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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

父と母(2)――学者のような職人と超絶社交家

 

母のなかで目立ったのは、何よりその体形である。よく言えばふっくら、子供ことばでは「デブ」だった。戦時中、飽食を疑われ、悪罵されることもあったらしい。思い出して姉は、「母さんは水を飲んでいても太るので困った」とこぼした。体重は16貫と言われていた。換算すると60キロにすぎない。身長は記憶上の目算で150~155センチくらいではなかろうか。この身長でこの体重なら、極度の肥満とは言えない。事実、活動的で出歩くのが好きだった。それも、性分としてひとと接するのが好きだった。だから家業では外交を担った。父が菓子を作り、母がそれを売る。あるいは母が御用聞きをしてきて、その問屋の要望にあったものを、父が考え、作る、というのが役割分担だった。苦境にあっても、落ち込むよりは対処法を考えた。生きてゆくうえでの強さも持ち合わせていた。或る取引先が倒産しそうだという情報をキャッチすると、その家へ急行し、ひるむ兄を叱咤し、値打のありそうな家財を車に積ませて、売掛金を一部なりとも回収しようとした。しかし、このような修羅場は稀で、ふだんは明るく大らかなひとだった。好物は何だったのかと考えてみるが、キリンレモンを超えるものはない。断片的には塩豆、南部せんべい、干した貝柱などが思い出される。食事では、タラを入れた湯豆腐をよく作っていたような気がする、その程度だ(料理は苦手で、姉が主役だった)。

 

母は、極度に人懐っこい性格だった。野本君が活写してくれた通りだが、こんなことが思い出される。井上究一郎先生を訪ねたときのことだ。既に書いたが(⇒『スヴニール』36「二宮敬先生」)、井上先生に仲人を務めていただいた。そのお礼に参上するとき、母がついてきた。それが礼儀と考えたらしい。先生のお宅の応接室は南向きの開口部を大きくとった明るい洋室で、当然ソファが置いてある。母は遠慮知らずに座布団座りをした。少しするとわれわれ(ヒロコとわたし)はそっちのけで、先生ご夫妻と歓談に及び、謹厳な井上先生を哄笑させてしまった。怖いもの知らずだ。後にも先にも、井上邸にこんな客人はなかったことだろう。以後、井上先生のわたしを見る目が変わったに相違ない。困ったことだが、よかったのか悪かったのかは、わからない。

 

そんな母にも苦手なタイプがあることを知った稀な経験がある。留学から帰って埼玉大学に職を得たわたしは、新しくできた久喜の団地に住んだ。訪ねて来て1泊した母は、翌日、わたしと上り電車に乗った。日中のことながら、ほどほどの乗客がいた。向かい合わせに4人が座るボックス席のなかで、1人しかいないところに座った。その先客は食べ終えた弁当(多分駅弁だった)の包みをわれわれの座ろうとしている座席に置いてあり、母はそれをかれの隣の空席に放った。確かにあまり丁寧なやり方ではない。それがかれの癇に障った。小柄で元気な老人だ。「せがれの前で恥ずかしくないのか。世の中にはどんな偉い人がいるか分からないんだぞ」と説教を始めた。そして、自分が偉いひとであることを証明するために、物入れのなかから「内閣総理大臣三木武夫殿」と表書きした「建白書」を取り出して見せた。国会に出かけてゆく途中だったらしい。ちょっと笑いたくなるが、ドン・キホーテが実在することに、わたしも驚いた。家人がこの老人をどう遇しているのか、思いやられた。この周波数の異なる人物を前にしては、母も歯が立たず、われわれは退散し、座席を替えた。

 

つまり、母は能弁だったわけではない。初対面のひとでも親しげにかつ快活に話したが、相手は同類のひとでなければならなかった。と言うよりも、母にとって世の人びとは殆どが同類だった。あるいは、出会うひとはみな自分の同類と見なしていた(プルースト研究の大学者も例外ではなかった)。そうなると母の無遠慮な無邪気さは相手の警戒心を解き、100年の知己のような間柄になる、ということだったろう。名内に疎開したときにも、おそらく、母のこの社交性が土地のひととのよい関係を作るのに貢献したものと思う(⇒『スヴニール』27「源兵衛さん」)。雨宿りしたガード下で土地の都会議員と知り合い、長く交際した、ということもあった。

 

どちらかと言えば内気なわたしは、開けっぴろげで、誰にでもなれなれしい母が、ちょっぴりいやだった。無遠慮さは恥ずかしかった。その母イシは、生まれて数か月で養女に出された。実の親は、秋田の五城目にあった出城の家老だった、と聞かされた。本当だろうか。母がお姫さまに見えないことは、当人も認めていただろう。お姫様ならよかった。しかし、その実、わたしはいつも母のその外交力に助けられ、それを頼りしてきた(お姫さまは助けにならないだろう)。そのことをしかと認識し、庇護者としての側面を含めて、母の姿を冷静に見ることは、長い間できなかった。

 

ふり返ってみると、まず、わたしは母にとって特別な子供だったと思う。わたしを生んだとき、母は43歳だった。超高齢出産だ。出産を諦めるようにとの医師のアドヴァイスに逆らって、わたしに命を授けてくれた。しかし、子供はそういうことを斟酌しない。既に書いたように、わたしは父親っ子だった。とくに幼少期はそうだった。母への原罪のように思う出来事がある。長くなった名内での疎開生活を切り上げて、東京へ戻ることになった。柏木5丁目に家ができ、引っ越しに先立って母が独りそこに移った。おそらく、電気や水道を通す手続きをしたり、家の竣工を監督したりするためだった、と思われる。

 

幼児のわたしは、引っ越し作業の足手まといになると心配されたのだろう。母がわざわざ迎えに来た。待ち合わせ場所は総武線の下総中山駅だ。昭和23年1月頃のことと推測される。当時、総武線は御茶ノ水始発で、中央線からは、そこで乗り換えなければならない。そのための待ち時間もあって、今の倍くらい時間のかかる小さな旅だったと思う。一方、幼児のわたしは、お出かけにうきうきしていた。ただ、何のための外出かを聞かされていなかった。白井のバス停までの1里は、父の引くリアカーに乗せられた。自転車の荷台ではなくリアカーということは、姉が一緒だったのかもしれない。そして、バスで中山へわたしを連れて行ったのは姉だった、と考えるのが合理的だが、記憶はない。記憶にあるのは、寂しそうに佇む和服姿の母だ(これも実は、後になって事実を聞かされ、あたまのなかに形成された像だったのかもしれない)。これから母と一緒に東京の新しい家に行くのだと聞かされ、驚いたわたしが、断固、同行を拒んだからだ。

 

この事実をわたしは長い間、母より父と一緒に居たかったからだ、と思ってきた。しかしいま、冷静に考えてみると、それは違うように思われる。父と母を天秤にかけたわけではなく、住む場所を比較したのではなかろうか。住み慣れた名内への愛着があり、未知の場所への漠たる不安があったのだと思う。過去に執着せず、新しい世界に飛び込んでゆくひとがいるらしい。それはわたしの心性ではない。わたしのその心性は、実は母親譲りなのかもしれない。ただ、わたしは住んだ場所そのものにも執したが、母は主にひとに執した。ともあれ、その日は名内に帰り、言い聞かせられたのだろう。拒絶を繰り返すことはなく、柏木の家に移った。寺の離れに比べると大きな家だが、2つの居室には、まだ畳が入ってない。奥の4畳半にだけ畳が敷かれ、ほの赤い電灯が灯されていた。

 

終戦から2年以上が経っていた*。疎開生活を切り上げるべき頃合いではあったろう。それとともに、わたしを幼稚園に通わせるためには、このときがぎりぎりだった、という事情があったのではないか。そのことに気づいたのは最近のことだ。家から歩いて5分くらいのところに、幼稚園があった(いまも大きな保育園として存続している)。母がわたしをそこへ連れて行ったのは、入園の許可をもらうためだったろう。しかし、おそらく家に戻ったあと、わたしはこの幼稚園に行きたくないと打ち明けた、というより(多分)言い張った。園長先生が怖かったからだ(どうも、わたしは我がままばかり言っていたらしい)。そこで、わたしが入れられたのは、遠く新大久保駅を越したところにある「ルーテル教会」の幼稚園だった(念のために付言しておこう、あたりは、当時、コリアンタウンのコの字もない普通の街だった)。家の周りにこの幼稚園に行っている子供はいなかった。その存在を知るひともなかったのではなかろうか。なにしろ2キロほど遠方だ。通園には、兄が自転車の荷台に乗せて送り迎えをしてくれた。

 

    *「終戦」ではなく「敗戦」と言うべきだ、と主張するひとがいる。「終戦」とは「敗戦」の事実を糊塗するものだ、との理由によるものらしい。しかし、終戦を経験した多くの人びとが感じたのは、ようやく終わった、ということではなかったろうか。もっとも、この感慨をも批判するひとは批判する。

 

そこは、礼拝堂の空間そのものを幼稚園として使っていた。とんがり屋根のしゃれた建物が、わたしの気に入った。当時としては珍しい暖房用のラディエタ―を備えていて、寒い時期にはそこに弁当を載せて温めた。記憶にあるのは、建物の異風を除けば、空間にただよう沢庵のにおいだけだ。家に帰ってから一緒に遊ぶ友達が、そこにはいないので、そもそも友達ができなかった。もとはと言えば、わたしが近くの幼稚園を嫌がったためだから、不満はなかったが、愉しかったわけでもない。転入生のような、どこか余所者のような風に、そこへ通っただけだ。母はなぜ、この幼稚園を選んだのか、というよりなぜそれを知っていたのだろうか。

 

牧師さんとなじみだったとは思われないが、周囲に何軒か懇意の家があった。豆屋さん、下駄屋さん、床屋さんである(どの家の苗字もわたしは覚えている)。さらに手前の大久保駅のガード下に喫茶店があり、そこのモリナガさんとも知り合いだった。この名前をわたしはお菓子メーカーの「森永」のことだと思っていたが、多分そこのマスターの名だ。普通、たまたま入っただけの喫茶店のマスターの名を知ることはないだろう。一度、ここに立ち寄り、クリームソーダかなにかを宛がわれ、母がモリナガさん相手に延々とおしゃべりをするあいだ、待たされたことがある。以前からの知己だった。床屋さんのおかみさんは、わが家が柏木を去ることになったとき、お別れに来てくれて、使いこんだ理髪用ばさみを餞別にくれた。形見の意味合いがあったのかもしれない(このはさみは、いまもわたしの手元にあるが、何度も研がれた結果、細身になっている。それを使うたびにこのひとのことを思い出す)。そして、下駄屋さん。幼稚園の帰りは、ここに行って迎えを待つならわしだった。そこの主人は低位当選を繰り返した区会議員だが、わが家にとって重要だったのはおかみさんの方だ。父について語った際、大きな詐欺に遭って致命的な損失を被ったことを記したが、その詐欺師は、このおかみさんの(多分)甥で、取引を始めたのもおかみさんの紹介によるものだった。

 

ひとにせよ土地にせよ、なじむには時間が要る。この大久保~新大久保地域とのつながりが、戦後に作られたはずはない。地理的に見て、そこまで遠征する理由がない。とすれば、戦中、柏木4丁目で過ごした4~5年ほどのあいだに形成された関係だろう(4丁目は中央線の線路の南側、5丁目は北側に位置する)。わたしが生まれたころのことだ。そのときに住んでいた円照寺の家作からなら、大久保~新大久保は日常生活の徒歩圏内にある。そのように親しい地区だったので、わたしの幼稚園としてルーテル教会を選んだ、それは間違いない。しかし、そもそもなぜ特にこの地域を好んでつながっていたのかは分からない*。家業の外交を担っていた母だが、下駄屋さんや理髪店と菓子は結びつかない。

 

    * それでもわたしには推測するところがある。それはこうだ。特に親しくしていたひとがこの地域に住んでいて、その家を何度か訪ねることがあった。それでこの一帯は母のテリトリーになり、下駄屋さん、豆屋さん、床屋さんなどとの交友が生まれた、ということではなかったろうか。その大元になった知人は誰か。これはもうフィクションと紙一重だが、敢えて推測してみる。母に見られる「人間的空間」のかたちを捉えるには欠かせない、たとい可能性のレベルのことでも。――例えば、「ハルオさんファミリー」。名内に疎開していたとき、家には一羽のインコがいた。インコとしては大きな鳥で、「ハローさん、ハローさん」と繰り返していた。これをわたしは「Hello さん」と思っていた(戦時下の子供の理解としてはありそうにない。戦後になって、「ハロー」という英語にふれてから、記憶にあったインコの言葉と結びつけたのだろう)。しかし、長じてから考え直した。これは「ハルオさん」で、家人が頻繁に呼びかける名前なので、インコが学習したことばだ。そのインコは疎開に際して預かったもので、戻った柏木の家にいたという記憶はない。その「ハルオさん」ファミリーが、自身では疎開することができないので、せめてペットを預けたい、と思ったのだろう。相当に親密な関係だったことが窺われる。さらに、このファミリーの主人は、お医者さんだったかもしれない。柏木の家で幼児のわたしが、急性の胃腸カタルのような症状を起こしたとき、来合わせていたお医者さんに助けられたことがあった。往診ではなく、日常的な交際だ。さらに想いを巡らすと、そのお医者さんは、母の出産を助けた医師だったかもしれない。新宿の伊勢丹の辺りにあった病院の先生だから、新大久保地区に住まいがあっても不思議はない。或いはあれは山手病院の院長先生(次の段で言及する)だったのだろうか。その後、家でこのお医者さんに出会うことはなかった。だが、ずっと後になって、初老の婦人の来客があった。和装でしとやかな感じのその女性は「お医者さんの愛人」だったひとで、新大久保駅の近くに住んでいるとのことだった。

 

この地縁ができた機縁は突き止められない。しかし、数年の疎開生活による空白のあと、戻ってきた新住所は、この地域と日常的に行き来するには遠すぎた。それにも拘らず、母はこのあたりの人びとと旧交を温めなおした。詐欺にからんだ下駄屋さんとも、あとまでつきあったらしい。もうひとつ、山手病院の院長先生がいる。駅からは少し遠く、明治通りと交差する辺りの左側に、この病院はあった(現在は、場所は変わったものの、「東京山手メデイカルセンター」という大病院になっているそうだ)。記憶に残ることがある。当時、はしかのワクチンはまだ使われていなかった。予防するには、すでに罹ったひとの血清を注射することが、多分唯一の方策だった。母は、ある同業者の家の子供が、最近はしかを患ったことを知り、頼み込んでその子を「貸して」もらい、山手病院でわたしのはしか予防処置をしてもらった。院長先生とは既に親しい間柄であるような印象を受けた。

 

この件は、あらためて、母の人となりの見直しを迫って来る。わたしは母を、ものぐさなひとと思っていた。体形によるところが大きい。立ち上がるのも難儀で、交通手段としては電車よりバスを好んだ。駅の階段を上るのが嫌だったからである。しかし、このはしか予防の件は、すくなくとも我が子に関して、母が人並み以上にまめなひとだったことを示している。この血清予防法は、民間療法として実践され、母もそれを知っていたのだろうか。それとも、院長先生のアドヴァイスだったのだろうか。アドヴァイスであったにせよ、はしかを予防したいという意思があってのことだ。あのころ、そのような意識をもつ親は稀だったのではなかろうか。さらに、血清を与えてくれる相手を、どうやって探し出したのだろう。同業者とはいえ、ふだん、付き合いのあった家ではない。このときわたしは、母に連れられてこの家を訪ねたことがある。その道を通ったのは生涯で1度きりだ。少し遠く、わが家の生活圏のそとにある家だった。

 

この新大久保ストーリーから読み取れるのは、二つのことで、それが母の像を集約する。ひとつはなじみのものに執する心持ちであり、人懐っこさとひとつのことだ。ここまで書いてきたのは主としてこの性格だが、いくらでも重ねることができる。戦争による疎開のために生き別れになった「お針のばあや」を、戦後の焼け野原に探し回ったことは既に書いた(⇒『スヴニール』19「お針のばあや」)。不思議な一件がある。あるとき母は、映画の大スターだった或る女優の母親に会いに行った。女学校の友人とのことだった。しかし、それまでそのひとのことが話題になったことはなかった。その日、母は上機嫌で帰宅してきたから、打ち解けた歓談を愉しんできたのだろう。しかし、そもそもどのようにして、そのひとの消息を知ったのだろう。不思議だ。また、日常的な交友関係では、(柏木5丁目から見て)線路向こうの2人のひとと親交を続けた。子供のわたしは何とも思わなかったが、これは戦中に住んだ4丁目時代にできた近所の知己だったに相違ない。

 

新大久保地区にまつわる思い出に現われている二つ目の特質は、あらためて特筆しなければならない。子供(わたしのことだが)に対する人並み外れた深い母性である。上に書いたように、幼稚園のころ、友達ができなかった。いま思うに、遊び仲間だった野本君にしても、母が友達として連れて来てくれたのかもしれない。成長したあともわたしが母の庇護のもとにいたことを再認する出来事があった。高校生のとき、因数分解が判らず難儀していた。すると母は、同じ高校に通う一人の先輩を連れてきた。わが家のあった同じ通りを50メートルくらい行ったところの住人だったが、そのひとのことをわたしは全く知らなかった。かれは、掛け算と足し算・引き算を組み合わせるこつを教えてくれて、わたしは因数分解なるものを会得することができた。さらに、同じことが大学生のときにもあった。ヘーゲルのドイツ語が読めずに呻吟していると、母は美学に関係する或るひとを連れてきた。それは美学の大学院を志望していて、大学構内でよく見かける女性だった。これには困惑した。ヘーゲルは因数分解のようなわけにいかない。しかも、秘密を握られたようで、そのあと、構内でこのひとと出会うと気まずい思いをした。この場合の「秘密」とは、ヘーゲルが読めないということではなく、母親がユニークなひとで、大学生にもなって、なおその母親に庇護されているという事実である。しかし、母はどうやってそのひとを見つけたのだろう。いまもって不思議に思うが、ここに紹介した限りでも、はしか予防の件から始まってヘーゲルに到るまで一貫している。世話好きでもあった母は、広大な人脈をもっていて、わたしはその一端を垣間見ていたにすぎない、ということだろう。その人脈のなかで、どこに自分の求めに適うひと、あるいはその情報を与えてくれるひとがいるかをかぎ出す嗅覚が、母にはあった。

 

母は、わたしの連れ合いには自分と同じような面倒見の良いひとがよい、と考えていたが、お嬢様育ちのヒロコを暖かく迎えてくれて、同居生活が始まった。しかし、1年あまりがすぎ、ユキが生まれたころ、当然のように、衝突が起きた。それが母の愛情表現だったと今にして思うが、親密空間のなかに入り込もうとするのがもとだった。ふたりを取り持つことがわたしにはできず、独立することにした。すると母は、引っ越しのトラックを手配し、そのうえアパートの家賃を出してくれた(わたしはまだ学生だった)。そうして距離をとってみると、平和な関係が生まれた(もちろん、母は寂しかったと思う)。留学するとき、あとから合流するヒロコに、自分の着けていた金のブレスレットを与え、困ったことがあったらこれを売りなさい、と言ってくれた。

 

始めに書いたように、母の無遠慮な人懐っこさが、わたしはちょっと嫌だった。ヘーゲル事件のように困ることも珍しくなかった。しかし、母が亡くなってずっと後のことだが、母のこの個性について、見方を一変させられることになった。ヒロコの述懐がきっかけだ。ヒロコと母は性格的に反りがあわなかった(とわたしは思っていたし、事実そうだったろう)。だからヒロコは母のことをあまり好きではない、とも思ってきた(これはどうも違うらしい)。しかし、最近のことだ。昔ばなしのなかで、わが子を思い労をいとわなかった母を、「えらいなぁって思ったの」とヒロコは言った。自ら母であるヒロコは、母親の先輩として母を見ている、そういう言葉だった。それを聞いて、目から鱗が落ちた。子供のときからの母に対する気持ちの半面を、わたしは恥じなければならない。その深い母性を、いまわたしは深く尊敬する気持ちになっている。ここに描いてきた肖像は、そのような回心を経たものである。野本君の言うとおりだ。母は、その異例の個性において、すごいひとだった。

 

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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