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精進料理のこころ 吉村昇洋

第7回 仏道修行として食べる

 

食べる仏道

 

 これまで、『典座教訓(てんぞきょうくん)』を用いながら、食事を作る際の心得について述べてきたが、ここからは同じく道元禅師の『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』を軸に〝食べる際の心得〞について取り上げていきたい。実際、料理を作る人よりも食べる人の方が圧倒的に多いことを思えば、いついかなる時も自己を徹底的に見つめる禅仏教の立場としては、掘り下げるべきテーマだと言える。

 さて、この食べるという行為。永平寺に上山したての修行僧達にとって、最も苦しめられるのが、この〝食べる〞ことである。苦しさの要素はいくつもあるが、中でも大変なのが食事の作法。一般的な食事マナーと異なり、応量器と呼ばれる漆塗りの六つの重ね器を用いた特殊な食事作法は、あまりにも複雑で簡単には覚えきれるものではなく、慣れないうちは食べること自体がストレスとなる。食事を行う坐禅堂のルール、坐禅をしながらの食事、応量器の配置の仕方、給仕を受ける際の所作、器や箸の上げ下ろしの仕方など、一挙手一投足全てが決められており、一つでも間違うと古参の修行僧から叱責されるので、極めて窮屈なのだ。

 実は、この非常に複雑な食事作法は、曹洞宗の開祖道元禅師の時代から現在に至るまで、多少の改変はあったものの、ほとんど変わることなく実践されている。というのも、道元禅師自身が、料理を作ることも食べることも大切な仏道修行であると日本で初めて位置づけ、ことさら食べ方に関して『赴粥飯法』に詳細を記したことで、後世の修行僧はそのガイドラインに沿って行じていけばよい形になっているからである。

 そして、その『赴粥飯法』の冒頭には、食べる側の心構えとして、「もし能(よ)く食に於いて等なれば、諸法もまた等なり。諸法等なれば、食に於いてもまた等なり(もし、食事が等(さとり)としてきちんと行じられるならば、諸々の存在・現象も皆覚(さと)りそのものである。諸々の存在・現象が覚りそのものであれば、食事もまた覚りということになる)」と、『維摩経』の一節が引用されている。要するに、大乗仏教では、世界の隅々まで覚りの真実性がそのまま示されていると説くので、自己の食生活の中にも仏法に沿った生き方がきっちり反映されるのだから、食事との向き合い方にも気を配りなさいと諭しているのである。

 

「五観の偈」を通して食事と向き合う

 

 僧堂で食事をする際、いくつか唱える食前の偈文のひとつに「五観の偈」がある。これは、食事が浄人によって配膳し終わり、全ての用意が整った段階で鳴らされる戒尺(拍子木)を合図に唱えられる。この時、次に示す五つの偈頌(仏の教えを説いた詩)を順に唱え、食に対する心構えを確認していく。

「一(ひとつ)には功(こう)の多少を計り、彼(か)の来処(らいしょ)を量る」

【意訳】目の前の食べ物を生産した人々の苦労に思いを馳せ、また自分のもとへ運ばれて来るまでの経過や手間を想像し、無駄なく食すことが大切である。

 自分の目前に並べられた食卓の料理。一度の料理で作る材料の種類は、数種から十数種程度。改めて考えると、それぞれの食材に生産者、運ぶ人、売る人、買う人、料理を作る人、食べる人の存在が関わっていることが分かる。このうち一人でも欠ければ、同じものが食卓に並ぶことはないわけで、毎食、わたしと料理は一期一会の関係にあるのだ。つまり、ちょっとした条件や環境の違いで、目の前の料理は、いま目の前にあるような形では表現されない可能性すらあった奇跡的な料理と呼ぶこともできる。

 であれば、文字通り〝有難い〞この奇跡的な料理と、どのように向き合っていけば良いのだろうか。それは、〝いつもの食事〞として流して食べてしまうことなく、あたかも初めての食材を口にする時のような注意の向け方をし、一期一会の関係性に感謝の念を持って無駄なく全てを味わい尽くすことである。

 毎度の食事に対してさえ、このように意識を傾けることが出来たなら、日常のあらゆることに対して広く気を配ることができるだろう。その一歩が、何気ない毎日の食事の中にあるのだ。

「二(ふたつ)には己(おのれ)が徳行の、全欠を忖(はか)つて供に応ず」

【意訳】このようなありがたい食べ物を受ける資格が自分にあるのかどうか、己の日頃の行いを振り返る必要がある。

 五観の偈の二つ目にして、非常に厳しい問いがあなたに突きつけられる。一言で言えば、「あなたはこの食事を食べるに値する人間ですか?」と、食べる姿勢を問う以前の食べる側の自己の在り様を問われるのだ。

 目の前に料理が運ばれてくると、人は無条件に「食べる側」に立ち、料理は食べられる側に立つ。つまり、知らぬ間に上下関係が結ばれ、一方的に搾取する側に人は立ってしまっているのだ。さらに、一食で食べられる食材のいのちの数は通常複数ある。では、それを食べるいのちの数はいくつかと問われれば、食べる主体は人ひとりである。

 このように、人は他のたくさんのいのちを搾取しなければ、いのちを永らえさせることはできない。この変え難き現実を直視した上で、五観の偈は「これから搾取される食材のいのちに報いるためにも、あなたは日頃からどのような徳のある行いをしているか、よくよく考える必要がある」と諭すのである。

 とはいえ、釈尊の時代には、どうも植物はいのちとしては認識されていなかった節がある。仏教には「不殺生戒」があり、現代的に植物のいのちまで適用すると、人間は誰も生きていくことが出来ない。であれば、不殺生戒も「欲にかられて無駄に他のいのちを奪わない」ぐらいの解釈が現実的であろう。

「三(みつ)には心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは、貪等を宗(しゅう)とす」

【意訳】修行とは、心の汚れを清めることであり、つまりは貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒を払いのけることである。食事場面ではこれらが生じやすいので、しっかりと向き合うことが大切である。

 「貪等」は、善根を害する三つの心の働きである貪欲(とんよく)(貪り)・瞋恚(しんに)(怒り)・愚痴(ぐち)(真実に対する無知)を指し、これらは仏教の世界で「三毒」と呼ばれる。

 「貪欲」は読んで字のごとく「貪りの心」を表す。他人よりも「美味しいものが食べたい」「多く食べたい」「高価なものが食べたい」「形や色がきれいなものが食べたい」など、欲求に対してストレートな心の在り様である。こうした貪りの心が顔をのぞかせた経験は、誰にでもあるだろう。

 次に、「瞋恚」は「怒りの心」を表す。人は空腹になると、イライラしたり、怒りっぽくなったりする。これは、脳科学的に言えば、自律神経の中の「闘争と逃走」を司る交感神経系が優位になっている状態である。そもそも、食事にありつけるのは、闘争に勝ち得た者であることを思えば、了解可能であろう。実際、食事中は交感神経が優位になり、食後はリラクゼーションを司る副交感神経が優位になることで内蔵機能が働き、消化が促進されることが知られている。

 そして最後に「愚痴」。これは嘆く時にこぼす愚痴ではなく、「真実に対する無知」のことを言う。では、食事の場面における真実とは何か? となるが、これは、五観の偈の一つ目と二つ目で示しているような、視点を変えることで見えてくる客観的事実のことを指している。

 こうした三毒が容易に生じる自分の姿を心の片隅に置いた上で、目の前の食事と向き合うことが、修行としての食事なのである。

「四(よつ)には正に良薬を事(こと)とするは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為(た)めなり」

【意訳】肉体を保持するための良い薬と位置づけて、食事を頂く。

 「形枯」は仏教用語ではなく、「痩せ衰える」ことをいい、全体では「痩せ衰えるのを防ぐ良い薬ですよ、食事は」といった意味になる。これは転じて、「人は食べなければ死ぬ」「この食事によって自分は生かされている」というごく当たり前のことをいっている。しかし、どうしてこのような当たり前のことを毎食前に唱えるのだろうか?

 それは、人はこうした当たり前のことほど、意識できないように出来ているからである。それゆえに、毎度の食事前に唱えて思い出すことが必要になる。仏教の根本教理に八正道という八つの正しい修行の在り方があるが、その中に「正念」というものが示されている。これは「正しい記憶」と訳され、心に銘記しておく戻るべきスタンスのことを指す。つまり、この偈文のように、忘れてしまいがちな当たり前のことを事前に唱えることで初心に立ち戻り、仏道修行として食事を頂く姿勢を整えることが大切だというのである。

「五(いつつ)には成道(じょうどう)のための故に、今此(この)食(じき)を受く」

【意訳】お釈迦さまと同じ在り方で、この食事を頂く。

 直訳をすれば「覚りを開くためにこの食事を頂く」となるが、曹洞宗の立場からすると、少し異なった解釈がされる。

 曹洞宗の宗祖道元禅師は、修行は覚りを得るという目的を持って行じるものではなく、修行をしている姿がそのまま、覚りを開かれた釈尊の在り方そのものなのだという修証一等の立場を取る。ここで成道を「お釈迦さまと同じ境地」と捉えると、「仏道修行として」と転じることが出来るので、「お釈迦様のように仏道修行として、この食事を頂く」と解釈されるわけである。では、仏道修行として食事を頂くというのは具体的にどういうことか。

 それは、五観の偈の(一)〜(四)で言っていることを深く認識した上で、のちに触れていく食事作法に則って目の前の料理と向き合うということなのである。

 

各宗派の「五観の偈」

 

 ここまで述べてきた「五観の偈」だが、これは禅宗の専売特許ではない。もともとは中国唐代の南山律宗の祖、道宣(596―667)が『四分律刪繁補闕行事鈔(しぶんりつさんばんほけつぎょうじしょう)』の中で記した観文が始まりとされ、日本にはその道宣の孫弟子にあたる唐招提寺開山の鑑真和上によって伝えられた。曹洞宗に伝わるものは、道元禅師が12世紀初頭の北宋で成立した『禅苑清規』からの引用なので、律宗のものとは出自が異なり、文言も若干異なる。

 現在では、日本仏教の多くの宗派がこの五観の偈を用いているが、それぞれの宗派で文言が異なっているのは、どのテキストをベースにしているかという違いなのである。

 

『春秋』2018年4月号

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著者略歴

  1. 吉村昇洋

    1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺副住職。臨床心理士。相愛大学非常勤講師。曹洞宗大本山永平寺での2年2ヶ月間の修行経験をベースに、禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガについての講演、本や雑誌、新聞にて執筆活動を行う。NHK 総合『ごごナマ』やNHK Eテレ『きょうの料理』の講師として人気を博すほか、地元広島の情報番組RCC『イマなまっ!』にてコメンテーターを務める。また、地方紙『中国新聞』にて宗教コラムの連載「放てば手にみてり」を担当。近著に『禅に学ぶくらしの整え方』(オレンジページ)のほか、『心が疲れたらお粥を食べなさい』『気にしない生き方』(いずれも幻冬舎)、『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)など著書多数。

    曹洞宗八屋山普門寺 http://www.zen-fumonji.com/

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