なぜこの身このままで仏になれるのか?/松長有慶『訳注 即身成仏義』
密教の極意、この身このままで仏になれる「即身成仏」を理論的に解説した空海の代表作『即身成仏義』。この書を、古代より現代にいたる注釈書・研究書を総検討した上で、やさしい現代語訳と丁寧な用語・出典説明を付した『訳注 即身成仏義』(松長有慶著)は『即身成仏義』の解説書の決定版ともいえる。仏・衆生・環境世界すべてが平等であることから導き出される、密教的世界観を味わってほしい。
三 頌の全般的な解釈
【要旨】
即身成仏という仏教界に従来馴染みの少なかった思想を、一般に認知させるために 八句からなる二頌を特別に創作して、その要点を簡潔に説明する。
先の頌の四句は、最初に六大、四種曼荼羅、三密という即身という語に関する三種のキーワードを提示し、それらに大乗仏教において用いられてきた、体(本体)、相(形相),用(作用)という説明用語を順次に配し、最後の一句は、六大,四曼、三密の相互の一体化した状態を、無碍の語でまとめている。
後の頌の四句は、人間・動植物・環境社会といった相対的な存在が、本体、形相、作用の三点において、仏という絶対的な存在に他ならないことを、成仏という語をもって説明している。
【現代表現】
頌に対し全般的な解釈を行なう。
この二頌八句でもって即身成仏という四字を讃嘆しているのだが、この四字の中に無辺の意味が込められていて、一切の仏法はこの一句の中にことごとく含められていると云ってよい。こうした理由で、それを簡略化した二つの頌を示して、その無辺の徳を顕彰したのである。
この頌は二つに分かれる。最初の一頌は即身の二字を讃嘆し、次の一頌は成仏という二字を讃嘆している。初めの即身を説く頌は、さらに四句に分かれる。最初の一句は体、第二句は相、第三句は用、第四句は無碍を表わす。
後の成仏を説く頌もさらに四句に分かれる。最初の一句は仏と人間などの生類がともに、もともと絶対の智慧を具えて成仏していることを示し、次の一句は心とその働きが無数であることを述べ、第三句はいずれもが円い輪のような完全な智慧を具えていることを説き、最後の句は成仏の理由を明かしたものである。
【読み下し文】
釈して曰く。
此の二頌八句を以って即身成仏の四字を歎ず。即ち是の四字に無辺の義を含ぜり。一切の仏法は此の一句を出でず。故に略して両頌を樹(た)て無辺の徳を顕わす。
頌の文を二に分かつ。初めの一頌は即身の二字を歎じ、次の一頌は成仏の両字を歎ず。
初めの中にまた四あり。初めの一句は体、二には相、三には用、四には無碍なり。
後の頌の中に四あり。初めには法仏の成仏を挙げ、次には無数を表わし、三には輪円を顕わし、後には所由を出す。
【原漢文】
釈曰。
此二頌八句以歎即身成仏四字。即是四字含無辺義。一切仏法不出此一句。故略樹両頌顕無辺徳。
頌文分二。初一頌歎即身二字、次一頌歎成仏両字。
初中又四。初一句体、二相、三用、四無碍。
後頌中有四。初挙法仏成仏、次表無数、三顕輪円、後出所由。
【用語釈】
「一切の仏法は此の一句を出でず」 空海の著作には似た表現がある。
『声字実相義』に「所謂声字実相と者、即ち是れ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり。(中略) 若しは顕、若しは密、或いは内、或いは外、所有の教法、誰か此の門戸に由らざらん」(【定弘】三・三五)。『吽字義』に「且く大日経及び金剛頂経に明かす所,皆此の菩提心為因大悲為根方便為究竟の三句には過ぎず。若し広を摂して略に就き末を摂して本に帰すれば、則ち一切の教義 此の三句に過ぎず」(【定弘】三・七〇)。
「体」 本体のこと。
「相」 外面に現れた姿や形のこと。
「用」 働きのこと。
「法仏」 通常は法身仏の省略形と見るが、【栂尾】はこれを永遠の過去世より成仏している本初仏と解釈している。本書五三頁、用語釈「法然具足薩般若」参照。
「輪円」 輪のように丸く完全なこと。
(【原漢文】の送り仮名・返り点は省略しております。)