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戦後を譲りわたす——日本の「モダン・ムーブメント」建築史 岸佑

現在を過去と未来から引き寄せる—— 日本橋髙島屋S.C.

 

出典表記のない写真は筆者による

1.はじめに

子供の頃、大人が「横浜に行こうか」と言うのを聞くと、一緒についていけばデパートのお好み食堂で何か食べられると考えて、ほとんどパブロフの犬さながらによだれが出たのを覚えている。いわんや、「東京に行こうか」と言われたときには、それこそ「東京のデパート」という地上の楽園に行けると考えて、天にも昇る気持ちになったものである。[1]

 幼い頃は親と「まちへ買い物にいく」ことがとても楽しみだった。筆者が生まれ育った仙台の郊外では、「まちへいく」と言えば市内中心部の繁華街へ行くだけでなく、三越、藤崎といったデパートに行くことが含まれていて、何かを買ってもらえるわけではないけども、なぜかワクワクしたものだった。フランス文学者の鹿島茂が、冒頭に引用した『デパートを発明した夫婦』のあとがきにおいて綴っているのは、まさにこの感覚である。デパート(百貨店)という場所は、とても特別な響きがあった。最近だと、こういう感覚は、百貨店ではなくショッピングモール(ららぽーとやイオンモールといった)で感じる人が多いかもしれない。端的に言えば、欲望によってものを買うという資本主義固有のプロセスを体現する場所だ。今回取り上げる、日本橋髙島屋(設計:高橋貞太郎、1933年竣工)も、まさしくそうした欲望と憧れを刺激する建物である。[2]

 日本橋髙島屋は、前回の同潤会青山アパート(1926年竣工)同様に戦前の建物だが、戦後、村野藤吾によってモダニズムの手法で増築工事がなされている。2009年には、百貨店としてはじめて国の重要文化財に指定された。2018年には、すぐ隣に新館(日本橋髙島屋三井ビルディング)が竣工し「日本橋髙島屋S.C.」として増床開業。日本橋エリアの活況を印象づけた。今回は、戦前から現在まで積層する時間を、建築から読み解いてみたい。

日本橋髙島屋外観
日本橋髙島屋外観

2.百貨店という見せ物

 百貨店は19世紀に登場した新しい建物のジャンルである。日本に最初に百貨店が導入されたのは、明治のこと。建築史家の初田亨によれば、百貨店に先駆けて近代的商店のスタイルを確立した店舗、つまり客が土足のまま入店でき、座売りから陳列販売する形式へと転換[3]したのが「勧工場かんこうば 」であった。初田は、『百貨店の誕生』で次のように述べている。

勧工場は、それ自身の中に、新しい時代の都市の建物に受け継がれていくべき要素を確かにもっていた。そして同時に、大正や昭和の時代にはない明治的な古さや、さざえ堂風の建築形式など、江戸的なものを当時の人びとに思い起こさせる要素をもその中にもっていたのは確かである。勧工場の数が少なくなりはじめた明治末期頃、あたかも勧工場と主役を交替するかのように、都市の中に楽しさを演出する場として作られていったのが、呉服店から脱皮し、新しい形式を整えはじめた百貨店である。百貨店はその資本力の大きさによって、勧工場よりもはるかに大きな施設と設備をもち、また独自に各種の催し物を行うなど、人びとを魅了する存在になっていった。[4]


上野公園にあった勧工場
出典:『東京景色写真版』国立国会図書館デジタルコレクション

 百貨店の高級なイメージを演出するのに役立ったのは、建物のデザインである。明治後期になると、東京では三越、大丸、松屋が、江戸時代の雰囲気が残る黒漆喰の土蔵造り[5]の建物を、文明開花の印象強い洋風建築に建て替えていった。


駿河町(現在の日本橋室町)にあった明治初期の三井越後屋呉服店。中央に見える洋風建築は為替バンク三井組(後の三井銀行)。(クリックで拡大)
歌川芳虎筆「東京駿河町三ツ井正写之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)


1908(明治41)年竣工の三越呉服店仮営業所(東京・日本橋)。
出典:建築学会編『明治大正建築写真聚覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)


1910(明治43)年竣工のいとう呉服店(名古屋・栄町)。いとう呉服店は松坂屋の前身。
出典:建築学会編『明治大正建築写真聚覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)


1910(明治43)年竣工の白木屋呉服店(東京・日本橋)。白木屋呉服店は後に東急百貨店により買収。
出典:建築学会編『明治大正建築写真聚覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)


1914(大正3)年竣工の三越呉服店(東京・日本橋)。(クリックで拡大)
出典: Wikimedia Commons / Public Domain

 その後、大正から昭和初期にかけてこれらの百貨店の多くは改修され、当時流行っていたアール・デコのスタイルで飾られた。アール・デコは、鉱物の結晶を思わせる幾何学的なデザインや、直線的で合理的なデザインが特徴的で、1925年のパリからはじまり、その影響は、建築に限らず、ファッション、家具、アクセサリーなど広範囲におよぶ[6]。さらに、この時期の百貨店には、近代化された設備も備わりはじめていた。特に珍しかったのは冷房である。温度を下げるための設備は技術的に難しく、昭和初期には百貨店のほかには銀行やオフィスビルにしか冷房がなかった。初田はこう述べている。

冷房設備は、大衆にとっては夢のまた夢の遠い存在であった。冷房設備は、エレベーター、エスカレーターなどともに、百貨店をより楽しく、心をうきうきさせるような場にしたに違いない。(中略)昭和初期の百貨店は、大衆にとっては入場料をとられないで入ることのできる夢の世界だったのである。人びとは百貨店に必要な特定のものを買いに出かけていったのではなく、百貨店の中で必要なものを発見し、夢とともにそれを買ったのである。[7]

 『デパートを発明した夫婦』の冒頭でも、上記の引用と同じような鹿島のデパート愛が語られている。曰く、「あの広々とした空間が何にもまして感動的」で「ありったけの贅沢を『無料』で見せてくれる」、「地球に存在するものなら何でも揃っている」ので「見るもの全てが面白く、まるで水族館や遊園地にでもいるような気持ち」になる、「普段はさしたる必要も感じていないのに、急に必要なものを見つけて何かしら買ってきてしまう」[8]——この魅力的な非日常感を演出した仕掛けのは、入口すぐに広がる1階ホールであった。たとえば三越百貨店は1階から6階までの巨大な吹き抜けと大階段があり、「天女(まごころ)」像が据えられた。日本橋髙島屋は2階までの吹き抜けと大理石の柱、そして豪華なシャンデリアに格式の高さを示す格天井ごうてんじょうを設けて、高級感を演出した。日本橋髙島屋は、まさしく夢、憧れ、欲望を演出して見せる場所だった。 

明治後期の百貨店(白木屋呉服店)の内部の様子。(クリックで拡大)
出典:『東京風景』国立国会図書館デジタルコレクション

 

2.日本生命館設計競技と高橋貞太郎

 日本橋髙島屋として親しまれているこの建物は、髙島屋が建てたものではない。大阪で呉服屋を前身として創業した高島屋は、1900年に京橋区西紺屋町で東京店を開店した。その後の移転を経て、南伝馬町にあった東京店も関東大震災で焼失し、新たな百貨店ビルの建設を計画した。そこに保険会社の日本生命が髙島屋へ賃貸する目的で1929年、日本橋に土地を取得。1933年に竣工した建物が日本生命館と名付けられたビル、現在の日本橋髙島屋である。地上8階、地下2階の鉄筋コンクリート造の建物で、全館冷暖房設備を備えていた。1階ホールにはイタリア産大理石が貼られ、豪華なシャンデリアが吊られる華やかな作りだった。1963年に日本生命が転出するまで、日本橋髙島屋の7階と8階には日本生命が入っていたのである。

新築時の日本生命館(日本橋高島屋)。
出典:『大林組五十年記念帖』国立国会図書館デジタルコレクション

 新築時の設計者である高橋貞太郎(1892-1970)について触れておきたい。日本近代建築史に詳しい人なら、川奈ホテル(1936年竣工)などの設計者として、その名を知っているだろう[9]。彼の名前は広く一般に膾炙している訳ではないが、残念なことにフランク・ロイド・ライトの帝国ホテル解体とともに歴史に刻まれている。1923年竣工の帝国ホテルは、ライトの代表作として知られ、関東大震災にも東京大空襲にも耐えたが、地盤沈下と老朽化を理由に1968年に解体されることとなった。当然、建築関係者を中心に猛烈な反対運動が展開される。そして批判の矛先は、解体後に建設される「新本館」(1970年竣工)の設計者にも向けられた。その設計者こそ、この高橋貞太郎だった[10]。奇しくも彼はこの新本館が竣工した年に亡くなっているが、帝国ホテル新本館は、高橋の戦後の代表作と呼べる、すばらしい建物だと思う。

 日本橋髙島屋が帝国ホテルと並んで高橋貞太郎の代表作である理由は、高橋が設計した現存の建物の多くが邸宅、それも豪邸だからだ。訪れる人が限られていて、その価値を知る人が少ない。それに比べて日本橋髙島屋の知名度は、帝国ホテルと同じくらいに抜群だ。

 建物のデザインを決めるにあたり、日本生命は設計競技(コンペ)を開いている。デザイン(当時は様式規定と呼ばれた)には「東洋趣味を基調とする現代建築」を求め、応募総数390案の中から、高橋貞太郎の案が選ばれた。この時期、一部の公共建築のデザイン設計競技で、「東洋趣味」あるいは「日本趣味」が同様に求められていた。例えば同じ年に開かれた、京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)、九段会館などの設計競技でも「日本趣味」のデザインが、翌1931年の東京帝室博物館(現・東京国立博物館本館、1937年竣工)の設計競技でも「日本趣味を基調とする東洋式」のデザインが求められていた[11]


京都市京セラ美術館外観。現在の姿は青木淳・西澤徹夫設計によるリニューアル(2019年竣工)を経たもの。
Tokyo-Good CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

 竣工した日本橋髙島屋の外観は西洋建築の形式を踏襲し、全体的なデザインにはアール・デコが採用されている。設計競技で求められた「東洋趣味」には、細部に日本建築のモチーフを変形して散りばめることで応じた。例えば、建物の軒下には日本建築の垂木のモチーフが用いられている。正面中央玄関にも、幾何学的に簡略化された日本建築のモチーフが散りばめられている。

 日本橋髙島屋は、竣工後から順調に売り上げを伸ばし、1937年には3年後の完成をめざした増築工事が始まった。この増築工事のデザインも高橋が担当していたが、同じ年におきた日中戦争により、地下部分のみが作られて工事は中断され、終戦を待つこととなった。

 

3.高橋貞太郎から村野藤吾へ

 敗戦後、中断されていた増築工事が再開される。この時、設計者として増築部分を手がけたのが、日生劇場新高輪プリンスホテルの設計で知られる建築家の村野藤吾(1891-1984)であった。村野は、1891年に佐賀生まれ、八幡育ち。小倉の工業高校卒業後に八幡製鉄所に勤めるが、1911年から2年にわたる従軍中に学問に興味を持ち、1915年に早稲田大学工学部電気科へ入学、その後に建築学科へ移り、1918年に卒業した。同年、大阪の渡辺節建築事務所へ入所し、歴史主義の建築を学んだ。1929年に独立して村野建築事務所を設立。以後、大阪に拠点を置き、90才を超えても現役で活動した。亡くなる前日まで鉛筆を握っていたというから、文字通り、生涯にわたり建築設計し続けた建築家である[12]

 村野による日本橋髙島屋の最初の増築部分は、1952年に完成する。その後も、1954年、1963年、1965年と増築工事を重ね、現在の姿に至った。高橋と村野の年齢は1歳しか違わないが、戦後の設計者が高橋から村野へ変わった背景には、占領期の厳しい経済状況下で戦前のような贅沢な工事ができないという事情があったようだ。

 最初に増築されたのは、建物南側の部分である。外観のデザインは「日本生命側が会社の品格を落とさないことを要望したのに対し、髙島屋側は明るくモダンな感覚を希望した」[13]。村野は、高橋のデザインを巧みに用いながらガラスブロックを採用して外観をまとめ、この難しい希望に答えた[14]。具体的には、髙島屋が入っていた2階から6階までの外壁にガラスブロックを採用し、日本生命が入っていた7階と8階は高橋のデザインを踏襲した。当初部分とガラスブロックの増築部分は、窓のない曲面の壁でつなげてあり、違和感のない仕上げになっている。のちに村野はこの仕事を振り返って、その苦労をこう述べている。

前の設計者が非常に喜んでくださったことを聞いて、非常に安心しているんです(中略)前のとおりやろうかと思ったが、たいへんな費用がかかる(中略)天下有数の金のかかった設計ですからね。(中略)建物の持主は天下の日本生命、大会社の表現をしなければならない。それで非常に苦しい。百貨店のほうはモダンにやれという……。日本生命じゃむやみにモダンなことをやられたら日本生命の格に関係します。そんなにモダンにできやしません。[15]   

 村野がこの増築でガラスのカーテンウォールではなくブロックを用いたことが、上記で吐露している困難を解決することにつながった。建築評論家の長谷川堯は、村野が「広大なガラス壁の表現を、はっきりと嫌悪していた」ため「板ガラスに代わって、採光を考慮しながらも透明性を避け」ることのできるガラスブロックを好んだ、と指摘する[16]

大きなプレート・ガラスの透明な不在感が無制限に拡大していくような視覚現象に対して、設計者として警戒を怠らなかったにもかかわらず、ガラスのもつ透光性、特にガラス・ブロックのもつ〈透光不透視性〉は最初期のデザインから好んで重用していた。ガラス・ブロックという材料は、ガラスでありながらどうにか『欺瞞』を免れた建築材料として、村野が掌中に収めることのできた材料であったのである。[17]

国の重要文化財となった現在から見てみると、例えば文化財保存で当然守るべき原則の一つ、後から付け加えられた部分は明確に区別するということを、村野が行っていたことがわかる。その上で、デザイナーとして増築部分を当初部分と違和感が少なくなるよう当初デザインを巧みに踏襲し、全体を違和感なくまとめるとともに、施主側の要望を満たすという困難な仕事を成し遂げたのである。


日本橋髙島屋南面増築部分。写真左は高橋によるオリジナル部分。曲面のついた無窓外壁およびガラスブロック部分は村野による増築。(クリックで拡大)

 

4.百貨店建築の代表的存在に

2009年に重要文化財指定を受ける前、日本橋髙島屋にも再開発の話があったようだ。最終的に残すか残さないかを判断するのは所有者だが、その判断にはさまざまな要素が影響を与える。近代の建造物をめぐる文化財行政のあり方の変化もそのひとつだ。

日本橋髙島屋のような昭和の建築が文化財として評価されるようになるのは、平成になってからだ。日本橋髙島屋の建築調査を行い、重要文化財指定に大きな役割を担った後藤治は次のように述べる。

私が文化庁に在職中、大正・昭和の近代の建物を積極的に重要文化財に指定するために、指定の基準の改正に携わりました。1975(昭和50)年改正の旧基準では、文化財の対象を「建築物(社寺、城郭、住宅、公共施設等)及びその他の工作物(棟梁、石塔、鳥居等)そして厨子、仏壇」としていて、古い社寺建築で桃山以前くらいまでのものというのが念頭にありました。それを1996(平成8)年にがらっと変えて、「建築物、土木構造物及びその他の工作物で、かつ各時代または類型の典型となるもの」としたのです。土木、橋、ダムなどの対象も明文化して、社寺色を消しました。「各時代または類型の典型」を文言に入れたのは、近代の事例は数が多すぎて、数を絞り込もうとしたためです。[18]

この方針転換を受けて重要文化財指定をうけた昭和の建築第1号は、古代ギリシアの神殿に起源を持つ古典主義の重厚な柱が印象的な明治生命館(設計:岡田信一郎、1934年竣工)だった。明治生命館は、銀行という「類型の典型」つまり代表的作品だと評価されたわけだ。日本橋髙島屋も重要文化財指定を受けたということは、近代の百貨店の代表的作品ということになる。


明治生命館。1997年に国の重要文化財に指定された。
WiiiiCC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

 しかし百貨店と言えば戦前に限っても、日本橋三越本店、伊勢丹新宿本店、大阪の大丸心斎橋店など、他にも著名な建物が挙げられる。日本橋髙島屋がそれらに先立って国の重要文化財指定を受けたのはなぜだったのか。理由はふたつあり、オリジナル部分の残存状況がよかったことと、設計者の代表作であることだった。百貨店は頻繁に増改築されるため、当初部分を残すことがなかなか難しい。日本橋髙島屋は、重要な部分はほぼオリジナルが残っていた点で貴重だった。そのことは、日本橋髙島屋の次のような評価からもわかる。

日本橋界隈という立地の重要性に鑑みて行われた設計図案競技一等の高橋貞太郎案を基本とした当初部と、戦後、高橋の意匠を継承しつつ近代建築の手法を駆使した村野藤吾の増築部とともに優れた意匠を示し価値が高い。両者による意匠的対比が鮮明で、かつ新旧が明瞭に位置付けられながらも継承・統合され、一街区に建つ一体不可分の建築作品として完成度が高く、わが国の百貨店建築を代表するものの一つとして重要である。[19]

 当初部分だけではなく、村野による増築部分も非常に優れていることが評価には含まれている。村野による増築は、日本橋髙島屋の過去と未来を引き寄せたのだ、と言えるだろう。

 

5.おわりに

 建築史では、19世紀半ばから建築デザインの主流が歴史主義からモダニズムへ移行すると教えられる。歴史主義は、文字通り過去のデザインを用いた建物のことで、依拠する過去はギリシャ・ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロックなど多岐にわたる。乱暴な言い方をすれば、私たちが伝統的な「西洋の建築」と聞いて思い浮かべる建物の姿形がそれだ。一方、モダニズムのデザインは積み木を積み上げたような幾何学的な形をしている。抽象的な形に窓が開いている姿を「豆腐に目鼻」に例えたのが誰なのかはわからないものの、言い得て妙だ。このデザインの移行は、しばしば、あるストーリーとセットで語られた。それは「前衛」(アヴァンギャルド)としてのモダニズムが、歴史の最前線において、旧態依然とした過去の建築芸術と対峙し勝利する、というストーリーである。このストーリーの主人公は、「巨匠」(マスター)と呼ばれる建築家たち(ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウス、フランク・ロイド・ライトなど)であり、彼らがヨーロッパ建築の方向を歴史主義からモダニズムへと変えていった[20]。これはヨーロッパに限らず、同時期に西洋建築を受容した日本でも同じストーリーが語られる。日本の場合は、デザインのメインストリームをめぐる建築家の世代間対立として語られることが多い。旧態依然とした歴史主義の建築デザインを重視する年長者と、台頭しつつある新興デザインのモダニズムに強く興味を持つ若者という対立である。

 しかし、このふたつは「対決」していたのではなく輻輳していた。日本橋髙島屋には、その輻輳する過程がよく現れている。アール・デコはこの歴史主義とモダニズムをつなぐデザインだった。華やかな装飾的要素はモダニズムにはない。アール・デコの建築は、歴史主義のデザインを簡略化しながら、幾何学的な造形へ還元していき、モダニズムの登場を予感させるものだった。歴史主義とモダニズム、どちらかの主流派に与してしまえば、この二つを架橋することは難しい。しかし、日本橋髙島屋の増築を担当した村野藤吾という建築家は、この二つを架橋した「少数派」であった[21]。日本橋髙島屋は、モダン・ムーブメントが抱える多様性を示す良例なのである。

 村野が半世紀以上前に直面した課題は、現在多くの建物が抱えている課題でもある。過去を過去のまま保存するのでも、未来のために跡形もなく作り替えてしまうのでもなく、現在から過去と未来を引き寄せること。「現在主義者プレゼンチスト[22]と名乗った村野藤吾から学ぶべきことは今なお多くある。

 

参考文献

『思想地図β  vol.1』コンテクチュアズ、2011年

バーバラ・佐藤編『日常生活の誕生』柏書房、2007年

初田亨『百貨店の誕生』ちくま学芸文庫、1999年

五十嵐太郎・菅野裕子『装飾をひもとく』青幻舎、2021年

鹿島茂『デパートを発明した夫婦』講談社現代新書、1991年

 

 

 註

[1] 鹿島茂『デパートを発明した夫婦』講談社現代新書、1991年、233頁。

[2] 建物については、次の動画も参照。 https://www.youtube.com/watch?v=DX8UGWT187E

[3] 客が店の人に商品を奥から持ってきてもらう江戸時代以来の方式を「座売り」といい、客が自分で商品を手に取る陳列販売は明治以降に欧米の影響で日本に入り、定着した。

[4] 初田亨『百貨店の誕生』ちくま学芸文庫、1999年、74頁。

[5] 都内近郊では埼玉県川越市に黒漆喰の土蔵造りの街並みがある。

[6]  アール・デコ|現代美術用語ver.2.0. (2022年3月22日アクセス) 

[7] 初田亨『百貨店の誕生』ちくま学芸文庫、1999年、253頁。

[8] 鹿島茂『デパートを発明した夫婦』講談社現代新書、1991年、7-9頁。

[9] 砂本文彦「建築家として進むべき道を模索

[10] 2021年11月に帝国ホテルは、東京本館の建て替えを発表した。竣工は2036年を予定している。デザインアーキテクトには田根剛(ATTA)が起用される。田根によれば、新本館のイメージパースはフランク・ロイド・ライトを継承したものだという。「帝国ホテル東京新本館建て替え、設計は田根剛に決定。」 (2022年3月8日アクセス)

[11] 戦後になると、これらの建築はいわゆる「帝冠式」と呼ばれるようになる。

[12] 村野については、すでに数多くの研究蓄積がある。代表的なものとして、鹿島出版会から出ている800頁を超える大部の著作(『村野藤吾著作集』、長谷川堯『村野藤吾の建築 昭和・戦前』)と、国書刊行会から継続刊行されている、京都工芸繊維大学美術工芸資料館所蔵の村野藤吾資料に関する研究成果がある。

[13] 『髙島屋東京店建造物歴史調査報告書』株式会社髙島屋、2010年12月、34頁。

[14] 『村野藤吾のリノベーション』国書刊行会、2021年、60頁。

[15] 「建築美を探る八章」『国際建築』1955年4月号、22頁。

[16] 長谷川堯「外壁デザインの多彩な手法」『村野藤吾のデザイン・エッセンス3』建築資料研究社、2000年、8-10頁。

[17] 同上、10頁。

[18] 後藤治「日本橋髙島屋 重要文化財への道程」(2022年3月8日アクセス)強調は筆者による。

[19] 『髙島屋東京店建造物歴史調査報告書』株式会社髙島屋、2010年12月、3頁。

[20] ややこしいのだが、これをモダン・ムーブメントと呼ぶこともある。例えば、Adam Sharr, Modern Architecture (Very Short Introduction), New York: Oxford University Press, 2018.を参照。

[21] 長谷川堯「はじめに」『村野藤吾の建築 昭和・戦前』鹿島出版会、2011年、6-12頁。

[22] 村野藤吾「様式の上にあれ!」『村野藤吾全著作集』鹿島出版会、2008年、12頁。

 

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著者略歴

  1. 岸 佑

    1980年、仙台市生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
    現在、東洋大学、青山学院大学などで非常勤講師を務める。専門は、日本近現代史、日本近現代建築思想。
    主な論文に「モダニティのなかの『日本的なもの』:建築学者岸田日出刀のモダニズム」『アジア文化研究 別冊20号』(国際基督教大学アジア文化研究所、2015年)など。共著に、矢内賢二編『明治、このフシギな時代3』(新典社、2018年)、高澤紀恵・山﨑鯛介編『建築家ヴォーリズの「夢」』(勉誠出版、2019年)、訳書にマーク・ウィグリー著坂牛卓他訳『白い壁、デザイナードレス』(鹿島出版会、2021年)などがある。

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