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精進料理のこころ 吉村昇洋

第3回 絆をもって道心となす

 

自ら行じる

 

 辛い、しんどい、面倒くさいことは、自分でやらないといけないと思いながらも、他の人にやってもらいたい。それを実際に行動に移したことはなくとも、そうした甘え心が頭をよぎったことは誰にでもある。

 そんな時、道元禅師は、古来のすぐれた禅僧たちが、軒並み典座職を経験していることを例に挙げながら、「典座は絆(ばん)をもって道心となす」と修行者を励ましている。絆とは、〝タスキ〞のこと。つまり、「典座は自らタスキをかけて職責を全うすることが大切である」ということである。しかし、当時の修行僧達も、今の我々同様、頭では分かっていても一歩前に足を出すことが出来ないこともあっただろう。禅には「行解相応(ぎょうげそうおう)」という言葉があり、頭で考えていることと行動が一致することを意味するが、まさにこのことを指しているのである。

 

漉し袋の実践

 

 その一つの例として、道元禅師は米を研ぐ際には、漉(こ)し袋を使いなさいと諭している。「米一粒も無駄にしてはいけない」という教えを実践するにあたって、具体的な行動として漉し袋に研いだ後の水を流し、米を流さないようにするということだ。

 しかし、我々の生活を振り返ってみると、米を研ぐときに飛び出た米をそのまま流してしまってはいまいか? 「シンクに直接触れた物は汚いじゃないか!」と反発がありそうだが、それはシンクを不衛生にしているからこその発言でもある。わたしが修行した永平寺では、シンクも衛生的に保つことが徹底され、調理を始める前に、まずシンクをピカピカに掃除して衛生状態を確保する。そうすれば、何かの拍子にシンクに落ちた食材でも、軽く洗えば捨てずに済む。このように、「無駄にしない」ことを前提にすれば、おのずと具体的な行動として何をすればよいのか、分かってくる。

 ちなみに、ここでいう漉し袋というのは、今で言えば流しに付けるゴミ取りネットや三角コーナー用ネットの類であろう。そこに流した物を口にするというのは、さすがに抵抗があるかも知れない。というのも、現代人にとって、そのネットに入ったものは〝ゴミ〞として認識されるからである。ここに、ネットに入る直前まで食材として認識されていたものを、一瞬にしてゴミに変化させてしまう自己の心の在り様が観察されるのだ。

 といっても、ネットの中身を食べるべきだと主張しているわけではない。まだ食べられる食材をゴミにするのはまさに自分自身なのだという気づきを得たならば、例えば三角コーナーに入れる前に、今まで無意識に捨てていた野菜の断片をどこかに取り分け、〝まだ使える〞という視点の中で上手に使ってこそ禅の修行と言える。その結果、無駄が排され、ゴミの量も目に見えて減少していくことだろう。

 

典座のこころ

 

 『典座教訓』には、典座がどのような気持ちで食材と向き合い、調理を行えばよいか説かれている。それがそのまま具体的な仏道の実践方法と理解されるわけだが、例えば次のようにある。

 「一見粗末な食材を使った料理を作る時であっても、これを嫌がったり、いい加減に扱ったりする心を起こしてはならない。また、上等な食材を使った料理を作る場合でも、それに喜び浮かれるような心を起こしてはならない。ただ一心に美味しい料理を作るようにつとめるのみである」

 このように、ものの良し悪しに心が左右されることを戒めており、裏を返せば、それだけ我々人間は物に執着し、動揺しやすい存在であるということを示している。だからこそ、どんなものに対しても、上下をつけず、すべてを大切に扱うという実践が促されるのである。

 加えて、「凡(およ)そ物色(もっしき)を調弁(ちょうべん)するには、凡眼(ぼんげん)を以(も)って観ること莫(なか)れ、凡情(ぼんじょう)を以て念(おも)うこと莫れ」とも示される。これを意訳すると、「食事を調理する際には、凡夫(ぼんぷ)の見識でものを見てはならないし、凡夫の基準でものを判断してはいけない」となる。ここで言う〝凡夫〞とは、己の色眼鏡を通してものを見て、良い悪いの判断を自分勝手に下し、ものに差をつけて理解しようとする人間、つまりそのまま我々のことを指している。

 

「分別智」と「無分別智」

 

 我々は、基本的に物事を明確かつ適切に判断しようと努めている。「良い/悪い」「上/下」「高い/安い」「楽しい/苦しい」「強い/弱い」など、あらゆることを二項対立させ、複雑な現実を一度シンプルな形に置き換えることで、理解をしようと試みるわけだ。「分別」という言葉があるが、これは一般的には「善悪をわきまえる」というポジティブな意味で使用される。しかし、その分別ある見識(分別智)を持つ人のことを、仏教では〝凡夫〞と呼ぶのである。分別智を持つことは、社会で生きる我々にとって、非常に便利なスキルとなる。それは、最大公約数のルールをわきまえさえすれば、一応の信用を獲得することができるからであるが、そのルールは必ずしも正しさを伴うものとはなっていない。社会のルールというものは、いつのまにか自分自身の行動規範として根付き、そこから外れる人や事象を異物として認識し排除しようと機能する。

 とはいえ、仏教は社会を対象としたものというよりも、基本的には個人の苦悩をなんとかするための方法論として存在している。この分別智は、「良い/悪い」といった判断を、我々の頭の中で即座に行わせ、目の前の人や事象に相対(あいたい)する時にごく自然に色眼鏡をかけさせる。仮にその色眼鏡を通して見た世界が、自分に動揺を与えるものであったならば、我々の行動は自ずと萎縮してしまう。つまり、自分で自分を縛る状況に陥っていると言えるわけだが、こうした二項対立で世界を認識することをやめる見識を、仏教では「無分別智」と呼ぶ。

 多くの苦悩は、このように自分が自分勝手に作り出している側面があるが、苦悩をもたらしていると感じる出来事そのものは、ただの現象に過ぎない。自分が100%周りのせいだと感じている時も、その現象を分別智を通して見るからそうなるわけで、案外自分から袋小路に迷い込んでいることが少なくないのだ。

 そして、「量の多い少ない、質の良し悪しをあげつらってはならない。ただひたすら誠意を尽くして調理をするだけである」と、道元禅師は言う。調理の際に、凡夫の見識や価値基準を持ち込まないというのは、そういった自己の心の在り様の中で、ちょっとした気づきを大切にしつつ、やるべきことを誠意を持って粛々と行うことに他ならないのである。

 

役割をまっとうする

 

 道元禅師は南宋での遊学時代に、確かなところで八つほどの寺院を渡り歩いている。そこで見聞きしたところでは、典座を始めとする禅宗寺院の重要な役職の人々は、一年間の任期でそれぞれつとめに励んでいたという。しかも、その重役を担う人々は、皆共通した心構えを踏まえて任に当たっていた。

(1) 自己の役割をまっとうすることは、他者を利することになる。(自利利他)

(2) これが広く行われると、修行道場が仏道実践の場として大いに機能する。

(3) いかなる職責を担ったとしても、自己の修行として行うことができたなら、先人の偉人たちに肩を並べ、追い越し、彼らの歩んだ道を継承し、保持していく。

 この三つの心構えは、修行僧の上に立つ住持が持つものであるが、その下につく重役、ひいては修行僧全員が持つべき心構えでもある。

 (1)にある自利利他の考え方は、仏教全体の根底に流れる基本精神である。与えられた役割を全うすることは、共に修行に励む人々の利益になる(利他)と同時に、自らの修行を深めることにもなる(自利)。このように自己がひとつの役割を全うする中で、自他がひとつの姿として認められる関係にある(自他一如)であることを知ることがまず重要。

 しかし、これは修行道場の中で一部の人々だけが実践するのであれば意味はない。(2)にあるように、広く行われるべく修行僧全員が実践をすることで、優しさの循環が起こり、仏道実践の場として機能するのである。

 そして、(3)の通り、釈尊などの過去の偉人達には到底敵わないわけではなく、肩を並べるどころか、さらに先に進もうとすることこそが、彼ら偉人たちが歩んだ道であり、継承すべき仏道であるということ。仏道とは、釈尊や祖師方が設定した世界観を生きることではない。過去に釈尊が抱いた問題意識を共有し、釈尊が行ったように自己と向き合い、試行錯誤し、自ら実践することこそが仏道なのだ。実際、潙山霊祐(いさんれいゆう)禅師や洞山守初(とうざんしゅしょ)禅師は、典座職にあったときに覚(さと)りを開いている。ちなみに、覚りは釈尊の専売特許ではない。釈尊のことを仏陀と呼ぶことがあるが、仏陀は「目覚めた人」という意味で、覚りを開いた人全般のことを指している。つまり、誰にでも仏陀になる可能性が備わっているということである。

 ところで、道元禅師は『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の中でも、「愚かな者は、他人の利益になることを先に行えば、自分の利益を失うかもしれないと思っている。しかし、決してそんなことはない。他人の利益のためにする行為は一法であるから、あまねく自も他も等しく利するのである」と言っている。ついつい、凡夫である我々はここで言う「愚かな者」になってしまいがちであるが、普段行っている何気ない日常の営みにこそ、道元禅師の示す三つの心構えをベースに、絆をもって道心となすことが大切なのである。

 

『春秋』2017年11月号

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著者略歴

  1. 吉村昇洋

    1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺副住職。臨床心理士。相愛大学非常勤講師。曹洞宗大本山永平寺での2年2ヶ月間の修行経験をベースに、禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガについての講演、本や雑誌、新聞にて執筆活動を行う。NHK 総合『ごごナマ』やNHK Eテレ『きょうの料理』の講師として人気を博すほか、地元広島の情報番組RCC『イマなまっ!』にてコメンテーターを務める。また、地方紙『中国新聞』にて宗教コラムの連載「放てば手にみてり」を担当。近著に『禅に学ぶくらしの整え方』(オレンジページ)のほか、『心が疲れたらお粥を食べなさい』『気にしない生き方』(いずれも幻冬舎)、『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)など著書多数。

    曹洞宗八屋山普門寺 http://www.zen-fumonji.com/

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