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文字の渚 岩切正一郎

古典に目覚めた頃

 

 

 紫式部が主人公の大河ドラマ「光る君へ」を毎週楽しく観ている。紫式部や清少納言が登場人物になって俳優に演じられるのを見るのは、私はこれが初めてだ。歴史を検証する番組ではないから虚実入り混じったストーリーのなかで彼女たちは話したり動いたりしている。半分はフィクションの面白さを楽しみながらも、舞台であれ映像であれ、ドラマには古いものを今のことのように感じさせる力があるので、半分は紫式部や清少納言が身を置いていた日常を、21世紀の今の世に身近にありありと運びこんで見せてくれているような錯覚を愉しんでいる。

 最近の学校では国語の授業で文学作品を読む時間は少なくなっていると聞く。文学離れという言葉も聞く。けれど世の中には紫式部や『源氏物語』に関心を寄せる人はそれなりにいるように見える。以前、松阪市の御城番屋敷(武家屋敷)を見学したとき、案内所の部屋にいた女性は、仲間と『源氏物語』の読書会をしていると言っていた。本居宣長が国学を講じていた土地柄ゆえだろうか。そういう背景はなくても『源氏物語』のファンは各地にいるらしく、光源氏が明石の君と出会った明石は、「聖地巡礼」のスポットとして、観光客からの問い合わせがたくさんきていると新聞に載っていた。

 ある日私は、用事があって、日本の王朝文学を研究している園山千里そのやませんり先生の研究室におじゃましたことがあった。ちょうど少人数で『源氏物語』の草書体のテクストを読みながら物語を解釈する授業をしていて、草書体が装飾にしか見えない私は羨望のまなざしで先生と学生を眺めたものだ。先生と私が話をはじめたので学生はお茶やお菓子を飲み食べし始めた。園山さんは十二年間ポーランドで日本文学を教えていたので、その部屋には、ポーランド文化を感じさせる皿や置物などがあって、いにしえの世と異国が、一瞬サロンに早変わりした研究室で不思議なハーモニーを奏でているようだった。

 

 

 心をゆたかにしてくれる古いものがたくさんあり、そのなかから自分の好みに合うものを選んで親しむことができるのは、とてもありがたいことだ。

 先日は、冷泉家に伝わる「古今伝授箱」から、古今和歌集の注釈書『顕注密勘けんちゅうみっかん』(藤原顕昭による『古今集注』に定家がさらに注を加えた書)の、藤原定家の筆になる原本が発見されたというニュースを新聞やテレビで報じていた。その箱は約百三十年ぶりに開けられたもので、当主は一生のうちに一度しか開くことができないという。

 『顕注密勘』という書のことを何も知らなかったので、検索してみると、自分が務めている大学(ICU)の図書館にちゃんと収蔵されていた。借りて見てみたら、一冊は中央大学図書館蔵の写本を写真版複製したもので、トレーニングしていない私には読むことができない。もう一冊は『日本歌学体系』の別巻で、こちらは活字に起こしてあるので私にも読める。古今集の歌の言葉や意味が、あたかも現代の参考書や古典全集に書いてある説明みたいに、顕昭によってわかり易く解説してある。当時の貴族も、自分たちより約三百年前につくられた歌を解説付きで学んでいたのだと思うと、作品の研究やその親しみ方は、何百年たっても基本は同じなのだな、と感慨深い。

 

 

 和歌には明るくないながら、私は『藤原定家全歌集』を持っている。これは学生時代に神田の古書店の慶文堂書店で買った箱入り・布装の本で、昭和15年の初版のものを昭和49年に復刻発行したものである。

 編者冷泉為臣氏の「自序」を読みながら、ひどく驚いたのを覚えている。そこにはこう書かれていた。

 

〔この本に収められている「拾遺愚草」の〕この底本は、家蔵の最も貴重としてゐるものであり、勅命により他見を禁ぜられた昔よりの戒は、家憲として今なお厳重に守られ、家人といえどこれを披見せんとして取り出す時には、潔斎けっさいを要求されてゐるのである。[1]

 

私のほうはそんなにも神聖な書を活字にした本を、タバコを指に挟み、ときどきコーヒーを飲みながら読んでいるのだった。

 

 東京大学の総合図書館から藤原良経の『秋篠月清集あきしのげっせいしゅう』を借り、インク壺にペンを浸しながら無地のルーズリーフに筆写して手製の和綴じの冊子を作ったのもその頃である。

 なぜ定家や良経の和歌を読んでいたのかというと、それは塚本邦雄に影響されてのことである。彼のエッセー集『詞歌美術館』に、『伊勢物語』中の歌を本歌とする作品が三首載っていて、そのうちのひとつは

 

秋風に鶉となりて露拾ふ深草の野のあさきえにしや

 

という歌だった。『伊勢物語』のなかで鳴いていて、藤原俊成もそれを踏襲したうずら[2]、ここでは鳴くのをやめ、深草の野にむすぶ涙をくちばしで拾っている。その悲しみの姿はとても絵画的でモダンで、少しユーモアも含んでいるように感じられた。こんな魅力的な歌があったのだなあ、と思い、その世界へ引きこまれた私は、続けて塚本邦雄がこう書いているのを読んで大きな衝撃を受けた。

 

もし良経や定家や家隆が深草の鶉を歌つたらかうもなるのではあるまいかと私が代つて試みた。

 

昔の歌人の作品を採録していると思った歌は、じつは邦雄のパスティッシュ[3]だったのだ。しかも邦雄は虚構のなかで女となり、鶉となっている。

 その超絶技巧と歌心に舌を巻いた私は、彼の歌やエッセーを耽読し始め、そこに出て来る俊成や定家や良経の歌にも惹かれていった、というわけなのだ。前衛短歌の歌人の世界へ入っていくと、そこには約八百年前の前衛和歌の世界が広がっていた。

 

 

 12世紀末に催された「六百番歌合」で良経の詠んだ歌

 

見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに

(色々な花の咲いていた秋の草原を見た、その秋をどこに留めればよいのだろう、今はひと色の枯れた野辺の景色になってしまった)

 

の「草の原」という言葉は、相手から「聞き良からず」(耳障りだ)と難をつけられた。それに対して俊成は、『源氏物語』中に「草の原」を使った歌があることを指摘し、「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と評した、ということも私は塚本邦雄を通して知った。

 

 私は歌詠みではないので『源氏物語』を読んでいなくても俊成から文句を言われることはないだろうが、もし読んでいなかったら、人生にとっては遺恨の事だったであろう。古典の勉強やそこで得られる知識などは、激しく動いてゆく時代の変化に対応するためのスキルとしては何の役にも立ちはしないが、今、自分が生きている物質的な現実世界にもう一個別の現実を組み込むインコーポレートということに関しては(今から振り返ってみると)とても役に立っている。

 

 私は十五、六歳の頃、古典の授業で『源氏物語』を初めて知った。自分とあまり年の違わない十八歳くらいの光源氏が十歳くらいの若紫を垣間見するシーンが教科書に載っていた。私はこの一点だけをとっても学校教育に十分感謝する気持ちになる。

 扇形の髪をゆらゆらさせながら、泣いて、赤い顔をして、「雀の子を犬君いぬきが逃がしつる。伏籠ふせごのうちにこめたりつるものを」と訴える若紫の喋り方を、とても可愛いと思い、それを聞いた大人が「烏もこそみつくれ」(カラスなんかに見つかったら大変)と応じて立ち去る場面は、まるで物語の世界がそこに実在しているかのようで、物の質感や声がこちらの肌身に触れてくる感覚があった。

 『更級日記』に書いてあるようなことが私の心にもきざしたらしい。その日記の著者である菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめは、若い頃、心が塞いでいた時期に、気晴らしにと母の読ませてくれる物語に慰められ、「紫のゆかりを見て、続きの見まほしくおぼゆ」(紫の上のくだりを読んで、その続きも読みたい、と思う)という気持ちになった。

 写本だからすぐには物語が入手できない彼女とは違って、私は図書室から活字の『源氏物語』を借りて読むことができた。初めから読み進み、「紅葉賀」へ入っていったとき、源氏の中将(光源氏)が舞う青海波のシーンに夢幻の陶酔をおぼえた。

 

 その日、「紅葉賀」を読んでいると、物語の刻とおなじようにちょうど夕日が射していて、その花やかな夕日の光に包まれながら私の前に現れていたのは、青海波という舞がどういうものなのかは全く知らないのに不思議にありありと舞い踊る光の君の風雅な動きで、楽の音がひときわ美しく響くなか、「舞の足踏み面持ち、世に見えぬさまなり(この世のものとも思われない)」というところで、幻聴なのだがあまりにも鮮やかに、トン、という足踏みの音が聞こえ、物語のなかでは、その「おもしろくあはれ」なさまに、みかどは涙をぬぐっている、それと一緒に、私の眼にも涙が浮かんでいる。まるで物語の中へあくがれ出て、幻想の世界をほんとうに見ているようなひと時だった。あれは何だったのだろう、と今も不思議でならない。

 

 千年後の読者である私にとっても、物語の中の人々にとっても、朱雀院への行幸のために予行練習として催した舞と音楽のなかの青海波の舞は、深く心に残る、忘れがたいシーンとして成立している、というのは面白い。「紅葉賀」から長い年月が過ぎた「若菜 上」の巻で、光源氏の息子である夕霧とその友人の柏木は、舞を終えて退場する前に今一度、「入綾いりあやをほのかに舞ひて、紅葉もみじの蔭に」入る。人々はそれを「飽かず興あり」と思う。そして「いにしへの朱雀院の行幸ぎょうこうに、青海波のいみじかりしゆふべ思ひ出でたまふ人々」は、ふたりの青年が親たちに劣らず立派なのをみて、「めでたく」思うのである。

 この「若菜 上」で、源氏の妻である紫の上は、少しも古びない人としての特徴が強調されている。

 

あるべき限り気高うはづかしげにととのひたるに添ひて、はなやかに今めかしく、にほひなまめきたるさまざまのかをりをも、取りあつめ、めでたき盛りに見えたまふ。去年こぞより今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に目馴れぬさまのしたまへるを、いかでかくしもありけむとおぼす。[4]

 

(何処から何処まで気高い品位がおありになって、立派におととのいになっていらっしゃる上にも、当世風で、花やかで、さまざまななまめかしい薫りまでもおん身に備えておいでになされ、今が絶頂のお美しさにお見えなされて、去年よりは今年がまさり、昨日よりは今日が優って、いつもいつもお目新しいお姿をしていらっしゃるのは、一体どう云う訳なのであろうとお思いになる)(谷崎潤一郎訳)[5]

 

紫の上は、この上なく理想的で気品があるのと同時に、完成され固定された不変の美を保持しているのではないという性質も併せ持ち、いつも新しさを身に帯び、源氏にとっては「常に目馴れぬさま」をしている。彼女は見る人の感性を、習慣のなかへ埋没させず、活性化し続けるひとなのだ。

 古い物語にも彼女と似たところがある。読み返すたびに新しい相貌を見せ、あるときまでは気づかずに過ごしていた部分が、思いがけない深さや色合いを帯びることもある。

 

 

 二、三年前から、私は、晩春の頃、大学のキャンパスでタケノコを掘るようになった。その新しい年中行事が生活のなかへ入ってきたお陰で、それまでは気に留めていなかったシーンが急に身近に感じられ始めた。表向きは光源氏と女三の宮の子だが、実際には亡き柏木と彼女の子である薫は、ようやく歯が生え始めた頃だ。何でも手当たりしだいに噛んでみたくなっている。それで、置いてあるたけのこにも、涎をだらだら垂らしながら囓りついたりする。それを見て光源氏は「ずいぶん変わった色好みだね」と冗談を言う。

 

御歯のひ出づるに食ひあてむとて、筍をつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らしたまへば、「いとねぢけたる色好みかな」とて(...)(「横笛」)[6]

 

この可愛らしい食いしん坊ぶりには、読みながら笑ってしまう。

「雫もよよと食ひ濡らしたまへば」という響きはなんとも心地よく、掘ってきたタケノコの皮についた泥を水で洗っていると、その言葉に包まれて、筍の白い肌を涎で濡らす薫が眼前まなさきに浮かんでくる。タケノコの季節が終わると、キャンパスの草藪には忍冬すいかずらの白い花が咲いている。フランス中世の詩人マリー・ド・フランスの、トリスタンとイズーのことをうたった詩「すいかずら」[7]がそこにふわりと重なっている。

  

 筍やすいかずらが自分の生活圏のなかに生えていなくても、本のなかの出来事や場面はずっと存在し続けている。また、本とつながっていなくてもタケノコは土から緑の鶏冠とさかを出し、忍冬は柔らかな白い花びらを反らしてほそしべを伸ばしている。

 三つ目のあり方もある。実際に土のなかから掘り出したタケノコやほかの草に絡みついて咲く忍冬と、フィクションのなかの筍やすいかずらが生活のなかで結びつくと、そこから、たけのことスイカズラが、この世であってこの世ではない別の空間のなかへ生まれ、現実とフィクションの双方から栄養をもらって、その住人になっている。 

 

 私のたましいはそこで遊んでいる。心のうつろいと定めない光が戯れている。そうしてそこにいるとあの葱が見えるような気がするのだ。

 

夢の世に葱を作りて寂しさよ (永田耕衣)

 

 

 注

 [1] 『藤原定家全歌集』、国書刊行会、1973年、p. 5。 引用に際して適宜ルビをふった。

[2] 『伊勢物語』第百二十三段では、女に飽きた男が「年をへて住みこし里をいでていなばいとど深草野とやなりなん」(長年住んできたこの里を私が去ったら、このあたりは深草い野原となってしまうでしょうね)という歌を贈り、女は男に「野とならば鶉となりて鳴きをらんかりにだにやは君は来ざらむ」(深草の野になったら私はウズラになって鳴いています、あなたは仮にもそんな私を狩りに来ることもないでしょうけれど)と返し、その歌に感心した男は行ってしまおうという気持ちをなくした。その女の歌を本歌として、俊成は「夕されば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」と詠んだ。

[3] 先行作品のスタイルを模倣したもの。

[4]新潮日本古典集成『源氏物語 五』、「若菜上」、p. 79。本稿の『源氏物語』からの引用は同集成による。

[5]『源氏物語 巻十二』、訳者・谷崎潤一郎、昭和十四年、中央公論社、p. 97。 元の旧仮名遣いを現代仮名遣いにあらためた。

[6] 『源氏物語 五』、新潮日本古典集成、p. 324。

[7] 12世紀のフランスの詩人マリー・ド・フランスは、十二篇の物語詩(レー)を書いた。そのなかのひとつが「すいかずら」で、語り手が詩の形式で語る話のなかに、トリスタンが恋人である王妃イズーへ宛てた伝言(ハシバミに絡むスイカズラのように自分たちは一体になって生きていて、引き離されたらともに死んでしまう、という内容の詩)が入っている。(マリー・ド・フランス、『十二の恋の物語:マリー・ド・フランスのレー』(月村辰雄訳)、岩波文庫を参照。)

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著者略歴

  1. 岩切 正一郎

    フランス文学研究者・戯曲翻訳家・詩人。著書に『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』(書肆心水)他。詩集に『La Citrondelle』(らんか社)他。書籍化されている戯曲翻訳に、アヌイ『ひばり』、カミュ『カリギュラ』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(いずれもハヤカワ演劇文庫)他。日本を代表する演出家が手がける多くの舞台で戯曲翻訳を担当している。国際基督教大学教授。現在、学長。

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