第7回
第6章 原則論について――観念論論駁を中心に
一 最高原則
1 原則論は、カテゴリー論、演繹論、図式論と続いてきた『純粋理性批判』の中核的な議論の結論部に当たる部分ではあるが、それ自体にかんしては、私としては言うべきことはもはや少ないので、カントの議論を紹介して、必要なコメントを加えた後、主としては、第二版において新たに付け加えられた「観念論論駁」の部分について論じたいと思う。
2 まず、その「すべての総合的判断の最高原則」とは次のようなものである。
すべての対象は、可能な経験における直観の多様の総合的統一という必然的な条件に従っている(A158、B197)。
これは、あらゆる対象は経験が可能であるための条件(=直観の多様の総合的統一)に従って成立する、と言っているのであるから、その核心的なメッセージを視点を変えて表現すれば、
経験一般の可能性の条件が同時に経験の対象の可能性の条件でもある(A158、B197)
ということになる。これを前回の議論と繋げて言い換えれば、次のようなことを言っていることになる。記憶の繋がりこそが「私」の経験というものが成立するための条件なのだが、それは同時にまた、経験の対象が、すなわち客観的に存在する外的世界が、成立するための条件でもあるのだ、と。これはしかし、逆に語ることもできる。経験の対象を成立させる条件はまた可能な経験を成立させる条件でもある、と。両者の「可能性の条件」は相補的なあり方をしているので、両者は相補的に成立せざるをえない、ということだ*。このことについてはもはや解説の必要もないであろう。これこそはカントの最高の洞察であるといえる。しかし、さらにもう一点、是非ともここに補って明記すべきポイントがある。それは最初の「経験」は、デカルト的に不可疑で、唯一的な「私」の経験でなければならない、という点である。すなわち出発点は独在論的な事実に置かれなければならない。でなければ、超越論的探究が開始されねばならない理由そのものがないからだ。その事実から出発したとき、それが持続しうる条件そのものが、その内側から、その経験の対象の、すなわち客観的に存在する外的世界そのものの、成立条件ともなるのである**。つまりここで、すでにして「観念論論駁」が先取りされていると見ることができるわけである。
*世界が客観的に繋がるためにはそれを経験する私が私として繋がっている必要があるが、私が私として繋がるために世界が客観的に繋がっている必要があるからである。この超越論的連関は、カントという人がどう言ったかなどとは独立に、もっとザッハリッヒに研究されるべき問題である。
**纏めて言えば、端的な我あり⇒それが持続するには特定の条件に従っていなければならない⇒その条件は外的な対象の持続の条件でもあらざるをえない。この系列全体がデカルト的に疑いえない「私は存在する」から発している点こそがこの議論のキモである。だからこれはまた世にも稀なほどに見事な内在的批判であるともいえるわけである。
3 ここから、カテゴリー表に従って「純粋悟性の諸原則」が導き出される。
量 直観の公理
質 知覚の先取
関係 経験の類推
様相 経験的思考一般の要請
カントは、前二者を「直覚的な確実性」をもつ「数学的原則」と呼び、後二者を「論弁的な確実性」のみをもつ「力学的原則」と呼んで大別するが、もちろん私はこの区別は認めない。これまで論じてきたとおり、量のカテゴリーの原型を類型的個体(出来事個体を含む)の実在に見て、質のカテゴリーの本質を否定に見るかぎり、量と同類なのは(質ではなく)関係であり、質と同類なのは(量ではなく)様相であるからだ。という了解のもとに、それぞれについて一応の解説をおこなっていく。
二 直観の公理
4 まずは「すべての直観は外延量である」という「直観の公理」について。
現象が覚知されうる、いいかえれば経験的意識の中に取り入れられるのは、多様なものの総合によるほかはない。一定の空間あるいは時間の表象はこの総合によって、すなわち同種的なものの合成とそのような多様なもの(同種的なもの)の総合的統一の意識によって産み出される。ところで、直観一般におけるこの多様で同種的なものの意識は、それによって客観の表象がはじめて可能となるかぎり、量(quantum)の概念である。(A162、B202-3)
ポイントは、この総合がすべて同種的なものの総合であるという点にある。だから、量は必ず数でもあるわけだ。同種(空間的な)物が7個あると数えられるのと同じように、同種の(時間的な)事が7回起こると数えることができ、さらに何らかの単位を任意に定めて、空間的な大きさも時間的な長さも同じものの反復(の回数)として「測る」ことができる(ように世界はできている)のである*。
*そのためには、空間的にも時間的にも「物差し」に当たるものが必要となる。空間の場合は問題ないといえるとして、時間の場合には、原初的には各人の脈拍や日の出・日の入りのようなもの、さらには砂時計に類する工夫、が必要だったろう。単位による時間の分割は、空間の場合ほど任意にはできず、すでに実在する何らかの物理現象に頼ってなされざるをえないという問題がある。この問題はここでは追究しないが、じつはこれは時間の外延性を疑わせる問題であるともいえる。われわれは時間の長さの同じさそのものを直観できない。
5 外延量と内包量の本質的な違いは、それが同じものの反復であるかどうかにある。東京スカイツリーの高さは634メートルだが、地面から上方への5メートルと天辺から下方への5メートルとはまったく同じ長さの反復である。どこを取ってもそうであり、単位を変えて尺で測っても同じことがいえる。それゆえ、これらは外延量である*。対して、たとえば熱さは、水で考えたとして、(0度からの)5度と、95度から100度までの5度は同じものの反復だとはいえない。その2つは違う質のものであり、それを同じと見なすには外延量化することが必要となる。通常は水銀等の膨張する物質を介在させ、熱さに応じて膨張するその長さ(外延量)によって熱さを「測る」ことになる。それが温度である。熱さ自体にも量はあるがそれは内包量であり、それ自体としては「測る」ことができない**。ともあれ、あらゆる現象が外延量化可能であるなら、全現象は数学の対象となりうることになる。
*物が常に勝手に伸び縮みしているような世界でもそのようなことがいえるのか、と問われるならば、伸び縮みしているとわかるのであればすでにいえているはずだ、となるだろう(こういうことがいえるという点こそがカントの洞察であろう)。とはいえしかし、すべての物が常に好き勝手に伸び縮みしている世界には、それでも外延はあるだろうが、計測可能な外延量があるとはいえないであろう。
**前段落の注の問題に戻れば、さてでは時間はどうであろうか、となる。また、時間が外延量化可能であること自体は明らかだとしても、それはこの世界における偶然的事実であり、いわばたんにラッキーなことなのだとはいえるだろう。
三 知覚の先取
6 次に、「あらゆる現象において、感覚の対象である実在的なものは内包量、すなわち度をもつ」と表現される「知覚の先取」について。
経験的意識から純粋意識へは、段階的な変化が可能である。経験的意識の実在的なものがまったく消滅すれば、空間時間内の多様なもののたんなる形式的な(ア・プリオリな)意識だけが残るからである。それゆえ逆に、感覚の量を産出していくほうの総合の場合も、感覚の始まりである純粋直観=0から感覚の任意の量にいたることが可能である。(B207‐8)
経験的意識の実在的なもの(=感覚)がなくなって純粋直観=0にいたることを、カントは「否定」と関連づけているが、何かが無になったり無からある量に至ったりするということは、すでに論じたように、カテゴリーとしての否定の問題とはとくに関係がない。また、段階的に無にいたったり無からある量に至ったりすることは、外延量においてもありえないとはいえない(ありうる)ことなので、こちらも感覚の内包量(度)の問題とはとくに関係がない。全体として否定の存在を中核とする判断の質の問題を内包量(度)の問題に結びつけるのは、たんなるこじつけであろう。
7 とはいえ内包量(度)の問題そのものについては、前章の段落30で「後に機会があれば別の連関で考察したい」と言ったあと夕焼け問題の際にもその連関では触れなかった大きな問題が存在するので、一応の問題点だけは提示しておこう。夕焼けの赤さにも塩のしょっぱさにも水の熱さにも、もちろん音の大きさにも痛みの強さ……にも、必ず度がある。カントが言うように、そのことは「先取」されている。しかし、それは何故だろうか。度のない感覚はありえないのだろうか。たとえばウィトゲンシュタインが想定した、公的には描写できない「E」で私的に指される感覚Eもまた、必ず「E度」が強かったり弱かったりするのだろうか。「する」かどうかはわからないが(しないことも可能だと思うが)、「しうる」ことは間違いないだろう。それはアプリオリであろう。もしEに度が想定できないならば、それは「感覚」ではない何かであることになるはずである*。
*そのことの内にも、逆に、「E」が私的言語に属する語ではないことが示されているといえる。それは、単一の人間にしか経験されえないにしても、すでにしてわれわれの純粋悟性概念によって「規定され」ているからだ。
8 度の高いところと低いところで同じことが反復しているだけ(熱さや痛みやしょっぱさという同じものの量だけが増えたり減ったりするだけ)ではなく、質的な違いが存在するにもかかわらず、それでもやはりそれらは「熱さ」とか「痛み」とか「しょっぱさ」といった「同じ」ものの「度」ではある、とされるのは何故だろうか。二つの理由があるように思われる。一つは質の変化が漸進的だから、というものだろう。ゆっくりと痛みが強まっていくとき、最初の痛みとそれよりも少し強いだけの痛みとは質的にきわめて似ており、そのように直前とは似た痛みが連続して、激痛に達したとき、それは最初の微痛とは似ても似つかない(質的には同種で度だけが強いとは思えない)ようなものに変じている、ということは起こりうることだ。熱さについてなら、なおさらこれはいえることだろう(冷たいとか寒いとかに変じるからだ)。もう一つはやはり、感覚そのものという第0次内包には客観的な基準となる第一次内包(のもつ外延量)が必ず先行しており、そちらには客観的に明白な同一性がある、という理由であろう。痛みなら外的損傷(の程度)とか、熱さなら火への近さ(の程度)といったことである。第一次内包(外延量をもつ)との繋がりはやはり重要で、しかもそこには間違いなく因果連関(これについてはすぐ後に論じる)も認められるので、それは強力な支えとなるだろう。しかし、ここであえて逆方向のことを付言しておくなら、これらの考慮点にもかかわらず、そもそも度(内包量)というものの存在を懐疑する議論があってもおかしくはない、と私は思っている。
9 度(内包量)にはさらに、それが他者のそれとけっして比較対照できない、という大問題がある。ここでまたわれわれは、いやおうなしに独在性の問題に直面することになる。痛く感じても、熱く感じても、しょっぱく感じても、あるいは赤く見えても、もしそういう経験が現に起こっているのなら、それを経験しているのは必ず私である。度の違いもまた、自分自身のうちでは比較できる(記憶によって!)が、他人と比較することだけはけっしてできない。そしてこのことには、前章段落51で指摘したように、じつは二層の異なる(しかし見方によっては同じであるともいえる)意味があるのであった*。すなわち、度(内包量)の概念もまた、人称カテゴリーに依拠してはじめて成り立つ、といわざるをえないのである。第一人称という図式を適用するのでなければ、「度」という、だれもに共通に妥当する一般者が存在するなどとは、とうてい認めがたいはずだからである。他人にも度があると認める理由には、もちろん第一次内包の介在によるところも大きくはあろうが、根源的には人称カテゴリーのはたらきによるほかはないであろう。それゆえに当然、ここでもまた懐疑論的な問題提起をすることがどこまでもできるのではあるが**、その場合にも最大の問題は、その問題提起それ自体がすでに人称カテゴリーがはたらいた後の形で(そこにおいて提起された問題として)理解されてしまい、懐疑をもたらす最深の根拠が初発から飛び越されて(別の問題が問われて)しまう、という点にあるのである。その根底に存在している問題そのものは、提起不可能というわけではないにもかかわらず、ほぼ問われずに終わる運命にあるわけである。
*段落51の「さらに重要なことは、それと同時に(なんと同時に!)それと同型のことが、他の私とその私にとっての他者たちのあいだにも起きているということが併せて言われてもいる」という箇所。(いま読みかえすと、この段落のこの引用以降は、極めて重要な問題が極めて圧縮して語られているので、是非とも注意深く読んでいただきたいと思う。)
**クオリアの逆転やさらに欠如がありうるなら、度の逆転やさらに欠如もありうる(すなわち「度ゾンビ」も想定可能である)はずだろう。とはいえるのだが、その問題に肯定的に答えるか否定的に答えるか以前に、その問題提起それ自体がすでにして前注*の「併せて言われてもいる」ことのほうで(すなわち「……他の私とその私にとっての他者たちのあいだにも……」のほうで)理解されてしまう、という問題がそこにつねに伴うわけである。ここでもそれこそが問題の根源であろう。
四 経験の類推
10 「後に機会があれば別の連関で考察したい」と言ったことの「一応の問題点だけ」は提示できたと思うので、「知覚の先取」についてはこの程度にして、次には、原則論の中心であると目される「経験の類推」へ移ろう。これは「関係」のカテゴリーに対応しているので、順番に、実体持続の原則、因果法則に従う時間継起の原則、相互作用法則に従う同時存在の原則、が論じられることになる。つづめていえば、持続、継起、同時存在、である。これらに共通の原理は、第一版によれば、
すべての現象は、その現存在にかんして、時間におけるそれらの相互関係を規定する諸規則にアプリオリに従う(A177)
であり、第二版によれば、
経験は諸知覚の必然的な結合の表象によってのみ可能である。(B218)
である。後者は、個々の現象によってではなく、それらが法則的に結合されることによって初めて、経験が成立する、と言っており、前者は、経験の成立条件についてではなく、現象の現存在について、ほぼ同じことが主張されている、と読める。だから、二つを繋げると、客観的世界の成立と主観的経験の成立とは表裏一体の関係にあること、あるいは(より過激に表現すれば)同じ一つの事態であること、が示唆されているといえる。すぐに続けて、次のようにも表現されている。
経験は諸知覚の総合ではあるが、この総合自身は知覚の内には含まれておらず、むしろ知覚の多様なものの総合的統一を一つの意識において含んでいるのである。この総合的統一こそが感官(感覚能力)による客体の認識の本質的なものを成しており、すなわち経験(たんに直観あるいは感官の感覚ではなく)の本質的なものを成しているのである。(A176,B218‐9)
ここでは、「感官による客体の認識の本質的なもの」が「経験の本質的なもの」と言い換えられ、「この総合的統一」こそがそれらの「本質的なものを成す」とされている。客観的な事象の認識こそが一つの経験を初めて成立させ、またその逆でもあるからである。
11 ところでカントは、この経験の類推は、直観の公理や知覚の先取とは違って、構成的ではなく統制的だと言う。その根拠と目される箇所を引用しよう。
これらの原則には特殊な点がある。現象やその経験的直観の総合を考慮するのではなく、現象のたんに現存在を、だからこの現存在にかんするそれらの諸現象の相互関係を、考慮するにすぎない、という点である。(中略)しかし、現象の現存在はアプリオリには認識されえない。われわれがこの方法によって何らかの現存在を推論するにいたることができたとしても、それの現存在を確定的に認識することはできない。いいかえれば、この現存在の経験的直観がそれによって他の経験的直観から区別されるところのものを先取することはできない。(A178、B220‐1)
ここでカントは偶然ということを容認しているように読める。私自身は、世界がほぼつねに一定の大きさを保ちがちな区切れた類型的な物体から成り立っていることも、時間の経過がそういう物体の類型的な変化や運動によって外延化されて計測可能であることも、……、偶然的だと思うが、カントにおいては、この「経験の類推」の段階ではじめて偶然性が介入してくる(というかむしろ少なくともここでは偶然性が成立する)と言っているように私には読める。これはつまり、予測したり推定したりはできるが、公理や先取の場合とは違って、予め知ることはできない、ということであろう。とはいえしかし、起こった後からはそれがいかなる原則に従っていたのかは必ず類推できるようになっている(そういうことしか起こりえない)、ということであると思われる*。それゆえに、構成的ではなく統制的である、と。
*いいかえれば、何が可能であるかは起こる前からわかっているが、何が現実であるかまではわからない(そこまで先取はされない)ということである。故に偶然である、と。
12 さて、第一の類推は「実体持続の原則」である。それは、第一版によれば、
すべての現象は、対象そのものである持続的なもの(実体)と、それのたんなる規定であり、対象が現実に存在する仕方である、移り変わるものとを、含んでいる。(A182)
であり、
第二版によれば、
現象のあらゆる移り変わりに際して、実体は持続し、自然における実体の量は増減しない。(B224)
である。これはつまり、移り変わるということが可能であるためには何かしら移り変わらないものがその背景として前提されていなければならない、ということである。もし持続する何ものもなく、文字どおりすべてが変化したなら、変化前と変化後の比較ということも成り立たないだろうから、変化したとはけっしてわからないだろう。ここまでは、まあ、あたりまえのことだともいえよう。では、それでも本当は(=だれにも知られずに)そういう全面的変化が起こっている、ということは可能であろうか。カント的ワーディングで語るなら、物自体として捉えれば、そのようなことが起こっているという可能性を考えることもできなくないだろうが、われわれの知りうる範囲においては、そうした全面的な変化は(知りうる可能性がないという意味で)考えられもしない、ということになるだろう*。
*カント的ワーディングで語り続けるなら、それを考えられることと見なす(それゆえ考えてしまう)のが「形而上学」であることになる。
13 しかし、それでもここにはやはりいくつかの問題がありはするだろう。前章で(早まって?)かなり詳述した問題ではあるが、ここで「持続的(beharrlich)」といわれている、〈それについてはもはや変わるということ自体が想定できないもの〉とはいったい何か、という問題がある。カントの議論は本質的に正しいと思うが、その議論にもやはりより細部があるだろうし、また、持続性・不変性が要請されるという点だけを捉えれば、それはいわゆる「実体」にだけ要請されるわけでもないであろう。前章でかなり詳述してしまった記憶についての議論が正しいとしても、明らかにそれだけでは足りない。この〈常に変わらぬ〉とされざるをえないものにも層があるのではないか、すなわち重層的なのではないか、と私は思う。記憶の層はたしかに最深であるともいえるが、それでも一方には、それが成り立つためにも必要であるとされた自然の問題(突き詰めればいわゆる「自然の斉一性」の問題にいたる)が存在しており、そして他方には、やはりそれが成り立つためにも必要とされるはずの、「渡り台詞」が可能な側の意味の持続性という問題が存在するだろう。後者は、カント的枠組みの内では、カテゴリーの常に変わらなさという問題を含みかつそれを根幹とすることになるだろう。
14 まずは前者にかんして、思いつくことをいくつか提示してみよう。時計で時間を測るということについて考えてみる。それができる以上、文字盤上の針の動き自体は〈常に変わらぬ〉ものと見なされざるをえないだろう。そうでないと、他の動きや変化をそれによって測るということが成り立たないからである。だからそれは〈それについてはもはや変わるということ自体が想定できないもの〉とされざるをえない。時計だって遅れたり進んだりするではないか、といわれるかもしれないが、そうではない。その遅れや進みもまた必ず別の何らかの「時計」によって測られてそう認定されるほかはなく、その背進はどこかで終結せざるをえないからである。地球の自転であろうとセシウム原子の周波数であろうと、その「時計」の(すなわちそれが時計と見なされた場合の)その変動そのものは必然的に〈常に変わらぬ〉〈一律の〉ものとされざるをえない。他のすべての変化がそれによって測られる以上は*。
*ひょっとすると、この期に及んでもなお、現実に〈常に変わらぬ〉〈一律の〉ものである必要はないのか、と問いたくなる人がいるかもしれない。カント用語に翻訳すれば、それは物自体においても、という意味になる。すると答えは、そのようなことは原理的に知りえない、となるであろう。視点を変えてそれをさらに翻訳すれば、そのような「現実」なるものはそもそも存在しない、ともなるだろう。
15 時間の場合だけでなく、空間の場合にも、じつは同じことがいえる。外延量が一定であるといえるためには、物差しは伸び縮みしない(少なくとも伸び縮みしない物差しが存在する)ことが前提となるだろう*。何がそれであるかは、原理的に任意に決めればよいのだともいえるが、現実問題としては、幸いにしてわれわれのこの世界には、同様に大きさが(したがって部分の長さが)ほとんど変わることのない、その意味で物差しにふさわしい物がかなりたくさんある。たとえば同じ長さの木片は、たいていの場合、しばらく経ってもその同じ長さのままである。だから、それらを使って別の物や長さの変わる物を一律に「測る」ことができる。とはいえ、世界にそのような長さのほとんど変わらぬ物がたくさんあること自体は、この世界のもつ偶然的特徴にすぎない。そんな物が一つもない世界もありえたしありうるだろう。そのような世界にも、長さというものはやはり存在するのかと問われるなら、その答えは、この世界で概念形成をしたわれわれにはその世界もまたそのように現象せざるをえない、というものであろう。その意味で、われわれのこの捉え方はアプリオリであるといえる。こういう点もまた、この解釈がカントの意に沿うかどうかは別として、カント哲学の比類なき(そしていかなる風雪にも耐えうる)洞察であると私は思う**。
*もちろんすべての物が一律に伸びれば問題ないが。それはそもそも(まさに測る物差しがないがゆえに)伸びたとはいえない=伸びていない。それはまさにここで論じている問題そのものである。
**すなわちカント哲学は、それのみが諸々の観念論を論駁しうるような最終的で絶対的な観念論、であると同時に、それのみが諸々の相対主義を論駁しうるような最終的で絶対的な相対主義、でもあるわけである。
16 もちろん、時間の場合も同じことがいえる。幸いにしてわれわれのこの世界には、他の周期的変化との比が常に一定であるような複数の周期的変化が、その意味で時計にふさわしい動きが、存在している。人類の目から明白だったのはおそらく地球の自転と公転に由来するものであっただろうが、その他にも砂時計に類するものとの(また複数の砂時計のあいだの)恒常的な等比的関係性(夜明けから次の夜明けまでのあいだにある砂時計の砂は33回往復する等々)も比較的簡単に発見されえたであろう。まさにその恒常的等比性のゆえに、それらはそれ自身も常に一定の周期的変化(運動)をしていると見なされたにちがいない*。この場合も、そういう恒常的等比性がまったくなく、ばらばらである世界もありうるだろう(夏至から次の夏至までの周期が8日だったり2931日だったり、等々)から、もしそうであったらそもそも時間が測れるかどうか、測れるとしてもそもそも時間を測るということに意味があるかどうかを考えてみるのは興味深い。
*それゆえに、空間の場合と同様、その恒常的等比性はすべて維持したまま、それら自身の「常に一定」の周期的変化(運動)だけが以前と変化したとしても、空間の場合に「すべての物が一律に伸びれば」問題がなかったように、やはり問題はない。その「変化」は(今回もやはり測る時計がないがゆえに)変化とはいえない=変化していない。とはいえ、空間の場合にも時間の場合にも、このような想定が有意味であるように見えることにもまた重要な意味があると私は思うが(物差しもまた世界内の物体である以上は伸びうる――場合によっては一律に――という事実は否定しがたいからだ)。
17 世界の側のこの恒常性は、前章の段落43で想定したような、だれかと身体を交換した自分が、そのもつ記憶を自分の記憶として確証する(したがって私はいついつ誰々と身体を交換したと認定する)ためにさえも不可欠であろう。身体交換というような常軌を逸した一種の非実在論的な想定を有意味におこなうためにさえ、このような実在論的な前提が不可欠なのである。これがすなわち実体持続の原則であり、このような解釈がカントの意に沿うかどうかは別として、ここにもまたカント哲学の比類なき(そしていかなる風雪にも耐えうる)洞察が認められると私には思われる。
18 さて、もう一つは、段落13で「そして他方には、やはりそれが成り立つためにも必要とされるはずの、「渡り台詞」が可能な側の意味の持続性という問題が存在する」として予示された「意味の持続性」の問題である。渡り台詞が可能であるとは、必ずしも単一の主体によって持続的に発言される必要がない、そういう種類の統一性を必要とはしない、たんなる意味的な繋がりのことである。カテゴリーを文法ととれば、それはカテゴリーの不変性も含むといえ、より単純に語の意味の変わらなさのようなことを考えてもらったほうがここでの趣旨は通じやすい。何らかの変化を描写する際に、描写する言葉の意味の側が変化してしまえば、変化を描写することはできない。だから、ここでもまた、そちらの側の不変性は前提されねばならない。これを「意味の持続の原則」と呼ぼう。これもまた、おそらくはデカルトとカントがともに見落とした問題である。「私は思う、ゆえに私はある」と考えるあいだに、「私」や「思う」や「ゆえに」や「ある」の、語としての意味が変わってしまうという可能性を、デカルトはその全般的(なはずの)懐疑において考慮に入れなかったし、カントはその可能性を防御するための超越論的な「原則」を立てようとしなかった。しかし、ここにこそ存在論的な「実体の持続の原則」の意味論的な対応者ともいえる「意味の持続の原則」が立てられてしかるべきであった*。
*クリプキが解釈するところのウィトゲンシュタインが、これを初めて問題として提起した。カント的原則の見地からそれを論駁するとすれば、「tableという語の意味がエッフェル塔においてだけchairの意味に変わることはありえない。そう想定するためにも、まさにその想定そのものにおいて、その二つの語の意味の持続的な不変性がすでにして前提されているからである」のようになるであろう。この原則もまた、そこから逃れるすべはやはりないと思われる。
19 意味の持続の原則は、渡り台詞可能なほうの(nanchattebleなほうの)意味それ自体の持続の問題なので、統一の成立においてではなく総合の成立の段階においてすでに、意識の文的なあり方の基礎の成立を支えることになる。それゆえ、記憶の成立にはこちらもまた根源的に前提されざるをえない(渡り台詞可能な同一的意味の存在に支えられて渡らぬ台詞もまた可能になるからだ)。つまり、カント哲学にもし観念論の論駁が可能であるならば、それはまた同時に「ウィトゲンシュタインのパラドクス」の論駁も可能であらねばならない、ということになる。経験の可能性の条件はまさにその二つによって両側から支えられざるをえないからである*。
*ときに、それでも語の意味だって変わるではないか、というような反論をする人がいるが、そういう問題ではない。そのように変わったと認定できるためにも、つねに必ず何らかの変わらない意味の持続性が前提されざるをえないという種類の、これは問題なのである。
20 実体の持続にかんする議論の最後に一か所だけ引用してコメントしておこう。
もし時間そのものに継起的な生起を与えようとするなら、その生起がその内で可能となるようなもう一つの時間を考えなければならなくなるだろう。(A183、B226)
しかし、A系列的な時間を考える場合には、これは避けられない。そして、A系列的な時間を考えるとは、現在(今)という特異点が存在しており、それは動き、さらにそのことに累進構造がある、と考えることだとすれば、そのように考えることもまた避けられない。だから、時間のこの種の二重化(⇒多重化)は避けられないのだ。なぜなら、複数の出来事A、B、C、D、……、が次々と起こるとはつまり、出来事系列A、B、C、D、……上を現在(今)が動いていく、ということだからである。この二つの言い方は同じことの別の表現の仕方にすぎない。次々と起こるとはつまり、次々と現在になり過去になっていく、ということだからだ。しかし、そうだとすると、次々となっていくその現在に、現在はどの出来事がなっているのか、という問いが避けられないだろう。現在はCがそれになっている、というように(「それ」のほうも「現在」なのに!)。A、B、C、D、……上を移動していく、一般的な性質(あり方)としての「現在」のほかに、その移動する「現在」は今はどこに来ているか(すなわちどの出来事が現に起きているのか)という意味での「現実の現在」が考えられざるをえないのである。すなわち「もう一つの時間」を考えざるをえないのだ。
21 A、B、C、D、……上を移動していくその一般的な性質(あり方)とは、それしかない時というあり方であり、A、B、C、D、……たちは次々とそのあり方になっていく、と考えられているわけである。しかし、そんなことが考えられうるのも、その次々の中に一点だけ、現にそれしかない時が存在するからである。その現にそれしかない時から「現に」性を取り除くかまたは一般化して概念としてだけ残すという操作を施すことによって、A系列という概念が作られることになる。人称においてA系列にあたるのは一般的な第一人称である。思い出されている過去やそれについての予定を立てている未来にあたるのが第二人称である。それらのこと(思い出す行為や予定を立てる行為、等々)の全体をそれら自体の外から眺める視点が第三人称にあたる。第三人称はB系列である。B系列によって整序されなければ(すなわちカレンダーに類するものやことがなければ)、思い出すことや予定を立てることもそれとしてはできず、カントが引用文に続けて言っている時間を量的に測るといったこともできないであろう。B系列には、変わらずに持続するものが存在し、A系列にはそれが存在しない、からである。
22 とはいえ、A系列という発想そのものはB系列の存在を前提にしなければ不可能であっただろうから、その意味ではやはりそこにも持続する不変の何かは前提されている、とはいえるはずだ。それと同様に人称においても、第三人称の視点が確保されなければ、第一人称などという発想は成り立ちようもなかったであろうから、そこにも人称的に平板なあり方が前提されているはずである。それら(第一人称とA系列)は、形而上学的存在ともいえる「現に」性とそれを無化する客観的な視点とを媒介するものだが、むしろその媒介こそが客観性(第三人称とB系列)を可能ならしめている、と見ることもできるのである。この媒介のはたらきこそが本来の「図式」ではあるまいか。そもそも経験とかその前提となる感性といった(一般的な)ものは、この図式の上に初めて成り立つものだ、と考えるべきだと思う。なぜなら、現に明々白々にそうなっているではないか!
23 第二の類推に移ろう。それは「因果性の法則に従った時間継起の原則」であり、「あらゆる変化は原因と結果の結合の法則に従って生起する」(B222)というものである。これは結局、客観的な外的世界と主観的な表象世界との区別がありうるためには、持続するものが存在しなければならなかったのと同様に、いつもどおり因果的に変化するということも存在せざるをえない、ということであるようだ。
たんなる知覚によってでは互いに継起する諸現象の客観的関係は未規定にとどまる。このような客観的関係が規定されたものとして認識されるためには、その二つの状態のあいだの関係が思考されねばならない。その思考によって、どちらが先行しどちらが後続しなければならず、その逆であってはならないかが、必然的なこととして規定される。しかし、総合的統一の必然性をともなう概念たりうるのは純粋悟性概念だけであり、それは知覚の内にはない。それはこの場合には原因と結果の関係の概念なのである。原因は結果を時間において後続するものとして規定し、たんなる構想作用の内で先行する(あるいはどこにも知覚されない)かもしれないような何かとしては規定しない。このように、われわれが諸現象の継起を、したがってすべての変化を、因果性の法則に従わせることによってのみ、経験さえも、すなわち諸現象の経験的認識さえも、可能となるのである。したがって諸現象そのものもまた、経験の対象としては、まさしくこの法則に従うことによってのみ可能となるのである。(B234)
しかし、そもそも「原因と結果の関係の概念」がそのような(客観性を作り出す)力をもつのは何故であろうか。たしかに「原因は結果を時間において後続するものとして規定し、たんなる構想作用の内で先行する(あるいはどこにも知覚されない)かもしれないような何かとしては規定しない」とはいえようが、それはしかし、その「原因と結果の関係の概念」がそう言っているというだけのことだろうか(ちょうど道徳規範がその普遍妥当性を自分では主張しているように)。この概念に従っていることが現実に事実であると信じるべき理由はどこにあるだろうか。それは、このような規則が始めから言語化されており、したがって他者たちとの共有が確認ずみだから、でしかありえないように思える。もちろん、一人であっても「原因と結果の関係の概念」は繰り返し体験することによって私的に検証することが可能ではあるが、その場合、すでに論じた記憶の正しさとの相補性の問題は究極的には決着がつけがたいことになるだろう。これに対して、そこに言語的意味を介して他者が参入してくれば、それはほぼ決定的な結着を与える力をもちうるであろう。もちろんその場合こんどは、その言語的意味の同一性の側が、客観的な因果連関や個人の記憶への信頼を逆に前提せざるをえない、という循環の輪が広がるだけである、ともいえるのではあるが。ともあれ、「原因と結果の関係の概念」がカントの言うほどそれ単独で絶対的な力を持つと信じるべき理由はないと思う。
24 以下の有名な一節を手掛かりに、客観性を作り出すために必要であると思われるもう一つの事項を、さらに付け加えておきたい。
私が一艘の船が流れを下っていくのを見ているとする。私が下流におけるこの船の位置についてもつ知覚は、上流におけるその船の位置の知覚に後続し、この現象の把捉においては、その船がまず下流に、後に上流に知覚されるというようなことはありえない。(A192、B237)
カントはこれを、自分が視線を移して見ていく「家屋」の知覚と対比して、「把捉の主観的継起は諸現象の客観的な継起から導き出されねばならない」という結論を出している。この議論の詳細を追うことはしない(それは基本的には正しいと思う)が、ここにはカントが論じていない論点もまた介在せざるをえないように思われるので、そのことに触れておきたい。どちらが客観的(対象そのものの変化)でどちらが主観的(対象の見え方の変化)であるかは、いきなり因果法則を持ち込んで識別されるわけではないだろう。この例においては、自分が視野を動かして視野を変えているということを知っているという要因が介在せざるをえないと思われる。すなわち、ここに「自分が……する」という自由意志の契機が介在し、それとの相関関係をつかんでいなければ、船はそれ自体が動いているが家屋はその見え方が変わっているだけ(それ自体は変化していない)という区別はつけられないのではなかろうか。この知は因果連関の知に先行せざるをえないように思われる。視線が向かう方向を変えることに類する自由意志の発揮が介在しうるのは、他には触覚だけであろうが、そのような自由意志の介在が想定できない聴覚や嗅覚のような場合には、たとえば正常な外界知覚と幻聴や幻臭との区別は(自由意志によるテストが効かないため)因果法則に従うか否かによるカント的な識別方法をいきなり導入するほかはないように思われる*。しかし、視覚と触覚は、こちらから働きかけて調べるということによって、因果法則的把握に先立って主観的ではない客観的な実態を知るということができ、それに基づいて因果的な規則性の実在を検証することもはじめて可能になるのではなかろうか。逆から言えば、まさにこの連関でこそ自由意志なるものの実在性が前提されるように思われる**。
*周囲にだれもいなければ、それしかないのではなかろうか。しかし、周囲に他人がいればその意見を聞いてみる、などといったこともできる。とはいえ、他人がいてもいなくても、そしていなければことのほか、自分の記憶への信頼は基礎的に絶対的であるだろう。しかし、それと並んで、知覚の側を意志的に変えられること、それゆえに自然に起こる変化と自分が起こす(目を向ける方向を変える等々の)変化とを区別できること、もまた不可欠な役割を果たすと思われる。
**外界の存在のためには、それが自由意志が及ばない領域であると同時に、自由意志を働かせることによってそのことが確かめられる、ということが重要であろう。こちらが視線を動かすことが(目をつぶることなども)でき、それに相関的な変化とそれによっては変えられない変化とがあることを直観できなければ、客観的な因果性の存在を信じる基礎が築けないように思われる。客観的世界の構築のためには、こちら側に存在する自由意志は初発に不可欠であったはずだが、この自由は、これまで「哲学探究」シリーズなどで何度も論じてきた〈私〉の存在の「第一基準」の一部であったことも、ここで思い出していただきたい(第4章段落8でもこの「第一基準」が参照されているが、そこでは「自由」については省略されている)。すなわち、〈私〉とはただひとり「現実にその身体を(内側から)動かせる」人間のことでもあり、あらざるをえないのだ*。後に、物理的世界の理解が進み、この自由感もまた物理的因果性の一部であることが明らかになったとしても、そうしたすべては最初のこの自由を基盤として作り上げられた世界像の内部における一エピソードにすぎない、という事実は忘れられてはならないだろう。その種の矛盾もまた、われわれの世界は不可避的に内在させ続けるであろう。
(注**の中の注内注* すると視野というものは第一基準を二重に満たすことになる。何であれ何かが現に見えていれば、それは必ず私の視野である。自由に動かせなくても(目をつぶるということもできなくても)。そのうえ動かせもするという二重性である。この複合の意味するところは大きい。ついでにひとこと注意を喚起しておくなら、自由のほうは欠けている状態で自分の視野と外界とを区別することはかなり難しい仕事になるように思われるが、他人の視野との区別のほうはそうでもないはずである。他人の視野というものがもつ超越性は、自由と相関的に作り出せるような種類のものとは違う種類のものだからである。議論が逸れすぎるのでこれ以上は論じないが、ここにタテ問題とヨコ問題との違いを読み取っていただけるとありがたい。ヨコ問題は基本的にすべて様相的問題なので、他人の視野の存在とは結局のところ可能性という問題に含まれざるをえない。)
25 第二類推は因果性に対するヒュームの懐疑論に対する反論でもあるわけだが、私の観点からそのポイントを要約するなら、それはこうなるだろう。もし因果的連関が客観的に実在することを前提しないなら、そもそも「経験」そのものが成立せず、したがって〈私〉は持続的に存在することができず、それゆえに客観的世界というものも成立しがたい、と。これは、因果という限定を少し緩めて、ものごとの類型的な生起ととれば、文字どおりに真理であると言わざるをえないと私は思う。この議論自体には決定的な重要性があると思うが、他者の存在(すなわち自他の違いの存在)の根拠を不問に付している点において、そしてこの議論の延長線上にそれを解決できる見込みがない点において、控えめに言っても十分なものとは言い難いと思われる*。
*控えめにではなく言えば、本質的には役に立たない、と。
五 観念論論駁 (その一、観念論は論駁されているか?)
26 第三類推は省略して「経験的思考一般の要請」に移ろう。要請は、次の第一要請から第三要請までの三つである。
1、経験の形式的な条件(直観および概念にかんして)と合致するものは可能的である。
2、経験の実質的な条件(感覚)と繋がっているものは現実的である。
3、現実的なものとの繋がりが経験の普遍的な条件に従って規定されているものは必然的である(必然的に現実存在する)。(A218,B265)
これら自体は第一版でも第二版でも改変が加えられていないが、第二版においては、第二要請の後(第三要請の前)の箇所に「観念論論駁」という項目が新たに挿入され、新たな議論が付加されることとなった。三つの要請は一読しただけでも、その意味は明瞭と思われるので、ここではそれぞれの解説や論評はあえておこなわずに、いきなり「観念論論駁」についての議論に入ろうと思う。
27 観念論論駁は、論駁されるべき観念論というものの説明と、定理という形をとったこれから証明すべきことの提示と、その証明と、その証明にかんする三つの注解からなる。その順番に辿っていこう。まず、論駁されるべき観念論は、カントが「蓋然的観念論」と呼ぶものであり、それは「われわれの外なる空間における諸対象の現存在をたんに疑わしく証明されないものとだけ説く」(カントによれば)デカルト的な観念論である。この「たんに……だけ説く」は「誤謬であり存在不可能と説く」バークリ的な観念論との対比でそう表現されている。いわば慎ましい観念論である。当然のことながら、慎ましい主張を論駁するほうが、論駁としては強い論駁である。そんな慎ましいことさえ言えないのだ、とカントは言うのだ。外界は存在せざるをえないのだ、と*。
*しかし、この強さ、この「ざるをえない」に、観念論の臭いを嗅ぎつける嗅覚の鋭い人もいるであろう。外界の実在は、カントにおいては、経験的事実ではないのだ。だから、以下の議論を読みながら、そういう夢を見ている、そう悪霊に欺かれて思わされている、ということはなぜありえないといえるのか、と問い続けることはどこまでもできる(ようにそれはできている)。
28 その定理は以下のようなものである。
私自身が現に存在しているという、たんなる、しかし経験的に規定された意識は、私の外なる空間に諸対象が現に存在していることを証明する。(B275‐6)
その証明は以下のようなものである。
私は私が現に存在しているということを時間において規定されたものとして意識している。すべての時間規定は、知覚における何か持続的なものを前提する。しかし、このような持続的なものは、私の内なる直観ではありえない。なぜなら、私の現存在を規定するすべての根拠は、それが私の内に見出されうるのなら、表象であり、表象である以上、表象とは区別される何か持続的なものをそれ自身が必要とし、そのような持続的なものとの連関において、表象の変移が、したがって表象がそこにおいて変移する時間における私の現存在が、規定されうるからである。それゆえ、この持続的なものの知覚は私の外なる物によってのみ可能なのであって、私の外なる物のたんなる表象によっては不可能である。したがって、時間において私の現存在が規定されるということは、私が私の外に知覚する現実の物の現存在によってのみ可能となる。(B275、ただし真ん中の第三文、第四文は第二版の序文XXXIXにおける改訂に基づく。)
長いのでこのあとの二文は省略するが、その後の最後の結論文は「私は存在するという意識は、同時に、そのままで直接的に、私の外に他の物が存在するという意識でもある」である。
29 そうするとこの証明は、「私は存在する」という自己確証が、じつは同時に「私の外の事物も存在する」を含んでいざるをえないのだ、ということの証明であるということになるだろう。しかしここで、かりにこの証明そのものは成功しているとして、それは本当に観念論の論駁になりえているだろうかという素朴な疑問を、多少とも思考力のある者ならだれでも、思い浮かべざるをえないのではなかろうか。いまかりに、本当は私だけが存在している、というケースを考えてみよう。私の外の世界は本当はなく、すべては私の表象である、という状況である。カントによれば、私が存在するためには外界の事物も一緒に存在せざるをえないのだから、すなわち「私」というものはそういう仕組み(あるいは造り)になっており、そういうふうにしか存在できないのだから、ただそれゆえに、この場合にもやはり外界の事物は存在せざるをえない、ということになるだろう。カントはそう言っていることになるだろう。そしてまた、そう言っているのでなければ、この証明はデカルト的な懐疑論に対する決定的な論駁とはなりえないだろう。どれほどデカルト的に懐疑してみても、まさにその懐疑の現場において、懐疑するその「私」は、すでにして外界の実在にコミットしてしまっている、してしまっていざるをえないように出来ているのだ、とそれは言っており、まさにそれだからこそこの証明はデカルト的な懐疑に対する決定的な論駁たりえている(と解釈しうる)からである。本当はどうであるかとは無関係に、ということがその論駁のキモであろう*。もう一歩突っ込んで言ってしまえば、そういう本当さはじつは、この証明が確認しているような(すなわちこれまで演繹論や図式論などで論じられてきたような)仕組みによって作り出されるものにすぎないからだ、とカントは言っていることになるだろう。そうでなければ決定的な論駁はできないだろう。このような議論の仕方こそが「超越論的」と形容されるにふさわしいやり方である。そういう意味で、この論駁は真に決定的なのである。
*デカルト的懐疑の帰趨を待たずして、それには関係なく、すでにして、外界の事物の存在が確証されてしまう、という点がこの議論のキモである。いいかえれば、外界の事物が存在するかどうかわからない場合にも、すでにしてその思考の内で、それは存在することになってしまうのである。(ゆえに疑念は、それならばそれは、その思考の内でのみ、ということにならないか? にある。)
30 ところでしかし、われわれの想定は、現実には私(私の意識、私の表象、……)しか存在しない場合、という想定であった。その「私」が、その真実を察知してか、正しくもデカルト的な懐疑を実践している、というケースであった。カントによれば、その「私」が、因果連関が実在しているかのように見える外界の存在や、実体が持続しているかのように思える過去の存在などにかんして、正しく、すなわち言語の正しい文法に従って、一定の時間をかけて、懐疑できるのであれば、まさにそのことによって、それらの外界や過去などは実在することにならざるをえない、ということになる。それはすなわち、本当は外界が存在していない場合でも、唯一者であるその「私」が、少なくともデカルト的な懐疑ができる程度には正気で、時間的に持続していると感じ、ごくふつうに外的世界を表象していると思えてさえいれば、そのことによって外界は空間的にも時間的にも実在することにならざるをえない、ということであろう。これは、思考というものは必然的に「(現実的な)外界の事物」という観念を取り込んで成り立っている、と言っているだけで、それが本当に思考の外にあるかどうかは(思考の内なる「思考の外」観念を超えては)決してわからない*、とも(暗に)言っていることになり、まさにそれだからこそ(そこはわからなくてよいからこそ)デカルト批判として完全に有効にはたらきうることになるわけである。
*すなわち、彼もまたデカルトと同様、(しかし思考の成立条件の内に外界の事物への参照という要素を不可欠のものとして取り込んだ一段階高い水準の)蓋然的観念論者として、そこはやはり「たんに疑わしく証明されない」と説いていることになる。
31 ここで私はカントを批判しているように見えるかもしれない。「観念論論駁」というタイトルが名が体を表していないという点にかんしては、たしかにそうもいえるが、しかし、カントのこの議論自体は、非常に素晴らしいものであると思っている。とはいえ、少なくともそれは、「私」やその「思考」のあり方の仕組みにかんする議論であって、そもそも観念論vs.実在論をめぐる議論でありえてはいない、とはいわざるをえないであろう。たとえば落語なら、横町のご隠居さんか誰かから、このカント的な説明を受けた熊さんだか八さんだかは恐らく、こう問い返すに違いない。「なるほど、そういう仕組みになっていることはよーくわかった。たしかに、おれ自身もそうなっているようだ。ところで、おれ自身も実在すると前提せざるをえないように出来ているその外界の事物たちは本当に実在するのかい? それとも、おれ自身がこんなふうに存在するためには、それも実在すると前提せざるをえないというだけのことなのかい?」と。この問いは正鵠を射えており、ご隠居がどう誤魔化そうと、答えがじつは「おれ自身がこんなふうに存在するためには、それも実在すると前提せざるをえないというだけのこと」であることははっきりしている*。その外のことは、やはり「疑わしく証明されない」ことなのである。
*ときに「観念論論駁」というこの項目の設定に際してカントが仕掛けたトリックに見事に引っ掛かって、その最大の問題点を見逃してしまい、彼のここでの議論を無意識のうちにか「デカルト的懐疑にもかかわらず……」とか「どんなに懐疑してみても、その場合でさえも……」のように読んでしまう純朴な方も多いように見受けられるが、カントはここでじつはむしろ「デカルト的懐疑のおかげで……」とか「そんなふうに懐疑してさえもらえれば、その場合には……」と(暗に)言ってしまっていることは決して見逃してはならない。すなわち、この証明は(つまりこの場合、超越論哲学は、ということになるが)、経験観念論に対する返し技としてはきわめて有効(どころか無敵)なのだが、じつのところは単独では何のはたらきももたないのだ。とはいえ、この指摘に納得すると、今度は、またしてもあまりにも従順に、だからカントのこの議論は駄目なのだ、と思ってしまう人が多いのは、さらに困ったものである。返し技として有効であるというただそれだけで、そのことそれ自体が、圧倒的に素晴らしいからである。単独で何かできたりする必要など全然ない。
32 しかし、誤解してはならない。「私自身がこんなふうに存在するためには実在すると思わざるをえないということ」こそが、そこに付きうる「だけの」を強調しても逆にそれはまったく無視しても、いずれにしても真に驚嘆すべき、画期的な達成なのである。これはどんなに素晴らしい議論であるかを、単なる哲学的思考という領域における議論の洗練度の高さとしてだけでなく(それはそれで味わってほしくはあるが)、デカルト的懐疑を自ら実践し、そこからカント的に脱出する経路を自ら辿ることによって身をもって根源的に実感する人が、少数でもいてほしいと願わずにはいられない。私は、カントの言うことは真実であり、この世界は本当にそのように出来ているように思う。しかし、そこには少なくとも二つの問題がある。第一に、これは少しも観念論の論駁などではなく、あからさまにその再建・再構築でしかありえないこと。そして第二に、より本質的な問題として、この世界が本当にそのように出来ているとはいったいどのように出来ているということなのか、カントの語り方では決して十分ではない、ということである。第一の問題は、段落29で「かりにこの証明そのものは成功しているとして」として提起されたものだが、第二の問題は、論駁として成功か不成功かといった通俗的評価を超えた、その議論の内実そのもののより深い検討を必要とする。
33 先に進む前に、第一の問題についてもう少しだけ掘り下げておこう。この証明は要するに、「私」という観念は、それが外界の存在と込みでしか存在できないように出来ている、と言っているにすぎない*。たしかにそれは、「ということはまた逆に、外界の事物という観念は、それが「私」の存在と込みでしか存在できないように出来ている、とも言っているということかい?」という問いには答えられない。しかし、答えられなくてよいのだ。超越論的観念論においては、その種の問いに対する答えは、つねに「イエス・アンド・ノー」でしかありえない。「外界の事物」にはつねに二義性がある。一つは、「物それ自体」としてのあり方という意味であり、それはわれわれには知りようもない。もう一つは、まさしく超越論的観念論的に正しく構成された世界のあり方という意味であり、この意味からすれば、「それは本当に実在するのかい?」という問いに対する答えは「もちろんだ、それがわれわれの知りうる唯一の正しい「本当さ」なのだから」となるだろう。この分裂はまさしく超越論的観念論の本質そのものを表現している。
*しかしそれは、「神」という概念は「存在する」という述語づけと込みでなければ成立しない、というあの存在論的証明の議論と並行的である。その場合もおそらく、あの熊さんだか八さんだかなら、「で、その「存在する」という述語づけと込みでなければ成立しないようにできている「神」とやらは、本当に存在するのかい、それとも本当は存在しないのかい?」と問うであろう。これはもちろん正当な問いである(そして、神にかんしても、その正当性しか存在しない、と論じていくことはできる)。
34 それはそうなのだが、ここではしかし、少なくとももう一歩は問いを進めておくべきであろう。次の問いは「「本当に」とはつまり「私なしにも」ということになるだろうが、「私」なしにもそれは本当に(つまりそれだけで)実在するといえるのか?」である。この点については、観念論に対するこの論駁はひとことも語っていない。しかし、もし観念論vs.実在論ということ自体が主題であるなら、それこそが語られねばならぬ中心課題であったはずだろう。まずはカントを離れて考えてみよう。ごくふつうの実在論の立場なら、私が存在しようとしまいと(そしてそこで「私」がどういう意味で使われていようと)客観的世界がそんなものなしにそれ自体で存在することに何の疑いもない、ということになるだろう。これは自明の真理である、そう考えるのが実在論であろう。しかし、カントがこの見地に同調できるかといえば、それは疑わしい。結果的に同調できるような世界観を構築することはできるだろうが、それはやはり何らかの意味での「私」を出発点として、でしかありえないであろう。ふたたびカントを離れて考えた場合にも、いったん私が存在してしまえば、そいつが生まれたその世界はそいつなしにもありえた世界であることになるだろう(つまりそこからは実在論になるだろう)が、それはあくまでもいったんそいつが存在してしまった(すなわちいったん世界が開けてしまった)から言えることであって、そのような開けなしには世界はそもそも存在することができないのだ、という見地に立つことは十分に可能である。そして、カントもまたその種の考え方の一味である可能性は高い。なぜなら、何度も論じてきたように、もしそうでなければ超越論的観念論などという突飛な考え方を構築しなければならない理由がそもそもありえないだろうからだ*。
*この「いったん私が生まれてしまえば、その世界は私なしにもありえた世界であることになる」は、構造的上、カント哲学と同型である。これは、「いったん超越論的な統覚がはたらいてしまえば、そこで出来上がる世界はそれなしにもありえたような(=そんなものがはたらいて出来ていることはその内部では現れてこないような)そういう世界になるだろう」に対応するからである。これがすなわち、超越論的観念論=経験的実在論、ということであろう。
35 カントはデカルトを遥かに超えて観念論を徹底させているといえるだろう。デカルトは疑う余地のない「コギト・エルゴ・スム」に達した後、それと同じように明晰判明に知られうることが他に何があるかの探究へと方向を転じ、神の存在証明を経由して、そこから客観的世界の存在へと向かうが、カントはそのように方法論に依拠してではなく、むしろ「エゴ・コギト」のはたらきそのものの内側から、客観的世界の存在の不可避性を導き出そうとした。その際たしかに彼は、規定された「私」の「エゴ・スム」にかんしては、作り出される客観的世界の存在を経由してしか、すなわちその客観的世界の内に位置づけられてしか、ありえないと考えたが、しかし、規定する「私」の「エゴ・コギト」そのものにかんしては、デカルト的なそれの根源性を、デカルト以上に、どこまでも手放していない。この、なぜかそこからすべてが始まる不可思議な「エゴ・コギト」の「私」から、客観的に位置づけられた「エゴ・スム」の「私」にいたるプロセスが、不可避的に客観的な世界を作り出すのであり、しかも、その道筋以外に、われわれに把握可能な仕方で客観的な世界の存在が可能である道筋はありえない、とカントは考えていたであろう。それは驚くべき異様な考え方だともいえるが、理にかなっているどころかそう考えざるをえない、ともいえる理由はたしかにある。そういえる理由についての検討は後ほどにして、この議論のもつ構造上の二義性・両義性だけここで確認しておこう。この道筋が踏破され、客観的世界に完璧に位置づけられた「私」が出来上がると、以前に段落34で提示した「……客観的世界がそんなものなしにそれ自体で存在することに何の疑いもない」という素朴実在論的なとらえ方がその内部で正しいものとなるからである。それは完全に成功しきることはないとはいえ、かなりの程度には――少なくともタテマエ上は完全に――成功したことになるだろう*。
*これがあくまでも「タテマエ上」であることからわかることは、構築されたこの世界像は最初からある種の道徳規範であるということである。すなわちそれは、言ってみれば「君は君の認識能力によって君自身をあたかも客観的世界の一部分でもあるかのように存在させよ」という定言命法的なあり方をしているわけである。その意味では素朴実在論は道徳である(この道徳的命令に従わないと利己的であることさえもできない)。
道徳との類比をさらに続けるなら、この論駁の議論は利己主義というものは本質的に利他性を内に含まざるをえない(でないとちゃんとした利己主義になれない)という議論と構造が似ている。こちらの議論にも一定の説得力をもたせることができるが、そうするとむしろ逆に、利己主義内の利他主義しかありえないことを暗に示してしまうという結果になる。本当の利他性というものはじつはありえないことを暗に主張してしまうことになるわけだ。
外界にかんしても利他性にかんしても、そうであって特段の問題はない、と私は思うが。
六 観念論論駁(その2 では何がなされているか? そして何がなされるべきだったか?)
36 段落32で分類した第二の問題に移る前に、その準備もかねて、三つの注解の概要を紹介しておこう。注解1の冒頭の言葉は「この証明からわかることは、この観念論は自らがもてあそんだその戯れによって、逆に、より以上の正当性をもって報復を受けることになる、ということである」(B276)である。これはつまり、例によって相手のオウンゴールを指摘しているわけだが、繰り返し指摘したように、むしろ相手のオウンゴールを指摘する以外の仕方では点が取れない新しいゲームを開発した、という事実こそが重要であろう。その後、次のように語られている。
しかしながら、ここで証明されたことは、外的経験は本来直接的であり、この外的経験を介してのみ、われわれ自身の現実存在の意識がではないにしても、時間におけるその現実存在の規定が、すなわち内的経験が可能となる、ということである。もちろん、私は存在するという表象はあらゆる思考に伴いうる意識を表現し、ある主観の現実存在を直接的にそれ自身の内に含んでいるものではあるが、しかしそれはまだその主観のいかなる認識でもなく、したがってまた経験的認識、つまり経験でもない。(B276-7)
この後、その理由として、経験となるためには思考だけでなく直観が必要で、主観は「その内的直観にかんして、すなわち時間にかんして規定されねばならない」のだが、そのためには「外的対象」が必要だから、と言われている。
37 この注解1の引用された第一文には「われわれ自身の現実存在の意識がではないにしても」という譲歩節がある。「外的経験を介してのみ……可能となる」のは「われわれ自身の現実存在の意識」ではなく「時間におけるその現実存在の規定」にすぎない、と明言されている。(定理にも「しかし経験的に規定された意識は……」という文言が見られた。) さてしかし、デカルト的な懐疑を実践するには、本当にそのようなものが必要とされるのだろうか、という疑問が湧く。確実に存在するのは私の意識だけだ(これはここでのカントの表現では「現実存在の意識」のほうに当たるだろう)と言っている人に、それではなくて「時間におけるその現実存在の規定」のためには(「経験的に規定された意識」のためには)外的経験の介在が必要なのだ、と力説してみても、相手は「私は「時間におけるその現実存在の規定」や「経験的に規定された意識」の話などはしていない、そんなものは要らない、そもそも「規定」なんかされなくてよい」と答えるのではなかろうか。「確実に存在するのはこれ(自分の意識を指して)だけだ、と言っているだけなのだから」、と。引用箇所の第二文にかんしても、ほぼ同じことがいえる。規定なんかされなくてよいのと同様、(カントの意味で)「認識」されたり「経験」されたりする必要もない、と言うに違いない。「規定」されるとか「経験」たりうるとか、そのようなことは、要するにはちゃんとカテゴリー適用されて正当な存在者と認められるという意味であるから、カント的にはそれはきわめて重要なことではあろうが、デカルト的懐疑の実践者にとってもそうであるはずだと言い立てるのは論点先取だといえる。懐疑の実践者は、まさにそのようなものの外にこそ「決して疑いえない」場所があるのだ*、ということこそがこの懐疑の決定的な帰結なのだ、と言っている可能性もあるであろうから。自分の側に都合よく勝手にルールを変えて勝利宣言をしてみても始まらない、とはたしかにいえるであろう。
*この「外」の意味を、おそらくカントはまったく理解できないに違いない。しかし、ここがこの問題のキモである。これについては段落42以下で論じられる。
38 とはいえしかし、ここで第4章の段落28から後のあたりのデカルトの記憶(ラフレーシュ学院の思い出等々)についての議論を思い出していただきたい。忘れた方は再読・再考していただきたい。そこでは、つづめていえば、懐疑といえども時間的な持続を必要とする、ということが言われていた。そこに、その時間的持続のためには実体持続の原則が不可欠だから、外界の事物が必要なのだ、といったことを付け加えるのが、ふたたびつづめていえば、カントの議論である。それが「規定」を与えるということである。構造上はたしかにそうはいえる。時計の針も、文字盤の固定的な持続性なしには「時を刻む」ことはできない。ゼノンのアキレスとカメのパラドクスとは、針と文字盤が癒着・連動してしまい、独立の文字盤にあたるものが存在しなくなった場合の、すなわち「実体の持続」が想定できない場合の、時間のあり方についての考察であったろう*。しかし、動く針と不動の文字盤との関係は相対的であり、文字盤は文字盤で、針との関係の外では動いていてもとくに問題はないはずである。同様に、持続する(常住不変である)という性質は(したがって実体であるという性質も)相対的であるはずだ。カントの観念論論駁の議論も、実質的には、時間の経過には相対的な意味での不動者・不変化者の存在が不可欠だと言っているにすぎない。それはじつは自分自身の中にあってもよく、それどころかある意味ではじつは自分の中にしかあれないとさえいえる**。
*この点については、青山拓央「アキレスと亀:なぜ追いつく必要がないのか」、『科学哲学』43-2(2010年)を参照のこと。
** この独立性(無関係性)は相対的(相関的)なそれでしかありえないであろう。絶対的に独立なものとはそもそも関係できないであろうから。この相対性の論点は、この注解1に付いているさらなる注と、注解3の内に、明示的に語られていると解しうる。注解3ではこう言われている。「外的な事物の直観的な表象が(夢や妄想の場合のように)たんに構想力のもたらした結果に過ぎないことは十分にありうること」だが、そうしたものが生じうるのは「たんに以前の外的な知覚の再生を通じてのみであり、そうした外的な知覚は、すでに示されたように、外的な対象の現実性を通じてのみ可能である。」「ここで証明されるべきであったことはただ、内的経験一般は外的経験一般を通じてのみ可能であるということだけであった」(B278-9)。最後の引用文には「内的‐外的」の対比が相対的な関係にすぎないことが(「一般」という語によって)明示されているとみなしうる。その前の引用文はそのことを誤魔化してはいるが、この議論においては「以前の外的な知覚」自体がじつはまた「(夢や妄想の場合のように)たんに構想力のもたらした結果に過ぎない」可能性が(どこまでも!)否定できない。(一般にカントの議論には、夢――通常そこでは実体は持続し因果連関も成り立っている――を現実から区別できる根拠は見出せない。) 注解1の注における「あるものを外的なものとして想像するだけのためにも……すでにしてわれわれは外的感官をもっていなければならず……」(B276-7)という議論についても同じことが言える。その全体がまた想像である可能性は結局のところ否定できないからだ。そして、まさにそうであるからこそこの有意味な対比が成り立つのである。外は不可欠だがつねに内における外でなければならない。
39 観念論論駁の中では、注解2が最も深くまで(あるいは細部まで)考察を進めているように思われる。その中心部分を引用する。
われわれがあらゆる時間規定をおこないうるのは、空間内で持続するものとの外的関係における変移(動き)を通して(たとえば地上の諸対象に対する太陽の動きを通して)だけである。そのうえさらに、われわれが実体概念の根底に直観として据えうるような持続的なものを、たんに物質としてしかもっていない。この持続性でさえも外的経験から得られるのではなく、むしろ、すべての時間的な規定の必然的な条件としてアプリオリに、したがってまた、外的な諸事物の現実存在を通じた、われわれ自身の現存在にかんする、内的感官の規定として、前提されるのである。「私」という表象における私自身の意識はいかなる直観でもなく、思考する主観の自己活動のたんなる知性的表象にすぎない。だから、この「私」は、持続的なものとして、内的感官における時間規定の相関者として役立ちうるような、直観から得られるいかなる述語をも持っていないのである。(B277)
第一文は、時間規定にとっての持続と変化の相対的関係の必要性が述べられている。太陽が針で地上の諸対象が文字盤である。固定した文字盤なしには針は時を刻めない。しかし、太陽にかんするこの関係の成立は偶然的事実であろう。そんな規則的な運動(変化)がまったく存在しない世界もありうるであろうから。そういう世界では観念論に対する論駁ができないのであろうか(逆にそういう世界でさえなければそれだけで観念論は論駁されるのであろうか)。これはやはり奇妙な印象を与える。第二文の「物質としてしか」も、やはり偶然的事実である。第三文では、そのような偶然的な事実が不可欠なのではなく、それらにも当てはまるあるアプリオリな関係が不可欠なのだと言われている、と読める。「われわれ自身の現存在にかんする内的感官の規定」は、現実にはたまたま「外的な諸事物の現実存在を通じ」てでなければなされないとはいえ、それはたまたまのことであって、何らかの意味で外的な規則性が存在してさえいればよい、と言われている、と*。最後の第四文・第五文こそが、最も根底的な意味におけるデカルト論駁であるといえるだろう。「私」は、している思考における内容的な繋がりなしには、そのままでは、すなわち「私」であるという事実だけでは、持続できない。だから「私」は、おのれのその繋がりを疑うことだけはついにはできないのだ。誇張された根源的懐疑にもかかわらず、そんなところに「疑いえぬもの」が残ってしまう。そして、その疑いえない持続こそが外的な事物の存在を要請する、と繋がっていくはずである。述べてきたように、この最後の一押しは相対的な外部性の要請だといえるのだが、その点とも繋がって、それを要請することになるこの繋がり(すなわち総合と統一)の不可避性こそは決定的な論点となるはずである**。
*たとえば心の中でまるで時報のようにある感覚が規則的に起こるというようなことではどうだろうか。それが、感情や思考等々の内的な繋がりとはつねにまったく無関係に、それだけで独立に起こるのであれば、それは時間を測るのには十分に使えるし、また、起こる感覚がそれぞれ時刻を告げる特徴をも持っていると想定すれば、あらゆる時間規定のために十分に使えるであろう(記憶はつねにその感覚との関連において持たれることになるだろう)。それらは内的感覚ではあるが関係は外的である。ところで、その際に最重要の問題となるのはむしろ、他人たちもまた同じように規則的にそれらの感覚を経験するか否か、であるはずである。じつのところは、カントの挙げている太陽の規則的な動きでさえ、その独立の規則性だけでなく、それを他人たちも皆また見る、という点にこそ真の重要性があるはずである。すなわち、物質的か否かではなく、他人も同じ(と見なしうる)経験をするか否か、こそがじつは決定的なのだ。不思議なことに、カントにはこの視点がまったく欠けている。自‐他のヨコ問題がすべて心‐物のタテ問題へ還元可能だと信じているかのようである。しかし、それははっきりと誤りである。この点は、その逆の還元ができると思っている人に対しても言いたいところである。独立の規則性の存在は、他者もまたそれと同じことを経験するか否かとは独立に、それ自体として重要なのだ、と。ここには、カントvs.ウィトゲンシュタインの対立があって、ここで私はカントに対してウィトゲンシュタイン的視点の重要性を語ったことになるが、通常はむしろ、ウィトゲンシュタインに対してカント的視点の重要性を語りたく感じることのほうが多い。両者は相互に還元不可能だと思う。
**こんなところで言うのは場違いではあるが、適当な場所が見当たらなかったにもかかわらず非常に重要なことなので、ここでごく簡単にではあるがとにかく指摘しておこう。言語的意味は、時間規定とは違って、外界の物質の存在に根拠を持つわけではないが、他者とのあいだの(言語的意味に関する)間主観的な一致を前提とすることによって、そこを文字盤のように固定することで異なる心のあり方(たとえば意見の違いなど)を知ることができる。その際、意味と意見とは完全に(しかし相対的に)分離されていなければならない。この問題は、内容的にも形式的にも、ここで論じられている問題との強い繋がりを持つはずだが、デカルトもカントもなぜかこの問題にまったく触れない。ついでにいえば、私的言語は可能かという問題は、それにもかかわらず言語的意味の成立にとってもなおカント的な繋がりが本質的な役割を果たしうる(あるいは果たさざるをえない)のではないか、という問題であるといえる(前注も参照のこと)。
40 カントは、「観念論論駁」では相手のオウンゴールばかりを言い立てているが、じつのところは言い立てられている外界の事物の存在などという些事よりも遥かに手前で、もっと決定的に(あるいはもっと事柄に即して)デカルトの出鼻を挫くことに成功しているのだ。デカルト的に疑いえなく存在する「私」は、唯一それだけが疑いえなく存在するからこそ「私」であるにもかかわらず、唯一それだけが疑いえなく存在しているというその本質的な(=それこそがそれをそれたらしめている)性質の持続によっては持続できないというきわめて特殊でしかも根源的な欠陥をもっているからである*。その持続のためには、何かしら偶有的な(すなわちそこは疑いうるはずの)性質に依拠せざるをえないのである。その点こそが決定的で、ただそこを突くだけで、カントはデカルト的に疑いえぬものの存在を易々と瓦解させることができ、返す刀でその持続を可能ならしめる世界の客観的諸性質を認めさせることもまた易々とできたはずなのである。しかも、デカルト的な出発点から出発してそこへと至るには、デカルト的懐疑の実践者は自ずと超越論的統覚たらざるをえない、というかたちで、デカルト的観念論を継承しつつ発展させることもまた容易な(というかむしろそれしかありえない)道筋だったはずである。そうすれば、「経験的に規定された意識」とか「時間におけるその現実存在の規定」といった論点先取的な限定条項を密かに持ち込む必要もなく、むしろ規定されざるをえないその必然性をも、より説得的に示せたであろう。そうでなければ持続できないのだ、という仕方で。超越論的統覚の「規定する」はたらきによって自らも「規定される」ことにならざるをえないのだ。とはいえ、実際にも、実質的にはそれをおこなってはいる。つまり、観念論を論駁するなどという通俗的な(世間の評価におもねった)仕事を経由する必要そのものがなかったわけである。カントはそう思っていないかもしれないが、デカルトを論駁するどころか見事に受け継いで支配下に置いているといえる。
*通常の場合(すなわち他のすべての場合)、それをそれたらしめている本質的性質さえ維持されていれば(その他の偶有的諸性質がどんなに変化しても)それはそれとして持続できる(できるというよりしてしまう)。そういうものを「本質的」と呼ぶのであるから、それは自明であるともいえる。ところが、この場合にはそれが成り立たないのである。
41 カントのこの論駁は、彼が「規定」にこだわったことからもわかるように、われわれの表現を使うなら、デカルトの「私は思う」を「私は考える」と取った場合のみ妥当する、といえる。カントは強引に(論点先取的に)そう取ったわけだが、そう取らざるをえないのだ、という議論を挟むべきであった、と私は論じてきたことになる。ということはつまり、「私は考える」の場合にだけ、外的世界の存在が前提されることになる、ということである。これはなかなか興味深い事実だといえるだろう。多様に与えられていることどもがカテゴリーに従って文的に繋げられると、そのことによって外的・客観的な世界が作り出されることになるわけである。それではしかし、カテゴリーに従って文的に繋げられていない、たとえば(ウィトゲンシュタインの言う)繰り返し起こる(と感じられる)「感覚E」のようなものの場合ではどうか。それは、その感覚を感じる主体がデカルト的な懐疑のさなかにあるような(まだ規定されていない、あるいは規定を解除された)主体なのか、それともふつうの(すでに規定されており、規定され続けている)人間主体なのか、で変わるはずである*。前者であれば、時間を見渡して「同じ感覚」が繰り返し起こると言える力がないが、後者であればそれは容易なことであるからだ。その場合、「感覚E」はすでにして公共言語の内に位置づけられており、前章で論じた「夕焼けの赤さ」のようなものの仲間として処遇されうる地位を得ているはずだからである。それらはすでにして客観的世界を経由しているからである。
*私は処女作である『〈私〉のメタフィジックス』において、この対比を仮想上の「X君」と「Y氏」との対比として、さらにまた自然状態と治外法権との対比として描いた(四十年前と考えが変わっていないようだ)。しかし、いまならこの感覚が他の心的諸現象とは独立に定期的に起きるように感じられる場合を想定し、相対的に客観的に(すなわち私的に客観的に)それで時間が測れる、という議論を付加して、より過激に論を進めたいところではある。もちろんその場合にも、だいたい一時間おきにといったことはありえず、それがいえる場合は、まさにカントが言うとおり、物理的世界全体の存在が前提されることになるだろう。
42 カントはそう思っていないかもしれないが、デカルトを論駁するどころか見事に受け継いで支配下に置いていると言ったが、当然のことながらと言ってもよいと思うのだが、その逆もいえる。デカルトはもちろんそう思ってはいないだろうし、たとえカントの議論を知ったとしてもなおそうは思わなかったではあろうが、それでもなお、デカルトの側もまた、カントに論駁されるどころか最重要の一点においてその支配の魔の手を完璧にかわしており、最初からまさにその点にこそデカルトに固有の発見があった、とさえいえるからである。その観点から見れば、直前の二段落で述べたことは重大ではあっても最深の問題ではないことになるだろう。なんといっても、そこでは「私」という第一人称が、すなわち人称カテゴリーが、あるいは人称図式が、始めから前提されて、実際に使用されてしまっているからだ。議論の全体がその上に乗っかって成り立ってしまっており、はっきりいえば、それこそが問われねばならない最重要問題こそがまったく手つかずに前提されてしまっているのである。
43 私がデカルトに帰したい(すなわち固有にデカルト的だと見なす)ポイントを、カントのこの議論に対する疑問という形で表現するなら、それは「しかし、そのことは他人にかんしてもいえるのか? いえるとすればなぜ?」となる。この問いは二つの意味にとれる。一つは、「あなたがその存在が証明した「外界の事物」の内には他人(の心)も含まれるのか、含まれるとすればどのようにして?」という意味であり、もう一つは「デカルトがその存在こそが唯一確実であると見なしてあなたがそれを論駁しようとしたその「私」の存在には「他人の「私」」の存在も含まれるのか、含まれるとすればいかなる根拠で?」という意味である。私はどちらにも否定的に答えざるをえないと思う*が、カントは(次章で「誤謬推理」を扱う際により詳細に検討することになるが)後者の問いには「含まれる」と肯定的に答えることになるであろう。すると、次の問いは「外なる空間的事物よりも先にその存在が前提されるその「私」は、私の「私」と同種的であると見なされているその他人という存在者は、いったい何であるのか。その自己性(「私」であること)も謎だが、その他者性(それが私のではなく他者のであること)はいったい何であるのか。そして、その矛盾したあり方の両立は、いかにして可能なのか」である。観念論論駁における外界の諸対象のようなやり方で、それの存在証明がなされる道筋はありえないだろうが、だとすると、その不可思議な存在者はどこからどのように湧き出て来る(ことができる)のか。最も肝心なこの問いに対する答えが(というか問いそのものが)カントにはない。しかし、はっきりいえることは、デカルトの蓋然的観念論はこの問いをも含みうるのだ。この小さな(と見えるかもしれない)違いこそが、この二者を隔てる決定的な差異なのである。あるいは、そこにこそこの二者の決定的な差異を見て取るべきなのである。デカルト的な「私」は、カント的な「私」とは異なり、始めから他者でなさの意味を含んでいる、あるいは含みうるのだ。繰り返すことになるが、それこそがこの二者の決定的な違いである。そうであるがゆえに、じつのところデカルト的観念論は、カントの論駁にもかかわらず、まったく無傷で生き残り、その効力を発揮し続けうるし、むしろ発揮し続けざるをえないのである。
*「どちらにも」であることがこの存在者の特殊性を示している。すなわち、この問題はカント的枠組みでは捉えられない問題なのである。
44 すでに言ったことではあるがこの文脈でもういちど言っておくなら、ウィトゲンシュタインの「私」の主体としての用法の問題も、カスタネダやシューメイカーの誤同定不可能性の問題も、こちらの系統の問題である。これらはみな、他者でなさの意味での「私」の存在から出てくる問題であり、したがってカント的な論駁の仕方では、論駁されないのは当然として、そもそも近づくことさえもできない。たとえば複数の生徒たち(に類する者たち)がいて、先生(に類する者)が「この中にいま気分の悪い者はいるか?」と問うたとき、現に気分が悪いゆえに「はい、私は気分が悪いです」とその口から発する生徒は、たまたまその身体に付いた口と連動しているために、「私」の対象としての用法にも繋がるとはいえ、それはたまたまのことであり、その発話意図の成立において、身体との連動に類する一切は必要とされない。カントふうに言えば、「時間におけるその現実存在の規定が、すなわち内的経験が」(段落36参照)可能になっている必要はない(通常の場合は、たまたま可能になってもいるではあろうが)。その「私」は、客観的に持続している必要がないのはもちろん、主観的にさえ必ずしも持続していなくてもよい(通常の場合、どちらもたまたましているではあろうが)。少し前から気分が悪かったということはたんにいま持っている記憶(のように見えるもの)であってよい(本当にその気分が持続的に存在していたか否かはそもそも問題になりえない)。だからもちろん、自分がだれであるかを知っている必要もなく(通常の場合、たまたま知ってもいるではあろうが)、さらにそのとき身体がなくてもかまわない(通常の場合、たまたまあるではあろうが)。ともあれ、気分の悪さと描写可能な(と思われる)ものが端的に与えられてあるという事実が把握できさえすれば、この場合、それこそが、それだけが「私は気分が悪い」ということなのであるから、カント的な厳密な意味ではそのことを経験的に認識している必要などはない。ともあれ気分が悪く感じさえすれば、その気分の悪さは存在しないことも他人のものであることもできず、存在しておりかつ私のものなのである。そこにこそ(そこにだけ)「疑いえないもの」があるのだ。「私は思う、ゆえに私はある」のポイントも、じつはそこにある。
45 その場合の「私」は、他者との対比(すなわち他者でなさ)こそが本質なのではあるが、その他者でなさという否定性は、ただ何かが現に現れているという肯定的事実の内に、その現れは決して他者への現れではありえないという否定性の含意として、表現されている。ここには、独在性の事実が客観的世界(そこにはたくさんの主体が対等に存在している)の中で有効にはたらく、という驚くべき事実が示されており、その際、その独在的主体に自己同一性が成立しているかどうかといったことは、この真に驚くべき事態の成立にかんしては、関与するところがないのだ。このような意味での「私」の存在にかんしては、外的世界がともに存在していようといまいと、そのような些事はいっさい関与性を持たない。ここには典型的なヨコ問題が存在しており、タテの繋がりの問題は(事実としては存在していても)事柄の本質とは無関係なのである。ヨコ問題的な「私」にとっては、その存在に外界の存在が込みであらざるをえないとしても、そんなことはないとしても、その種のことは、そのあり方の本質にいかなる影響も与えないからである。もしかりにその「私」が客観的にちゃんと持続してもいるとしても、さらにまたそのことにとって外界の存在が何らかの意味で不可欠であるとしても、それらはみなヨコ問題的な「私」の存在の問題とは無関係な外的事情にすぎない。そのような些事はすべて、他者の「私」にも同じようなことがいえもするような事柄であろうからだ*。
*しかし、あらかじめ少し高度な話をさせてもらえるなら、本当はここにこそ最も困難な哲学的問題が伏在しているだろう。いまの文脈で「そのような些事はすべて、他者の「私」にも同じようなことがいえもするような事柄であろう」といえるのは、カント的な論駁の公式見解に忠実に言っているだけのことである。本当にそうであるかは、以下にも述べるように疑いうるし、疑いうるどころか、カント自身でさえ暗にその疑いから出発している可能性も小さくはない(最終段落を参照のこと)。
46 だから、もしかりにカントの議論が全面的に正しかったとして、そしてそのことを全面的に受け入れたとして、その場合にもやはり、必然的に外界込みで存在せざるをえなくなったその「私」たちのうちに、ただ一つだけ、疑う余地なく存在する「私」が存在することになる*。その一つのものだけがもつ(他とはまったく異なる)特殊性がそもそも何であるのか、いったい何に由来するのか、カントの議論ではそもそも接近することさえもできない**。つまり、その(=そこでだけ生じている)疑いえなさには接近することができないのだ。しかし、そこに接近できないのであれば、カント的論駁はじつはデカルト的観念論の最深の核にかんして何も為しえていなかった(すなわちカントの観念論論駁は無意味であった)ともいえるであろう。デカルトは少なくともそちらの問題をも同時に捉えていた。すなわち彼の懐疑には、カスタネダ・シューメイカー的な「誤同定の不可能性」の要素がすでにして含まれていたからだ。そしてカントはそこを見逃していた。カントの議論にはその側面がまったく欠けているから。そう見れば、カントは少なくともデカルト的問題そのものの核心を(核心は)取り逃がしていた、と言わざるをえないことになるだろう。
*ここから、本当はその意味での私しか存在しないかもしれないという、いわゆる独我論的な懐疑論を構想することはたやすい。ただこの私だけが、たしかにその種のもの(「私」)が不可欠に伴うことになるらしい客観的世界(あるいは客観的世界妄想)と込みでではあるが、単独で存在しているにすぎないのではあるまいか、と疑うことはあまりにもたやすい。カントの観念論論駁にはこの種の懐疑論を対象とする独我論論駁の要素が欠けているのだが、そもそも独我論は観念論論駁のようなやり方では論駁できない。それには二つの根拠がある。まず第一に、他者は外界の一部であると同時にそれだけではなくむしろ逆に自己と同型のものであるから、独我論論駁には観念論論駁とは別の、もっとはるかに複雑な戦略が必要になる、というあたりまえのことがある。しかし第二に、こちらのほうが本質的な問題なのだが、かりに観念論論駁ふうのやり方で、私というものは他者(の私)込みでなければ存在できないように出来ている、ということが証明できたとしても、それだけではそこになおも存在しているその自他の差異そのものの根拠が説明できない。同格に存在しなければならないはずのものの同格性がいかにしても説明されない。逆に、いかにしても同格たりえないことの根拠も解明されない。だから、そんなふうに他者(の私)込みでなければ存在できないように出来ていることが証明できたとしても、そのようにそれらが込みになった一つの世界があるだけではないのか、という懐疑は払拭されないどころかむしろ強化されさえしてしまうことになるだろう。ここには、観念論vs.独我論という別の対立を見て取ることができ、また見て取るべきである。この対立の存在こそが哲学的に本質的である。他人たちは物たちとは違って口々に「私もあなたと同じです」と言うであろう。そして、ある意味でそれはまったく正しいのだが、しかし、現実には、現に全然違っている。独我論の懐疑はこの事実に根ざしている。
**ここにはおそらく、まさにこの観念論論駁がそこに位置づけられている様相における「現実性」を使うべき場所なのだが、その議論からもわかるように、彼はそれを誤った仕方で使ってしまっている。様相における現実性という問題は、物が実際にあるかじつは妄想かといった問題とは関係がない。もし妄想である(妄想がある)ならば、それが現実にあるからだ。それ(妄想であること)はたんに可能的であることももちろんできる。これは、妄想ではなく物的に実在する物にかんしても同じことがいえる。ライプニッツが深く理解していたはずのこの意味での現実性の問題を、カントはさっぱり捉えていないように思える。それだから人称におけるヨコ問題の存在も、時間における時制の存在も理解できていないように思える。動く太陽と動かぬ地面との関係だけでは時間が成立することはありえない。その関係がどうなった時が現在か、というさらなる問題があって、それがさらに動くのだ。「私」の成立の問題と同様、そこにも異なる二種類の問題が交差しているのだ。この経路から、われわれの世界には形而上学が食い込んでいるのだが、カントはそれらを悉く見逃しているように思える。
47 ところでカントは、超越論的統覚の存在にかんしては、意識することができるだけで認識することはできないと言っていた。それは、経験的に規定されて存在することができないからである。すると当然、この観念論論駁はカント自身の超越論的観念論にも当てはまることになるはずである。というよりむしろ、カントのデカルト批判は、実質的には超越論的統覚を客観的世界から切り離して捉える可能性への批判であった、といえるだろう。すなわちカントはデカルト的「私」を超越論的統覚へと仕立て上げようとした、と。成功の暁には、それはもはやそれ自体として取り出して捉えることはできない。ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の末尾において、登り切った後は打ち捨てなければならないはしごの比喩を持ち出しているが、超越論的観念論は間違いなくそのようなはしごであり、それを登ることで世界の仕組みが全面的に明らかになった暁には、もはやその世界にあることが不可能なものであろう。
48 それにもかかわらず、実際問題としては、それが意識はできるのはなぜか。そこにはじつはヨコ問題が暗にはたらいていると考えるほかはあるまい。段落35において私は「この、なぜかそこからすべてが始まる不可思議な「エゴ・コギト」の「私」から、客観的に位置づけられた「エゴ・スム」の「私」にいたるプロセスが、不可避的に客観的な世界を作り出すのであり、……」と書いたが、大初には、なぜかそこからのみすべてが始まる不可思議な「私」の存在が不可欠であろう。
49 観念論論駁は、第二編「原則の分析論」の第二章「原則の体系」の内の、様相を扱う「経験的思考一般の要請」の中の「現実性」にかんする部分に挿入されたものである。しかし、段落46の注**で指摘したように、カントの様相理解には根源的な欠陥があり、これに続く必然性についての議論にもさしたる意義を認めがたいので、原則論にかんする考察は、観念論論駁を検討したところで終わることにしたい。