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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

神を燃やす

 

 

 こんな奇譚がある。

 その昔、東アジアに覇を称えたオランダ船が、深夜台湾海峡を航海中に一隻の賊船を発見した。指揮官の合図の下、百戦錬磨のオランダ兵たちは賊船に一斉射撃を行った。ところが、賊船からは一発の銃声も上がることはなく、ただ彼らの周囲をぐるぐる周航するばかりであった。よもや無人船かと勘繰ったが、船の上には確かに人影のようなものが見える。やがて夜の帳が薄いオレンジ色に染まった頃、オランダ兵たちは再び正体不明の賊船に向けてジッと目を凝らした。

 船には誰もいなかった。

 巨大な船内には色とりどりの紙糊で作られた大量の人形と、得体の知れない数柱の神像だけが載せられてあったのだ。オランダ兵たちは大いに驚き、慌ててこの不気味な無人船から身を引いた。彼らは一様に口を噤んでいた。いったい、その不気味さをどのように形容してよいのか分からなかったのだ。

 数日後、賊船に向けて発砲したオランダ兵の半数は、まるで申し合わせたように病で命を落とした。

 

 康熙56(1717)年、諸羅県(現在の嘉義県一帯)の知県・周鍾瑄によって編纂された地方史『諸羅県志』に掲載されたこの「賊船」とは、いわゆる王船のことを指している。王船とはおん神である王爺を載せた無人船を指し、これに発砲したオランダ兵たちは、おそらくその神罰を受けて亡くなったと考えられたのだ。

 実際、オランダ兵が神罰を受けたかどうか分からないが、かつて南台湾各地に祀られる王爺の廟を訪ね歩いたぼくは、彼らが感じたであろう狼狽ぶりが手に取るように分かった。なぜなら、数ある台湾の神々の中でも、王爺はなかなか恐ろしい形相をした神だからだ。真っ黒な顔に飛び出した大きな眼球、深く刻まれた眉間のシワに吊り上がった眉、闇夜にぼんやりと浮かぶその相貌を想像しただけで背筋が寒くなるほどだ。

 しかし、当時の人々はなぜそれほどこの神を畏怖したのか。そして、なぜそれを海に流す必要があったのか。この問いに答えるには、まず日本で馴染みの薄い王爺がいったいどんな神さまなのかについて知る必要があるだろう。

廟によってその相貌は異なるが、一般に王爺像の表情は他の神々に比べて厳めしく作られているものが多い

 

 台湾は言わずと知れた神々の楽園である。

 工業都市といわれる高雄市内でも、左営旧城や鳳山新城など古い町並みが残る大路小路を歩けば、コンビニの数以上に様々な神さまが随所に祀られている。そんな神々の中でもとりわけ多いのが、土地の守り神である「土地公」と瘟疫の神である「王爺」の二神だ。

 日本統治時代に行われた二度の寺廟調査(1918年、1930年)においても、土地公を主神とする寺廟は最も数が多く、王爺がそれに続いてきた。片や戦後行われた寺廟調査(1960年、1966年、1975年、1981年)では、王爺を主神とする廟の総数が土地公のそれを上回ってきた。土地公は別名「福徳正神」(客家語では「伯公」)と呼ばれるが、こちらは土地の守り神として広く全島に祀られ、各地の地域共同体にとっては、人々をまとめるかすがいのような存在でもあった。道教ではかなり下位の神階に属するが、それぞれの土地で功績や功徳を積んだ人間が死後に天帝(玉皇上帝)から任命されることもあって、信者たちにとっては最も親しみやすい神といえる。

 翻って、瘟神であるとされる王爺は、一般に天帝から人間の世界を巡視・守護する役割を担わされているとも言われるが、その性質上、信者からは畏怖される存在でもある。しかし、王爺の名前が道教の経典や神話に現れることはなく、厳密に言えば、福建沿岸地域一帯に広がる道教と融合した民間信仰の一種である。王爺信仰はもともと17世紀以降大陸の福建省から伝わってきたもので、信者の大部分が初期の入植地であった台湾西南部に集中している。「千歳」、「千歳爺」、「府千歳」とも呼ばれる王爺は複合的な神々の総称であって、池、李、朱、温、蘇、呉など、複数の異なる姓氏を持っている。その総数は、同姓のものを含めると360種にものぼると言われ、それぞれの王爺に異なる来歴が付与されている。そもそもその起源に関しても不明なことが多く、瘟神説以外にも、唐の玄宗を西秦王爺として祀った戯神系に、ガジュマルなどの老大木を王爺として祀る非人格系、はたまた郷土の名士や祖先を王爺として神格化した家神系に、生前功徳や偉業のあった歴史的人物を王爺として祀る英霊系、さらには清朝に滅ぼされた鄭成功とその家族を王爺として祀った鄭王系まで存在している。

 いわば、王爺とは台湾で最もポピュラーな神でありながら、同時に最もその正体が掴みにくい神であるわけだ。

高雄市旗山区の鯤洲宮で行われたグローバル王爺親睦会。王爺とは単一の神ではなく、複数の異なる来歴を持つ神々を指している

 

 とまれ、王爺信仰がその初期において、瘟神的な性格を持っていたことは確かである。

 17世紀当初、南台湾における閩南系移民が何より恐れたのは「瘟」と呼ばれるマラリアやペスト、チフスなど熱帯性の疫病であった。明末の文人・謝肇淛しゃけいせいが著した随筆『五雑組』にも、一たび瘟疫生ずれば「病者の十人にして九は死す」とある。高温多湿で医療技術や衛生概念も十分に発展していなかった南台湾は、まさにこの「瘟」が猖獗を極める地であった。その猛威は19世紀恒春半島へ進駐してきた清軍や日本軍の死者の大半が、マラリアが原因であったことから見てもとれる。目に見えない瘟疫を恐れる人々は、それを司るとされた王爺の神力を恃むしかなかったのだ。

 謝肇淛曰く、「閩の俗、最も恨むべきものとして、瘟疫の一たび起こる。即ち邪神を請じ、香火もて庭に奉事し、惴惴然として朝夕礼拝し、許賽がんかけ已まず。一切の医薬、之を聞くなきに付す」。平たく言えば、「邪神」を呼んで「しょう」と呼ばれる儀式を行えば、その威を収めることができると考えられていたのだ。ぼくは「邪神」という言葉を注意深く指でなぞりながら次のペーージを開いた。

 康熙59(1720)年に編纂された『台湾県志』によれば、「台の俗、王醮をたっとぶ。三年一挙、送瘟の義を取るなり。附郭こうがい郷村のうそん皆然り。境内の人、金をあつめて木舟を造り、瘟王三座を設け、紙にて之をつくる。道士をみちびいて醮を設くること、或いは二日夜、或いは三日夜にて等しからず」と記されていた。

 なるほど、瘟疫に苦しむ人々が金を持ち合い、瘟神をのせた木造船を作ってそれを放流することで、恐ろしい瘟神の祟りを免れようとしたわけだ。三年に一度行われるこうした儀式は「送王船」と呼ばれ、かつて瘟疫の被害に悩まされた台湾海峡の両岸一帯で広く行われていたらしい。

 王爺を天庭に返す送王船には、ふたつの方法があった。

 当初は王船を海に放流する遊地河が主流で、冒頭に紹介したオランダ船が出遭った「賊船」がこれにあたる。しかし現在では王船を海に流すことなく、水辺で焼く遊天河が執り行われている。その意図はどうであれ、送王船は災厄を他所の地域に押し付ける「ババ抜き」のような性格があったので、不運にも王船を受け取ってしまった地域は、瘟疫が流行らないように王爺と王船を丁重に祀って、再びそれを送り出す必要があったからだ。

 ある日、浜辺に流れ着いた無人船に、王爺が鎮座していることに気付いた人々の恐怖はいかばかりであったか。おそらく泣くにも泣けず、ただそれを運命と受け入れるしかなかったはずだ。やがて時代が下るにつれて、王船漂流を吉事として歓迎するような地域も現れたが、当初それは忌むべきものとされてきた。前述した謝肇淛も「し幸にして病癒れば又巫をして法事を作さしめ、紙を以て船を糊し、之を水際に送る、此船、毎に夜を以て出づるがため、居人皆戸を閉ぢて之を避く」と記している。

 ぼくは人々の切なる願いを載せて、台湾海峡を宛てもなく漂流する王船を想像した。大海に流された神はさながら葦船に載せられてオノゴロ島から流された不具の神・蛭子ヒルコを連想させるが、もちろんその性格は全く異なっている。福の神としてふくよかな笑みを浮かべる蛭子えびすと違って、瘟疫を司る王爺はどこまでも恐ろしい神であったのだ。

蘇厝長興宮の送王船において、信徒たちが王船を曾文渓沿いまで引っ張っていく様子

 

 瘟神としての王爺について調べようと思ったとき、最初にぼくの脳裡に浮かんだのは、牛の頭に人間の身体をもった異形の神・牛頭天王の物語だった。

 ある日、牛頭天王が妻探しの旅の途中ある村に立ち寄って、裕福な巨旦将来に一夜の宿を求めたが、けんもほろろに断られてしまった。ところが、巨旦の兄である蘇民将来は貧しいながらも誠心誠意もてなし、牛頭天王はその態度にいたく感激した。

 ――今後茅の輪をその身に着けておれば、お前の一家は災厄から逃れられるぞ。

 牛頭天王はそう言い残して村を立ち去っていった。やがて、妻を娶った牛頭天王は帰路に再び件の村を訪れ、茅の輪を着けた蘇民将来の家族だけを残して、巨旦将来の家族を疫病によって根絶やしにしてしまった。人々は疫病神でありながらも、同時にその強い力によってご利益をもたらしてくれる牛頭天王を篤く信仰し、日本全国には次々と牛頭天王を祭神とする祇園天神や牛頭天王社が建立されていった。

 京都で学生時代を送ったぼくは、夏の盛り日の落ちた頃、よく祇園囃子の響く四条通を八坂神社に向けて歩いた。八坂神社はもともと感神院祇園社と呼ばれ、祇園信仰の中心地であった。四条通を巡行する山鉾を見上げると、不思議と「ちょうさ」と呼ばれる太鼓台を載せた故郷の山車を思い出した。後々調べてみると、このちょうさもまた祇園の山鉾がルーツらしいことが分かった。そう言えば、瀬戸内海に面する故郷の町にも「天王」と呼ばれる地名が残っていた。黒山の人だかりを抜けて四条大橋を渡ると、道中「蘇民将来之子孫也」と書かれた厄除けちまきが目に飛び込んできた。ちまきはどれも笹の葉で巻かれて、イグサで縛られて束になっていたが、あァこれが牛頭天王の魔除けかと、ひどく感慨深い気持ちになったのを覚えている。

 中世から近世にかけて広く日本中で信仰された牛頭天王であったが、江戸時代の国学者・平田篤胤は、記紀神話に登場しない牛頭天王を邪教の象徴的存在とみなし、さらに明治初期における神仏分離令と廃仏毀釈によって、牛頭天王は主神の座を奪われ、各地の神社ではその同体とされたスサノオのみが祀られるようになっていった。

 あるいは、廃仏毀釈の使命に燃えた明治の人々は、数多の仏教経典や仏像を焼却したように、この異形の神像を火にべて、一夜の暖としたのかもしれない。天竺は祇園精舎の守護神とされた牛頭天王は、薬師如来を本地仏とするともされていた。

 あるいはまた、この島で日本による統治が続いていれば、「邪神」としての王爺もその存在が消されていたのかもしれない。台湾が日本の植民地となった当初、総督府は全島の統治を潤滑に進めるために、国内植民地であった沖縄県のように、ひとまずは現地旧慣による信仰を温存しようとした。ところが王爺に関しては、民衆を惑わすとされたタンキーとの関係が密接であったために、当初から廃絶すべき迷信や「邪神」の一種であると見なされてきた。

 事実、台湾総督府は「邪神」としての王爺を恐れていた節がある。

 大正4(1915)年、漢人住民による最大の抗日武装蜂起となった西来庵事件は、王爺を主神とする廟で起こった。事件の首謀者であった余清芳よせいほうは、「五福王爺」の加護の下革命は必ず成功するとして100名近い日本人を殺害したが、蜂起が日本の軍警によって徹底的に鎮圧されると、総督府はタパニー(現台南市玉井区)にあった西来庵を「邪教組織」の拠点として破壊し、そこに安置されていた王爺の神像も焼却処分と決めた。逮捕者は1957名にも及び、886名に死刑判決が出された。最終的には、日本国内における世論の反発を受けて100名以上の死刑が執行された時点で残りの囚人は恩赦とされた。事件の首謀者であった余清芳は当然恩赦を待たずに死刑が執行されたが、当時の人々は「(武装蜂起によって)王爺公を殺してしまった余清芳を、王爺公は守ってくれなかったのだ」と噂し合った。

 線香の煙で黒ずんだ神像が炎の中に投げ込まれた瞬間、蜂起に参加した信者たちはどんな表情を浮かべていたのだろうか。ぼくの脳裡では、近代日本によって「邪神」とみなされた二柱の神が重なって浮かんでいた。気が付けば、ぼくは南台湾各地で三年に一度執り行われる送王爺の儀式を追いかけるようになっていた。

十二瘟王(瘟神)としての王爺を祀る蘇厝長興宮の送王船

 

 新型コロナウィルスが世界的パンデミックを起こしていた民国110(2021)年10月、ぼくは屏東県東港鎮にある東港東隆宮に足を運んだ。

 東港東隆宮は、台湾で最も巨大な送王船の儀式を執り行っている王爺廟である。廟のある東港鎮は、屏東市の南にある人口5万人ほどの港町で、清朝時代から台湾の三大良港のひとつとして栄えてきた。旧暦9月に8日間かけて行われる東港迎王平安祭典では、町全体が爆竹の煙に包まれ、地元の漁船は漁には出ず、職場や学校からも日常の気配が消えてしまう。「七角頭」と呼ばれる東港出身の神輿の担ぎ手たちは、皆世襲によってその役職を継ぎ、その年の祭典で「代天巡狩」として選ばれた5柱の王爺と東隆宮の主神である温王爺及びその執事を務める中軍府の計7柱の神々を載せた神輿を担ぎながら街を練り歩く。そこに全国各地からやって来た「陣頭」と呼ばれる伝統芸能のパフォーマンス集団が加わって、町全体が一種のカーニバル状態となるのだ。勤め先の大学では、授業を欠席する学生はあらかじめオンラインで欠席理由を提出しなければならないのだが、この時期になれば「焼王船」を欠席理由にあげる学生が増える。欠席理由に「核准しょうにん」ボタンをクリックしながら、ぼく自身一刻も早く「送王」の儀式を見に行きたいと逸る己の心を抑えるのだった。


送王爺の巡行の際には同じ地域に暮らす様々な神々や「陣頭」と呼ばれる伝統パフォーマンスなども披露される

 

 一週間以上かけて行われる儀式は、造王船、請王、過火、境内巡回、遷船、送王と続くが、最も多くの人を惹きつけてやまないのが、最終日に行われる送王の儀式だ。5か月の歳月と1000万元(4800万円)以上の費用をかけて作られた荘厳な王船が東港の住人たちによって海辺まで引かれてゆき、深夜いまだ日が昇らないうちに火をかける。送王の儀式は台南の曾文渓沿いに点在する王爺廟のように、日中太陽が輝く時分に儀式を執り行う場所もあるが、ここ東港では宵闇の中で14メートル近い巨大な王船に火をかけて燃やし尽くす。

 高雄市内のアパートから東港までは、相棒の足で1時間半ほどの距離であったが、真っ暗な夜道を走ったために、倍近い時間がかかった。繁華街を過ぎれば、道々に設置されている街灯の数も目に見えて少なくなってゆき、視界は前方わずかしか利かなかった。等間隔に並んだ幹線道路の街灯の明かりが、まるでクラゲのように闇夜に揺れていた。高屏渓を渡って屏東県内へと入ると、肥料や家畜、それに湿った土の臭いが鼻腔をついた。

 夜空に浮かぶちぎれ雲が幽かに月明かりに照らされていた。水の引いた東港渓を渡ると、ようやく人工灯が月明かりを圧倒しはじめた。鉄道も通っていないこの小さな港町の路地は、台湾全土から集まってきた信者たちで溢れかえっていた。

 コロナ禍の最中ということもあって直前まで開催が危ぶまれていたが、幸いにも感染症対策を徹底するという条件の下で、なんとか一連の儀式が執り行われることになった。東港東隆宮の巨大な正門は金箔が貼られた三川式牌楼となっていて、その過度な煌びやかさと重厚な存在感は否が応でも当地における王爺の権威を感じさせた。


東港東隆宮の黄金牌楼。民国84(1995)年に8000万元(およそ3億8000万円)かけて建立された

 

 東港東隆宮には以下のような伝説が残っている。

 康熙45(1706)年、東港南西の海辺に大陸福建省から大量の木材が流れ着いた。漂流した木材には「東港温記」の4文字が記され、それを見た東港の人々は、温王爺がこの地に廟を建立せよと神意を示しているのではないかと考えた。そこで、流れ着いた木材を組み合わせてみると、豈図らんや、何と廟の骨格が出来上がったではないか。住民たちはすぐさま資金を募ると、彫刻師に温王爺の神像を彫ってもらってそれを廟に奉置した。また光緒20(1894)年には、大津波が東港一帯を襲って付近の建物はことごとく倒壊したが、温王爺を祀った廟だけは崩れることなく残った。信徒たちは急いで温王爺の神像を廟から持ち出したが、その途端神廟は音を立てて崩れ去ったという。

 この話を見ても分かるように、東港東隆宮に祀られている温王爺は、いわゆる瘟神を起源としない王爺である。東港東隆宮の温王爺は、唐の太宗・李世民の治世に活躍した温鴻おんこうと呼ばれる人物で、36人の義兄弟と共に太宗を守った進士として山西知府の職務を勤めたが、全国巡行の際、義兄弟共々海難事故によって亡くなったとされている。その点から見れば、東港東隆宮の温王爺は瘟神系の王爺とは言えず、むしろ不運な死に方をした「厲鬼」が神として祀られたケースだといえる。

東港東隆宮の温王爺像。瘟神として祀られる王爺に比べて、優しい表情をしている。

 

 こうした「厲鬼」としての王爺について考える際、台湾で最も広く人口に膾炙しているのは、進士360人に関する以下のような伝説である。

 かつて権力の絶頂期にあった唐の玄宗は、法力をもって世に知られた張天師の実力を試してみたいと考えた。そこで、登台したばかりの進士360人を地下室に隠すと、彼らにこっそり合図を送って音曲を奏でさせた。

 玄宗は御前に召し出した張天師に尋ねた。

――朕は夜な夜なこの怪音に悩まされておる。張天師、これ怪なるや否や?

 しばらく沈黙していた張天師はやるせない様子で答えた。

――人為でございます。地下に水を流し込めば、怪音はたちどころに静まりましょう。

 玄宗はさっそく地下に水を注ぎこむように命じた。しばらくの間音曲は停まっていたが、やがて再びか細い音色が地下から木霊してきた。

――張天師、これ怪なるや否や?

――人為でございます。

――然らばこれをいかにして鎮めん。

 玄宗の言葉に、張天師はしばらくの間黙って目を伏せていた。そして、やにわに宝剣を取り出すと、地面に向かってそれを深く突き刺した。細い糸のように地下室から幽かに響いていた音曲がはたと止んだ。張天師は法力を以て、地下に潜む進士360人の息の根を止めてしまったのだ。驚いた皇帝は慌てて地下に人を遣った。

――ことごとく息絶えております!

 玄宗はようやく己の罪深さに気付き、彼らが邪鬼となって祟りをなすことを恐れた。そこで彼らに「王爺」の封号を与えて、以降現世の人間の善悪を観察する役割を担うようになった。王爺を祀った廟は「代天府」と呼ばれ、以降王爺たちが人間界を巡行することを「代天巡狩」と呼ぶようになったのであった。

 

 この物語には様々なバージョンが存在する。

 例えば、殺された360名は清朝に仕えるのを潔しとせずに命を絶った明朝進士であったとする説、あるいは同じく明朝の時代に暴風雨に遭って溺死した360名の進士であったとする説、更に台湾開拓の祖の一人であった鄭成功の化身であるという説まである。諸説入り乱れる中で唯一共通しているのは、彼らが皆志を得ずして亡くなった者たちの亡霊であること、さらには進士や忠臣、地元の有力者など、俗世で高い評価を受けていた人物であったという点である。

 近代以降、日本による植民統治とそれに伴う医療制度の飛躍的発展によって、瘟神としての王爺の性格は徐々に薄まっていったが、現在にいたるまで王爺信仰そのものが消えることはなかった。台湾における王爺信仰は、運命に翻弄され、あるいは政治によってその生命を弄ばれた人々の魂が「王爺」という入れ物に入れられることで、その複雑性と多様性を無限に繁殖させていったともいえる。その意味で、それは祟りをなす「厲鬼」にも近く、神と「鬼」の中間的な存在として台湾における王爺信仰が存在していると考えれば分かりやすいかもしれない。


伝統的な笠帽をかぶった東港東隆宮の「班頭」。その職位は世襲され、東港東隆宮の入り口で「改運」の儀式を執り行う

 

 周囲では止めどなく爆竹の音が鳴り響いていた。

 十重二十重に揺れ動く人垣をかき分けながら、ぼくは送王船の儀式が行われる鎮海公園まで歩いていった。王船はすでに浜辺に到着していた。精巧に作られた王船は、実際の航海にも耐えられるだけの機能を備えている。七角頭や東隆宮のスタッフたちが「金紙」と呼ばれる神さまに捧げる冥銭を詰め込んだ袋を王船の周りに高く積み上げていた。地べたに腰をおろした信者たちは思い思いに時間を潰し、ぼくは暗い海に目を遣った。

 王船にあてられた人工灯の光がときおり真っ暗な海を照らし出しては、神秘的な残像を作り出していた。その光景にふと、ぼくはある学生からスマホに映ったアマビエの写真を見せられたことを思い出した。

――センセイ、日本人は本気でこんなものを信じているんですか?

 確か、新型コロナウィルス感染症対策において、日本が大きく台湾の後塵を拝していた時期のことだった。おそらく、アマビエをありがたがる日本人の「駝鳥症候群げんじつとうひ」について指摘したかったのであろうが、ぼく自身は、彼の少々挑発的なその口調をむしろ心地よく感じていた。コロナ禍以降、従来台湾で支配的であった「先進的な日本人」というステレオタイプ像は大きく変わった。それまで履かされていた下駄の歯がぽきりと折れ、日本社会自体が高転びしたように見えたのだ。実際には、日本社会が台湾の数歩先を歩んでいるといった時代はとうの昔に過ぎ去っていたのだが、コロナ禍の混乱とそれに続く日本経済の急速な没落によって、その幻想が部分的にであれ剥がれ落ちてしまったのだ。

 果たして疫病封じのアマビエと王爺の間にはどれほどの違いがあるのか。そんなことを考えていると、爆竹の轟音とともに王船の船体が赤く染まった。

 炎はまるで飴玉をねぶるように王船の船尾あたりから徐々に船全体を呑み込んでいた。パチパチと木が爆ぜる音が響いた。船上に立てられた三本の帆の背に、荒ぶるヤマタノオロチを思わせる巨大な火柱が立ち昇った。王船を取り囲む群集の顔は、みな酒に酔ったかのように赤く火照っていた。しばらくの間、ぼくはカメラを構えることも忘れて王船が燃え上がる様子を食い入るように見つめていた。

 

火は見る見る中に、車蓋やかたをつつみました。ひさしについた紫の流蘇ふさが、煽られたようにさっと靡くと、その下から濛々と夜目にも白い煙が渦を巻いて、或は簾、或は袖、或は棟の金物が、一時に砕けて飛んだかと思う程、火の粉が雨のように舞い上る――その凄じさと云ったらございません。いや、それよりもめらめらと舌を吐いて袖格子に搦みながら、半空なかぞらまでも立ち昇る烈々とした炎の色は、まるで日輪が地に落ちて、天火がほとばしったようだとでも申しましょうか。

 

 ふと芥川龍之介の「地獄変」の一節が浮かんだ。それが張り子の神であると知りながらも、「まるで日輪が地に落ちて、天火が迸った」ようなその情景に何か残酷な美しさを感じた。西来庵事件の後始末をした日本の官憲たちは、炎の中に佇む「邪神」の神像を一瞬でも美しいと思ったのだろうか? 廃仏毀釈で燃やされた牛頭天王の神像から立ち上った煙は、果たして信者の祈りが込められた「金紙」のそれよりも高く天に昇ったのだろうか? 三本の帆はたちどころに炎の柱に搦めとられて、「代天巡狩」と書かれた旗は目には見えない何かに抱きつかれるようにゆっくりと倒れていった。

 金紙の燃えかすが空を舞い、東の空が幽かに白みはじめていた。

 再び視線を王船に戻すと、船はすでに半壊してしまっていた。パチパチと木が燃え上がる音のほか、周囲からは何も聞こえなかった。浜辺にはゆうに千を超える群集が集まっているはずなのに、しわぶき一つ聞こえないのだ。清朝時代の衣装に身を包んだ地元の人々は、古法に則って、王船に火がかけられた瞬間に皆背を向けてその場から立ち去ってしまっていた。

 半壊した王船の真上を舞い踊る黒煙がうっすらと薄闇に浮かび上がった頃、ぼくはようやく思い出したように深く息を吐き出した。

――三年後……

 薄闇の中で誰かがつぶやいた。

――また三年後。

 ぼくは、すっかり夜の底が抜けてしまった東の空を見上げた。すで王船から立ち昇る煙の色まではっきりと識別できた。

――また三年後。

 誰にともなくそうつぶやき返したぼくは、いまだ炎がくすぶる王船を背に暁闇の東港をあとにした。三年後、ぼくは再びこの場所で彼らと出逢うのだ。



夜が明けきらぬうちに炎に包まれた王爺船

 

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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