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カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す

第4回

 

第三章 渡り台詞の不可能性と必然性――第一版の演繹論について

 

一 超越論的哲学の課題――ゾンビにならずに自己は持続可能か

 

1 ここからしばらくは、演繹論、図式論、原則論という、カントの記述の順番に従って、『ウィトゲンシュタインの誤診――青色本を掘り崩す』の場合と同様に、引用文についてコメントするという形式で議論を進めていきたい。とはいえ『青色本』と違って、『純粋理性批判』では全文を引用することは無理なので、ところどころを選び出すという形にならざるをえない。

2 もし個々の表象がそれぞれ他の表象とまったく無縁で、いわば孤立しており、他の表象から切り離されていたなら、およそ認識なるものは生じようもないだろう。認識とは比較され結びつけられた諸表象の全体だからだ。したがって、感官はその直観のうちに多様性を含んでいるからというので、感官(感覚能力)に見渡す(繋げて見る)働きを与えるとすれば、それにはつねに総合が対応することになり、受容性は自発性と結びつくことによってのみ認識を可能ならしめる、ということになる。この自発性があらゆる認識において必然的に現れる三重の総合の根拠である。(A97)

3 ここでは、ひとことで言えば、認識とは結びつける働きのことだ、ということが言われている。受動的に受け取られた感覚的なものは、こちらから自発的に結びつけられることによって認識となる、というわけである。とはいえ、自発的に結びつけられれば必ず認識が成立するというわけでもあるまい。何らかの型に則って結びつけられたときにのみ認識が成立するはずであろう。認識が成立するとは、すなわち客観的な事実が知られるということである。なぜ、ある種の型に則って結びつけられると、そのことで客観的な事実が知られるのであろうか。型に則って結びつけられただけでは、客観的事実にはまだ届いていないではないか。これは、ある意味ではその通りで、それがつまりは物自体は知りえないということである。しかし別の意味では、ある種の型に則って結びつけられると、そのことで客観的な事実が知られる、と考えられるのである。なぜなら、われわれに知りうるのは所詮それだけであるから、である。それでも、それが客観的だといわれるのはなぜか、と問われるなら、通常われわれが客観的だと思っているのはそうしたことにすぎないから、ということであろう。しかし、なぜ、われわれは通常、そうしたことだけで客観的であると思うのか。それはおそらく、そこにおいてすべての人の意見が一致するから、であろう。ということはつまり、客観性とは、皆に共通の知がもたらされる皆に共通の型(に則った捉え方)のことだ、ということになるだろう。これはもちろん、カントがそう言っているわけではないが、このような道筋で考えれば、このようなことにならざるをえないであろう、という思考の提示にすぎない。

4 それでは次に、型に則っていようといまいと、その論点とはまた別に、そもそもなぜ結びつけられないと認識にならないのであろうか、そちらを考えてみよう。なぜバラバラな表象では駄目で、それらは結合されねばならないのか。ここまでの議論の筋に沿ってこの問いに答えるなら、それはおそらく、他の表象と結びつけられないかぎり、すなわち孤立した諸表象のままでは、それが他の人に現象している表象と同じか違うかを確認するすべがない、そもそも同じか違うかを問題にすることさえできないから、ということになるであろう。結びつけ方にも色々あるだろうが一つの原初的な結びつけ方は捉えられた表象の類型化(いいかえれば一般概念への包摂)であろう。たとえば「これは石だ」のような(「これ」は空間的位置をたとえば指さすとして)。このように結びつけられて、文‐化されると、他者が「いや、これは石ではない」と語ることも可能となる。このように型に則るということがすなわち認識するということであり、いいかえれば、間違った認識――誤認――もまた可能な空間に開かれる、ということである。型に則って結びつけることが、一つの意識の外に出ることになるからだ。しかし、外とはどこか。と問われるなら、カント的には外的世界、客観的世界ということになるだろうが、私の感覚では、これはやはり言語、言語的な客観性といわざるをえないように思われる。言語において――とりわけ文において――はじめて、孤立した諸表象が結びつけられ、認識の可能性が開かれる。個々の表象の一致や不一致も、ここで初めて成り立つ文における一致不一致の側から割り当てられるほかはないことになるだろう。

5 結びつける働きをもっぱら担うのは、カント哲学の枠組みにおいては悟性(Verstand)である。しかし、この引用文を見るかぎり、カントは前悟性的な、感性のレベルでの結合の可能性を語っているようにも読める。たしかに、感性の段階においてバラバラに与えられた感覚的諸表象の類型化(の少なくとも端緒)が存在していなかったなら、それらを悟性的な連結へと媒介するすべはない、とも考えられるであろう。例えば、ある時に生じた表象Aと別の時に生じた表象Bがともあれ似ている(似て感じられる)、それゆえある観点からは「同じである」とさえいえる、といった把握の可能性が、ただたんにそれらを捉えるという段階ですでに成立しているのでなければ、そもそも捉えるということ自体が成り立ちえない、とも考えられるからだ。おそらく、このような考え方が、これから始まる第一版の「三重の総合」の議論の開始点であったと思われる*

*しかし、もちろん、その出発点はすでにして疑わしい、ともいえる。このプロセスに含まれている飛躍は、原理的にその着地点の側からしか見渡すことができないはずだ、ともいえるからである。この問題は、今後ずっと、陰に陽に、論じ続けられることになる。

6 結びつけられて客観的認識の可能性が開かれるのは、その結びつけられ方の側によってであるから、結びつけられたもとの諸表象の側は、ここで成立した事態にはもはや無関与的(irrelevant)なものとなるはずである。これはしばしば「クオリアの逆転」といった想定において問題にされる事態であり、カントの議論にはその問題を発生させるメカニズムが先取りされているといえる。結びつけられた諸表象の側は、その結びつき方さえ何らかの形で存在できれば、存在しなくてもよいとまではいわずとも、何かでありさえすれば何であってもよい、とはいえることになるからである。それが何であっても他人には決してわからず、それの意味するところはそれがじつは何であっても(だからそもそも無くても)結果的には同じことになるはずだからである。

7 「他人には決してわからず」と言ったが、かりにもしわかったとしても、何の使い道もない、という点がまずは重要である。「へえ、君の白さのクオリアってこんなのなのか。これは僕なら黄色と呼ぶかなあ」と言えるのが関の山であり、そうであったとしても、それは依然としてやはり「白」なのである。まずはここが重要である。しかし、真の問題は、その種の内観知の表明さえもじつはできないという点にこそある。「僕なら黄色」の「黄色」に客観的な(言われた相手にもわかるような)意味を与える方法がじつは存在しないからである。それゆえ、クオリアの逆転といった想定もまた不可能なのだ。哲学的なポイントは、むしろこちらにあるだろう。クオリアという皆に共通の要素的な何かがまずはあって、それらがじつは逆転していたりしていなかったりできる、というような、そこから出発したはずの想定そのものが――それを可能ならしめている平板な世界解釈そのものが――、じつは結果として構成された世界像の側からしか成り立ちえない、ということこそが洞察されるべきことだからである。それゆえ、こちらの問題は、クオリアの逆転の想定のように通常の平板な世界像の内部に組み入れて理解するということがそもそもできない。そして、まさにここにこそカントの「結びつけ」(総合、統一、等々)の哲学の、それが本当に超越論的にはたらくことの、真の意味がある。ここで、たんなる結びつけに見えたことが、たんなる結びつけではありながら、もはや結びつけられる以前の段階に遡ってアクセスすることができないような、とてつもない飛躍と断絶を創り出すことになるからである。  

8 ところで、前々段落(段落6)の「存在しなくてもよい」や「そもそも無くても」に示されているように、クオリアの逆転の可能性はさらにクオリアの欠如の可能性を示唆する。いわゆる哲学的ゾンビの問題である。この文脈において哲学的ゾンビとは、実際には感覚的諸表象が存在していないにもかかわらず、一定の型に従ってそれらを悟性的に結合したときに成立する結果だけがなぜか存在している(がゆえに結果的に普通の人間と同じように見える)人のことであるといえる。しかし、そもそもなぜそのようなことが考えられる――そして考えることに何か意味があると思える――のだろうか。それは、そんなことを考えてみる以前の、与えられた現実の世界に、結合以前のバラバラな諸表象もまた現に直接的に生起している(ように直接的に感じられる)人と、結合以前のバラバラな諸表象は飛ばしてそれらの結合の結果だけがいきなり提示される人とが、すなわち現実になぜかゾンビでない人となぜかゾンビの人とが存在しているからである。前者が私で後者が他者である。それだからこそ、直接的にはどう見えていようと後者のような人の背後にもじつはバラバラな諸表象は存在してはいるのだ、という世界像が置き移しによって成立した後でも、「でも、本当は存在していないかもしれないではないか」という懐疑可能性が、排除不可能な形で燻ぶり続けることになる。このことからもわかるように、本当の問題は感性に与えられているはずのバラバラな諸表象がじつは与えられていない人が存在しうるか否か、にあるのではなく、少なくともそれ以前に、そもそも前述のような二種類の人が存在している――というように世界は現に与えられている――という事実そのものにある。この事実がなければゾンビ問題などが意味をもちうるはずもないだろう。こちらの問題の存在を見逃しておいて、いきなりこの懐疑論を主張してみたり、逆にそれを論駁しようとしたりする人が多いのは、私にはまったくもって不可思議な現象である。問題はゾンビが存在しうるか否かなんぞにあるのではなく(もしそれが問題であれば、しうるともしえないともいえるように世界は出来ているということだけが問題なのであり)、世界にはなぜかまったく異なるこの二種類の「主体」が存在しているということこそが問題なのである。

9 「直接的にはどう見えていようと後者のような人の背後にもじつはバラバラな諸表象は存在してはいるのだ」という世界像を置き移しによって成立させるという仕事は、ヨコ問題における構成作業なので、型に従って諸表象を結びつけるというようなやり方によってはもちろん、いかなるタテ問題的な方策によっても*、決して成し遂げられない。このような場合に何が為されねばならないかについて、その概要は前回の「第二章についての落穂拾い的な議論」の「二」の「カテゴリーとしての人称と時制の作り方にかんする試論」という箇所(段落5~段落12)で論じた通りである。この作業の成功によって最初の根源的な違いがなくなるわけではない(なくなったらたいへんだ!)が、現実になくなるわけではないにもかかわらず、あたかもなくなったかのように見なすのっぺりした世界像もまた実効性のあるものとして成立することに(すなわち世界は矛盾を内包することに)なる**。しかし、出発点を最初からそこに置いてしまうと、あたかも最初から誰にとっても、同じように多様な諸表象が与えられており、そこからそれぞれそれらの結合(総合)作業が開始される、それがすなわち超越論的な世界構成の作業である、といったような、まるで問題の答えを出発点にして問題を解くような、ひどく平板な超越論哲学像が生じることになる。

*たとえば、私と私でない人(他者)との違いのようなヨコ問題的な差異を自己触発の有無などによって説明するというような方策がその例である。そういう種類の何を付け加えても、それによってヨコ問題を捉えることはできない(『世界の独在論的存在構造』における「唯物論的独我論者」の教訓と同様である)。自己触発のような働きは、他者にも、それが他者である以上必ず、本質的に同様に存在するのでなければならないからである。差異は現にあるそれと本質上あるのでなければならないそれとのあいだの差異として理解されねばならないことになる。なぜか私であるということは、何か他にはない実在的(リアル)な特質がそこに付け加わっているということではなく、そういう何かではない――すなわち無内包の――現実性だけが、そこに付け加わるということでなければならないのだ。(だからこそ逆に、すべて同様であるのに、なぜ彼らは私ではなく他人などという奇妙なものでありうるのか、という問題もまた立てられうることになるわけである。)そしてその後で、そのことのほうが一般化される(ことによって問題の成立水準が一段上がる)という筋道が不可欠なのだ。

**しつこいようだが、最初の根源的な違いの平板化について二点の注意を。第一は、この平板化(のっぺり化)はあくまでも最初の根源的な差異そのものの平板化(汎化)であって、その消去や抹消ではない、という点。独在的世界は汎化された形でそのまま維持されるのである。すなわち、これはあくまでも突出の汎化なのである。第二は、最初の根源的な違いとは、最初は一人だけ違うあり方をした人間がこの共通世界の中に実在しているということではない、という点。それは不可能なのだ。(一人だけこのように違うあり方をした人間をこの共通世界の中にこの共通世界内で認められうる何らかの根拠に従って実在させることが不可能であることについては、唯物論的独我論者の事例やこの章の後に触れる夢についての論文などで論じてきたが、それは最重要の論点である。)むしろ逆に、何故かはわからないが、独在的世界しか与えられておらず、その後もずっとそうでしかありえない、と理解すべきだ。それは一つしかなく、それしか存在しない。課題は、そのこと自体がだれもに成り立つ(皆にいえる)ようにすること、そういう世界をそこから作り出すこと、である。しかし、言語はこの共通世界で使われるためのものなので、この課題を言語で語ることはできない。これは、むしろその言語を創り出すという仕事なのだ。が、現状においてはこの課題はすでに達成されてしまっているため、このような話を始めると、この話自体がすでに達成された視点から理解されてしまう(すでに汎化された独在性から話が出発してしまう)ことにならざるをえない。すなわち、最初の「課題」そのものが、だれもがその課題を持つかのように読み換えられてしまうわけである。それはすでに課題が達成されているからであって、それだからこそこの話が通じるのではあるが、やはり誤解ではある(という点こそがこの議論のキモである)。時間論用語で言い換えれば、これはA事実を出発点としてそこからA関係を作り出すという問題なのだが、それがA関係を出発点としてそこからB系列やC系列を作り出すという問題として理解されてしまう、ということである。逆にいえば、A関係を出発点としてそこからB系列やC系列を作り出すという問題にも、A事実を出発点としてそこからA関係を作り出すという問題の残響が必ず響き渡っている、ということである。もちろん私はカントにもその残響を聴き取っているわけである。

10 平板化的構成作業がすでに完了したのっぺりした世界ではゾンビ(クオリアの実在的な欠如)のような形で現れるような、しかしそれとはまったく別種の、とはいえじつはそれの原初形態ではあるような、根源的な存在論的な欠如が、与えられた原初の世界では、まったくふつうに存在している、ということが問題の核である。すでに構築された平板な世界像の内ではゾンビのようなとんでもないものとして現れるそのことが、その世界像をまさに構築していく際にはまったく正常なこととして認められるわけである。当然のことながら、そのこと――すなわち自分である人とそうでない人との二種類の人々が現実に存在しているということ――をもはやだれも不思議には思わない。不思議に思わないような世界像を、すなわちこの現実的で存在論的なこの二種の巨大な差異を一般的な自他の差異の一例と見なしうるような驚くべき世界像を、成功裡に作り上げたからだ*。ゾンビの場合には、その欠如はあからさまに外から(つまり見かけ上だけ)埋められて、ふつうの人のように見えているという変則的(アブノーマル)なことが起こっているとされるわけだが、こちらでゾンビに対応するもの――すなわちいわゆる他人――の場合には、じつはそれと同じことが起こっているとみなしうるにもかかわらず、その(本質的には同じ)埋め方でなんと本当に埋められてしまい、それが正常(ノーマル)なこととされるわけである。なぜそんなことができるのかといえば、それはもちろん、そこに超越論的なカテゴリーが適用されているからである。

*そういう世界像を作り上げる(見方を変えればその作り上げられ方の仕組みを解明する)ことこそが超越論哲学の課題であり、作り上げられた世界の内部にいるわれわれはもはやその必要性に気づくことがないとはいえ、この世界の成り立ちを根源から理解したいならば、それは不可欠の仕事であらざるをえない。それどころか、この課題を飛び越して哲学することなどおよそ不可能だとさえいえるだろう。

11 この場合の超越論的なカテゴリーとは、もちろん人称である。とりわけまずは、第一人称という特殊な型を発見(あるいは発明)して、そこに現実的なそれと可能的な(いいかえれば規約上の)それとを、すなわち自分の第一人称と他者の第一人称とを、ともに含めることである*。これ自体はまったくあたりまえのことにすぎないともいえる。たんに「百ターレル」といえば、そこに現実的な百ターレルも可能的な百ターレルも含まれるのは自明のことだからだ。第一の人称(the first person)とはもちろん、世界の端的な開闢から見て最初の人という意味なのだが、われわれはこのこと自体を具体的(現実的)にも抽象的(可能的)にも理解するわけである。しかし、「私」の場合は(「今」の場合とともに)、「現実的‐可能的」の対比の意味が通常の(「百ターレル」のような)場合とは微妙に、しかし決定的に異なる。この場合には可能的なものがそのまま現実的でもあるという矛盾したあり方を、この世界はしているからである。であるから、一面においては、誰もがそれぞれ自分こそが「現実的な私」であると考えるという形で「現実的‐可能的」の相対化が起きるのだが、しかし他面においては、それにもかかわらずその相対化を突き抜けて「現実的に「現実的な私」」が一つだけ存在するのでなければならない、ということになるのだ。この現実性の突出構造がどこまでも不可避的に伴い、それゆえこの二面の対立もどこまでも無限進行して、その意味においては、どちらに優位性があるのかはけっして決まらない(「今」の場合も、この本質構造だけ取り出せば、驚くべきことに、まったく同じ構造をとる)。

*現実的なそれと可能的なそれとは、すなわち自我と他我とは、一見したところ、少しも似ていない。それどころか、そもそも「他我」は矛盾表現である(がゆえにありえない)とさえいえるだろう。にもかかわらず、われわれは他人の発する「私」という語の意味を難なく理解する。それはまた、自分の発する「私」という語もまた、他人たちからは「他人の発する「私」という語の意味」として理解されている、ということを知っているということでもある。これが本文で述べている相対化であり、現にそこから世界が開かれている・世界の開けの唯一の原点そのものを、開かれた世界の内部に置き入れて、その世界内に現れる同種の(と見なされた)ものたちの仲間とする、という驚くべき一歩である。すべては、このような世界の二重化から始まっている。

12 かくして、世界は最初の出発点とは異質の見地から見られることになるわけだが、この特殊な種類の結びつけ(総合)を実現してから(あるいはしつつ)でなければ、(因果性等々の)通常の諸表象の結びつけ(総合)も期待通りには功を奏さないであろう。ここにはとてつもない飛躍が含まれているのだが、それは、簡単に結合可能なたんなる事象的な断絶に(今のわれわれには)見えてしまうものがじつは様相的な(現実性と可能性との)、あるいはむしろ存在論的な(実存と本質との)断絶を含んでおり、ここでその断絶が一挙に架橋されるからである。与えられた多様な諸表象を結びつけるという場合、そもそも何が与えられるかはたまたまのこと、他でありえたはずのことであるのはその前提であるだろうが、ここでは、そのような偶然性が、多様な諸表象がそこに与えられるその場それ自体にもあてはまることが同時に洞察されねばならないのだ。なぜか現実にはこの開けの場が与えられてあり、現実には与えられていない別のそれが他者に与えられている(とされる)、という捉え方が作り出されねばならないのである。

13 そうではあっても、なお残るこの自他のこの差異はいったい何であるのか。ここで想定されうる他者とは(そしてそれと対比される自己とは)いったい何であるのか。それらは依然として手つかずの謎のまま残されている。ともあれ、他者に与えられるとはすなわち、その多様な諸表象は現には与えられておらず、そのように想定されているだけであるという意味なのであるから、それが多様な諸表象という名の(すでにして)概念的な総合にすぎないことは疑う余地がない。(そして、そうであると知っている以上、自分自身もまた他者から見られればそういう者であらざるをえないことも知っているのでなければならない。)すべての開闢である、原初の諸表象が与えられる場そのものを、そのような二次的に措定される諸主体と同格のものへと格下げ=格上げすることが、すなわち人称カテゴリーが為すべき最大の仕事である*。このような視点を介入させて、そこに存在の意味そのものの転換を読み込まないことには、カントの議論もまた平板な世界造りの寄木細工物語にすぎないものとなってしまうであろう。

*とはいえ、このような説明自体が、任意の自己から出発する、すでにして概念的な段階の説明として理解されてしまうことは、避けがたいことではある。そうではあっても、ここではその前段階の問題が提起されている――すなわちいわば語りえぬことが語られている――ということを決して取り逃がさないようにしていただかないと、この議論はまったく何の意味もないことになる。伝統的存在論から実存と本質という対比を借りてこれをさらに言い換えて表現するなら、ここでは、(実存という名の本質になる以前の)実存そのものが本質へと転換する、という一回性の奇跡的な事実が問題にされているのであって、それだからこそ、それと本質的に同じことがそこかしこで、そしていついかなる時でも繰り返されるという理解も固有の意義をもつわけである。

14 人称(およびそれと同型の時制)という新奇な世界把握方式の成立によって、他者たち(および他時たち)との同型性・共通性という意味での客観性が初めて作り出されることになり、このことが言語(的意味)というものを初めて可能ならしめることになる。その結果、自己自身に対しても、前の段落(段落13)で提示した「自分自身もまた他者から見られればそういう者であらざるをえないことも知っているのでなければならない」の条件文部分から「…見られれば」という条件節は外され、それが大前提的な地位に就くこととなる。しかも(ここでその仕組みを詳述している余裕はないので圧縮された記述にならざるをえないが)、人称の場合と同様に、まずは第一時制(現在)という特殊な型を発見(あるいは発明)して、そこに現実的なそれと可能的な(いいかえれば規約上の)それとをともに含める、というあのプロセスがそこでも繰り返されることによって、現在ではない異時点における経過をその時の現在としてそのまま保存して記憶するという驚くべきことが可能となる。その結果、確かに私だけはゾンビでないといえるはずである(そのことこそがゾンビ概念の本質なのだから)にもかかわらず、まずは、他者にもその地位を分け与えたことによってその究極的な意味を喪失し、次には、そうだとしてもそれは今だけのことであって*、繋がった私についていえば、私自身もまたゾンビ可能な存在、というよりもすでにしてゾンビである存在にすぎない、ともいえることになるのだ。

*すべてはその場に与えられる素材に様々な加工を施すことで成立しているともいえ、それはそれですこぶる重要な事実ではあるのだが、その唯一の開けの場それ自体におのれと同型の他者や他時が存在しているという思考は、その場それ自体にかんする思考であるから、そこに与えられる素材とは独立であり、そういう意味での感性的条件を飛び越えて成り立つものであるから、最初から形而上学であるといえる。統一的な客観的世界の成立はこの形而上学の介在に拠るところが大きい。

15 カントはたとえば、第二版の「誤謬推理」において、次のようなことを言っている。

 

私が意識するすべての多様において私自身は同一である、というこの命題は、すでにして概念そのものに含まれているので、これは分析的命題である。とはいえ、私が私のあらゆる表象において意識しうるこの主観のこの同一性は、それを通じて主観が客観として与えられるような直観にかかわるものではない。それゆえ、この主観の同一性は人格の同一性を意味することもできない。(B408)

 

ここでは、「あらゆる表象において意識しうる」主観の同一性と「それを通じて主観が客観として与えられるような直観」によって成立する「人格の同一性」とが峻別されているが、それでも「あらゆる表象において意識しうる」主観の同一性のほうも「分析的」な真理として認められてはいる。これを「分析的」と見ることそれ自体にも疑問はあるが、ここではカント哲学に内在的な疑問点だけを指摘しておこう。ある時点で意識される「私」と別の時点で意識される「私」はいかなる理由で同一の「私」であると見なされうるのか*。この同一性が「それを通じて主観が客観として与えられるような直観にかかわるものではない」ことを、すなわち「人格の同一性を意味する」ものではないことを認めるとしても、カント自身の強調する総合と統一がすでにそこにはたらいていなければならないことは疑う余地がない。その媒介なしに「私」の同一性がいきなり成り立ちうると考えるのは「誤謬推理」であるといわざるをえない。ここでカントはまさにカント哲学的にはその存在が認められてはならないものの存在を認めてしまっているように思われる**。前段落との繋がりでいえば、カントもまたここで、いわばゾンビにならなくても持続できる自己の存在を素朴に信じていることがはしなくも露呈しているといえるだろう。

*この点については段落28の「渡り台詞」をめぐる議論も参照されたい。

**この誤りの由来については、次段落と並んで段落32の人格の同一性の「直証説」をめぐる議論も参照されたい。

16 きわめて素朴に考えるなら、ともあれ与えられる諸表象は、それがバラバラであろうと繋がっていようと、そんなことには関係なく、必ず私に与えられる、とはいえるように思える。なぜなら、現に諸表象が与えられるその場のことを「私」と呼んで、そうではない諸意識主体(いわゆる他者)から区別しているのだから。「およそ何かが感じられているなら、それを感じているのはつねに私である」というウィトゲンシュタイン的見地*が、ここで効力を発揮するように見えるのである。たしかに、それらの諸表象がいっきに(すなわち今)与えられるなら、そういえもしよう。しかし、時を隔てて生じる諸表象は記憶される以外に保持されるすべはない。するといっきに(すなわち今)与えられている諸表象のうちのかなり多くは記憶的表象であることになる。それはたしかに今私に与えられているとはいえ、記憶されているもとの体験そのものはもちろん今の私には与えられておらず、それがその時の私に与えられていたということは、今与えられている記憶が言っていること(すなわちその内容)であるにすぎない。だから、私自身が「私が意識するすべての多様において」同一であるかどうかは(「多様において」は)じつはわからず、後からそれらの「結びつけ」の段階においてその同一性は作り出されるにすぎない(だからこそゾンビも可能なのである)というべきであろう。それゆえ、結びつけ以前の多様の生起について「分析的」な同一性を主張するのは不当である。なぜなら、このとき結びつけている私はその記憶内容を必ず(過去の)私が体験したこととして表象する(という意味でそれを「分析的」と呼ぶこともできはする)が、それはその時にそう作られざるをえないからであるにすぎないからである。とはいえ、私自身はそのとき為された結合を自明の前提として生きる以外にはない、という意味での自己同一性は成り立つことになる。が、しかし、それは多様の生起にかんする分析的真理でもなければ、直観を経由した客観的な人格同一性でもないのだ。

*拙著『ウィトゲンシュタインの誤診――青色本を掘り崩す』の24を参照されたい。「いかなる有意味な仕方でも繋がっていなくても、ともあれそれらがそこで生起するなら、それらが生起する場は必ず私である、なぜなら、それらが現実に生起する場のことを(他者と区別して)「私」と呼ぶのだから」というのが、ヨコ問題における「私」の意味である。このヨコ問題における「私」は決定的な役割を果たすにもかかわらず、そのままで持続するということができないのだ。

17 そのように結びつけることを「心の変容」と呼ぶのは適切なことであろう。

 

われわれの表象は、それがどこから発現するのであろうと――外的な事物の影響によって引き起こされようと内的原因によって引き起こされようと――、アプリオリに成立していようと現象として経験的に成立していようと、いずれにせよ心の変容ではあるのだから内官(内的感覚)に属している。われわれの認識は、心の変容として結局のところはやはり内官の形式的条件に、すなわち時間に従っており、時間において、それらの諸表象はすべて秩序づけられ、結合され、関係づけられねばならないのである。(A98-9)

 

前半は、すべては「心の変容」であり内官(内的感覚)の内にある、と言っており、後半は、その内官の形式的条件は時間なのだから、すべては時間において結びつけられている、と言っている。すべては心の変容であるというこの主張は露骨に観念論的である。もっと議論が進んだ段階では、とりわけ第二版においては、このように「秩序づけられ、結合され、関係づけられ」ることによって外的な客観性が成立し、かくして成立した客観性を前提してはじめて、その内で内的・主観的なものが正当に位置づけられて成立する、といった議論が展開されることになるが、ここの議論は遥かに素朴であるように見える。しかし、そのような複雑化においてもなお、この素朴な事実はなお生き続けている(とカントはじつは感じている)に違いない*。いかなる変容をも貫いてそのように生き続けてもいるということこそが超越論的観念論ということの意味であろうから。

*簡潔にいえば、主観的なものの存在に二重の位置づけがなされている、ということであり、それこそがカント哲学の画期的な達成であるといえる。なぜなら、それは世界の実態を見事に写し取っているからだ。つまり、ここでカントだけが真理を捉えたのである。

18  にもかかわらず、カントのこの記述には致命的な難点がある。なぜこの議論が最初から「われわれの表象は……」と第一人称の複数形で始まるのか。これは事実に反する、というより、これから構築していかなければならない最も重要な「事実」が先取りされてしまっている。人称カテゴリーの「演繹」の問題が論じられないために、この構成態がいきなり出発点に据えられてしまっているのだ。それでよいなら、すべては「心の変容」であり内官(内的感覚)の内にあるとしても、心の働きはみんな同型なので、客観的世界というものはそれが外化されて作れるのだ、という話ですべては決着がつくだろう。しかし、真の問題は一に係ってその同型性そのものがどうやって作り出されるのか、にある。まったく同じであるとされることになる心たちのあいだに、始めから端的に存在しているそれと、それと本質的には同じものであるとされるにいたるとはいえ始めは端的に存在していない心たち、という(存在と無のごとき)完璧な断絶がある*、という事実が議論の出発点でなければならない。そこを架橋して、ただ本質のみにおける同一性を作り出すという作業から、すべては始まるのでなければならない**。そうでなければ超越論的世界構成の仕事は果たされるはずもないが、それ以前にそもそも取り掛かる意味もないだろう。最も肝心なその点が飛び越され、そこは読者それぞれが我が事として勝手に読み込むことで補完されるというのでは、仏を作って魂を入れない(魂はそれを拝む人がそのつど外から持ち込むことによってやっと入る)ようなものではないか。

*存在と無のごときというのは比喩でも誇張でもなく、何かが付け加わっていたり欠如していたりする実在的な違い方で違うのではなく、文字どおり端的に存在することと端的に存在しないことの違いのような存在論的な仕方で(のみ)違う、という意味である。(この注*は段落9の注**の続きとして読んでほしい。)

**ただ本質のみにおける同一性とは、その実存においてはまったく異なる現実的な百ターレルと可能的な百ターレルが、その本質においてはまったく同じでなければならない、という意味での同一性のことである。

19 この構成作業は、現にそこから世界が開けている唯一の原点が存在しているという、もっぱら実存的な、驚くべき事実を、そのまま本質化して(そういう型として捉えて)、本質化されたその事実を他人たちに分配する(その結果として「他人たち」になるのだが)ことによってなされ、そのことによってしかなされえない。驚くべき事実と言ったが、この分配もまた驚くべき作業だと言わねばならない。驚くべきことが二つ重なって、やっとのことでこの平板な普通の世界が作られるのである。やっとのことで事物の織り成す平板な普通の世界の上に重ねられる、と言ったほうがよいかもしれない。重ねられた後でも、作り出されたこちらの世界は、物が色々な性質を持ったり相互に関係したりするだけの文字どおりの平板な世界とはまったく異なる内実を持ち続けるからである。するとそこには、その成立の経緯から明らかなように、本質的な矛盾が内在し続けることになる。

20 このプロセスについての議論があまりピンとこない人は、その全行程が終わった見地に立ってその内側からこのプロセスについての議論を理解しようとしているのである。それはある意味では避けがたいことでもあるのだが、完全にそうなってしまうと、この議論の本来のポイントはすっかり失われ、人間に起こる他者承認の心理的な出来事についてのお話か何かのように理解されてしまうことになる。その際、物体としての人間身体の複数性の視点に最初から立ってしまっているというようなことも影響もしているだろうが、実はもっと本質的な問題がある。ここでの私の議論は読者諸賢に向かって語られている(だからある一人の人間が他の人間たちに語りかけているといえる)のだが、その事実と語られている内容とはもちろん矛盾している(その矛盾こそが語られている内容であるという意味では示されうる一致が存在するともいえはするが、それは平板な世界了解とは矛盾するので、語られうるような一致は存在しない)。通常の言語使用は、このことを語りうるようにはできていない(むしろ、語らせないようにできている)。言語は、この平板な世界の内部における伝達用に作られており、のっぺりしていない世界構造ものっぺりさせて語りうるように変形する強力な装備を備えているからである。だから、ここではその言語のその仕組みの解明と世界構成の仕組みの解明とは大幅に重なることになるのだ。

21 そうしたことが承認された上であれば、すべては独在する心の「変容」にすぎず、その内官(内的感覚)の内にあるのだ、という主張にも(それゆえすべての認識は時間という条件に従うという点さえも含めて)十分な根拠があるといえる。問題はただ、そこが出発点であらざるをえないその独在する心は、この共通世界の内部で使われるために作られたわれわれのこの言語では指す方法がなく、それがどれであるかをこの世界の側からは確定することはできない、という点にあるわけである。このような問題意識を背景にして、次に第一版のいわゆる「三重の総合」を検討していこう。

 

 二  なんちゃってビリティによって成立する自己

 

22 最初は「直観における把捉の総合」である。

 

すべての直観は多様なものをその内に含んでいる。が、もし心が次々と起こる印象の継起を時間的に識別するということをしなければ、多様なものは多様なものとして表象されることもないだろう。というのは、一瞬に含まれるものとしては、あらゆる表象は絶対的な統一以外ではありえないからだ。そうすると、このような多様なものから直観の統一が生じる(たとえば空間の表象における場合のように)ためには、まずはそれらを見渡し、見渡したものを一つにまとめる必要がある。この働きを私は把捉の総合と呼ぶ。(A99)

 

「絶対的統一」とは、あたりまえだが、相対的ではない統一という意味である。相対的な統一とは、他と対比してそれらとの区別と連関によって一つのものとしてまとまる、ということである。すると、絶対的統一とはそのような他との対比(による差異化)を介さない、何らかの意味でただそれしかないということによる統一、そういう種類の一性を意味するということになる。それらは後から相対化されて他と関連づけられることになるのだが、しかし、それらを見渡し(て相対化し)、見渡された複数の表象を関連づける(まとめる)作業は、それ自体としてはふたたび絶対的な統一(一性)であらざるをえないだろう。それらもまた見渡しまとめる(相対化し関連づける)ことができはするだろうが、その背進は必ずどこかで終わる(というか現にここで終わっている!)。すると、われわれはつねに(その内部には相対性を含んだ)ある絶対性のうちに在ることになるだろう。当然のことながら諸々の絶対的統一に相互関係は存在せず(それはその内部に存在するしかなく)、かりに別の観点からはその相互関係が見出せたとしても、それは別の話の始まりであって、何らかの絶対的な一性の内で終わることになる。

23 次は、「構想力における再生の総合」である。

 

それゆえ、諸現象の必然的な総合的統一のアプリオリな根拠となることによって、このような現象の再生さえをも可能ならしめるような、何かがあるのでなければならない。現象は物自体ではなく、われわれの諸表象のたんなる戯れであって、そうした諸表象は結局のところは内官(内的感覚)に規定されていることを考えてみれば、それが何であるかはすぐにわかる。われわれの直観が多様なものの結びつきを含んでおり、この結びつきが一貫した再生の総合を可能ならしめるのでなければ、われわれの最も純粋なアプリオリな直観[空間と時間のこと]といえども、いかなる認識ももたらしはしない。このことが証明できるなら、このような構想力の総合もまたいっさいの経験に先立ってアプリオリな原理に基づいていることになり、いっさいの経験の可能性(それは現象の再生可能性を必然的に前提する)に対してさえその根底に存しているような、構想力の純粋な超越論的総合が想定されなければならないことになるのである。(A101‐2)

 

あまりに自明すぎて通常はあまり自覚する機会もないことではあるが、直観における把捉の総合が可能であるためには過ぎ去ったことが再生されて保持されうるのでなければならない。この役割を担うのが構想力の働きである。この場合、それが再生であり保持であることはその結果の側から(いわば)推定されているだけなのだが、通常(というか常に必ず)何かもとにあったことが再生され保持されているということが(決して疑われることなく)前提されることになる。ここを疑えばすべては最初から瓦解するだろう。この文章を読んでいる際にも、直前に読んだ語を再生し保持し続けているわけだが、再生・保持された結果の側からそれが本当に過去の(といっても直前だが)読み経験の再生・保持であるかどうかを疑おうとしても、そこには介入する隙間そのものがそもそもないであろう。構想力における再生の総合はこのようにつねにすでに働いており(よほどの修行でもしない限り?)そこに楔を打ち込むことはできまい。とはいえ、それが再生・保持であるかぎり、すべての記憶は記憶違いでありうるという意味においては、もとの体験がじつは存在しない可能性はつねにありうるはずではないのか。

24 いや、その可能性はありえないのだ、と考えられねばならない。構想力の総合がアプリオリな原理に基づいた超越論的な働きであり、それこそが「経験の可能性(それは現象の再生可能性を必然的に前提する)」を初めて成り立たせるのだとすれば、その途中経過に楔を打ち込むことなどできるはずがない。そこには途中経過などそもそもあってはならないのだ。それが終わったところからすべては始まるのだから*。ここでもう一つのキモは、それはじつは起きていなかったかもしれないという可能性が封じられると同時にそれを経験したのは私ではなかったかもしれない可能性もまた封じられるということである。すなわち、その二つは一つのことであり、一つになってそこから世界を創生することになるわけである。

*終わる世界と始まる世界とは別の世界で、その二つを並列することはできない。しかし超越論的哲学は、並べることができないはずのその二つをあえて並べて見せる仕事であり、一方から他方への、生成を語ることができないはずのその生成を、あえて語ろうとする営みであり、それが終わったところから語りうるすべてが始まるはずのその経過を、あえて実況中継のように語ろうとする営みである。しかし、そうだとすると、まさにそのことによって、この構想力における再生の総合は概念における再認の総合に同化してしまわないだろうか。

 

25 三重の総合の最後は「概念における再認の総合」である。

 

いま考えているものが一瞬前に考えていたものとまったく同一であるという意識なしには、諸表象の系列における一切の再生は何の役にも立たない。なぜなら、考えているものはいまの状態における一つの新たな表象となってしまい、それは表象を次々と産出してきたはずの作用には属さないものとなって、表象の多様なものが一つの全体を作り出すことはなくなるからである。この多様なものには統一が欠けているのだが、それを与えうるのはそのような意識だけなのである。(A103)

 

ポイントは「まったく同一である」にある。ここで、「そっくりである」とか「ほとんど変わらない」とは違う種類の話が始まっている。ここから、話の種類そのものが変わるのだ。三種の総合のうち、第一と第二はいわば意識のあり方にかんする事実問題を論じているにすぎないが、ここからはそういう事実における繋がりの話ではなく、意味における繋がりの問題に、話の種類そのものが移るのである。それゆえ、ここで「まったく同一である」といっても、これまでのような事実問題の見地から見れば、少し違っていてよいし、当然、少しは違っているであろう。それでもまったく同じと見なしうること、これが新たな出発点である。

26 そして、この段階に至らなければ、「諸表象の系列における一切の再生は何の役にも立たない」のだ。どんなに似ていても、それだけでは一つの意味を形成せずに「いまの状態における一つの新たな表象となってしまう」からである。「表象の多様なものが一つの全体を作り出す」と言われる際の「全体」とは意味的な全体であり、新たな意味的な「一」がここから始まるのである。多様なものに対して、この「一」を与えることができるのは意識だけだとカントは言うが、そしてそれは確かにそう言えないことはないのではあるが、逆に意識ならばそれを与えることができるというわけではまったくない。この意識はある特殊な意識でなければならず、それはすなわち意味を担う意識、はっきりいえば言語的意識でなければならないからである。「概念における総合」といわれる際の「概念」とは、つまりは言語である。すなわち、ここから話は言語によって形式化された意識の問題に移り、そのことによって様相を一変させることになる*

*もちろん、直観における把捉の総合も構想力における再生の総合も、直観、把捉、構想力、再生といった概念を用いなければ指せない事柄について論じているのであるから、そのことだけからも、実のところは概念における再認の総合をすでに前提している、とはいえる。だから、これらを並列的に三段階とか三種類と見るのはミスリーディングというべきであろう。

27 同一性とは語の指示対象の同一性のことであり、そうでしかありない。だから当然、直観における把捉の総合においても構想力における再生の総合においても、実のところは概念における再認の総合が先回りして暗に使われていた。ここで、それでは言語とはそもそも何かという問題を(もちろんカントは考えていないし)新たに考察することもできないが、ただ一点、言語の可能性と意識の統一の可能性との表裏一体性については簡単にではあれ指摘しておかねばならない。意識は言語が介入して意味によって前後を繋げることによって初めて一個の(繋がった)自己意識となり、言語は意識が言語的意味によって一個の自己意識として纏まることによって初めて言語として現実に機能しうるものとなる。これは重要な事実なのだが、通常はあまりにも自明なことであるためか閑却されていることが多いようだ。

28 この問題を考える際には、「渡り台詞」の不可能性という問題を考えてみると役立つ。何か一つの文を思い浮かべていただきたい。「すべての石は冷たい」のような短いものでも、何か条件節などを含んだもっと長い文でも、かまわない。その文を「渡り台詞」のように、すなわち一語ずつ細切れに別の発話主体が発しても、それを聴く側からは文としての意味は十分に理解しうる(その意味で文の意味がちゃんと成立しているといえる)。しかし言う側は、あらかじめ打ち合わせした台詞を「言う」のでもなければ、そのようにものを言うことはできない(その意味で、たまたま文が成立したとしても、文の意味は成立しないといえる)。「すべての石は冷たい」の場合、「す…」と言い始めた時から言うべき文の全体はすでに出来て(長大な文の場合は文全体は出来ていなくても言うべき全体はすでに意図されて)いなければならず、途中の「…は…」と言っている時点でもそれは維持され、さらにまたすでに「すべての石」と言ったことが記憶されてもいなければならない。それゆえ、渡り台詞は本質的に不可能なのだ。

29 ここに、言語の成立における言う側と聴く側の非対称性がある。聴く側にとってはたんに想定されるだけで十分である持続的な発話主体が、言う側には現実に存在していなければならず、その現実存在こそが持続する自己意識を初めて作り出すのである*。とはいえここには相補性があって、言う側は、聴く側はそんなものの現実存在を必要とせずに作り出せる意味的なまとまりに依拠することによって、初めて纏まった持続的自己の現実存在を作り出すのではあるが、聴く側は、言う側に現実存在するとされる持続的な自己意識を(現実には現実に存在しなくても)ともあれ想定することによって、初めて意味の纏まりを構築することができるのである。どちらが先行するともいえない。想定されているものが現実には存在しない場合もあり、あらねばならないとはいえ、当然、現実にも存在している場合もあり、あらねばならない**。謎はむしろ後者にある。そこで何が付け足されるのか。その、あってもなくても同じ(なのにそれがすべてでもある)ものは何か。それは、究極的には独在性に由来する何かでしかありえない。台詞が渡ることを最終的に拒み、そもそも台詞にすぎない(すなわち、演技、冗談、嘘、…である)ことを最終的に拒むものがそこにある。少々驚くべきことだが、言語的意味は存在論的なしかなさとの繋がりにおいてのみその意味を初めて可能ならしめられるのである***

*これは、「私」の対象としての(=聴く側にとっての)用法と主体としての(=言う側にとっての)用法の違いの問題と、関連は付けられはするが(そして関連を考えるのは楽しいが)また別の問題である。例文だけ提示しておくなら、「すべての石は冷たい」の代わりに、五人(身体的基準で)の人間が渡り台詞で「私は/手は/冷たいが/足は/暖かい」といったようなことを発話するような場合を考えることである。

**それは、どこまでも想定上の存在とされうるにもかかわらず、それを拒むものが現に存在してもいなければならない。まさにその現存在の場の上でそれらすべては演じられるからだ。その場自体もまた演じられるものの一つに不可避的に組み込まれるに至るとしても、である。

***ただし、もちろん、ここで独在性はすでに意味的な繋がりと連接したそれである。

30 現実絵と可能絵・必然絵とが、現在絵と過去絵・未来絵とが、私絵とあなた絵・彼(女)絵とが、それぞれ同じ絵であらざるをえないという、第二章の段落22とその注*辺りで論じられたあの構造の反復を、ここに見て取るのはたやすいことだろう。とはいえやはり、このように同じであらざるをえないこととそれでもやはり突出するものがあらざるをえないこととの対立的共存によって自己意識的自己同一性が成立可能になり、「私」が持続可能になる、という論点は新しい。この論点はむしろ、「同じ絵であらざるをえない」問題とじつは同じ問題である、J.デリダに由来する超越論的冗談可能性(transcendental nanchattebility)の問題との関連で論じたほうが興味深いだろう。誠実である(=言っていることを言っている通りに思っている)ためにも冗談化が可能な(=言っている通りに思ってはいないことを言うことができる)言語を用いることが避けられない(残念ながら避けられないのではなく、積極的・構成的に避けられない)のだが、それはもちろん逆にいえば、冗談や嘘や演技も誠実な発話の存在を前提にしてそれに依拠・寄生せざるをえないということでもある*

*ここから端的な誠実性(現実に言っていることを言っている通りに思っている性)とは異なる、超越論的な誠実性(言っていることを言っている通りに思っている性が前提になっている性)がどこまでも派生的に発生することになる。可能世界の現実性、過去や未来の現在性、他我、等々、もみな同じことである。

31 本当にそう思ってはいなくてもそう言って意味が通じる「すべての石は冷たい」という文に支えられてはじめて、本当にそう思っていることによってはじめて統一される「私」が成立し、その可能性(=渡り台詞でなさ)に支えられて(冗談化可能な)文の意味というものもはじめて成立するわけである。だから、言う私というものは端的な独在性と反復可能性(冗談可能性)の両面から成り立っていざるをえないことになる*。一般には、デリダが強調するような冗談可能性面の側面のほうが注目されがちだが、むしろ逆に、本質的に冗談可能的(nanchatteble)なあり方をしている言語に依拠することによってはじめて、冗談でも嘘でも演技でもない真面目な連続的自己が打ち立て可能になる、という面こそが遥かに重要で注目に値するだろう。嘘や冗談や演技の際にも有効にはたらくような(=渡り台詞でも意味を持つような)意味に頼るからこそ、他者からも理解可能で他時とも連続可能な、真実の自己同一性が作り出せるのである。なぜそれでもそれは冗談や嘘や演技でないといえるのかといえば、それしかない(=そこで終わりですべてはそこから始まっている)からである。ただそれゆえに、もはや嘘や冗談や演技ではありえないのだ。もはや嘘や冗談や演技ではありえない繋がった一つの「言わんとする」ことに支えられて持続的自己が初めて成り立ちうることは、過去向きでいえば(たとえ客観的には偽であっても)それを本当のことと信じて生きる以外には生きるすべがないような、それしかない究極的な記憶に支えられて持続的自己が初めて成り立ちうるのと同じことである。こうした種類の誠実性は、もちろん道徳的に不可欠なのではなく、構成的に(=それがすべてを初めて成り立たせるという意味で)不可欠なのである。これが新しい「意識の一性」「一なる意識」である。そして、その一性に支えられてはじめて、言語的意味も成り立つ。意識は言語的意味の外在性に支えられて纏まるが、言語的意味は心の内在的な繋がりに支えられて初めて成り立つからである。その意味において、他の二つの総合とは異なり、「概念における再認の総合」は文字どおりアプリオリ(な総合)であり、われわれにおける「実在」はここから新たに始まることになる。

*嘘も冗談も演技も最終的に誠実にそうせざるをえないと同時に、その誠実性それ自体もまたどこまでも嘘・冗談・演技に類するものでもありうることだ。

32 そして、そのことこそが客観的世界そのものをもはじめて可能ならしめるわけである。

 

すべての認識は、その概念がどれほど不完全で不明瞭であっても、ともあれ概念を必要とする。概念は、その形式からしてつねに普遍的なものであり、それゆえ規則として使われる。物体という概念は多様なものを一つに纏めるが、それは多様なものがこの概念によって思考されるからであり、それゆえこの概念はわれわれが外的な現象を認識するための規則として使われることになる。しかし、概念が直観の規則となりうるのはどういう場合かといえば、その概念が、諸現象が与えられるに際してその諸現象の多様の必然的な再生を表現しており、したがってその再生を意識するに際しての総合的統一を表現してもいる場合だけである。このようにして物体という概念は、われわれの外部にある何かをわれわれが知覚するに際して、延長という表象や、それにともなう不可入性や形態などの表象を、必然的たらしめるわけである。(A106)

 

「この概念はわれわれが外的な現象を認識するための規則として使われている」と言われているが、「この概念は外的な現象というものを作り出すための規則として使われている⇒この概念がはたらくことによって外的な現象というものが作り出される」と考えたほうがよいだろう。外界(客観的世界)とは規則の集合体なのである*。概念が直観の規則となりうるのは、その概念が、直観に与えられたものがもう一度また与えられる仕方をあらかじめ規定しているからであり、いいかえれば、その際にはたらく意識の総合的統一のされ方をあらかじめ規定しているからである。このように物と心は概念によって固く繋げられているわけである。

*規則のパラドックスという問題が提起されたことがあるが、そのような問題は提起不可能であろう。提起者であるソール・クリプキは「規則を正当化する事実は存在しない」ということを驚くべきことのように語っていたが、そのようなものが存在しないのは当然のことであろう。規則が事実に先行するからだ。すべては規則から始まるのであるから、事実はすでに規則であり、物や心ももちろんそうである。

 

33 次に、超越論的統覚が「数的に一つである」ことについて。

 

意識の統一(Einheit)は、直観のあらゆる所与に先立っており、対象のすべての表象がそれとの関係においてはじめて可能となるのであるから、このような意識の統一なしには、われわれの内にいかなる認識も、認識相互のいかなる結びつきも統一も、生じることはない。こうした純粋で根源的で不変の意識を、私は超越論的統覚と名づけたい。(中略)この統覚が数的に一つであること(die numerische Einheit)がすべての概念の根底にアプリオリに存在する。(A107)

 

ここでは要するに、意識が一繋がりであることこそがすべての認識をはじめて可能ならしめるのだ、と言われている。すべての認識を、の代わりに、全世界を、と言ってもよいだろう。この場合の統一(Einheit)とは要するに、一つに(繋げて)纏めることである。そして、それをするのが超越論的統覚だと言われている。諸々の意識の結びつき方の型(規則)こそが外界の認識を、したがって外界そのものを、本質的に成立させる、とも言われている。これらは、私としては何の異論もない。世界とは当然そういうものだろうと、私は思っている。しかしながら、通常このようなことが言われたならば、一方に客観的な世界というもの(それはまだ物自体であるとしても)が、他方には主観的な意識というものがあって、そういう二つのものの関係が語られている、と受け取られるであろう。一方から何やらバラバラなものが与えられ、他方がそれを纏める、というように。両者をそのように対象化・対照化して捉えることができ、だから当然、そのような関係は(個数的に)いくつでも存在しうる、というように受け取られるに違いない*

*実際、私には驚くべきことなのだが、超越論的統覚は人間の数だけ存在している、と考えているカント研究者は多いように見える。

34 しかし、最後に「この統覚が数的に一つであることが(die numerische Einheit dieser Apperzeption)」と言われる際には、少し違うことが言われているだろう。わざわざ「数的」と言われている以上、このEinheitは統一という意味ではないであろうし、個数が一個だと言われているのだから、「統覚」という性質や種類が同じ一つのもので、それが誰にでもあると言われているわけでもないだろう。たしかに、超越論的統覚が存在するためには、相並ぶ他の超越論的統覚が存在しえないことが必要であるはずだ。世界そのものがすべてそこから発しているのでなければならないのだから、それは当然のことだろう。しかし、超越論的統覚というものが持たざるをえないそのような本質的な性質の問題とはまた別に、超越論的統覚というものがそもそもなぜ必要であるのかの理由でもあるのだが、そもそも世界というものが現に持っている――ある意味ではやはり持たざるをえないともいえる――本質的な性質からも、同じことはいえるだろう。与えられた世界は、なぜか事実として、その世界の内部に存在するにすぎないはずの一主体からだけ開かれ、一貫してそいつが体験することに尽きているのだ。それゆえにどうしても、客観的な世界解釈や皆に平等に主観性があるというのっぺりした世界解釈は、そこから作り出されざるをえないのである*

*この点については、たまたま同時に書いた、『現代思想』2024年1月号所収の拙論「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」も、ぜひ参照していただきたいと思う。そこでは「世界は最初から最後まで一主体の体験としてしか存在できないようにできている」という不可避の根源的事実に注目して、「夢」との本質的類似性が論じられているが、世界の本性でもあるこの根源的事実は(解消不可能なので)維持したまま、それでも世界が一見夢的ではなくされている事実の原理の解明こそがすなわちカントの理論哲学であるといえる。

35 ここで見通しをよくするために概略的な図式を提示しておこう。このそいつは二面性をもたざるをえない。第一は、現にそいつからしか世界は開けていない、現実に与えられた世界とはなぜか実のところは終始一貫そいつの経験の連鎖にすぎない、という側面であり、第二は、しかし、そいつ(こいつ)という持続が成り立っている以上、そこにはすでに統一的な客観的世界を巻き込んだ繋がりがすでに成立してしまっている、という側面である。そして、第一の側面は、それだけ取り出すならばもちろん、たとえ第二の面と繋がっていたとしても、その客観的世界における正規の存在者にはなれない。これを、そのままで正規の存在者に仕立て上げてしまうのが、後に「誤謬推理」論において批判されることになる「合理的心理学」、およびそれに類するすべての思考法である。これは批判されねばならない。それこそが超越論哲学のキモである。しかし、超越論哲学とはまさにそこを出発点とする思考法でもあるのだ。だから、カント哲学はその唯一の本質的な敵である合理的心理学と根本前提を共有しているのである。しかし、合理的心理学や次段落で論じる直証説の軽信に反して、すべてがそこから始まっているこいつはそのままではその世界において持続的に実在することはできないのだ。実在するためには概念によって、規則によって、それに頼った記憶によって、時間的かつ意味的に繋がらなければならないからである。合理的心理学の誤りは、本質的には、それがそのままで持続しうると素朴にみなしたことにある。しかし、この誤りは重要な意味を持っている。それは断絶した二種の世界を単純に接合するという誤りだからだ。

36 この点を理解するためには、カントを離れて、人格の同一性という問題をザッハリッヒに考察してみることが役に立つ。人格同一性問題には、大雑把にいって、身体説、記憶説、直証説の三種の見地がありうる。身体説は、身体が同一であれば精神がどのように変化しても(記憶を失い、さらに過激には別の記憶を持っても)同一の人物である、と考える。記憶説は逆に、記憶が繋がっていれば身体がどのように変化しても(他人の身体へその記憶が乗り移っても)同一の人物である、と考える。これに対して、直証説は、それらどちらともまったく無関係に、どの時点においても、これが自分であると直証される(世界でただ一人の)その人物こそが自分であり、その繋がりによって人格同一性は保持される(身体がどれかも記憶がどうかも関係なく)と考える*。カント理論哲学の最深のキモは、少なくとも一見したところそうであるといえる面があるように見える(しかも他の説よりも哲学的により深い意味があるようにも見える)この直証説が本質的に成り立たないことを、極めて大々的な仕方で、しかも成功裡に証明したことにある**

*ちなみにしかも、これは不可謬である。不可謬である理由は、デカルトのコギト・エルゴ・スムが不可謬である理由や、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』で論じた、カスタネダ・シューメイカー的「誤同定不可能性」の場合と同じである。したがって、このことには立派な根拠があることを見失ってはならない。

**実際の「合理的心理学」にはこれ以外に色々な学説が組み込まれているが、哲学的意味があるのはほぼこの直証説的直観に由来するものに尽きる(と見なすべきである)。そして、それは今なおその有意義性を保持している(と見なすべきである)。そして、何よりも、カント自身もその直観を共有しており、その内部から世界を作り出そうとしているだろう。ちなみに、デカルトも同様であると見ることができる。

37 極めて大々的な仕方で、というのは、自己が持続するためにはある型(規則)に従った繫がり方で繋がることが必要不可欠なのではあるが、その繋がり方は法則的連関を持った客観的世界をそれ自体が作り出すような、そういう繋がり方でなければならない、という洞察をそれが内に含んでいるからである。すなわち、世界の開けの原点がその内実を維持しつつ持続しうるためには、客観的世界の存在が必要不可欠なのである。それゆえに客観的世界は存在せざるをえない。だから、自分が持続的に存在していながら客観的世界が存在していないことはできないのだ。逆にいえば、客観的世界が実在していると思えるなら、そう思う自己は持続的に存在している(といえる条件をすでに備えている)ことになる。

38 さらに重要な点は、この一連の議論とあの「風間くんの質問=批判」との繋がりである。〈私〉でなくなっても記憶的にまったく同じ人がまったく同じことを引き継げるから〈私〉はじつは機能しえない、というあの議論*を引き受けて、カントはまさにそのやり方でこの現実世界は作られているのだ、と言っていることになるからである。だから、その意味において、〈私〉は、それがなければ世界が現に開かれることがないにもかかわらず、世界構成的にはいかなる役割も果たさない、ということになるのである。他の原点なるものが構想可能なのも、実は同じ理由に拠るであろう。

*何度も言うが、これは現実の百ターレルと可能的な百ターレルは事象内容的にはまったく同一である(から神の存在論的証明は成り立たない)という議論と本質的に同じことを言っている。

39 他の原点とは他者のことである。他者(他の超越論的統覚)は、カント的には、それがもし存在するなら、ここで論じられているような規則に従った総合作用によって作り上げるほかはないはずだが、それはもちろん不可能なことである。超越論的他我構成といったことはできない。というより意味がない。そんなやり方で作り出してみても、それは物のような世界内の一存在者の存在にすぎないからだ。可能な唯一の方策は、そうしたタテ方向の作業ではなくヨコ方向の作業として、すなわち端的に現に存在しているこの統覚の働きを概念化(可能化)して、まさにその働きそのものを現実的にではなく可能的に為すこととして、様相的にそれを構想することだけであろう。そして、それは可能であらざるをえない。世界構成のプロセスそれ自体がその可能性を前提にしているからである。すなわち、私自身が他者のようになることによって、世界は可能になるのである。そういう意味で、他者の可能性とともに世界は作られたわけである。

40 私として言うべきことはすでに言ったので、以下では、この後の箇所からカントの中心的な主張を表現していると思われる文言を二つ拾って簡単なコメントを加え、終わることにしたい。

 

こうして、自己の同一性の根源的で必然的な意識は同時に、概念に、すなわち規則に従ってなされる、すべての現象の総合の、同様に必然的な統一の意識でもある。その規則は、すべての現象を必然的に再生可能にするだけでなく、……(A108)

 

自己の同一性の意識は、同時に、自己に現れる諸現象がすべて関連づけられて一つに纏まっているという意識でもある、と言われている。世界の側のその統一と自己の側の同一性とは、じつは同じものなのである。その纏める作業は概念(すなわち規則)に従ってなされるが、その概念(規則)が、諸々の現象を型に従って繰り返すものとして捉えることを可能ならしめている。

41 可能な経験一般のアプリオリな条件は同時に経験の諸対象の可能性の条件でもある。さて、私はここで、先に挙げたカテゴリーこそが可能な経験における思考の条件にほかならず、それは空間と時間が同じその可能な経験に対する直観の条件を含むのと同じことである、と主張する。(強調は省略)(A111)

 

経験それ自体を可能ならしめるアプリオリな条件と、経験の対象を可能ならしめるアプリオリな条件は同じものである。それはカテゴリーであるから、カテゴリーこそが経験それ自体を可能ならしめると同時に経験の対象を可能ならしめることになる。少し話を大きくして、経験というかわりに自己といい、対象というかわりに世界といっても同じだろう。自己を成立せしめる条件と世界を成立せしめる条件とは同じである。いいかえれば、自己と世界は同時成立するほかはないのだ。この相即不離の関係は、どちらも時間的に持続するかぎりにおいてのことなので、精確にいうなら、持続的な自己を成立せしめる条件と持続的な世界を成立せしめる条件とは同じである、というべきであろう。

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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