「弘法大師」号はなぜ贈られ、入定信仰とどう結びついたのか?/武内孝善『「弘法大師」の誕生──大師号下賜と入定留身信仰』
「大師は弘法にとられ」と言われるように、大師といえば多くの人が「弘法大師」空海を真っ先に思い浮かべるでしょう。空海に「弘法大師」の諡号が贈られたのが、ちょうど今から1100年前の出来事です。その後、「弘法大師」は歴史上の人物である空海から独立し、スーパーマンのような存在として民衆の間に広まっていきました。
ところが、空海に「弘法大師」号が贈られた経緯についてはあまりよくわかっていませんでした。なぜ大師号がこの年に贈られたのか。「弘法」の名は何に由来するのか。またこの出来事に合わせて、高野山奥院で生前の姿のままでいるという入定伝説が語られますが、この伝説はいつ生まれたのか。これらについて史料に基づき初めて解明したのが『「弘法大師」の誕生――大師号下賜と入定留身信仰』(武内孝善著)です。本書からその一部を紹介したいと思います。
本書は、「弘法大師」号の下賜から1100年という節目の年を記念して編んだものである。全体を二部立てとし、第一部を「空海への大師号の下賜」と名づけ、第二部を「弘法大師の入定留身」とした。
第一部では、大師号の下賜を願って真言宗から出された上奏文と勅許されたときの勅書の分析を通して、大師号が下賜されるまでの経緯を追ってみた。あわせて、「弘法大師」の典拠は空海の著作にもとめられること、上奏と勅許が延喜18年から同21年にかけて行われた要因は、延喜18年3月の『三十帖策子』の天覧にあったことを論じた。
第二部にいう入定留身信仰とは、弘法大師は今も高野山奥院に生身(肉体)をとどめ、56億7千万年ののちに、つぎの仏陀である弥勒菩薩がこの世に現れ出られるまでの無仏中間の間、ずっとわれわれを見守り救済し続けてくださるとの特異な信仰である。
古来、この信仰の契機となったのは、空海への大師号の下賜であったとみなされてきた。空海は、入寂のあと86年目の延喜21年(921)10月27日、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を下賜された。観賢がこの報告のため、勅書を持った勅使とともに高野山に登り、奥院の御廟を開扉して、禅定なさっている大師の尊容を拝謁した。このことが発端となり、順次増広されて、今日、人口に膾炙するような入定留身説に発展した、と。
ところが、この入定留身信仰の成立過程は事実ではなかった。実際はまったく逆の道筋を辿ったことが見えてきた。それはどういうことか。
大師が奥院に生身をとどめているとの入定留身説は、11世紀初めにすでに現われている。そこに、観賢の御廟開扉の話をからめて語られるようになるのは、約80年後の11世紀後半以降であることが判明したからである。そうして、大師の入定留身信仰が完成するのは、意外にも遅く、江戸時代の18世紀中頃であった。
本書のなか、特筆すべきことの一つは、入定留身信仰を語るうえで重要な位置をしめてきた、醍醐天皇のご夢想のなかで空海が詠んだという和歌、
高野山むすふ庵に袖くちて苔の下にそ有明の月
の初出年代を解明できたことである。
ともあれ、入定留身信仰を喧伝して、空海が一番愛した高野山を末永く守ろうとした先徳たちの血のにじむようなご尽瘁を忘れてはならないと思う。それとともに、入定留身信仰の成立過程に、新しい知見をいくつか加えることができたことを多としたい。(「はしがき」より)