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精進料理のこころ 吉村昇洋

第6回 典座の職と仏道

 

典座の僧食九拝(そうじききゅうはい)

 

 永平寺などの曹洞宗の修行道場で、上山したての修行僧たちの多くが初めて目の当たりにする「何をしているのだろう?」と感じる儀式がある。その一つが、典座和尚が行う僧食九拝である。

 典座という役職は、禅道場の中で極めて重要視されており、組織内の序列から言っても上位にあたるわけだが、そのような人物が最正装で毎日二回、典座寮にお祀りされている護法韋駄尊天の前で儀式を執り行う。

 そのように聞くと、典座よりも上位の僧侶、例えば住持や道元禅師、はたまた釈尊に向けてのものかと想像するかもしれない。しかし、そうではない。なんと、礼を尽くすのは、先ほどまで自分たちで作っていた料理そのものに対してである。

 『典座教訓』には、「昼食や朝のおかゆの支度が作法の通りに調え終わったなら、それを庫院(くいん)(台所)の前の飯台の上にきちんと置いて、典座は袈裟を身につけ、坐具(ざぐ)を敷き展べて、まず庫院から僧堂の建物に向かって、香を焚いて九回礼拝し、九拝が終わったなら食事を僧堂に運ばせるのである」と、その作法の流れが具体的に記されている。

 九という数字は中国では満数にあたるので、九拝は最高の礼拝法を表すが、修行道場でも毎日行われるのは、この僧食九拝ぐらいのものである。そうしたことからも、修行僧のために作られた食事に対する敬意の深さが伺い知れるわけだが、先ほどまで自分たちが作っていた食事に向かって礼を尽くすということに、少し違和感を持つかもしれない。

 実はここに、禅の糸口があるのだ。この違和感の正体は、〝わたくし〞が作った食事という、ある種の「自分のモノ」感覚へのとらわれである。人は、心のどこかで自分の所有物をどのように扱っても構わないと思い、あらゆる所有物・作成物に同じような感情を抱く。

 例えば、多くの親は自分の子どもを時として所有物として扱い、自分の思い通りにコントロールしようとする。しかし、実の子といえども自己とは異なる存在であるという当たり前の現実を観ずれば、対象となる子どもから〝わたくし〞を差し引いて、一人の人間として扱うことができる。

 禅とはつまり、この〝わたくし〞フィルターを通したものの見方を手放す実践である。自己省察してみれば、何らかの事象に接する時、事実や出来事はただそのままに存在しているだけにもかかわらず、自分の思いや感情、意志に知らぬ間に引っ張られ、信じたいことだけを真実として認識し、事実をねじ曲げて受け止めてしまっている。

 典座が作った食事もまた然りだ。その食事は、これから修行僧のいのちの糧として供養される大事な存在である。自分が作ったものへ礼を尽くすことに違和感を持つのは、〝わたくし〞感覚にとらわれている証拠と言える。

 また、南宋の禅道場で僧食九拝を体験した道元禅師は、「日本に仏法が伝わって以来、作法に則って作ることに関して誰も記していないし、教えてもくれなかった。ましてや修行僧の食べる食事に対して、典座が香を焚き、心を込めて九拝の礼をして送り出すというような丁重な礼法は、未だ夢にも見ることの出来ないようなものであった」と『典座教訓』に記している。これは、日本仏教において、食事が仏道として実践されていなかったことの証左であり、食を通して自己を見つめるようになるには道元禅師の帰朝を待たなければならなかった。

 

仏道と師匠を求めるこころ

 

 比叡山を下りていた道元禅師は、南宋からの帰朝後、三年ほどは建仁寺に留まり住んでいた。しかし、当時の建仁寺では、典座という役職名はあっても、その中身は形骸化しており、典座が仏道修行として調理に取り組むというようなことは見られなかった。その現状を大いに嘆き、『典座教訓』を記して、食と仏道の在り方を説いている。

 その中で、仏道修行の根本的な考え方として、典座職を例に次のようなことを言っている。

 「典座というものは、仏道修行を目指す真実の心は起こしていなくても、もし悟りを開いた師匠に出会い、教えを受けることができたならば、典座の役を立派に果たすことができるし、また、たとえ優れた師匠に出会うことができなくとも、もしも深く心に仏道を求める志を起こしていたならば、必ずや典座のつとめを仏道として成し遂げることができるということ、よく知っておくべきである」と。

 要するに、典座のつとめをはじめ、あらゆることを仏道修行として行じていくためには、優れた指導者に教えを乞うか、自ら真の道心を起こすかのどちらかがなければならないということを言っている。

 ここで誤解をしてはいけないのが、ただ単に優れた指導者に出会うことや、道心を起こすことだけでは十分ではないということだ。あくまでも、理論を頭で理解するだけでなく、実際に実践に移すことのできる状況がなければ成立しない事柄なのである。

 その一方で、この言葉は我々へのエールとして読むこともできる。どのような仕事、役割の領域であっても、優れた指導者や導き手に出会うというのは、ご縁によるところが大きく、自分の思い通りにはいかないのが実際のところである。指導方針の違いで合う合わないもあるだろうし、人間性の相性というものもある。だが、そんな場合でも、投げやりにならず、しっかりと学び続けようと道心を持つことで、いつしか道は開けると道元禅師は言っているのである。

 というのも、これは道元禅師自身の経験から出た言葉なのだ。1223年に南宋に到着、その後、さまざまな寺院を巡り、本当の師と仰げる人物を探し続けた。しかし、形式化し形骸化した修行道場の行事や宗義、貴族化した南宋禅宗界の実状に大きな失望を感じ、一度は諦めて日本に帰ることも考えたようである。

 それでも、踏ん張って探し続けた結果、1225年、天童山(てんどうざん)景徳(けいとく)寺の新しい住持となった如浄禅師との運命的な出会いがあり、ようやく正師を見つけることが叶った。信念を持って求め続けたことが実を結んだのである。

 

二人の老典座との出会い

 

 道元禅師は、留学先の南宋で出会った二人の老典座のことを『典座教訓』に記している。その出会いは、のちの道元禅師の仏道を方向付けるほどの大きなインパクトを与え、食と向き合う姿勢が仏道修行全体の在り方を問うものとなっている。

 一人目の老典座は、道元禅師が南宋に渡ったものの寧波(ニンポー)の港で船内待機を余儀なくされていた折、そこに桑の実を買いに来た六一歳の阿育王山(あいくおうざん)広利(こうり)寺の典座。若き道元禅師は、当時仏教文化の最先端を誇った本場南宋の僧侶と話がしたいと招待し、お茶でもてなした。聞けば明日は特別な説法のある日なので、修行僧たちに水団(すいとん)を食べさせるべく、20キロもの道をはるばる歩いて食材を買いにきたという。目的のものも買えたので、明日の準備のためにすぐに戻らないといけないとのこと。しかし、もう少し話をしたい道元禅師は、「そんなことは、他の人に任せたら良いではないですか。坐禅をしたり先人の残した仏教書を読んだりせずに、なぜ自ら煩わしい典座職に励むのですか?」と問う。すると、「外国から来られた方よ、あなたは弁道修行や文字というものが分かっていないようだ」とピシャリ。何も仏の道は仏教書(文字)の中だけにあるのではなく、全ての存在・現象は、仏(真実=世の理(ことわり))の在り様をいつも包み隠さずまるごと表現しているということを、このとき老典座は言わんとしていた。

 つまり、典座の職の中にも、ちゃんと〝仏〞は存在していて、それと向き合って実践すること(弁道修行)が大切であるということを意味しているのだが、このときの道元禅師はそれを理解することができなかった。というのも、この頃の道元禅師は、坐禅に励み、仏教書を読むことこそが弁道修行だと思い込んでいたからである。

 もう一人は、天童山景徳寺での修行中に出会った六八歳の用(ゆう)という名の老典座。汗水をたらし老体に鞭を打って炎天下で海藻を干している老僧の姿を見て、「そんなお歳なのに、なぜ下の者にやらせないのですか?」と気遣うと、「他の人がやったのでは、私の修行にはならない。今やらなくて、いつだったら干して良いというのか」と、これまた手厳しく返されてしまう。

 このエピソードに象徴されるように、自己の道は自己が主体的になって歩むことが大切であり、これを禅語では「主人公」という。とはいっても、我を張って突き進むのとは真逆で、何事も自己の一大事としてしっかりと〝今この瞬間〞に向き合う姿勢、自己の内側を見つめる姿勢が求められる。それを徹底することがまさに仏道修行であり、これはそのまま他者への慈悲心へとつながっていく。

 これらの老典座との出会いを経て、道元禅師はそれまで〝雑用〞もしくは〝優先順位の低い修行〞とばかり思っていた典座の職について、受け止め方が変わったことをきっかけに、仏道修行そのものについても180度考えを改めることとなった。調理も含めて行住坐臥全ての行いは、自分次第で仏道修行として行じることができるということに気がついたのである。

 

『春秋』2018年2・3月号

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著者略歴

  1. 吉村昇洋

    1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺副住職。臨床心理士。相愛大学非常勤講師。曹洞宗大本山永平寺での2年2ヶ月間の修行経験をベースに、禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガについての講演、本や雑誌、新聞にて執筆活動を行う。NHK 総合『ごごナマ』やNHK Eテレ『きょうの料理』の講師として人気を博すほか、地元広島の情報番組RCC『イマなまっ!』にてコメンテーターを務める。また、地方紙『中国新聞』にて宗教コラムの連載「放てば手にみてり」を担当。近著に『禅に学ぶくらしの整え方』(オレンジページ)のほか、『心が疲れたらお粥を食べなさい』『気にしない生き方』(いずれも幻冬舎)、『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)など著書多数。

    曹洞宗八屋山普門寺 http://www.zen-fumonji.com/

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