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文字の渚 岩切正一郎

歌あれこれ

 下高井戸の店の二階でコーヒーを飲んでいると、店内のスピーカーから奇妙な歌が聞こえてきた。声は山崎ハコのようだ。初めて聞く曲だった。

 今ならgoogle検索などですぐに曲名が出てきて、そこに表示されるYouTubeのサイトへ入ればそのまま歌を聞くこともできる。けれども時は1980年代。そんな便利なものはまだない。

 私は店を出てCDショップへ行った。そこには山崎ハコのCDは売っていなかった。そこから少し行った先の中古レコード店へ入った。山崎ハコのコーナーがあって、何枚かLPは置いてあったものの、それらしい曲の入っているアルバムは無かった。

 この日、自分がどうしてそこまでその曲のことを知りたくなったのか、今では謎である。私はいいことを思いついた。彼女のアルバムを出している会社に問い合わせてみよう。そこで近くの電話ボックスに入った。104に掛けて電話番号を訊いたのだろうか。ボックスに備え付けの職業別電話帳で調べたのだろうか。キャニオン・レコード(現在のポニー・キャニオン)へ電話した。受付の人が出た。

「あ、もしもし、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけれども、あのう、山崎ハコさんの曲のことでなんですけど」

 受付の人は担当部署へつないでくれた。

 電話に出た人は「山崎ハコさんはレーベルを移られました」と言う。

「あ、そうなんですね。あの、どこへ移られたんでしょうか?」

 その人は移籍先を教えてくれたように思うのだけれど、曲のことを知りたいのなら所属音楽事務所に聞いたほうがいいんじゃないですか、と言ってくれたような気もする。

「ありがとうございます」と私は言って、教えてもらった連絡先へ電話した。

 電話に出た人へさっきと同じことを言うと、担当の人へつないでくれた。

 男の人が出た。

「あ、もしもし、すみません。ちょっとお尋ねしたいことがありまして。たぶん山崎ハコさんが歌っている曲じゃないかと思うんですけど喫茶店の有線で掛かっていて、藁人形に釘を打つ、っていうような歌なんですけど、もしご存じだったらタイトルを教えていただけないかと思いまして」

「うーん」。担当者は困った風である。「そう言われても、ちょっと良く分かんないんですよね。歌ってもらえませんかね、どんな曲か? そしたら分かるかも知れないんで」

「え?」と私は驚いた。ここで? 電話ボックスで? すぐ横を人も通っているのに? けれどためらっている暇はない。歌えば曲名が分かるかも知れないのだ。私はさっき聞いて耳に残っているフレーズを電話口へ向かって歌った。「コーンコーン、コーンコーン、釘を打つ、っていうような感じの」

「ああ、それはね「呪い」です。『人間まがい』というアルバムに入っています」

「呪い、っていうんですね。『人間まがい』。いやあ、ありがとうございます。ほんとにどうも、助かりました」

 音楽業界の人は言葉や内容よりも音やメロディーで覚えているのだなあ、と感心した。考えてみれば歌はたいていそうやって覚えているものだ。

 『人間まがい』はずっと入手できずにいた。そのうちにインターネットの時代が始まった。今は絵本専門出版のらんか社の社長で、当時はその前身のセーラー出版にいた高橋啓介氏は、彼がセーラー出版に移る前、神保町にあった出版社・沖積舎の社員だった頃からの友人だが──私はそこで一時期アルバイトをして、社員は高橋くんと、歌人の林あまりさんの二人だった──その高橋くんが、ある日、「呪い」の入ったベストアルバムのCDがネットオークションに出ているよ、と教えてくれた。私はネットオークションのことは分からなかったので、彼に頼んで応札して入手してもらった。そしてやっと「呪い」を聴くことができた。「釘を打つ」と思っていた歌詞は、本当は「釘を刺す」だった。一回聞いただけの記憶のなかではとても暗い歌のイメージだったけれど、寂しさの揺曳ようえいする歌の底にはどことなく明るい軽さも潜んでいて、その寂しい光が全てを包みこみ、怨嗟えんさも浄化されていくように聞こえる、そういう曲だった。

 それで思い出すのは、1983年に中島みゆきが歌った「ファイト!」である。社会の理不尽さのなかで人間らしくあろうとする闘いの渦中にある者へ、ファイト、とエールを送る歌。大学の同級生で、読売新聞記者になり、今は広島テレビの社長をしている飯田政之氏は、ある日ぽつりと、「ファイト!」というところが気の抜けたような調子なのがいいよね、と呟いた。リポビタンDのコマーシャルで「ファイトー! いっぱーつ!」と叫ぶ、あのマッチョな躍動感とはまるで逆の感じ。ここで声高に絶叫してもしょうがないし、とりあえず、ほかに言い方ないから、ファイト、って言っとくけど……握りしめたこぶしはふっとほぐれてしまって、その手は、横に並んで食べているラーメンのどんぶりに添えられているような、そんな感じ。飯田くんは学生オーケストラでヴァイオリンを弾いていたので、きっと音のメッセージ性に敏感だったのだ。言われてみると確かにそのとおりだ、と私は思った。少し引き気味にファイトと言われたほうが、強く叱咤激励されるよりも救われた気になる。うん、頑張ってみるよ、という気持ちになる。飯田くんは就職したばかりでいろいろと辛いこともあったのかも知れない。そんなときには、かすかにおどけたような調子も含んでいる応援のほうが身に染みる。

 そういえば、辛さを乗り越えて生きるぞ、という気にさせてくれる歌「 I Will Survive」 で、グロリア・ゲイナーが発する間投詞hey heyにも似たようなものを感じる。「死んでたまるか」という強い気持ちをガツンとぶつけてくるのかと思ったら、むしろ「でしょ、そういうこと」とゆるみを持たせて呼びかける(I will survive, hey hey.)。そこには、強い気持ちの自分へ、違う調子の合いの手を入れるような、高揚した声を一歩下がったところから囃子はやしで包むような、懐の深さを感じるのである。

 

 ユーミンよりも中島みゆきや山崎ハコのほうが好きだった私は、浅川マキのいくつかの歌も含めて、気に入った曲を口ずさんでいたわけだが、そして、その歌の気分に通じる暗い気持ちの日々を送っていたときには大して気にもとめていなかったのだが、今、とくにそんな気分ではないときに、ふと口をついて出て来るのが、「エレーン」(中島みゆき)ならまだしも、「女なんてものにほんとの心はないとそんなふうに言うようになったあなたが哀しい」(中島みゆき「女なんてものに」)、とか、「わたしの心を奪うために水割り何杯注いでもダメ」(山崎ハコ「水割り」)といった歌を小声で歌い始めて、ふとメビウスの環の上を歩いているような気持ちになることがある。ジョルジュ・ブラッサンスのシャンソン「雑草」を口ずさんでいるのとは違う気持ち。中島みゆきや山崎ハコの歌を歌いながらその世界に浸っている私がいるいっぽうで、環の上をひとつの疑問が並んで歩いている。どうして女性の側からの悲しみやプロテストを自分は歌うのかな、と。

 歌っているのは女性歌手なのだから仕方ないか、と思いつつ、よく考えてみれば、そういう風にふと口ずさむ歌で、発話者は女性、歌っているのは男性歌手、という歌が、私の世代の人たちには多く共有されているというのも事実である。

 グレープ(さだまさし)の「精霊流し」や、南こうせつとかぐや姫の「神田川」は、男性歌手が歌っているけれど、そこで語っているのは、亡くなった恋人を偲ぶ女の人であり、別れた恋人との日々を追想する女の人である。女性の想いを哀切なメロディーにのせて歌っている、この私が、今、「あなた」と呼びかけているのは誰へ向かってなのだろう? いなくなった彼のことを想っている女性の気持ちを自分の心にある思いのようにして歌っているこのワタシ。

 『土佐日記』以来、こまやかな情感を仮名文字で記すときには、男性でも自分を女性に仮託して書くことができるのは、日本の文芸の伝統だし、歌舞伎にも女形があるのだから、そんなに不思議がることではないのだろう。哀しく切ない気持ちになるときには「私」という一人称を女性にして歌うほうがリアルな感じがする、ということなのかも知れない。

 けれども、フランスでシャンソンを歌うときにはそうもいかないようだ。『バラ色の人生』には歌詞が二つある。エディット・ピアフが歌えば、「彼がわたしをその腕に抱くとき」となる歌は、イヴ・モンタンが歌うと、「ぼくが彼女をこの腕に抱くとき」という歌詞になる。歌のなかの「私」と歌っている歌手の性を同じにするようにという配慮が働くらしい(今はどうなのだろう。少なくとも20世紀までは恐らくそうだ)。美輪明宏はどっちのヴァージョンで歌っているのかなと思ってYouTubeで聞いてみたら、ピアフのヴァージョンで歌っていた。

 


 私が中学生から高校生にかけての時代には、演歌の世界でも女心を歌う男の歌手の曲がヒットしていた。少年の目には随分年取ったおじさんに見える人たちが、なんだか古い恋のかたちを女の身になって歌っていて、それを大人の聴衆はなぜか熱心に聴いている。いまひとつ良く分からない、怪しげな世界に見え、それが地方の町の日常と混じり合っている。テレビのなかで、宮史郎とぴんからトリオが歌っている。「私がささげたその人にあなただけよとすがって泣いた」(「女のみち」)。殿さまキングスも歌っている。「あなたのために守り通した女の操」(「なみだの操」)……それはストレートに心から響き出る歌というよりは、とても作り物めいたものに見えた。

 歌番組でそういう歌も聞きながら、クラスの男子は、麻丘めぐみ派、山口百恵派、桜田淳子派、南沙織派などに分かれ(私の学年は、百恵、淳子、森昌子の「花の中三トリオ」と同学年なのだ)、声楽が専門の音楽の先生は小柳ルミ子を激賞し、生徒は吉田拓郎に酔い、井上陽水に衝撃を受けた。私に陽水を教えてくれたのは部活でバスケットボールを一緒にやっていた友達で、彼は庭に増築した自分の部屋を持っていて、そこに置かれたステレオでミッシェル・ポルナレフも聞かせてくれた。その華麗でメランコリックな音色とメロディーに私は魅惑された。私は社宅の、夜には両親が布団を敷けばその寝室に早変わりする居間に置いてあるステレオでT・レックスのグラムロックのレコードを聴き、そして心底好きで聴いていたのはサイモンとガーファンクルだった。解散後にそれぞれのアルバムが出たのを聴いたときに、自分は「平和の流れる街」や「パラノイア・ブルース」を歌うポール・サイモンのほうが好きなのだと分かった。最初に宮崎市の西村楽器店で買ったのは解散前のデュオの箱入りの選集だった。アルバムを買う以前は、ラジオから流れる「明日に架ける橋」や「スカボロー・フェア」、「サウンド・オブ・サイレンス」に心を掴まれていたけれど、レコードで聴いてみると、「ブックエンドのテーマ」や「Old Friends」、そして老人たちの語りを集めた不思議な寂寥感の漂う「老人の会話」を、いいな、と思った。大きなポスターがおまけで付いてきたので、私は材木屋へ行って角材と板を買い、木枠のついた板のカンバスのようなものを作ってそのポスターを貼り、部屋に飾っていた。

 狭い勉強部屋には、ほかにも、ビートルズのポスターや、映画館の倉庫係の人から分けてもらった「明日に向かって撃て」のポスターも置いてあった。ポスターをそういう形にして集めるのが、一時期、私の趣味になっていた。ポスターを板に貼るときには、風呂場で水で濡らして糊で貼る。そうすると乾いたあと紙はピーンと美しく平らになり、じめじめと湿度の高い日が続いても皺が寄ることはない。

 ほかに私はひとりのフォークソング歌手の歌を聴いていたけれど、その趣味に共感してくれる同級生はひとりしかいなかった。私は彼が持っているチッチとサリーの『小さな恋の物語』(みつはしちかこ)のシリーズと私が持っている『スヌーピー』のコレクションを交換して読んでいた。ラジオの組み立てが好きな彼にレコードを貸したら、ホコリがついていたから水で洗っといたよ、と言われたときにはかなり驚いた。良い歌だね、という。私はやまがたすみこの『風に吹かれていこう』を愛聴版にしていたのである。

 


 その頃、大学を出たばかりの若い先生が、国語の教師として中学校に赴任してきた。大学では野球部の選手だったと言っていた。放課後その先生とみんなで野球をしたとき、打席に立った先生の一振りした打球は、それまで見たこともないもの凄いスピードで外野を越えて飛んでいった。それで、大学の野球部というのはとんでもなくレベルが高いのだ、と知ったのである。

 先生はバスケット部の顧問になり、私たちは少し年の離れた兄貴と一緒にいるような気持ちで、指導を受け、お喋りし、笑った。そんな楽しい関係に、ある日、静かにひとつの断層が生まれ、私の心に柵が設けられるときがやってきた。

 吉田拓郎が女子大生を暴行した嫌疑で逮捕されたのだ。そのニュースを話題にして、先生は私たちに言った。「とうとう馬脚をあらわしたな」

 そのとき、兄貴のように思っていた先生のなかにある音楽の好みや人間観は私のとは全然違うのだ、ということが、冷や水をぶっかけられたみたいに、突然意識された。「馬脚」って、じゃあ、拓郎のことをほんとは胡散臭いやつだと思っていたということなんだな。なんだよそれ。やっぱりただの大人か。心は寒々とし、先生は急速に私の世界から遠ざかり、別の世界の人になってしまった。中学生の倫理観は怪物的だ。ひとりの歌手を好きになれば、その人がどんな人でも、自分はそっちに付く、と決心しているのだ。訴えは虚偽だったからなおさらである。

 私は、クラスの多くの生徒がそうしていたように、夜にはラジオのダイヤルを回し、海外のヒットソングを紹介するディスクジョッキーの番組に周波数を合わせ、アメリカの「名前のない馬」や、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」などを聴いていた。

 ソニーのスカイセンサー5500というラジオが発売され、新聞に大きく広告も出た。動物や昆虫がうむをいわさず異性を惹きつけるために出すフェロモンのような、強烈なテクノロジーのフェロモンがその黒くメカニカルなボディーから発散していた。そして中学生には高価だった。サイモンとガーファンクルの箱入りの選集は三千円。私はお年玉と貯金をはたいてそれを冬休みに買ったのだが、ラジオはその五倍ほどの値段がして、とても手が出る代物ではない。憧れながら、現実には英語の勉強のために親が買ってくれたラジカセで、夜、ヒットチャートに入っている歌を聞くためにダイヤルを回すのだ。冬休みが明けると、クラスのひとりの男子がスカイセンサー5500を手に入れていた。彼は市内の大きな医院の息子で、お年玉で買ったのだという。とくに親しかったわけでもなく、そのラジオがどんな性能で、そこからどんな音が出て来るのか聞かせてもらうこともなかった。

 

 宮崎から上京して大学生活を始めた東大駒場キャンパスの生協ではブラッサンスのレコードが売られていた。その過激な歌詞のために国営のラジオ・フランスでは放送禁止になっていた曲もある。フランス科の先生のなかに好きな人がいてその人に勧められて置いていたのだろうか。それとも彼の歌は学生にも人気があったのだろうか。本郷の文学部に進むと、ラブレー研究の二宮敬先生がブラッサンスのファンだった。パリで聞いたコンサートの話をしてくれた。ブラッサンスは舞台に出て来ると、そこに置いてある椅子をポンと蹴飛ばし、倒れたその椅子に片脚を置いて、ギターを弾き、歌っていたという。ピアフの歌を聞きに行ったときには、彼女の横で、そのとき恋人であったらしい若い男が鉄アレイのようなものを上げ下げしていた、と愉快そうに語っていた。

 私はパリのオランピア劇場でアマリア・ロドリゲスのコンサートを聞いたことがある。考えてみると、クラシックではないジャンルで、レコードで聞いてコンサートへ行ったのは、浅川マキ、サイモンとガーファンクル、中島みゆき、山崎ハコ、グレコ、レオ・フェレ、そしてアマリア・ロドリゲスの、この七人の歌手しかいない。

 アマリア・ロドリゲスは、フランス語で聴衆へ語りながらポルトガル語でファドを歌っていた。1980年代、ポルトガルは貧しく、出稼ぎの人たちが大勢パリに来ていた。聴衆のなかには、そのような人もいたに違いない。聴衆のほとんどがポルトガル語を理解する人たちだと分かったとたん、アマリア・ロドリゲスはフランス語で喋るのをやめてポルトガル語で話し始め、何か面白いことを言っているらしく、聴衆は笑ったり、反応したり、フランス語で語るよりも数段レベルアップして、ウケている。私はといえば、コンサートの途中からは何を言っているのかさっぱり分からないまま、いったん話が終わって伴奏が始まり、彼女が歌い始める、その度毎に、ステージの彼女の歌に聴き入るのだった。

 


 今年(2023年)4月に、東京芸術劇場で『Gypsy』を観劇した。実在のストリッパー、ジプシー・ローズ・リーの半生をミュージカル化した、演劇的要素の濃い舞台だった。母親のローズ役は大竹しのぶ。ローズは子供の成功を夢みて奮闘する。テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』のアマンダを彷彿とさせる人物だ。母親の呪縛からなかなか抜けられず、終盤でようやく自立する娘のルイーズを生田絵梨花が演じる。このルイーズがジプシー・ローズ・リーである。劇の終わり近く、ローズは舞台で一人、自分の人生の意味を自問して歌う。そのあと、ルイーズが母娘の関係のいびつさと束縛を母に向かって指摘し、その激突をくぐり抜けて和解したふたりは舞台奥へと消えてゆく。親の夢と欲望に縛られた子ども、という普遍的な親子関係の問題が胸に迫る舞台である。

 劇中の白眉のシーンを観ながら、私の中には、もう随分聞いていなかった山崎ハコの歌が流れているのだった。「そうよジプシーローズ、あたしジプシーローズ」(「ジプシーローズ」)。このジプシーローズのほうは、一世を風靡した福岡生まれの不遇のストリッパーを指しているのだろう。その彼女の芸名はシアトル生まれのストリッパーにあやかってつけたものなのだろう。始まる前、そして休憩中、プログラムを読みながらジプシー・ローズ・リーの名前は眼にしていたのに、ジプシーローズの歌を思い出すことはなかった。それが劇中の心情の高まりのなかで、記憶の水路が不意にひらかれ、かつて聞いていた歌が流れ込み、心のなかを通って行くのだった。

 自分のなかのどこにどうやって歌は記憶されているのだろう。出てくるためにどんなはずみを待っているのだろう。

 

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著者略歴

  1. 岩切 正一郎

    フランス文学研究者・戯曲翻訳家・詩人。著書に『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』(書肆心水)他。詩集に『La Citrondelle』(らんか社)他。書籍化されている戯曲翻訳に、アヌイ『ひばり』、カミュ『カリギュラ』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(いずれもハヤカワ演劇文庫)他。日本を代表する演出家が手がける多くの舞台で戯曲翻訳を担当している。国際基督教大学教授。現在、学長。

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