本の引っ越し
1
春になると大学のキャンパスには色々な花が咲き始める。私の研究室が入っている建物の北側は、欅や楓の生えている小さな林になっていて、なんとなく日陰の場所という印象だ。その一角に、三月も中頃になると、スミレの一群が顔を出している。落葉した木々の間から光は思いのほか十分に届いているのだろう。
スミレの咲いているこの年度末、私は研究室から別の建物にある学長室へ、空いた時間を使って本を運んでいた。二十八年間勤めた大学で六十五歳の定年を迎えたのだ。学長としての仕事は続くけれど、教育職としては特任教授になり、そして特任教授は別の特任教授の先生と共同で使う二人一部屋の研究室へ移動することになっている。
私の場合は学長室に空きスペースがあったので、研究室は持たないことにして、代わりに、研究室に置いてある本を学長室へ持ってくることにした。
学内の研究所で廃棄処分にするはずだったスチール製の本棚を譲り受け、施設管理をしている業者さんに運んでもらい、耐震用の固定処置をしてもらった。
ねずみ色の本棚は殺風景なので、枠にペンキを塗ってトリコロールにした。
管理部から借りた台車に、本を詰めたダンボールを四箱のせ、研究室から学長室へゴロゴロ転がして運ぶのは、なかなか気持ちのいいものである。適度に汗もかくし、学長になってからはあまり出入りしなくなっていた研究室に置き去りにしていた本たちと、なつかしく再会しているような気分にもなる。
じっさい、私の研究室は、棟のなかの忘れられた研究室になっているのかも知れなかった。同僚のフランス人の研究室へ行って、「あのさ、こんど僕、研究室を出ることになったんだけどね、南向きで日当たりいいから、良かったら移ってくるのはどう? 君んとこのは北向きで日当たり悪いじゃない」と言ったら、うん、じゃあちょっと見てみようか、と言ったあと、「で、どこだったっけ? ずいぶん行っていないから場所忘れちゃったよ」と言われてしまった。私たちの研究室が入っている建物は、確かに階段と廊下が斜めに交叉してフロアに空間のゆがみを生み出しているような、奇妙なしつらえになってはいるのだが(聞くところによると「隅が中心」という設計思想らしい)、それにまた南と北に分かれて位置しているために違うエリアに属しているように感じられなくもないのだが、それでも、同じ階にあって、二十メートルと離れていないのだ。たった四年間でそんなふうに影が薄くなってしまうものなのだなあ、とやるせない気持ちになってしまった。
「日当たりはいいけど、やっぱり今のままでいいよ。本の置き場もここよりたくさんあるし」と、私の研究室を見ながら、彼は言った。
トリコロールの、一部スライド式になっている四つの本棚に本を並べてみると、研究室にはまだたくさん残っているというのに、すでにきちきちになってしまった。
どうしたものかと思っているうちに、重い和式の滑り戸になっているクローゼットのなかから、私へ誘いかける声が聞こえてくるではないか。ここに自分で作っちゃいなよ。
そうか! それいいかも。とはいえ、大学の施設だからあまり勝手なこともできない。管理部にきいてみると、べつにかまわないという。
簡単な図面を引いて、近所にあるホームセンター「コーナン」へ行って板を買い、図面の寸法にカットしてもらった。これまで自分で棚を作るときには側面の板にねじ釘で横板を留めていたのだが、今回は安直に、L字金具を取り付けてそこに板を乗せて棚にすることにした。
自宅から持ってきた曲尺を使って、側面の板に横板の位置取りを鉛筆で印し、金具を取り付けて、半日の作業二回で、クローゼットの奥を本棚にした。入れる物にあわせた寸法にしてあるので、DVDや文庫本やCDなどがそこにきっちり並んでいるのは気持ちが良い。
トリコロールの本棚に入っているコナール版のボードレール全集やドローズ、ディディエ、ニゼーと版元を変えて出版を継続したらしいロンサール全集、フランス語の研究書やポケットブックなどの背表紙を見ていると、学長室の一角が自分の個人スペースになったようで、嬉しさを感じている自分に気がつく。「本は物として機能している」とプルーストは言っている。たしかにそんな気がする。時間が染みこんでいるこの「物」からは、その本のページを繰っていた自分を包んでいた読書の時空の雰囲気のようなものが、まるで森林のなかへ漂い出ている木々や草や動物や苔や地衣類や菌類の匂いや分泌物や胞子やさまざまな物質がまじりあって作っている柔らかく透明な靄のように、私を包むのである。
他人が見れば単に雑然とした古書の集合体である。自分に対して他人になり、さっさと断捨離をすれば良いのだが、私にはそれがなかなかできない。最近五年間で一度も触っていない本は処分しよう、というような気持ちが起こらない。持っていてもこの先再読することはなさそうな本が大半なのに。
2
大人になって、少年時代に読んでいた書物を手にしたとき、書物は大人になった自分の心のなかからその少年を呼び出した、とプルーストの『失われた時を求めて』のなかで語り手の「私」は言う。
書物は私という人間についてその少年しか知らないので、その少年の目によってのみ眺められたい、彼の心によってのみ愛されたい、ただ彼のみに話しかけたいと思って、ただちにこの少年を呼び出した。[i]
人間ばかりか本も欲望を持っていて、自分を愛した存在へ呼びかける、このような物と人間の応答の仕方は、プルーストの魅力のひとつだと思う。「少年」は「私」のなかから消えてしまったのではなく、むしろその少年の生きることができる世界のほうが消えているのだ。今や周りを取り巻いているのは表面的なところで交わされる声に満ちた世界で、そこで喋っている声は少年には届かず、それで彼は、自分を呼ぶもののいない世界の中へ姿を現さないだけなのだ。
プルーストが擬人化している「書物」は、小説のなかでは、「文学が文字通り神秘の世界をもたらしてくれるという観念」を子どものときに与えてくれたジョルジュ・サンドの小説『フランソワ・ル・シャンピ』で、今や年を取った主人公であり語り手である「私」は、午後の集いのために訪問しているゲルマント大公夫人邸の図書室でたったひとりになったとき、その本と再会したのである。
子どもの感性のなかで世界が神秘性を帯びているように、本も神秘の徴を帯びている。そんなふうにして自分の人生のなかへ入ってきた本は、ひとりの人間へと近づいてゆくのであろう、そして人は、ある者は人生の表面をこすっていつしか消えてしまい、ある者は気がつくと心のなかに深く存在し続けていたりするプロセスを通じて、一冊の本へと近づいてゆくのかも知れない。そのようにして、大切な人や本は、個人の生活史のなかで、世間の社会的評価や文学史的な価値とは違う、自分にとっての特別な魅力を持ち、ときどきそのページを開いて読むものとなり、そこで得た知識は、データや資料ではなく、時のなかで熟成する知恵となり、深まってゆく愛となり、生の実質のようなものとなり、思い出のなかに位置を占めていく。そのような本は、プルーストの言うように、世の中のどんな美しい本とも同列に置かれることはない。
研究室から運んできた本。私にとってはさまざまな深度を秘めながら、見た目は同じような形をして、静かに背表紙を揃えて、並んでいる。
*
一人の人物のなかに、表面的なところで生きている「私」と、深いところで生きている「私」がいて、そのどちらもが同じ一人称で指示されるというのは興味深い。自分の精神や感覚が、ここにこそ自分はいるべきなのだと選び取る場所、たぶんそれが深みと呼ばれる領域なのだろう。デカルトにせよ、柏木如亭にせよ、陶淵明にせよ、哲学者や文人は、この深みで生きることを選んだ人たちだ。書物のほうでも、自分の読者として、その深みにいる人、かつて自分を読んでいた少年を要求し、大人になって世間の表面で生きている人は拒否する、というのは、すがすがしいモラルである。
そのような領域は、個人の経験のなかにしかなく、自分で探索しなくてはならない。万人向きのマニュアルはないのだ。共有されている現実のなかで、それぞれの人が自分の感性に従い、自分にとって唯一の現実を持っている。
「人それぞれにとって唯一の現実である各人固有の感受性の領域」。そこでは、「私たちがかつて眺めた一つの物をもう一度見るようなことがあると、それは私たちが注いだ視線や、当時その視線をみたしていたすべてのイメージを、いっしょにもたらしてくれる」[ii]とプルーストの小説の語り手は言っている。
「固有の感受性」のなかで生きられた世界は、同一性と刷新のドラマで一杯だ。ある物は、実物を見る前に空想のなかで魅力を発揮し、じっさいに見てみると幻滅することもあり、けれどもその後、自分にはつまらなくなってしまった物に、新しい表現方法で世界の見方を作り替える別の芸術家の作品を通じて、違ったヴィジョンが与えられ、そうしてその同じ物は刷新された魅力をふたたび獲得し…… 「新しい」という意味のラテン語novumから派生するinnovationは芸術の世界でも個人の世界でも常に起こっている。新しいものは、当然、古いものとの連続性と古いものとの断絶によって同時に徴づけられる。その新しさと古さは、物の同一性のなかで重なりあうことができる。
けれども、新しいものが出来たとたんに、古いものが跡形もなく廃棄されてしまう、そのようなイノベーションもある。そのイノベーションの運動に巻き込まれてしまうと、一つの物に時を隔てて注がれる眼差しも失われてしまう。それはつまり、物から時間の重層性を奪ってしまうということだ。その重層性を深みと呼ぶかどうかは、ほんとうのところそれほど重要なことではない。ある物が心の琴線に触れると、それは個人の現実のなかに置かれ、時のなかで熟成し始める。イメージに包まれて何かが――たぶん意味と呼ばれ得るものが――熟成してゆく。私にはそれが大切に思われる。
これは個人にとっての領域だが、それを社会と文化財の関係へ敷衍することも可能だろう。文化とは、物に宿って時の奥から呼びかける声や、みつめる眼差しを、こちらで聞き、受け取ることが出来るようにして、或る意味深いものの熟成をまもるための社会的な装置であり、あるいは、レヴィ゠ストロースが芸術のことを野生の思考を保護する領域と呼んだ意味に寄せれば、熟成を保護する領域なのだ[iii]。
3
『フランソワ・ル・シャンピ』の呼びかけが持っているような神話的な、あるいはお伽噺的な性質は欠けているものの、運ぶために本を箱に詰めていると、その本から出ている見えない紐に括り付けられて小さな記憶がたぐり寄せられる。
ロバート・パーカーの「スペンサー・シリーズ」、エド・マクベインの「87分署シリーズ」、ダシール・ハメット、ハドリー・チェイス、ジョン・ル・カレ......それらは二十代も終わる頃に読んでいた本だ。当時、そういう本を最近読んでいると言ったら、「僕は文学研究に行き詰まりを感じていたときに、はまっていたなあ、そういう、探偵小説とかスパイ小説。君もそうなのかい?」と少し年長のフランス文学研究者に言われた。そう言われてみると、苦笑いを返すしかなかった。研究はさっぱり進んでいなかったし、留学試験には落ちるし、生活は苦しいし。
「鈴木信太郎全集」全六巻は、地方から上京してきたばかりの十八歳の時に中野で開かれていた古本市で買った本だ。高校生の頃、「虚し、この泡沫、処女なる詩」、「月魂は悲しかりけり。熾天使は涙に濡れて」といった詩句が入っている岩波文庫『マラルメ詩集』を読んでいて、そのほとんどの詩は意味が皆目分からなかったものの、美しい調べだなあ、とその時は日本語に惹かれていた、その翻訳者の全集、こんな本が東京に来ると買えるんだ!と興奮して、親からの月々の仕送りの約半分にあたる三万円で購入し、四畳半の部屋へ浮き浮きと持って帰った。
三万円といえば、それからたぶん三年十ヶ月ほど経ったある日、神田の古書店街にある田村書店へ、野崎歓氏と四ッ谷龍氏と行ったことがあって[iv]、私は新プラトン主義の創始者プロティノスのギリシャ語・フランス語対訳全集があるのを見て嬉しくなり、というのもその頃、ボードレールが「万物照応」のなかで使っている「一者」(l’Unité)という概念との関わりでプロティノスの神秘思想に興味を持っていたからで、つい衝動買いしてしまった。それがやはり三万円のベルレットル版の全集だった。その日は私の誕生日に近い日だったはずだ、というのも、少し驚いている二人に「自分に誕生日のお祝い」といった感じの冗談を言ったら、じゃあ、ぼくからも、と四ッ谷氏が言ってくれたような憶えがあるけれど、ぼくたちからも、と二人が言ってくれたようでもあり、肝心のところを忘れてしまっているのは情けないが、とにかく、誕生日のお祝い、ということで、ジロドゥの『シャイヨの狂女』のポケットブック(フランス語)をプレゼントしてくれたのだ。その本も、トリコロールの棚にあたらしく置き直された。
こんな話をし始めたらきりがない。とにかく、本というものはなかなか捨てられない。
4
私の好きな短編集に、ブレーズ・サンドラールの『大航海』(Bourlinguer)という本がある。そのなかの「アントワープ」という作品のなかに、こんな一節が出て来る。
私はどこへ行くにも自分の本を一緒に持ち運んでいた。世界中で買った本だ。十箱もあって、ものすごく重い。それを、何年もの間、旅という旅に連れ歩いた。一財産をトンキロ計算の運搬費につぎ込んだ。[v]
世界中を旅した彼は、先頃、サンクト゠ペテルブルクからアントワープへ本を貨物船で送ったところだ。ところが、税関で払う金がなく、積み荷は留め置かれたまま一年が過ぎた。そしてとうとう、引き取らなければ競売に掛けるという通知がパリにいるサンドラールのもとへ届く。
そこで彼は悪友コルサコフと一緒にアントワープへやってきた。
サンドラールの目論見では、本の好きな人は税関での売り立てなどには興味はないはずだから、自分たちで競り落とせば、関税を払うよりも安く取り戻せるだろう、というのである。
ならず者コルサコフと自分とを隔てているもの、それは、ポケットに入っている小さな詩集、ヴィヨンの『遺言』だった、とサンドラールは言っている。文学はその根本のところに無垢な精神があり、そのお蔭で骨の髄までの悪党にはならずにすんでいる、ということなのだろう。
だが競り落とすにも、二人には肝心の金がない。
そして腹ペコである。夕日でワインカラーに染まった、金色のアプサントのように濁った、まるで街中のバーからありとあらゆる酒が流れ込んだかのように玉虫色に光りきらめくエスコー河の水を見ているのだった。
ついにサンドラールは一計を案じ、コルサコフと駅前の洒落たレストランに入る。そしておいしい昼食で腹をくちくしたあと、コルサコフに、手紙と、ポケットから取りだしたヴィヨンの『遺言』を手渡す。それはリヨンで一五三二年に出版された本で、二千フランの価値がある。それを馴染みの宝石研磨職人マンダイエフのところへ持ち込んでくれ、というのだ(最初から自分で持ち込めばいいのに、とつい私は思ってしまうのだが、どこかで誤読でもしているのだろうか?)。マンダイエフは数学に打ち込み、本の愛好家でもあるインテリなのだ。
二人で出て行けば、会計しなくてはいけないから、コルサコフだけを使いに出し、自分は客のまま、彼の帰りを待っている。だが彼は戻ってこない。時は過ぎる。タバコをふかす。新聞を持ってきてもらって読む。そして次第に眠くなる。コルサコフは戻ってこなかった……
*
医学生だったサンドラールは、授業にも、図書館で読まれるだけの偉大な本にも、大講義室で死人のようになっている連中にも、病院の病人たちにも、試験にもうんざりして、社会のどん底へ飛び込み、海へ出た。けれど「自分の本」は持っていた。彼はその本を詰め込んだ十個の荷箱を連れて旅をした。そしてどうやら、本は港に留め置かれ、散逸したようだ。
彼があてにしたマンダイエフは妹のセフィラと暮らしていた。数年後、サンドラールは再びアントワープのレストランにいた。セフィラがそこへやってくる。彼女はグリシャという男と婚約しているという。「グリシャは来ていないの?」と彼女は聞く。「知らないよ、そんな男」「嘘!あなたのお友達でしょ、この小さな本、前にうちに持って来た……いい声をしている男よ」彼女はプラチナの巾着から小さな本を取り出してテーブルの上に放り出す。ヴィヨンの詩集。こうしてその本はサンドラールのもとへ帰ってきた。そしてグリシャというのはコルサコフだった......そんな名前だとは知らなかった、と彼は思う。パリではみんな、彼のことをポールと呼んでいた……
*
サンドラールの本は港で停められ、散り散りになった。といっても競売にかけられてそうなったのではなかった。じつはコルサコフはヴィヨン詩集と引き替えにセフィラから受け取った金で本を荷受けし、そのまま自分のものにして、勝手に一冊また一冊と、ベルギーやオランダの好事家へ売っては、金に換えていたのだ。それを知ったサンドラールは、べつに腹も立てず、コルサコフのほうではその儲けのなかからサンドラールに金を都合してやるのだった。私の本は、数年後に、時のなかをたゆたう私と一緒の旅を終え、散り散りになっていくのだろう。
しだいに本が消えてゆく研究室の窓から、図書館前のメタセコイアの木が見える。
この研究室でたくさんの学生と話をした。
そしてメタセコイアの木を二十八年間見てきた。
七年前、私は、「木を包みながら光は/葉のなかで遊んでいる」と思った。
二年前にも、やはり同じことを思っていた。たぶんずっと前から同じことを思っているのだろう。
窓からみえる
図書館まえのメタセコイアの木は
ゆうぐれの光に包まれ 包みながら光は
葉むらのなかで遊んでいる
(詩集『La Citrondelle』)
研究室の窓からメタセコイアをそんなふうに見るのも、もうそろそろお終いだ。メタセコイアの下に立って研究室のある建物を眺めると、二種類ある同じような窓がずらりと並んでいる。
注
[i] 『見出された時 I』, 集英社文庫ヘリテージシリーズ, 『失われた時を求めて』第十二巻, p. 400.
[ii] Ibid., p. 401-402.
[iii] 「野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。芸術の場合がそれであって、われわれの文明はそれに対し、国立公園なみの待遇を与えている〔…〕」。(クロード・レヴィ=ストロース、『野生の思考』(大橋保夫訳)、みすず書房、1976年(1962年)、p. 262.)
レヴィ=ストロースは、「このような人工的な方式には、当然それに伴なう利益と不都合とがある」と断った上で、「社会生活の中にも、〔…〕これにあてはまる領域がたくさんある。そこには〔…〕野生の思考が依然として繁茂している」(p. 263)と述べている。文学が目を注ぐのは、まさに社会生活の中における、野生の思考が繁茂している領域、であろう。
[iv] 現在、野崎歓氏はフランス文学者、四ッ谷龍氏は俳人。
[v] Blaise Cendrars, « Anvers », Bourlinguer, Œuvers Complètes 6, Édition Denoël, 1987, p. 66.