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文字の渚 岩切正一郎

記憶と記憶の向こうの過去

 

  私の母は島根県の浜田生まれで、生後まもなく両親と広島へ移った。そこで妹が生まれ、そこから一家は青森へ行き、その地で三女が生まれた。祖父は陸軍の軍人だったので、連隊のある土地を転々としたようだ。

 私が大学生の時に、当時同級生で、今はヴァレリー研究家の塚本昌則氏が、夏の九州旅行を宮崎から始め、私が帰省していた宮崎市の実家に泊まって、青島や都井岬を一緒に見た後、祖父母が暮らす高千穂へ赴いた。

 祖母は、彼が青森出身だと分かると、とても懐かしそうにしていたが、彼が、自分の出身校の青森高校には、昔、陸軍があったというと、ますます懐かしそうな顔になった。自分たちはそこの官舎に住んでいたというのだ。そして、唐突に、今も食べ物は貧しいですか、と聞くのだった。祖父は青森では中尉だったが、そこでの一家は貧相な食生活で、みんなひもじい思いをしていた。それを思い出したのだ。さすがにそれはないです、今は、と塚本くんは答え、祖母は一安心したような顔になった。

 

 祖母は時々思いがけないことを口走るので、私たち家族はそれを面白がっていたものだ。浜田にいたのだから海も見ていたろうに、ある日、日南海岸に沿って車を走らせていると、海を見ながら、今は満ち潮だね、という。よくそれが分かるね、と感心すると、だって、波がこっちに向かって来ている、引き潮なら、向こうの方へ向いて引いているでしょ、というのだった。一瞬私は、沖へ波頭を向けてうねる海を幻視してしまった。

 青森にいた一家のうち、祖母と三人の娘は、汽車を乗り継いで、九州の山奥の、今は高千穂町に編入されているけれど当時は村だった、祖父母の実家のある上野村かみのそんへ向かった。それからしばらくすると祖父は満州へ渡った。

 上野村での生活も食べ物にこと欠いていた。そんなある日、近所の人たちが集まり、珍しく肉の入った鍋を囲んだのだという。肉はとても美味しかった。翌日、仲良しの子が心配そうにしているので聞くと、可愛がっている犬がいなくなった、という。それで、昨日食べたのはもしかするとその子の飼い犬だったのかもしれない、と母は思い当たった。可哀想だったよ、とても可愛がっていたから。でも、もしそうだったのなら、赤犬の肉はおいしいことはおいしい、と私たち子どもは聞かされた。

 

 祖父は終戦後しばらくして帰ってきた。戦地で何があったのか、家族にしゃべることはなかった。時々、アリランを大きな声で歌うことがあった。「とうちゃんは」(祖父のことを祖母はそう呼んでいた)「部下に慕われていたようだ」と祖母は私たちに言うことがあった。

 戦地から帰ってくると、軍人だったので公職追放にあい、しばらくは密造酒を作ったり、幼稚園の園長をしたりして、糊口を凌いでいた。村で「亀屋」と言う雑貨屋を営み、私には遠戚に当たる、十二歳くらい年上の、亀屋のみっちゃん、という青年とそういう話をしているとき、祖父の口ぶりは、苦しい時代の思い出ではあるものの、どことなく楽しさも感じられる口調だった。厳粛すぎて近寄りがたい雰囲気を持っていた祖父がわんぱくな園児たちに囲まれている姿を想像すると、どことなくユーモラスな気がした。

 

  祖父は男の子が欲しかったらしいのだが、戦後も二人の子どもをもうけ、どちらも女の子だった。母は五人姉妹の長女だ。一番下の妹、つまり私の叔母は、私と九歳しか離れていない。後継あとつぎに恵まれなかったので、私の父が、私が五歳、妹が三歳のときに養子に入った。その後二人目の女の子が生まれた。私はそのときまでは父の姓のもと甲斐正一郎だったが、幼稚園から小学校へ上がる少し前に、岩切正一郎へと変わった。それが自分にどのように影響しているのかよく分からない。名前というのは剥がしたりくっつけたりできるラベルのようなものにすぎないのではないだろうか、という意識はうっすらと自分のなかにある。昔の自分の名前が「本当の」名前とも思えず、とはいえ今の名前も、ある種のペンネーム、しかもフランス語で言えばnom de guerre、戦時中に使う偽名、しかもそのうえ、本名のない偽名、のような気もするのである。

 私は小学校三年生になり、宮崎市に住んでいたが、その冬、村役場の出納長をしていた祖父は脳溢血で倒れ、右半身が不随となった。今なら、できるだけ早くリハビリを始めるのだろうけれど、当時は、体を動かすと血管が切れて危ないから体は動かさないでおく、という治療法が取られていた。ねもとさん、という、村の医者の見立てもそうだった。

 夏に家族で祖父母の家へ帰省しているとき、坂を登って往診にやってくる白衣の医者と看護婦さん(その頃は看護師ではなく看護婦さんと呼んでいた)が見えた。それで私は、家の中へ向かって、「ねもとさんがきたよー」と大声を張り上げて知らせ、母に叱責された。ねもとさん、というのは名前で、苗字は「佐藤」、ねもとさんではなく、佐藤先生、なのだった。うちの中では、大人たちは、ねもとさん、と誰もが言っていて、しかも、冗談なのか本当なのか、ねもとさんは、元々は獣医だったけれども(ねもとさんな、元もとは獣医だったつばい、といった感じの方言で実際はしゃべっているわけなのだが)、戦時中の医師不足対策のおかげで医者になった。でも問題はないだろう、人間だって動物なんだから、という話のネタにされたりしていたのだ。子どもの私は、てっきり根本医院の先生だと思っていた。

 何ヵ月も寝たきりを強制されていて、さすがに、これではまずいのではないか、という話になり、祖父は宮崎市の県立病院へ入院してリハビリの治療を受けることになった。

 祖父は病室のベッドに寝かされ、祖母の押す車椅子でリハビリ室へ向かう。ある日私も車椅子を押したことがあった。押すと速度が出て面白い。祖父も祖母もヒヤヒヤするなか、廊下を横切る低い盛り上がりに車輪がひっかかり、祖父はつんのめり、前へ放り出されそうになった。車椅子を押す私の手伝いはその日が最初で最後になった。

 祖母は床に布団を敷き、泊まり込みで看病していた。私は学校から帰ると、友達と遊んだあと、母の作る夕食を持って、学校の少し先にある「県病院」へ、道をたどり直し、弁当を届けるのだった。建物に入ると薬品と病人たちの体臭がゼリー状の澱んで饐えた空気を作り出していた。お駄賃をもらったときには、病院から家の近所まで、バスに乗って帰ることもあった。

 祖母は、恥ずかしかった、と言う。入院する日、祖父は担当の医師から名前を聞かれた。すると、言葉がうまく発語できなくなっていた祖父は、呂律の回らない口から懸命に大声を絞り出し、「陸軍中尉、イワキリブンチョーであります!」と廊下中に響き渡る声で軍隊式に応じたというのだ。こんな情けない姿をしているけれど、自分は元軍人である、という自尊心がそうさせたのだろう。祖母にはそれが時代がかった虚勢のように見えたに違いない。もっと普通に自分の名前を言えばいいのに……

 

 祖父の名前は「文暢」と書いて「ふみのぶ」と言い、土地の人からは「ぶんちょーさん」と呼ばれていて、自分でもそう名乗っていた。「ふみちゃん」と呼ぶ幼馴染もいて、亀屋のみっちゃんやその兄のムネノリくんは、「ふみおじさん」と呼んでいた。祖父は、もともとの戸籍名は「傅三穂」と書いて「ふみお」というのだが、どういう事情でなのか、六歳のときに文暢へ改名したことが戸籍に記録してある。

 祖母は、魚からとって「キス」という名前だった。ブンチョーとキス。まるで鳥と魚が人の姿をして美しい棚田のほとりに住んでいるようで、微笑ましい名前だと私は思っていた。

 「陸軍中尉、イワキリブンチョーであります!」と祖父が大声で医師へ叫んだ県立病院には、愛人と暮らすために人の世から身を隠した歌人の岡井隆が勤務していたことがある、と、十数年後に私は知ることになる。もしかすると、祖父の担当医だった可能性もあるのかな、と思ったが、年表によると、岡井隆は祖父が退院したあとに着任したようだ。

 入院中、祖父の夢には白い馬が出てきて暴れ、それで祖父はうなされて大声を張り上げる。それも恥ずかしい、と祖母は言っていた。私たちは何も知らないのだが、もしかすると、戦争の時の恐ろしい記憶が夢のなかで祖父を襲っているのかも知れなかった。

 

  祖母は、祖父のことを「とうちゃん」と呼び、娘の、母たち姉妹もみんな「とうちゃん」と呼んでいた。祖父は祖母を「キス子」と「子」をつけて呼ぶ。私の母の名前は「キヨ」というのだが、祖父母は娘を、やはり「子」をつけて、「キヨ子」と呼んでいた。そして姉妹は、祖母を「かあちゃん」と呼ぶのである。母のことを四人の妹は「キヨネちゃん」と呼んでいた。キヨ姉ちゃん、がつづまった言い方なのだが、小さい頃からずっとそれに馴染んでいるので、私も妹もいとこたちも、母には「キヨネ」という名前もあるのだと思っていて、次女の叔母の息子たち(私の従兄弟)も、自分の伯母さんへ向かって「キヨネちゃん」と呼びかけるのだった。

 

 不思議に思うのは、そうやって、「とうちゃん」、「かあちゃん」と両親のことを呼んでいた母は、自分の子どもたちには、親のことを「お父さん」、「お母さん」と呼ばせて育てた、ということである。そして、私はといえば、妻と一緒に、子どもに自分たちのことを「パパ」、「ママ」と呼ばせていたけれど、小学校も高学年になる頃から、なんとなくそういう言い方をしなくなってしまった。子どもは私のことを、今では、愛称で呼び、妻のことは、ママさん、と言ったり、愛称で呼んだりしている。

 子どもが小さいとき、「パパ」と呼んでいたお父さんが、宮崎へ帰省すると祖母や叔母さんから、「しょうちゃん、しょうちゃん」と少年みたいに呼ばれるのを聞いて、とても面白がっていた。

  

 上野村あたりの一人称は、男も女も、「おんどん」と言っていたのは興味深い。今ではもうあまり耳にしないけれど、私の叔母たちは、だいぶあとまで、「わたしはね」という代わりに「おんどんなの」と言っていた。「わたしも買ったよ」は、「おんどんもうたばい」、といった具合だ。

 一帯には、古い文法も残っている。「来る」は「こらす」、「行く」は「いかす」と、尊敬の助動詞「す」を使うので、高校生になって古典を勉強し始めたときには、あれは上代に使われていた助動詞だったのか、と驚いたものだった。

 

  祖母は小学校までしか行っていない。家は十分に裕福ではなく、上へ進めなかったのだ。祖母の兄は今の東京外国語大学を出て、のちには東京銀行の福岡支店長も務めたのだから、もし男の子だったら、上の学校へも行けたのだろう。

 私の母は、高校を卒業すると地元の信用金庫に就職した。ほんとうは獣医師になりたかったと言っていた。五人姉妹のうち、次女の叔母さんは熊本の看護学校を出て、宮崎県の北部で小学校の保健の先生をしていた。大学を出たのは四女の叔母さんひとりだ。学生時代の叔母さんの机には、ディケンズの『二都物語』やサッカレーの『虚栄の市』の英語の原典が置かれ、ページをのぞくと、書き込みがしてあった。この叔母さんも小学校の先生になった。

 

 高千穂の家の、玄関を入ってすぐのところに、五女の叔母の小さな本棚があった。本棚のガラス戸の向こうに、布装の本が置いてあった。それはツルゲーネフの『薄幸の少女』で、若い時に祖母が愛読していたそうだ。今、その家には、私の従妹が陶芸をしながら住んでいる。その本はまだガラス戸の向こうにあるのだろうか。祖父も祖母も他界したあと、家の整理をしていて、くりやの柱にかかっている鏡を外したら、鏡の裏面とフレーム板の間に女優さんの写真が挟んであった。それは、陶芸をしている従妹の母親、つまり私の叔母が、若いときにそこに嵌めていた、雑誌から切り抜いたポートレートなのだった。鏡に映る自分の顔は、裏箔の向こうにひそんでいる憧れの顔へと日々調整されていたのだろう。ゴダールの映画『カラビニエ』の最初のほうに、グラビア写真を見ながら髪を梳く若い娘のシーンがある。叔母の鏡は私にそれを思い出させた。映画の最後のほうでは、その娘は、下着のカタログ写真を服の上から自分の体に密着させる。美の調整器としてのイメージから性的魅惑を演出する商品としてのイメージの自己所有化へ。ガラス戸のなかにはエロチックな雑誌も一冊隠されていたことがあって、たまたまそれをみつけた中学生の私はひどく興奮したものだった。

 厨の横に大きな物置があって、祖父が学生時代に使っていた英語カードも保存してあった。右から書いてあるので、一見すると、ドーカ語英、と読める。絵入の、表に英語、裏に日本語訳の書いてある学習カードだ。祖父は旧制延岡中学を出て、上京して陸軍の砲兵学校で学んだ。ずっとあとになって、延岡中学の同級生の息子が三女に結婚を申し込むことになる。この同級生は、戦前は今の日向市に広大な領地を持つ大地主だった。文学に傾倒する放蕩派で、真面目な性格の祖父とはそりが合わない。それぞれの子は、旧・電電公社の職場で出会い、放蕩派の息子が三女の叔母を好きになった。あいつの家にだけは嫁入りさせない、と祖父は結婚に反対したが、元大地主の同級生は、断るならどうなるか覚悟しろ、と猟銃を持って息子と共に談判にきたので、仕方なく結婚を許した、そうやって一緒になったのよ、と三女の叔母は私に昔話をするのだった。二人だけだと何をされるか分からないから、用心のために、小さいあんたを連れてデートに行っていた、という。幼稚園にあがる前のこと、私の記憶の向こうにある自分の過去だ。

 

 祖父の家は曹洞宗の寺だったので、祖父も子どものときから托鉢をしていた。子どものときに自分のことを「ぼんさん、ぼんさん」と言ってはやしていた可愛らしい女の子は、長じて村で一番の美人になり、その人を、自分の父親が亡くなった翌年、妻に迎えた。それが私の祖母である。

 祖父は永平寺で修行し、僧侶の資格も持っていたが、寺は継がず姉の息子を住職に迎えて自分は軍人になり、戦後、公職追放が解けたあとは役場に勤めた。もし僧侶を継いでいたら、もし次女の叔母さんが生まれた広島にずっと家族で住み続けていたら、もし、祖父母に男の子が生まれていたら──私は幻の家族史を空想してみる……

 

  小栗旬さんの熱演で好評を博したこともあり、カミュの戯曲『カリギュラ』の翻訳をハヤカワ演劇文庫から出すことになったとき、編集の冨田さんは、ほとんど全部の漢字にルビを振るという方針を打ち出した。それはやりすぎではないだろうか、と私は思ったが、結局そのようになった。 

 その本を父母へも送ったら、そのころ認知症が進んで同居するようになっていた祖母が、訳者の名前を見て、なんだか知っている人のような気がする、といって、いつも『カリギュラ』を手に持ち、目を注いでいるという。どのくらい理解しているのか分からないけれど、ページをめくって文章を読んでいる、と母は教えてくれた。

 そのとき私は、冨田さんの意見に従っておいて良かった、と思った。小学校しか出ていなくても、祖母は漢字が読めないわけではなかった。それでも、祖母にとっては難しい字だってあるかもしれない。ルビが振ってあれば、少なくとも音にすることはできる。祖母に「不可能」を希求するカリギュラ=カミュの思想は無縁かも知れないけれど、情の深いセゾニアなら、我が身に重ねて共感しているかもしれない。

 

 祖母は祖父が亡くなったあと二十五年ほど、高千穂の山あいの赤い屋根の家で、花や野菜を育てながら、一人で暮らし、最後の数年は宮崎市で娘夫婦の家に同居した。

 祖母が亡くなったとき、次女の叔母は火葬場から帰るマイクロバスのなかで私に言った。「竜泉寺の上の古い家、覚えちょるね? わたしたちが小さいとき、あのへんはライ病の人がふらっとくることがあって、ばあちゃんは食べ物をあげちょらした、お椀に入れて、家の裏に運んで、食べさしちょらしたよ。そげな人じゃったがね。」

 あとで母にその話をすると、わたしは気味が悪くて嫌だった、と母は言った。

 

 祖母を看取って三年半後に母も亡くなった。お通夜をしていると、父が、銀行に勤め始めた頃の話をし始めた。窓口にやってきた客の老婆の生まれ年に「安政」と書かれているのをみて、「なにや、安政ちな」とつい大声を出してしまったというのだ。「じゃけんどん、おったとよなあ、あんころはまだ、まこち、安政生まれの人がよ。そげな時代じゃったがの、おれたちが務め始めた頃は」そういって大笑いする。酔うと口にする十八番の話題なのだ。

 すると四女の叔母が、五人姉妹の自分たちの、祖母のことを思い出した。「ババさん」(姉妹たちは自分の祖母のことをそう呼んでいる)「ババさんが言いよらしたよ、西南戦争のときに西郷さんの兵隊が、夜にうちへんを通って逃げていったって。戸を閉めてじーっとして、通り過ぎるのを待っちょるとが、じしてたまらんかったて。鶏をっていったりしながらじゃきね。西南戦争やら、えらいむかしのごつあるけんどん、ババさんたちはじっさいに経験しちょらすとじゃもんね」

 

 西南戦争を経験している「ババさん」と、母が私に聞かせていた「ババさん」は同じ人だったのだろうか。母が私に話していた私の曾祖母は、晩年は頭がおかしくなっていた。母はお産のときに出血が激しく、私は仮死状態で生まれ、子どもより母親の命が大事、と産婆さんは母を手当てし、私はしばらく放置されていた、と私は後年大人から聞かされた。冬の暁刻にようやく私は産声をあげたのだが、その声を聞くと、「ババさん」は、物に憑かれたように、「山の物が生まれた、山に返せ」と喚きはじめたそうだ。そして、産道からむりやりひっぱり出されていた私の頭は、キュウリのようにビョーンと伸びて変な形をしていた、と母は私に物語るのだった。

 

 

  晩年に物忘れのひどくなった祖母は、やがて自分の子どもたちのことも分からなくなった。

「かあちゃんには娘がいたでしょ」と母は聞く。

「あん子はヨモギ採りに行ったまま帰ってこんとたい」と祖母は言う。

「あら、そう、じゃわたしは誰?」と母は聞く。

「チカちゃんたい」と祖母はにっこりしながら言う。チカエさんは祖母の姉だ。

 

「ばあちゃんは自分がいくつのときかで、話し方が変わるよ」と母は私に言うのだった。母といて、小さな子どもにかえっているときには、「おれ」と「おまえ」の間柄になるそうだ(祖母のふだんの一人称は「おれ」だった)。かなりぶっきらぼうな話し方になるそうだ。そうではないときには、母に向かって丁寧な言い方をする。

 

 母の死後、弔問に来た客に父は妻の思い出を語っていた。「生き物が好きでしたがの」そして頭のなかを探りひとつの記憶を取りだした。「子どものとき池でつかまえて……トカゲをな、腹を割いて観察したとか言っておりましたな」

 私は黙って聞いていた。私のなかの母は、楽しそうに私や妹に喋っている。お寺の湧き水のところで小さな魚をつかまえて、すーっとお腹を割いてみたら、透きとおってとてもきれいだった、浮き袋とかもあってね。



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著者略歴

  1. 岩切 正一郎

    フランス文学研究者・戯曲翻訳家・詩人。著書に『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』(書肆心水)他。詩集に『La Citrondelle』(らんか社)他。書籍化されている戯曲翻訳に、アヌイ『ひばり』、カミュ『カリギュラ』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(いずれもハヤカワ演劇文庫)他。日本を代表する演出家が手がける多くの舞台で戯曲翻訳を担当している。国際基督教大学教授。現在、学長。

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