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カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す

第3回

 今回は、前回の「落穂拾い」的な議論に終始するが、それに関連して、全体の展望のある部分をあらかじめ提示することになる。今回は第三回ではあるが第三章ではない。

 

一 なぜ超越論的な哲学が不可欠なのか

 

1 これは端的に答えられる問いであり、その答えは、独在論的事実がすべての出発点だから、である。これは、なぜか事実としてそうである、ともいえるし、そもそもそれ以外の可能性はない、ともいえるのだが、後者のように理解されると、それ自体が超越論的哲学に含まれてしまう可能性も生じるので、さしあたって前者のように理解して出発すべきだろう。

2 一般的に合意されているところとは異なり、世界は最初から、一枚の絵に収まるような、のっぺりとしたあり方をしてはいない。のっぺりとしたあり方をしているとは、まずは世界があって、その中に、色々な物たちと並んで人間という動物も存在しており、そのうちの一人が私である、というあり方をしているということである。そういうあり方をしていることも可能であったはずだが、なぜかそんなふうにはなっていない*。そういうあり方の場合と同様に「そのうちの一人が私である」とはいえるにもかかわらず、それは並列的に存在する「そのうちの一人」などではなく、まさにそこから全世界が(初めて)開けているというきわめて特殊なあり方をしているのだ。その事実こそがすべての出発点である。とすれば、にもかかわらず、そこから、もう一つの、のっぺりしたほうの世界像が、どのようにして作り出されるのか、それを知ることがまずは喫緊の課題とならざるをえないはずだろう。それが、とりもなおさず、超越論哲学の課題である**。すなわち、超越論哲学は独在性をその前提としており、独在性の事実こそが超越論的哲学を要求している、ということである。

*これを、これを読んでいるすべての人にとってそうである、と言ってしまうこともできなくはないのだが、真の問題は、そのあり方には矛盾が内在するということと(じつは同じことなのだが)そう言えるに至るにはプロセスを必要とするということ、にある。そのことを明らかにすることが、私の哲学的な課題そのものである。

**それゆえ、この作業は伊達や酔狂でなされるものではなく、必要不可欠な仕事なのである。

3 ここでまずは、その仕組みの大枠とポイントを指摘しておきたい。まず、すでに与えられてあるものだけから、それを超越する、のっぺりとした、客観的な共通世界を作り出すには、それを成し遂げるための「規則」のようなものの存在が不可欠である。それに従えば客観的世界が作り出せるような、「世界構成規則」のようなものである。これがポイントであり、おそらく、これ以外の方法はありえない。これを逆からいえば、実際にそうした世界もまた与えられてある以上、そうした規則が介在したに違いないと考えざるをえないのだ、ともいえる*。とはいえしかし、その構成作業の完成とともに、そのようにして作り出された世界の内には組み込めない、その作業の出発点であった事実の側は消滅させられるかといえば、じつはそんなにうまくはいかないのだ。消されたはずのもの、消されていなければならないはずのものが、作業の完成の暁にも残存してしまうからである**。しかし、そうであるからこそ、ぜひともこの方向(向き)の超越論的構成作業が必要なのだともいえる。かりにもし逆向きの構成作業をなんとかがんばってやってみたとしても、そちらからでは決して作り出せない(あるいは到達できない)、まったく合理性を欠く、規則に拠る構成が不可能な、不可解な存在者が、存在することになるからである***。だから、出発点はこちらの側にならざるをえないのである。 

*それゆえにまた、そういう世界を作り出すことは、文字どおり何かを作り出すことだともいえるとはいえ、逆に、すでに立派に存在している客観的な実在に、むしろ実在性を認められない、それらとは異質の地点から出発して、なんとか到達する作業なのだ、ともいえることになる。

**消されなければならなかったはずのものが、公式見解においては消えてなくなっているはずのものが、じつは消えておらず、消すことはできないという事実は、カントの議論でいえば「誤謬推理」の議論に対応している。

***『プロレゴーメナ』§46の注においてカントが、「私」とは「現に存在している感じ(das Gefühl eines Daseins)」以上の何物でもない、と言うとき、彼はじつはこれを指していると見なすことはもちろんできる。

4 時間についても本質的には同じことがいえるだろう。今日一般的に合意されているところとは異なり、時間の経過は最初から年表やカレンダー(や時計の文字盤)の上を今(現在)が移動して行く、というようには捉えられてはいなかっただろう。年表やカレンダー(や時計の文字盤)のようなものは、諸々の現在を本質的には同等のものとみなすという平板化(のっぺりさせること)の操作によって成立するのであって、それをするにはやはりある種の規則の介在が不可欠であったはずである。「私」の場合のその規則が人称であるのに対して、「今」の場合のその規則が時制である。カントは挙げていないが、これは不可欠な純粋悟性概念、すなわち超越論的なカテゴリーでなければならない。これは外的物体の客観的実在性の構成のようなタテ問題とは違って、同型の他者の構成をめぐるヨコ問題なので、これらのカテゴリーはともあれまずは平板化力(のっぺりさせる力)こそを発揮せねばならない。その源泉をたどれば、様相のカテゴリーにおける現実性と可能性の関係にたどりつく。

 

二 カテゴリーとしての人称と時制の作り方にかんする試論

 

5 カントは『純粋理性批判』の「神の現存在の存在論的証明の不可能性について」において、現実的な百ターレルと可能的な百ターレルとは事象内容的には(=その事象内容それ自体を取り出せば)まったく同一であると主張した。もしそうでなければ、可能的な百ターレルがそのまま(ただ)実現(だけ)されて現実的百ターレルになるということが不可能になるからだ。それは確かにその通りなのだが、他方においてはしかし、現実的な百ターレルは文字どおり百ターレルの値打ちがあるが、可能的な百ターレルはまったく何の値打ちもない、そういう根源的な差異(存在と無の差異)がここにはある、ともいえるだろう*。それでもやはり、なぜカントのようなその差異を無化する主張が価値をもつのかといえば、根源的な差異の存在を主張するそのような主張自体もまた(その事象内容をまったく変えることなく)現実的にも可能的にも解釈可能だからである。すなわち、その主張自体がまた概念的な(=可能的な)真理でもあるのであって、たとえ実際の百ターレルを所持してそう言ったとしても、逆に無一文で(たんに可能的な差異として)そう言ったとしても、その事実はこの主張の真理性に関与しないからである。つまり、現実的な「現実的な百ターレル」と可能的な「現実的な百ターレル」とは、ふたたび事象内容的にはまったく同一であるわけである。それゆえ、差異の存在を主張する側の主張においてもまた、その主張が一般的に成り立つことそれ自体において、じつは現実的な「現実的な百ターレル」と可能的な「現実的な百ターレル」が事象内容的には同一であることがそこにおいて示されていることになるわけである。すなわち、語られたそれは、たとえそれが「現実的」であっても、必然的に可能的な現実性でしかありえないわけである。にもかかわらず、カントが言わんとすることと同様、差異の厳存を主張する側の言わんとすることも、依然として問題なく伝わるであろう**。様相におけるこの仕組みこそが――そこには根源的な矛盾が内在しているのではあるが、おそらくはまさにそれゆえにこそ――人称と時制という世界構成的規則を可能ならしめる当のものなのである。

*この問題の立て方は典型的にヨコ問題的である。すなわちカントはここで、「神の現存在」という問題には、もはや事象内容的な根拠をもたない、ヨコ問題における無根拠な突出が、いいかえれば無内包の現実性の介在が、不可避であることを洞察したともいえることになる。すなわちいわば「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と。

**もしそうでなければ、そもそもこの問題について論じることができない。

6 さて、まずは時制を例にとって説明しよう。真の今(現在)は端的なこの今(現在)だけである。これは疑う余地がない。他の今は、過去における今か未来における今で、現実の今ではないからだ。これは疑う余地のない真実なのではあるが、これまたその現場において捉えられたその対比が保持されてそのままで他時点に伝わることはありえない。「今(現在)」の事象内容は、それが現実的であろうと可能的であろうと、どの今(現在)においてもまったく同一であって、言語表現によって伝わりうるのはその事象内容だけだからである。現実的な「現実的な百ターレル」と可能的な「現実的な百ターレル」とが事象内容的にはまったく同一であったのと同様に、現実的な「現実的な今(現在)」と可能的な「現実的な今(現在)」とは、事象内容的にはまったく同一であらざるをえないのだ*。どの今も対等に「現実的な今」であらざるをえないことと、それでもやはり端的な現実の今が存在することとは矛盾するが、それは様相の場合にもそうであるのと同じことである。

*これは、神の現存在が存在論的証明によっては証明できないということと同じことを言っている。

7 人称の場合もほぼ同じことである。真の私はこの私だけである。これは疑う余地がない。他の人は、その人における私であって、端的な私ではないからだ。これは疑う余地のない事実なのではあるが、これまたやはり、この事実がそのままで他者に伝わることはありえない。「私」の事象内容は、それが端的なこの私であろうと他者における私であろうとまったく同一であって、たんなる一般的な自己指示機能であるか、またはその機能がはたらいて指示された特定の人物を指すか、どちらかであって、言語表現によって伝わりうるのはそれらでしかありえないからである。現実的な「現実的な百ターレル」と可能的な「現実的な百ターレル」とが事象内容的にはまったく同一であったのと同様に、現実的な「端的なこの私」と可能的な「端的なこの私」とは、事象内容的にはまったく同一であらざるをえない*。どの私も対等に「端的なこの私」であらざるをえないことと、それでもやはり、それらとは別に端的なこの私が存在していることとは矛盾しているが、それは様相の場合にもそうであったのと同じことなのである。

*これもまた、神の現存在が存在論的証明によっては証明できないということと同じことを言っている。

8 この二つのカテゴリーは、種類や属性をもつ物のあり方や類型的に繋がる出来事のあり方とはまったく違うとはいえ、やはり、もともとの世界にあった特定のあり方を取り出して、そこから世界把握のための枠組みを作り出したものだ、とはいえる。しかし、それらは、もともとは相互に共有されていなかった、それどころかバラバラに存在さえしていない、端的に独在的な(他を根底から排除している)あり方をしていたことがらの内に、通常は隠れていて決して見えない本質における類型性を掘り起こして、それを概念的に纏め、まったく新しい世界把握のための枠組みを作り出したものなのである。という意味で、それらは文字どおり超越論的に構成されたものである。その構成に際して、世界の特定のあり方から取り出されたものではない、様相のカテゴリーが利用されたことになるだろう。

9 なぜそんなことができるのだろうか。それはわれわれが世界を直接的にではなく、概念を介して、すなわちその可能性において、捉える存在だからである。たとえば百ターレルは、まずは概念であり、それが現実に存在すれば現実の百ターレルになる、というあり方をしている。この順番を逆にすることはできない。概念ぬきにいきなり百ターレルがあることはできない。それでは「百ターレルが」あることにならないからだ。しかし、存在ぬきに概念があることはいくらでも可能であることは、だれでも知っている通りである。すなわち、本質は実存に先立つ、というわけである。ところが、これに反して、私(や今)の場合は事情が逆なのだ。私の場合でいえば、「私とは何か」を一般的・可能的・概念的に理解する以前に、その実例がいきなり現実的に、、、、与えられ、しかもその一例以外は決して与えられない。このとき、まさにそのことを、、、、、、、、概念化し、可能化し、一般化するということこそが、「私」という純粋悟性概念の「演繹」となるわけである*。「今」にかんしても、事情はより複雑になるが、本質的な点は同じである。

*これは、通常の演繹とは逆向きの方向なので、逆演繹であるともいえるが、このプロセスを描写するには、可能世界の理論に関連してすでに存在している実在論と反実在論との対立枠組みがそのまま適用できる。この「演繹」を「可能世界」と「現実世界」という概念を比喩的に使って描くなら、それはこうなる。「現実世界はこの一つだけある」という現実に与えられている(諸可能世界に対する)反実在論的な原事実から出発して、「どの世界もその世界にとっては現実世界である」という(諸可能世界に対する)実在論という新たな世界像を、だれもが認めざるをえない客観的な「事実」として構成していく、と。これはたしかに一面では超越論的な(=実在を構成する)プロセスなのではあるが、他面から見ると、一種の道徳規範の確立であるともいえる。すなわち、それが初めて客観的世界を作り出すともいえると同時に、他面から見れば一種の定言命法を受け入れることでもあるのだ。定言命法であるから、「常に同時にこの普遍的に成り立つ規範に従っているかのように行為せよ」という命令がいつも発せられており、われわれは「私」と発するたびごとにそれに従っていることになる(この仕組みについては次の段落10で詳述される)。

10 これはつまり、並び立つ者のない世界の唯一の開けの場が端的に与えられている(すべてはそこから始まっており、そこから開けている、いいかえればその内部にある)!という驚嘆すべき事実から出発するにもかかわらず、なんと、そういう独在的特性を他者もまた持つ!という、それとは矛盾する、別の意味で驚嘆すべき事実をも同時に受け入れることによって、世界のあり方を二重化することだ、といえる。独在的特性を他者たちにも付与して世界を二重化するには、その本質構造は維持したままでそれを平板化する(平板化しつつもその本質構造を維持しつづける)という特殊なあり方を必要とする*。それがこの場合においてどう為されるのかといえば、まず第一に、①a「私」とは、その端的に与えられている世界の唯一の開けそのものを指す、という規則と、①b「私」とは、その語を口から発する口の付いた人間(差し当たっては人体、しかし後には人体に属するものとしての心をも含むことになる)を指す、という規則とを、(その二つが矛盾することがありうることは無視して)ともあれともに受け入れ、そして第二に、その変容態として、②a「私」とは、ある一つの記憶系列がそこから開けている(逆に見ればそこで終わっている)原点そのもの、、、、、、を指す、という規則と、②b「私」とは、与えられたその記憶の内容が提示している記憶連続体そのもの、、、、、、、、、を指す、という規則とを、(その二つも矛盾することが考えられはすることは無視して)ともあれ受け入れ、そのうえさらに、aを、端的に与えられたその唯一の実例以外の者にも、それが当てはまると自認する(あるいは見なされる)他者たちにも認めて**、ab複合規則として一般化する、、、、、ことによってなされる、ということになる***

*その一般的な仕組みそのものをここで細かく論じている余裕はないので、手っ取り早く思い出してイメージ化したい方は、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか――哲学探究3』の第8章の第20段落にある図の描き方の説明をぜひともお読みいただきたい。その図はどこまでも完成に至ることがないという仕方でこの矛盾の存在が示されている。

**これは、時間の場合でいえば、A系列として一括されているものを端的なA事実と一般的なA変化・A関係とに分類することに当たる。

***これは、もともと世界に実在していたa的存在者とb的存在者との区別を廃棄して、そのどちらにもa的特性とb的特性を割り振ることによって一種類の存在者に仕立て上げる、ということである。この世界構成は累進的にしか成功しない(本段落の注*参照)が、累進的には成功し、われわれはそれが成功した世界に住んでいるので、このような記述さえも完成したその世界像の下で読まれてしまう危険性につきまとわれている。ここでは、このような一般的な記述を、それでも累進的な一般論としては受け取らない方向から理解すべく努力されたい。

11 ①にかんして補足的な注意点を記しておくなら、 aを他者たちにも認めるということと、aとbが併存するということとは、互いに支え合う関係に立つ、という点に注意していただきたい。もしaを、端的に与えられたその唯一の実例以外には認めないとしたら、そこに併せてbもまた認めたとしても、さしたる意味はないであろう。これは、自分を客観化してはいるが他者を主観化してはいないケースであるといえる。しかしまた、aを他者たちにも認めたとしても、もしbが存在しなければ、やはりさしたる意味はないであろう。これは、他者たちを主観化してはいるが自分を客観化してはいないケースであるといえる。②の場合にも同型のことはいえるが、そこには「今」についての同じ問題が絡んで、多少複雑な話になるので、ここでは触れないでおく。

12 ②によって、統一的な客観的世界とそれを経験する持続的自我がともに成立する道筋が開けることになるのだが、そうであるためには、記憶が過去の事実に届いている(いいかえれば過去の事実を再現している)ということがなぜいえるのか*、が理解されなければならないはずである。次にこの点について、見過ごされがちだが不可欠な一点について、カントの議論に深く関連するはずなので、その一端に触れておくことにする。

*もちろん、それが「記憶」の意味であるのだから、それは分析的真理である、ともいえるのだが、そう理解された場合には、同じ問いは、なぜそもそも記憶などというものが可能だといえるのか、と言い換えられることになる。

 

三 いかにして記憶は可能か

 

13 ヒュームは、Aタイプの出来事にBタイプの出来事がつねに引き続いて起こる「恒常的連接」こそが「因果関係」の実態である、と考えた。しかし、そうだとしても、いや、そうだとすればなおさら、因果であろうとたんなる恒常的な連接であろうと、ともあれまずは類型の把握という問題があるはずではないか。そして、類型を把握できるためには、ともあれまずは、過去に起こったことを記憶していることができなければならないはずであろう。これはつまり、過去を過去として把握するということそのものでもある。そもそもそれはいかにして可能なのか*

*こう問われれば即座に、カントのように因果性を超越論的なカテゴリーと見なす場合には、その問いはそもそもありえず、まさにそのカテゴリーの存在によってこそ各主体の「記憶」は初めて可能ならしめられるのだと理解されねばならない、との応答が返ってくるかもしれない。これは非常に優れた応答であり、まさにこの問題にそのような応答が可能である(あるいはむしろそのようなあるいは本質的な点でそれに似た応答しか実はありえない)ことこそが、経験的事実把握に先行してこの超越論的カテゴリーが存在すると考えざるをえない理由なのだ、といえるのではあるが、それがまさにこれから論じられるべき問題そのものなのである。

14 私にとっては非常に意外なことなのだが、このきわめて単純な問いの意味が、そもそもどうしても理解できない人が多数存在するようだ。科学的な人は「過去の知覚等を原因とする何かが脳に蓄えられていることによって」(とかそれに類すること)を言い、より素朴な人は「なんとなく記憶っぽい感じがすることでわかる」(とかそれに類すること)を言うことが多い。ともあれ、何かその種の、、ことが答えになりうると信じているようだ。科学的な人と素朴な人は本質的には同じことを言っている。その「記憶っぽい感じ」や「過去の知覚等を原因とする何か」が過去を表象・再現しているとなぜいえる(わかる)のか、それを知る方法は原理的にないではないか、というのがここでの問題なのだが、その意味がどうしても理解できない人がいるようなのだ。本当に過去そのものを表象・再現しているかどうかを調べるには、原物と対比して確認してみるしかないのだが、それはもう過ぎ去っているのだから、対比して確認するすべはありようがないのだ。まずはこのことに根源的に納得して心底から驚いてからでないと、哲学の議論にはよくあることだが、そもそもここで何が論じられているか、理解できないだろう。

15 外界の事物の知覚だって、原物そのものと対比して、本当にそれがあるのかどうかを、したがって本当に(幻覚や錯覚ではなく)知覚が成立しているのかどうかを、確認するすべはないではないか、と思われるかもしれない。たしかに原物を直接捉える方法は、この場合にもないが、しかし、知覚の場合には、別のルートから近づく方法が存在する。それは例えば、見えたものがそこにあることを確かめるために、それが見えたその場所まで歩いて行って見ながら手で触って(視覚に加えて触覚によって)確かめる、といった方法である。すなわち、一つの超越的対象に達するための複数のルートというものがありうるわけである。だが、過去にかんしてはそうしたルートが見出せない。そして、ある事象に行きつくためのルートが本質的に一種類しかない事象は、そのルートと独立にその事象そのものが実在するとはいいがたいのだ。事象そのものとルートが癒着していて区別がつかないからである。

16 じつをいえば、他者の心理的事実についてもほぼ同型の問題が存在してはいる。こちらはむしろ、記憶に類する直接的な繋がりがもともとないので、そもそもルートが存在しない(あるいはルートしか存在しない)ともいえる。とはいえ、子どもが転んで身体のある箇所から血を出して泣いていたら、その子はそこが「痛い」のだというような、いわゆる「基準」は存在しており、これはむしろ最初から複数ルートの同時成立(外的文脈と身体状態と表出行動と)を主張していると解釈することもできる。痛みのような身体感覚のみならず、酸っぱさのような味覚や雷鳴のような聴覚にかんしても、さらには感情や気分にかんしても、その直接感覚を把握して概念化するためには外的基準の介在が必要となる(当人にとっても)のだが、この事実の指摘はウィトゲンシュタインが開発した一種の観念論論駁であったといえるだろう*

*そう見れば、言語ゲームという発想そのものが一種の超越論的観念論の提唱であるともいえるはずである。しかし、翻ってこのことが記憶についてもいえるという点は、言語ゲーム学説をあらかじめ超えているともいえる、カントの画期的な洞察である。

17 記憶にかんして、別ルートが存在するとすれば、段落13で言及した因果性(でなくとも少なくとも何らかの規則性・法則性)の存在が考えられる。おそらくは、それしか考えられないだろう。見方を逆にして、そもそも超越的なものへと至るルートはそうした超越論的なカテゴリー(を介する方法)しかありえないのだとすれば、前段落でその一例に言及した「基準」は、その意味で(他者の心的状態という超越者を構成するための)超越論的なカテゴリーであるといえる。ともあれ、洗濯物を干した記憶があり、いま触ると乾いている場合、干したという記憶の正しさは、洗濯物は陽に干すと乾くという法則性の存在によってかなりの程度に正当化されることは確かだろう。というより、これに類する支えなしには、すなわち、記憶印象をその外から正当化してくれる何かがもし何もなければ、そもそも「記憶」という概念*が成立する余地そのものがなかったであろう。

*わざわざ「記憶」という概念、、というのは、たとえ記憶そのもの、、、、は存在していたとしても…、という含意があるからである。事実として過去を再現する表象が生起していたとしても、それを過去を再現している(すなわち記憶である)と捉えるべグライフェンことができていなければ、「記憶」が存在することにはならない。

18 しかしこれは要するに類型的連接関係の存在という問題にすぎず、それだけのことならヒュームの議論でも十分であって、とくにカントのように論じる必要もなかろう、と思われるかもしれない。しかし、そうではないのだ。たしかに、この類型的連接関係をそれとして把握するためには、やはり記憶(の正しさ)が前提される。とすれば記憶の正しさをこの関係の存在によって正当化することはできないことになる。この循環を断ち切るには、特定の類型的連接関係ではなくとも、ともあれ類型的連接関係というものが客観的に存在しているということが、アプリオリに前提されざるをえない。すなわち、「…の記憶である」、「…の記憶がある」という捉え方コンセプションそのものが、何らかの客観的な規則性・法則性(自分にそう思われるということからは独立した客観的にそうであるというあり方)の存在を前提にしないかぎり成立しがたい、ということなのだ。これがヒューム的洞察を超えるカント的洞察である。世界の側にいかなる客観的な法則性(類型的な継起)もなければ、そもそも記憶は(「記憶」としては)成立しがたい*。それゆえ、そのことが「経験の可能性の条件」(あるいは「基準」)とならざるをえないのだ。それなしには、いっけん最も基礎的に見える「覚えている」ということ自体が、そもそも成り立ちがたいからである。そして、この意味での「覚えている」こと、「思い出せる」ことの確立こそが、客観的な世界と持続的な自己とを、その独特の相補的なあり方において、一挙に同時に成立させることになるだろう。これが、カント的超越論哲学の秘義であり、驚くべき真理でもあるといえる。

*これは前段落で「記憶という概念」について語ったのと同じ意味である。たとえ過去を再現する表象が起こったとしても、それが記憶である(=過去を再現している)と概念的に把握できるためには、それを保証する別の何かが必要とされるのである。しかしまた逆に、その関係が確立されてさえいるなら、「私自身の存在についてのたんなる、とはいえ経験的に規定された意識は、私の外の空間における諸対象の存在を証明する」(B275)というテーゼまでは遠くない。「経験的に規定された」とは、このようにして過去と繋がった記憶を持つことを意味するからである。ヒュームの議論でさえ、暗にこの「記憶」概念を先回りして使ってしまっている疑いは濃いのだ。

19 とはいえもちろん、ここでもやはり、ちょうど客観的・公共的な「基準」に依拠して導入された第一次内包としての「痛み」が主観的・私秘的な第0次内包としての「痛み」の存在によって「逆襲」されねばならなかったように、類型的連接関係に支えられた記憶もまた裸の記憶印象による端的な記憶によって「逆襲」されうるのでなければならないことになる。どんな外的状況とも関係なく、たとえば左手の薬指に痛みを感じれば、すぐに(いかなる外的基準も介さずに)そうだとわかり、かつそうであると表明できるのと同じように、どんな外的類型性による支えもなしに過去の出来事が端的に記憶可能とならねばならないのだ。持続的な自己の自己同一性が成立するためには、外的な類型的連接関係による支えから記憶が自立し、「通常ならそうであるはずであるにもかかわらず、しかし現実には間違いなくこうであった」と思え、かつ主張できる、ということの成立こそが不可欠の条件となるからである*。ここでは、類型的連接関係の側がいちいち記憶によって確かめられる必要がないのと同様に、記憶の側もいちいち類型的連接関係によって支えられている必要はない。しかし、それにもかかわらず、ちょうど「痛み」の主観的・私秘的な第0次内包が客観的・公共的な第一次内包を経由することによってしか(客観的に位置づけられたものとしては)成立しえなかったように、「記憶」の主観的確実性も客観的な類型的連接関係の存在に一度ひとたびは支えられることによってしか(客観的に位置づけられうるものとしては)成立しえないのである**

 *記憶に拠る自己同一性はこのようにして成立する。これは身体の同一性には依存しない。もしこの意味で同一的な自己が異なる諸身体を渡り歩くとすれば、「私は異なる諸身体を渡り歩いているな」と思うことができ、むしろそう思うことしか、、できない。これに対して、世界の開けの原点であるはずの〈私〉は、異なる諸記憶を渡り歩くことができない! (なぜ渡り歩けないのかといえば、そもそも成立水準が異なるからであり、〈私〉は記憶なる現象が成立可能な水準には存在しえないからである。)それゆえ、持続を前提とするかぎり、世界の開けの原点はこの記憶連続体のほうへ移るしかない。これが、独在論がカント的な超越論哲学から学ぶべき最大の洞察である。そこが最終的・究極的な地点であるといえる記憶が存在し、その際の「記憶」は、諸身体を渡り歩いてもよいだけでなく、それだから当然、客観的世界との対照においては偽なる記憶であってもよいことになる。もし私が――すなわち世界の開けの原点が――火星で育った生々しい記憶や最近地球にやってきた際の記憶などを鮮明に持って(開けて)いるなら、私はそういう人として生きるほかはない。その場合、身体的連続体や客観的世界との関係はその上に立って、そこにおいて理解されるほかはないことになる。

**この「逆襲」の問題は、第二版の「演繹論」における「客観的統一」と「主観的統一」の区別や『プロレゴーメナ』における「経験判断」と「知覚判断」の区別にも関係しているので、それを論じる際に(もし覚えていれば)また論じたい。また、当然のことながら、前注にもかかわらず、特定の身体との固定的な結合を前提した記憶の正しさという観点から見れば、私の記憶が間違っており他者から訂正されることは多いにありうることである。しかし、この訂正といえども、私自身の側から見れば、私の記憶の纏まりの側を前提したうえで、その時点において持っている身体が経てきたはずの客観的経験とが対比されているにすぎないだろう。もしそうでなければ私自身にとっては何の意味もないだろう。それが私自身であるという骨格をなしているような持続性を根底から覆すような「訂正」は客観的には正しくても、私自身にとっては何の意味もなく、そもそも「訂正」とはいえない。「火星育ち」の〈私〉が、その履歴を完全に否定されたなら、「この身体からいま開かれている世界は私のその履歴を正当に位置づけることができないあり方をしているのだな」と思うほかはないであろう。出発点はこちらにあるのだ。身体の事実(世界においてどの身体が私であり続けているとされるか)に対しても、〈私〉の事実(かつてどの人が現実に〈私〉であったか)に対しても、こちらの連続性が優位に立つし、立たざるをえない。この議論をすると、身体との関係における優位性の問題に興味を持つ人が多いが、それはむしろ通俗的な興味であって、哲学的に遥かに重要なのは、〈私〉との関係における優位性のほうである。これこそがカントの超越論哲学の根源的で画期的な洞察なのだ。これを、段落10における①と②の対比をつかって表現するなら、これは、②bの②aに対する優位性の主張であるといえる。ここで最重要の点は、カントに反して、これは①bの①aに対する優位性を含意しない、という点なのだ。カントは混同している(おそらくは意図的に)と思うが、この二つは別の問題であり、それらを区別することが重要である。それはまた「誤謬推理」と「観念論論駁」の断絶の問題でもある。「誤謬推理」は本質的に正しいが「観念論論駁」はそうはいえない。とはいえ、先ほどの言い方をもういちど使うなら、そもそも観念論論駁なんて通俗的興味にすぎない(カントが他の通俗的哲学者たちのためにやって見せた)のであって、真に重要なのは誤謬推理のほうであることは疑う余地がない。

20 ところでしかし、これらは要するに、ある種の規則・規約・基準の介在によって、当初に与えられてあったものから、それの外部にある、それを超越した、客観性が構成・樹立される、という議論である。その議論は本質的に正しい(独在性を出発点とするなら正しくしかありえない、逆に出発点が違えばそもそもその意味を理解することさえできないであろう)議論なのではあるが、それでもやはり、これだけではまだ足りないのだ。外界の物体や、そのもつ属性やその動きやその数や相互関係といったことなら、このような議論だけでも十分であろう。が、たとえば他者の存在は、このやり方では構成・樹立されえない。なぜなら他者とは、もともと私から開かれる世界の内部に存在する対象ではなく、少なくともそれに尽きる者ではなく、それゆえ、そこに何らかの規則や規約や基準を設定することによって構成・樹立できるようなものではないからである*

*じつは痛みや味や音や感情や気分のようなものについても同じことがいえる。それらは物体やその属性や数や相互関係のようなものとは違って、このやり方では構成・樹立できない。そこに第0次内容による「逆襲」の可能性があらざるをえないのは、その背後に無内包の現実性の存在とそれの概念化されたあり方(すなわち〈私〉と《私》の存在)が前提されているからである。ウィトゲンシュタインの比喩を使って表現するなら、「箱の中のカブトムシ」を可能ならしめるのは「駒に被せられた冠」なのであり、その意味において、それらにあたるものはどちらも現実に存在するといえるのである。

21 それゆえにまた、(これはまだ先になってから詳述すべき事柄ではあるが)私に現に与えられている世界から(「実は……に与えられている」という意味での)〈私〉を差し抜いて、それをもその世界の内部に埋め込んで作る客観的世界の作り方でもまた、他者たちを作り出すことはできない。他者を作り出すにはむしろ逆に、(「実は……に与えられている」という意味での)〈私〉を含んだ形での、その例外的な(客観的世界の構築においては無かったことにされねばならないはずの)存在者からのみ開けている世界のあり方を、まったくそのままに、そのことの形式的な(たまたま現実ではなかっただけの)可能性において保持し、それを再構築する(というヨコ問題に固有の様相的な)方法をとらなければならないのだ。これもまた、ある意味ではやはり客観的世界の構成・樹立なのではあるが、物体やその属性や数や相互関係といったことの客観性とはその客観性の成立水準に断絶があるのだ*

*この違いについてもまた、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか――哲学探究3』の第8章の第20段落にある図の描き方の説明から、どちらがどの段階の「客観性」に属するかを理解していただきたい。そのついでに、それぞれのカテゴリーがどの段階の客観性の成立に寄与するものなのか――第一ステップか、それとも第二ステップか――も考えておいていただけるとありがたい。カテゴリーとされるものも截然と二分されることがそこからも理解されると思う。

22 しかし、いま問題なのは他者ではなく過去(や未来)である。通常、この点があまり理解されていないように思えるのだが、過去(や未来)は、外界の物体に類するものではなく、他者に類するものなのである。それらは、可能な現在であり、世界の開けの(現実に現実的ではない)原点であるからだ。複数の原点を繋げるには、端的な現実のA事実とは別に、現実の現在ではないとはいえ概念的にそれとまったく同様に現在性を(可能的に)持つものを考案し、それらを連接させてA変化なるものを作り出さねばならない。A変化なんてあるはずがないだろう。そこからすべてが始まっている、すべての原点であるものが、いやもっといえば端的にすべてである(すべてがその内部にある)はずのものが、じつはなんと複数(無限に)あって、それらが互いに繋がっているなんて! しかし、時間とは構造上はそういう矛盾したあり方を、その内容によって(だからつまりB系列化して)繋げた、極めて異様な存在者なのである*。そして記憶とは、その水準をあたかも自明の前提のように見なすことによって初めて成立する、極めて不可思議な現象なのだ。

*時間の場合も、現実の現在は現に一つここにしかないので、それを形式化して反復することによってしか(このA事実を超えた)A変化、A関係、A系列は構成できない。もともと人間というものが個体化されている人称の場合と異なり、時制の場合には、そのことと単位化(unify=一つにすること)が連動しておこなわれるはずである。「一」の把握は「物」の場合から借りて来られねばならないとはいえ、通常の場合、出来事にも自然の切れ目はあるだろう(「直観における把捉の総合」もそれゆえ可能になるだろう)*。現在の形式化された反復可能性が単位化と合体することが、A系列系の考え方の可能性の条件を創り出す(これはもちろんまた同時にB系列でもあるが、決してC系列ではない点に注意せよ)。これが年表やカレンダーや時計の文字盤の可能性の条件を創り出す。しかし、物の個数と同じ仕方で、私や今が客観的に単位化されて平板化されることで、世界は独在性とその累進化を組み込んだ矛盾した存在となり、根源的に歪んだものとなるだろう。

(注内の注*単位の内部に含まれている変化は、後にこの変化と概念的に同一化されうることになるが、原初においては、空間的な一事物の内部に多様性があるのと同種の現象にすぎない。「ドレミ」いう一単位の内にも「ド」「レ」「ミ」という三つの単位が区別でき、レが聞こえているときにはドは過去でミは未来であるという構造は、後から解析可能となるだろう。)

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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