律が成立する。第一命題と第二命題のどちらかが真で、他方が偽である。

後者の場合、第一命題と第二命題のほかに次の第三命題が生じる。

 

第三命題 宇宙に大きさはない

 

有限であるか、無限であるか、の議論は「大きさがある」ことを前提として成立するから、この前提が成立しない場合のことを考えると、第三命題「大きさはない」を立てねばならないことになる。大きさがなければ「有限」も「無限」もあり得ないことは誰にでも分かる。だが「大きさがない」という言葉そのものは解説を必要とするであろう。以下の解説は、私の解釈を交えたカントの文の大雑把な解説であることを断っておく。(カントの文章は実に難しい!)

 

主観と客観

カントはその認識論において主観と客観を分ける。これは一般人でもやることである。しかし、一般人が考える主観と客観は単純であり、前者を魂のようなものと考え、後者を魂から独立した外界(肉体および自然世界)と考える。そして後者(外界)については、空間の中の仕切りのイメージにもとづいてであろう、例えば、宇宙は有限か無限かどちらかであると考える。カントは主観・客観についてのそのような考え方をともに批判するが、魂論については「誤謬推理」の項で、宇宙の有限論・無限論については「アンティノミー」の項で批判する。

一般人はりんごの赤さや固さ、あるいはりんごに付随する空間は、客観世界(外界)に属し、主観はそれらの性状をそのまま受け取るだけだと考える。ところがカントはりんごの赤さや空間は主観の内にある概念であり、かえって主観が客観に付与するものだとする。カントは発想のこの転換をコペルニクス的転回と呼んで自負している(3)

りんごの赤さや空間が主観内の存在でしかないというと、それは観念論かと訊かれる。しかし、カントがいうのは、何物かがある、それが何であるかはわれわれには知られないが、それが何らかの仕方でわれわれの感官を触発し、赤さや空間の表象を生む、その赤さや空間が主観の内にしかない、ということであり、観念論の一種ではあるが、従来の観念論とは異なる。カントは観念(思考)の外に何かがあることを認めるのである。カントはこの何かを物自体と呼ぶ。そして物自体に基づく客観を何らかの形で経験することを前提とするこの観念論をカントは経験的観念論と呼び、従来の観念論、すなわち、客観(外界)はない、あるのは観念のみ、とするバークリー流のそれを超越論的観念論と呼ぶ。カントはいう。「内容を伴わない思考は空虚であり、概念を伴わない直観は盲目である」(p.114, A51)〔( )中は宇都宮芳明監訳『純粋理性批判』のページとドイツ語原書のページを示す。〕。

 

現象と物自体

一般人は客観を分けることをしないが、カントは客観を現象と物自体に分ける。われわれは物自体を知ることはできないが、そういうものがあるとしなければ、世界をうまく説明することができない。そこで理性は物自体の存在を要請することになる(4)。実際、そうすることによって人類の長年の懸案であるアンティノミーの問題が解決されるのである。それに対し、一般人が客観と考えるものは、カントによれば、現象にすぎない。

さて、主観が関わるのは現象と物自体のうち現象のみである。どのようにして関わるか。主観には認識能力として感性、悟性、理性が備わっている。感性 Sinnlichkeit は対象 Gegenstand に触発 affizieren されると、その対象を表象 Vorstellung という形で主観に与える(この辺りのカントの説明は分かりにくい。直観 Anschauung という言葉も出現するが、表象が与えられる仕方をいうのか。p.46, B1; p.113f., B74f.)。表象はたぶん写真のフィルムの映像のようなもので、それ自体では意味はない。表象を対象に関係づけ、表象に意味を与えるのは悟性 Verstand である。悟性は悟性の働きである判断を用いて、カテゴリーという認識の形式でもって表象を整理統一し、概念 Begriff を生み出す。つぎに理性 Vernunft は悟性が整理統一した諸概念を素材として、理性の働きである推理を用いて、それらを整理統一し、理念 Idee を生む。感性や悟性が直接間接に客観に関わるのに対し、理性は客観には関わらず、悟性が生んだ概念を素材として働くだけである。つまり理念は純粋に主観の中の存在で、客観との関わりを意味する経験を超えている。

「有限」や「無限」は勿論のこと、「大きさ」も理念であり、主観のうちにしか存在しない。しかるに一般人はそれらを物自体としての客観の中にある事象と考える。主観の中にしかないものを客観の中にあるとする誤解から、ひとは難問に遭遇する。

こうした思考の結果、カントは第三命題「大きさはない」を提起するのである。ひとは有限や無限を論じるとき、無意識のうちに、「大きさがある」ことを前提する。有限や無限を主観の範囲内で論じるのなら、それでもよい。主観内ではどんな理念も客観からチェックを受けることなく存在しうる(「事実としてでなく権利として」存在しうるのである。)「お化け」でさえ存在しうる。

しかし、有限無限を物自体の世界での出来事として論じようとするなら、そんな勝手な振る舞いは許されない。たちまち客観のチェックを受ける。物自体の世界に「大きさがある」かどうかは分からない。それなのに勝手に「ある」として議論することは許されない。そこで第三命題がつきつけられのである。

 

分析(分けること)と弁証(未分の状態に戻すこと)

『純粋理性批判』に「弁証」の語源的な解説はないが、「弁証」の役割が注の形で示されている。

 

形而上学者の分析は、ア・プリオリな純粋認識をきわめて異なった種類の二つの要素に、すなわち現象としての諸事物のそれと、物自体そのもののそれとに区別した。弁証論は、無条件的なものという必然的な理性理念によって、この二つを一致にむけてふたたび結びつけ、この一致がかの区別によらなければ決して生じないことを見いだすのであって、それゆえこの区別は真[の区別]なのである。(pp.26-27, BXXI)

 

この文は分析と弁証の関係を説明している。分析は認識を二つの要素(「現象としての諸事物」と「物自体そのもの」)に分け、弁証はその二つをふたたび結びつけるものだという。二分されたものを一つにする――これが弁証の役割だというのである。これは私が本論の冒頭で述べた「弁証は事象を二分し、そこから出発して一なる真実を求めること」と同じである。ただし、私の場合の「二」はともに「現象としての事物」であり、カントの「二」は「現象としての事物」と「物自体そのもの」であるという違いがある。しかし、ここでは「二分されたものを一つにする」という共通点にだけ着目することにしよう。

従来の形而上学者は分析だけをおこなって事足れりとしていた。二分することは考えたが、一つにすることは考えなかった。これは数学の世界では通用するが、言葉の世界では通用しない。

数学の世界においては、a=b(aはbである)を b=a(bはaである)といい換えても正しい。この世界は分析の世界であり、「二」しかなく、矛盾律と排中律が成立するからである。

一方、言葉の世界においてはそうは行かない。「ソクラテスは人間である」を「人間はソクラテスである」といい換えると正しくない。ここに言葉の世界の特殊性がある。これが弁証の世界である。「二」のほかにもう一つのものがあり、矛盾律や排中律が成立しないのである。

有限、無限は言葉である。分析の世界であれば、排中律によって有限、無限の間に「中」はないのであるが、弁証の世界(言葉の世界)では「有限でもない無限でもない」すなわち「中」があるのである。一般人は(いや錚々たる物理学者でさえも)この区別を知らないために、宇宙は有限・無限どちらかであると考えて不毛な論争を続けるのである。

 

絶対と相対

上に引用した文に関連してつぎの文がある。

 

われわれを必然的に駆り立てて経験と一切の現象との限界を越えさせるのは、無条件的なものであり、理性はこのものを物自体そのもののうちに必然的に、また当然の権利をもって、一切の条件づけられたもののために要求し、それによって諸条件の系列を完成させることを要求する。(pp.25-26, BXX) 

 

両方の文を通じて「無条件的なもの」と「条件づけられたもの」が話題になっている。「無条件的なもの」は「絶対的なもの」のこと、「条件づけられたもの」は「われわれが身の回りに経験しているすべての相対的なもの」のことであると考えてよいだろう。「条件づけられたもの」があるからには「条件」がある。そしてその「条件」にもまた条件がある。カントはこれを「諸条件の系列」と呼ぶ。ひとはこの系列を前へ前へと辿る(たとえば宇宙の始まりを考える場合)。

どこまで辿るか、何のために辿るか。引用文にあるとおり、系列を完成させるまでであり、絶対的な全体を得るためである。実に人間は完全を求めないではいられない存在である。「必然的な理性理念によって…ふたたび結びつける」あるいは「理性は…必然的に…要求する」というように繰り返される「必然的な」というカントの言葉は「人間理性はそうしないではいられないものだ」という考えを意味している。

しかし、どこまで行っても完成させられない。そこでひとは適当に切り上げ、それまでに得られた成果をもって絶対と見なすことにするのである。カントはこうして得られた「全体」を compositum (「積み重ねられたもの」)と呼ぶ。これは真の全体ではない。部分の不完全な積み重ねに過ぎず、疑似全体と呼ぶべきものである。真の全体は最初から部分などとは関係のない全体であって、カントはこれを Ganze と呼ぶ。

compositum は経験の世界の「全体」である。Ganze は理念の世界の「全体」である。アンティノミーが生じるのは、compositum を Ganze と同一視することによる。compositum と Ganze を区別することを知る者はアンティノミーには陥らない。

 

分別と弁証の共通点

ここで仏教の「分別」に目を転じよう。分別は識別を意味し、その限りでは好ましいものである。しかし大乗仏教ではこの語はしばしば妄分別のニュアンスを含み、哲学的にはこのほうが重要である。

「分別」は字形の上(「分」の字がある)からは、カントが対比させた分析・弁証のうちの分析に近いように見える。だが、実際はそうでない。カントによれば、弁証はこれを正しく理解しないひとには誤謬の罠となる。仏教哲学によれば、分別はこれを正しく理解しないひとには誤謬の罠となる。誤謬の罠までをも論じうる言葉として、分別はむしろ弁証に近いということができる。

面白いことに、「分別」vikalpa と「弁証」dialektik は言葉の成り立ちにおいても関係がある。印欧語においては「2」を意味する言葉の祖形として dwo が想定されている。西洋の場合には、これがギリシャ語 duo、ラテン語 duo、英語 two、ドイツ語 zwei 等になる。インドの場合には、 dva になる。「分別」も「弁証」も「2」の要素を含む概念である。

また dwo から派生した接頭辞には  dis-、 di-、 vi-、 bi- 等がある。これらは、分割、分離、差別の意をもつ。じつに「2」こそ分岐の始まりである。この接頭辞は印欧語でさまざまな語の形成に用いられている。vikalpa とdialektik はその例である。

日本の訳語においても然りである。「辧證」の「辧」と「分別」の「分」は刀で二分することを意味する。(「分」の八の形に注意。「別」の「刂」〔りっとう〕にも注意。)

こうしてみると、「分別」と「弁証」を比較することが、両者それぞれの意味の解明に役立つことが想像できる。「弁証」の意義の一端はカントの弁証的対当の議論ですでに明らかにされた。この対当論は構造的に第一命題(定立)、第二命題(反定立)、第三命題、の三命題からなる。一般人は、二つの命題が対立するとき、第三命題が存在することに思い至らず(あるいは知らず)、第一命題と第二命題しかないと思い込み、そのどちらかが真であるとして議論し、思考する。第三命題が存在する以上、第一命題、第二命題の真偽を決定することはできないのに、である。

一方、「分別」は、ひとが自然世界に働きかけ、あるいはそれを理解しようとするとき、必ずそこに二分法を持ち込むことを意味する。ひとは生活の便宜のために仮りにそうするのであり、その限りでは有用であるが、仮りにそうするのであることを忘れて、区分されたものを実体視するようになる。ここから過ちが生じる。

 

仮象と仮名

つぎにカントの「仮象」と仏教の「仮名」を比較してみよう。カントは弁証論を仮象の論理学(Logik der Scheins)と呼ぶ(p.379, A293)。「仮象」は「虚像」といい換えてよいだろう。カントによれば仮象(正確にいうと超越論的仮象 transzendentaler Schein)は人間理性につきまとって容易には除去できない虚像である。知識人ですら例えば「世界は始まりを持つ」という仮象のとりこになる。仮象が生じる理由は、主観の判断(「世界は始まりを持つ」)に過ぎないものを客観の世界(物自体)に持ち込むことによる。人間には物自体が何であるかは知られない。したがって「世界の始まり」は物自体の世界においては仮象となる。カントは仮象が人間精神から除去しがたいことを次のように説明する。「ちょうど天文学者でさえ昇り始めの月が大きく見えるのを避けることができないのと同様である。もっとも天文学者はそうした仮象によって欺かれはしないが。」(p.382, A297)

 一方、仏教には仮名けみょう(prajñapti)という術語がある。言葉は仮のものだということを意味する。だが、ひとはものに名がつくことによって、そして名は変わらないことによって、ものまで不変の存在であると思うようになる。「仮象」と「仮名」は似ている。しかし、ここでは私はむしろ違いに注目する。違いとは仏教側の「仮名」には「名」という文字があることである。「名」は言葉を意味する。「仮名」が意味するのは、過ちを引き起こす元凶は言葉であるということである。「仮象」には言葉が関わるというニュアンスがない。

 

仏教の言語観

ひとは生まれたときから言葉の洪水の中で育つので、言葉を疑うことを知らない。しかし言葉は地球の長い歴史の中でつい最近に出現したのである。何の批判もせず反省もせずに言葉を絶対的に信頼してもよいだろうか。言葉がなかった世界について考えてみるべきではないだろうか。

仏教は「空」という術語を用いて言葉の絶対視をいましめた。だがひとの習癖は容易にはなおらない。ひとは今度はその「空」を絶対視するようになる。仏教はそこで「空も空である」といって、その非なることを教えなければならない。しかし、このやり方は循環論に終わる。そこで絶対を「一」と呼んでみた。しかし、これは「多」と相対的になってしまう。そこで「不二」といってみた。これは「一」よりはるかに優れていた。しかし、これも所詮は言葉である。言葉のない世界を言葉で説明するのは無理であることが分かった。そこで登場するのが維摩居士のエピソードである。

あるとき菩薩たちが「不二」(advaya)について論じ合った。ある菩薩がいった。「有限と無限を二とする。これを超えることが不二である」(5)。菩薩たちの説明が一巡すると、知恵者で知られる文殊菩薩がいった。「言葉を超えることが不二である」。ついで文殊は維摩居士に意見を求めた。維摩は静かに黙っていた。それを見た文殊がいった。「すばらしい。すばらしい。不二とはいかなることかをあなたが一番よく説明した。」

しかし、維摩の沈黙は菩薩たちの議論を前提とする。前提なしの沈黙は白痴の沈黙と異ならない。やはり言葉が必要である。仏教哲学者ナーガールジュナ(3世紀)は「言葉は仮設であるが、言葉を用いないでは真理を説くことができない。真理を説かなければ、ひとを真理に導くことができない」といった。

言葉に対する仏教のこのような批判がカントの「弁証」論を理解するのに役立つ。カントが「第三命題」「総合的統一」「Ganze」などというとき、かれの頭の中にあるのは上記の「一」にほかならないのではないか。カントが「人間理性は必然的に無条件的なものを求める」というとき、かれの頭の中にあるのは、人間は言葉のなかった世界へ回帰しようとする本能をもつ、ということではないか。

しかし、カント自身はあくまでも言葉に頼って解説する。言葉の限界を考えれば、かれの解説は当然、複雑で難解なものになる。かれは有限論・無限論に対する第三命題として「大きさはない」という表現を用いた。しかし般若経典の「有限もない、無限もない」という言い方のほうが、第三命題として、形として簡明であり、内容として正確ではないだろうか(6)

いずれにしても言葉批判の欠如がカントの哲学の限界を示しているように思われる。かれは言葉の結合(すなわち論理)を批判することは知っていたが、言葉そのものを疑うことは知らなかった。そのため、「沈黙」の意義に思い至ることがなかった。

 

最後に

宇宙は有限であるか、無限であるか。この論争は古くから存在するが、世間ではいまだに結論が出ていない。なぜか。これに対する回答として、つぎの2つが考えられる。

 

(1)科学がまだ十分に進歩していないからだ。科学が進歩すれば、結論を出してくれる。

(2)論争自体が無意味である。なぜなら、ひとは有と無について過った考えに立って論争しているからである。有と無はひとの心の中にしか存在しない。自然界には有も無もない。心の中にしかない有と無(言葉、理念)を、自然界にあるもの(事実)として論争するのは無意味である。

 

(1)は一般人が考える回答である。(2)は大乗仏教やカントが考える回答である。私はためらわず(2)を採る。

 

〈注〉

(1)「ゼノンはアキレスと亀のパラドクスによって多と運動を否定した」とよくいわれるが、私の考えでは、かれは運動を否定していない。かれは「無限」(かれのいう多)の考えと運動の考えが矛盾することを示したのである。すなわち、アキレスが亀のいたところまで進むと、亀は少し進んで先にいる。アキレスがその位置まで進むと、亀はまた少し先にいる。このようなことが無限に繰り返されるのでアキレスは決して亀に追いつけない、と。ゼノンは無限(多)を主張するひとをこのパラドクスに導くことによって、無限(多)の考えが非なることを示したのである。それは師パルメニデスの「唯一」の思想を擁護するためであった。ゼノンは運動は否定していない、するはずがない。かれは他の人々と同じく、或るものが他のものを追い越す風景を日常、見ているはずである。かれがこれを自分の目の錯覚あるいは脳の錯乱と考えたとは到底思われない。

パルメニデスは真に存在するものは唯一不動、不生不滅であると説いたといわれる。私の考えでは、かれは仏教の不二の思想に似たものを考えたのである。言葉の世界には多あり、動あり、生滅がある。かれはそうした言葉の世界が絶対的でないことを洞察したのである。ただ、かれはそれを説明する論理的な訓練を欠いていた。だからその思想はひとに理解されなかった。そのためかれの言葉が正しく伝えられなかったのだと思われる。

(2)弁証論を「矛盾律を否定する特殊な論理」とする考えがある。しかし、カントは矛盾律を否定していない。アンティノミーの解説では、第一命題と第二命題が矛盾の関係にあると考えてはならない、といっている。これは矛盾律の存在を認めていることを示す。

 ヘーゲルの弁証法は存在(自然、社会)の発展の論理として知られている。今日普及している解説によると、すべての事象は正、反、合の三段階を経て発展することをいうのだという。この正と反が矛盾の関係にあると考えられているが、これはおかしい。矛盾とは両立しないことを意味する。矛盾するものの一方から他方が生じたり、両者が一つになったりするだろうか。この「矛盾」とは論理学でいう「反対」のことではないのか。カントの弁証論は認識論であるが、ヘーゲルのそれは生成論である。カントがゼノンに関心をもち、ヘーゲルがヘラクレイトス(「すべては流れる」といった哲学者)に関心を持ったのはこのことに対応する。

(3)カントは形而上学が数学や自然科学のように確たる学の道を歩むことができないでいることを嘆いた(p.23, BXV)。かれは考えた。これは形而上学が「認識は対象に依拠しなければならない」と考えているからではないか。逆に「対象がわれわれの認識に依拠しなければならない」と考えたらどうか。コペルニクスは天動説に対して地動説を唱えた。その結果、天体の運動がずっと説明しやすくなったではないか、と。

(4)知ることができないのにどうして在るといえるのかという批判がある。しかし箱に玉を入れて振ると音がする。ひとは中にあるものが何であるかは知らなくても、何かがあることは理解する。

(5)維摩経にこのとおりの言葉はない。カントの有限無限の議論に合わせた私の創作である。創作ではあるが、維摩経の「入不二法門」の趣旨には全く反しない創作である。

(6)有と無を同時に否定する言葉は仏教以前にもある。バラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』に「無もなかりき、有もなかりき」(na asat āsīt no sat āsīt、辻直四郎『インド文明の曙』岩波新書、p.99)があり、カントによればゼノンにもある。「神(おそらく、ゼノンにあっては世界にほかならなかったであろう)は有限でもなければ無限でもない…」(『純粋理性批判』p.592, A502)。

タグ

著者略歴

  1. 定方晟

    東海大学名誉教授。インド学・仏教学。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる