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精進料理のこころ 吉村昇洋

第4回 調理前・調理中・調理後の心構え

 

調理を始める前にやるべきこと

 

 永平寺の調理場である大庫院に配属され、初期に教わるのが、調理を行う前に環境を綺麗に整えることだった。これは、自分が調理をしやすいように、まず場を整えることを指すが、実はこれがかなり重要で、最終的には全体の手際に響いてくる。例えば、自分の家であれば使い慣れた条件で調理ができるが、慣れない場所で調理をするときは、何がどこに、どれだけあるかも分からない状態でスタートしなければならず、その分無駄な時間を使うこととなる。

 そこで、まずやるべきことは、まな板、鍋、フライパン、コンロの数、食器などの調理器具の確認である。その次に、作業スペースの確保。目の前がモノであふれかえっているようでは、当然調理はしにくい。また、シンクに移した使用済み器具は、即座に洗って片付けることを徹底することで、気持ちよく調理に集中することができる。シンク内にモノが溜まると、洗いの工程でもたついてしまったり、食器や器具が傷ついてしまったりと、デメリットしか存在せず、溜めてしまうような人の傾向として、手際に関してあまりスムーズではない印象を受ける。

 そこで、あまりそうとは認識されないが、シンクもひとつの〝調理器具〞と捉えてみてはいかがだろう。調理器具であるならば、鍋や包丁などと同様に、シンクもまた使用時の清潔さが求められる。それがクリアされていれば、お米を研ぐときに、シンクにこぼれ落ちたお米を汚いといって流してしまうこともなく、大切な食材が無駄になることはない。私が修行していた頃の永平寺では、その点も徹底され、シンクは他の調理器具と同様に清潔に保たれていた。

 次に、作業スペースが確保できたなら、今度はまな板と包丁をセットする。両面を洗ったまな板を、水気を絞ったタオルやキッチンペーパーの上に置いて、動きにくくするのだ。そして、乾いたタオルをまな板の上方に少し隙間を空けて畳み、その上に包丁を置けばセット完了。簡易的にでも自分の使いやすい様式にするだけで、脳内が整理されて、結果的に作業効率の向上につながる。

 さらに、これから作る料理に応じて、必要な調理器具や食材・調味料を用意し、調理に入るわけだが、わたしの場合、作業効率を考えて、鍋を火にかけながら野菜を切り、洗い物もするという、マルチタスク処理を行うのが常である。ただこれは、段取りが分かっていて、「この工程には何分かかるな」といった予測が立つからこそ可能なことだ。

 では、段取り立てが難しい人はどうすれば良いか。その答えは、食材をはじめに全て切ってしまうことである。そうすることで、目の前の作業スペースやシンクの中が、生ゴミや食品トレー、包装ビニールでごった返すのを防ぎつつ、その後の工程の見通しが立ちやすくなる。さらに、切った食材は、料理を盛り付ける大きめのお皿にでも入れておけば、洗い物も少量で済み、細々したお皿に小分けするよりも、圧倒的に時間短縮になる。もっと言えば、使用する前の鍋やフライパンも、使い方次第では食材を置くスペースになるわけで、これまた洗い物を減らすことができる。

 ちなみに、この洗い物を減らすことは、禅の実践としての調理という観点からもおろそかにできない。曹洞宗大本山永平寺の龍門と呼ばれる参道入り口に、熊沢泰禅禅師筆による「杓底一残水(しゃくていのいちざんすい)、汲流千億人(ながれをくむせんおくにん)」と書かれた門柱がある。これは、「一杓の水でも元の川へ流れることによって、見知らぬ多くの人が恩恵にあずかる」という意味で、道元禅師が、毎朝仏前に供える水を門前の谷川から汲むとき、柄杓(ひしゃく)の底に残ったわずかな水でも捨てず、つつましやかにもとの谷川に戻されたという、道元禅師の禅風が窺い知れる逸話が元となる。それを、後世の人がこのように句として詠んだわけだが、水の一滴さえも無駄にしないという在り方は、永平寺での生活の中で今なお雲水(うんすい)(修行僧)に徹底されている。

 ここまで書いてきたことは、「目の前の作業スペースをいかに広く維持しながら調理ができるか」という視点を持つことである。これを〝難しそうだな〞と感じる人もあるだろうが、こればかりは訓練である。頭を回転させて、日々の経験を積むしかないが、雲水達がそうであるように、やっていくうちに誰でもできるようになるので心配の必要はない。何にせよ、心の作業スペースも広く持つことが肝要なのである。

 

調理中、何を思うか

 

 次に、調理中の心構えについてであるが、『禅苑清規』に「食事を作るには、必ず仏道を求めるそのこころを働かせて、季節に従って、春夏秋冬の折々の材料を用い、食事に変化を加え、修行僧達が気持ちよく食べられ、身も心も安楽になるようにこころがけなければならない」とある。

 仏道修行をベースにしながら、旬の食材を使って修行僧達におもてなしのこころで尽くすということの重要性が語られているわけだが、仏道実践として自己に意識を向けながらも、周りの修行僧に尽くすというのは、はたしてどういうことか?

 これを理解するには、仏教の根本的な考え方を知る必要がある。仏教には、「全ての現象は常に変化し続け(諸行無常)、どれとして一つの実体というものは存在せず、他のものとの関係性の中でしか存在しえない(諸法無我)」という世界の捉え方があり、例えば〝わたし〞という存在をひとつとっても、固有の実体としては存在しないという。そう聞くと「いやいや、〝わたし〞という他の誰とも異なる独立した存在は、確かにここにいるじゃないか‼」と思われるかも知れないが、この〝わたし〞を〝わたし〞たらしめているものは、実は〝わたし〞という個体ではない。

 ではここでひとつ、思考実験をしてみたい。言葉の成り立ちから捉えると理解しやすいのだが、何もない空間にあなたひとりしか存在しないとする。他には何も存在しない。こうした状況から、〝わたし〞という言葉は果たして生まれるだろうか?

 そう、もうお分かりの通り、〝わたし〞という言葉はおろか、概念すら生じはしない。なぜなら、この状況では〝わたし〞と主張する必要性がないからだ。つまり、他者の存在があって初めて〝わたし〞と主張する必要性が生まれるのである。となれば、この〝わたし〞を規定しているのは、他者の存在であり、自他一如(じたいちにょ)、つまり、自己と他者は同じものであるといっても過言ではなくなる。

 ここまで理解できれば、なぜ自己を見つめることと他者である修行僧達に尽くすことが同時に行われるのかお分かりになるだろう。他者に尽くすことは即ち、自己に尽くすことと同じであり、この感覚をもって調理を行うことが、仏道を求めるこころを働かせるということに他ならない。

 また、季節に従って、春夏秋冬の折々の材料を用い、食事に変化を加える。自分発信の心遣いで修行僧達に喜んでもらうことを、自己の喜びにする。この好循環を生じさせるこころの構えこそが、仏教的な在り様を象徴している。しかし、決して美食に走るというわけではない。ここで示されるのは、典座は調理を軽んじたり、面倒くさいと感じたりする自己のこころの弱さと向き合い、任にあたってはそれらの葛藤を乗り越えてベストを尽くすべしということなのである。

 

調理をスムーズにする片付け法

 

 ところで、台所の中での片付けは、シンク絡みだけではない。洗った器具を棚なり引き出しなりに収めなくてはならない。これに関して『典座教訓』では「高いところに置くべきものは高いところに置き、低いところに置くべきは低いところに置きなさい。高所は高平に、低所は低平に」とある。

 きれいに並んだ調理器具というものは、目にも美しく映るものだ。洋風のレストランで壁に整然と吊るされた銅製のフライパンを見ると、利用のしやすさは想像に難くないだろうし、空間デザインとしても美しい。

 実際、永平寺を始めとする曹洞宗の修行道場では、この『典座教訓』に則り、大量調理につかう巨大な器物から、家庭でも使う小物まで、決まった場所に決まった置き方で整然と並んでいる。それは、一センチたりともズレることなく、置かれる向きも全て決まっているほどで、上山したての修行僧はまずこの徹底ぶりに「ここまでするものなのか!」と驚きを隠し切れない。しかし、そのやり方を実践するうちに、非常に機能的且つ合理的な収納法であることが分かってくる。無駄が極限まで削ぎ落とされた環境に合わせるように、知らぬ間に無駄のない動きを自分自身がとるようになるのだ。これこそが、機能美の妙というものなのだろう。

 ところが、禅の実践では、その先の〝気づき〞を大切にする。それは、あるべき場所にモノを置き、それぞれ安定させることは、そのまま自己の心身を安定させることにつながっているということでもある。高所には比較的軽い小物を、低所には重く大きな鍋類を置くように、それぞれ安定させて置くことのできる場所というものがある。それと同じように、私たちは一人の人間でありながら、その場その場で与えられる異なる役割というものが存在している。重い鍋のような役割の時もあれば、軽い小物のような役割もあるだろう。その瞬間その瞬間に、その役割に相応しい自己の能力や持ち味を十分に発揮することが、自己の調和の保たれた姿であり、安定した生き方の実践と言えるのだ。

 仏教ではこの気づきの内容を「住法位(じゅうほうい)」と呼ぶが、かつて日本の仏教界では典座の任は下働きの仕事だとばかり捉えられてきた。しかし、道元禅師の登場によって「典座職を全うすることがそのまま仏道修行となる」という思想の一大転換が起き、その背景には、このあたりの考え方が作用していると理解されるのである。

 

『春秋』2017年12月号

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著者略歴

  1. 吉村昇洋

    1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺副住職。臨床心理士。相愛大学非常勤講師。曹洞宗大本山永平寺での2年2ヶ月間の修行経験をベースに、禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガについての講演、本や雑誌、新聞にて執筆活動を行う。NHK 総合『ごごナマ』やNHK Eテレ『きょうの料理』の講師として人気を博すほか、地元広島の情報番組RCC『イマなまっ!』にてコメンテーターを務める。また、地方紙『中国新聞』にて宗教コラムの連載「放てば手にみてり」を担当。近著に『禅に学ぶくらしの整え方』(オレンジページ)のほか、『心が疲れたらお粥を食べなさい』『気にしない生き方』(いずれも幻冬舎)、『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)など著書多数。

    曹洞宗八屋山普門寺 http://www.zen-fumonji.com/

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