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文字の渚 岩切正一郎

孤独

 

五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

 
これは塚本邦雄の第二歌集『装飾楽句』(1956年)の最初の章「悪について」の冒頭に置かれた歌。歌集刊行時、彼は三十五歳なのだが、1980年代になって初めてこれを読んだとき二十代前半だった私は、自分と同じ年頃の「われ」がここで語っているような気持ちでこの歌を暗記したのだと思う。

 豊穣を願う祭りである五月祭。健康そうな青年が汗を光らせている。彼は仲間と一緒に活発に動きながら、若いエネルギーを発散させている。

 「われ」は病んでいる。実際、塚本邦雄は、1954年から二年間、結核のために療養生活を送った。とはいえ、この歌のなかの「われ」の病が身体の病気だけとは限らない。「悪について」の「悪」は、ボードレールをフランス語で読んでいた彼のなかでは、フランス語の「le mal」が持つ多義的な意味を含んでいるのだろう。日本語でも「悪寒」とか「にくむ」とか言うように、悪は、善悪の悪だけではなく、もっと広義に、良くないことや状態を表す(その点では、ボードレールの詩集『悪の華』(Les Fleurs du Mal)をThe Flowers of Evilと訳して「悪」に一義的な意味を与えてしまう英語よりも、日本語のほうが多義性が生きている)。

 19世紀始め、閉塞的な社会状況に陥ったフランスで、若者を襲い、自殺者も出していた絶望的な暗い精神状態を「le mal du siècle」というが、これは日本語では「世紀病」と訳される。メランコリーのことをこう呼んだのだ。短歌の「われ」は、体を病んでいるのと同時に、なによりも、共同体の善に与するのではなく、独自の世界を生きることに直結する「悪」の側に立つことによって病んでいる。彼のなかでは、青年の健康的な生命の火とは対照的に、孤独が火のように燃えている。

 歌は、あるいは文学は、この火のごとき孤独のエネルギーによって生まれる。

 

 孤独なわれ、と嘆いていないのがいいな、と私は思う。「ぼくは決してひとりぼっちではない、孤独と一緒にいるのだから」と歌手のムスタキは歌い(「僕の孤独」Ma solitude)、フランス語では女性名詞の孤独(la solitude)を女友達のように扱って、寂しさを親密なものにしてくれたけれど、そしてそういう擬人化が少し似ているところはあるけれど、シャンソンが作られたのは邦雄よりもだいぶあとのこと。

 自分のなかに「火のごとき孤独」を「持っている」という言い方によって、孤独は、ある種、物質化された内面と化し、まるで自分でもどうしようもない、手なずけられないもの、さわると火傷するものとなっておのれのなかで存在しているかのようだ。

 

 孤独はいつも芸術の条件だった。19世紀の詩人ボードレールは「不運」という詩でこう書いている。

こんなにもずっしりした重さを持ちあげるには、
シーシュポス[1]、君の勇気が必要だろう!
心を込めて取り組んでみても、
〈芸術〉は長く〈時〉は短い。

名高い墳墓ふんぼから遠く、
ひとり離れた墓地へ、
ぼくの心は、鈍い太鼓のように、
葬送のマーチを打ってゆく。

――あまたの宝石、埋もれて眠る
闇と忘却のなか、
鶴嘴と測鉛[2]から遠く。

あまたの花、惜しみながら放つ、
秘密のように甘い香り
ふかい孤独[3]のなか。


「ふかい孤独のなか」で「花」つまり詩は、甘い香りを放っている。その香りを嗅ぎ分けられないがさつな人間に対してもお構いなしに大盤振る舞いする、そんなふうにではなく、スタンダールが小説『赤と黒』や『パルムの僧院』を「幸福な少数者へ」(To the Happy Few)向けて書いたように、香っている。

 孤独へ疑いの眼を向ける者はいた。高校生の息子が読んでいる文庫本『孤独な散歩者の夢想』(ルソー)を見やり、「孤独!」と、哀れむような眼差しを向けるのは、わたしの母であった。母は人と賑やかにしているのが好きで、本を読むより、体を動かしている方を好んでいた。

 

 手に取ることができる本という形態のなかに収められて、ブランショ[4]の言う「本質的な孤独」にほかならない「作品」があり、そしてわたしはその作品の孤独と沈黙を、言葉を通して受け取っている、そんなことを思いながら本を読んでいたわけではない。そういうことよりは、詩や小説のなかから、あるいは映画や音楽や絵画から、孤独な魂が語りかける声を聞いていた、そして今も聞いている。そこには、孤独な魂だからこそ思いつく、西脇順三郎のいう「諧謔」があった。

 

 「子供のときからの孤独の感情」とボードレールは「内面の日記」に記している。私の孤独の感情は、どんな性質だったのだろう。ハンナ・アーレントは、孤独に類した三つの概念を『全体主義の起源』のなかで定義している。人が一人でいる状態には、loneliness(孤絶)、isolation(孤立)、solitude(孤独)という三つの状態があるという。私がその考えを知ったのはずっとあとだが、思春期の頃にもしそれを知っていたら、自分の孤独をその三種類のうちのどれと同定しただろうか。今ならその腑分けもできそうな気がするけれど、自分の存在が出口のない暗黒の孤独のなかに閉じ込められていて、閉じ込められたまま深々とした深淵へひきずり込まれていくような荒涼とした寂しさにとらわれている、そんな感情を、知性の分析器にかけて分類し名付けること自体に反感を感じたかもしれない。そんなことをしたところでこの自分を世界のどこかへつなぎとめるための答えは手に入るのか?と。私は薄々知り始めていたようだ。ふとそこに現れて、心をとらえて離さないイメージの――それは視覚的なものだったり聴覚的なものだったりしたが――その魅力だけが、自分を世界へつなぎとめているのではないだろうか、と。 

 

 Lonelyであるとき、人は「あらゆる人間的な交際から見捨てられている」と感じている、とアーレントは説明している。彼女によれば、これはとても良くない状態である。Isolationは、世間に一般的に流通している価値観から自分を隔てている状態ではあるものの、lonelinessとは違って、「世界とコンタクトを保っている」状態にあり、「自分自身が独自に持っている何かを共通世界へ付け加える」という創造性のある活動をしている状態だという。それは、他者との関係性のなかで生まれる孤立、共同体的、ポリス的なという意味での政治的な孤立なのだが、それに加えてもうひとつ、アーレントは、いわば実存的に一人でいる状態を取り上げていて、それをsolitudeと定義している。自分とは誰か、をしっかりと捉えなおすこと、「自分のアイデンティティーの確証」がsolitudeのなかで行われる。

 アーレントは、このsolitudeをとても大切なものと見なしていた。とりわけ、考える、という行為にとって。「思考はすべて孤独(solitude)のうちになされる」と彼女は述べている。

 

 Lonely、それは、「自分は一人であると思って悲しくなること」とオクスフォード英語辞典には載っている。ひとりぼっちで寂しい、といった感じ。今どきの言葉で言えば、「ぼっち」というのがこれに当たりそうだ。確かにこれは良くない状態ではあるだろう。「ぼっち」の悲愁にあまりにも苛まれると、人は、凶暴で発作的な暴力によって他人を害することを通じて、他人とのつながりを最悪の形で回復しようとすることだってある。

 イギリスの孤独担当大臣(Minister for Loneliness)はこの危険な寂しさ、lonelinessに取り組む大臣なのだ。2018年にイギリスのメイ首相が新設したこの大臣職は、首相が「現代生活の悲しい現実」(the sad reality of modern life)と呼ぶものに対処するのを任務としていた。

 アーレントの定義に添えば、isolationには、創発的なもののために自らスタンダードな規範を脱し、自分を他から能動的に離しておく、肯定的なところがある。人を寄せ付けない孤高なタイプはこれに当たるのだろう。

 

 「ひとりともしびのもとにふみをひろげ、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」と兼好法師は『徒然草』に書いている。この「ひとり」は、アーレントのいうsolitudeの性質を帯びているようだ。そこでは、文字を通して語りかけてはくるものの、今ここには不在の人が「友」となり、読者である自分の実存、自分の心を慰めている。

 

 

 筆名ロートレアモン伯爵、本名イジドール・デュカス(1846–1870)の書いた『マルドロールの歌』第一歌の終わりで、語り手の「ぼく」マルドロールは、次に来る構想中の第二歌を前にしていったん読者に別れを告げる。こんな言葉で。

 お別れだ、老人よ、ぼくが書いたものを読んだのならぼくのことを思ってくれ。きみ、若者よ、絶望するな。だって、きみには、きみ自身の意見に反して、吸血鬼のうちに友がひとりいる。疥癬を生じさせるヒゼンダニを勘定に入れれば、きみには友だちが二人いることになる!

 
「絶望するな」というからには、ここで呼びかけられている若者には友はいないのだ。残酷さの化身であり吸血鬼であるマルドロールのことも頭では友だちとは思っていない。けれどその意見にも拘わらず、その心の奥底でじつはきみとぼくは互いに友なのだ、とマルドロールのほうから断言する。絶望している若者にとって、なんという衝撃的な言葉だろう!『悪の華』の巻頭に置かれた「読者へ」でボードレール的な語り手は、読者に、きみはこの「憂鬱」という怪物を知っているだろう、「偽善家の読者よ、わが同類よ、兄弟よ!」と呼びかける。マルドロールのもそれと同じような呼びかけではあるけれど、「きみだって私と似たようなものなのだよ」と囁きながら老獪に相手をからめとるボードレール的な呼びかけよりも、マルドロールのはもっとあけすけな響きを持っている。「ぼくという友だちがいるじゃないか」

 そしてその次に来る身も蓋もない言葉。ここまで言われたらかえって爽快である。ヒゼンダニも友だちなのか……!そしてわたしは笑ってしまう。吸血鬼とダニが友だちだなんて……

  このマルドロールは、残酷さにおいて比類を絶していて、そのために孤りでもあった。第二歌で、彼はこんな述懐を始める。

 ぼくは自分と似た魂を探していた、けれど見つけられずにいた。地上をあらゆる片隅まで探索した。どんなに頑張っても無駄だった。とはいえ、ひとりでいることはできない。ぼくの性格を承認してくれる者が必要だった。ぼくと同じような考えを持つ者が必要だった。

 
「五月祭の汗の青年」のいるような境域から、つまり、一般社会で承認されている善の価値観を代表する側から、ひとりの若い男がマルドロールの前に姿を見せる。「彼がそこにいれば、その過ぎゆくところには花々が生まれるだろう」、そんな若者。彼は近づきマルドロールへ手を差し出して言う。「きみのところへ来たよ。ぼくを探しているんだろう。この幸せな日の光を祝福しよう」その申し出をマルドロールは拒絶する。「どこかへ行け。ぼくはきみを呼んではいない。きみの友情なんか必要じゃない……」

 

 日本の戦後詩の代表的な詩集のひとつである飯島耕一(1930–2013)の『他人の空』(1953年)に収められている「行列」という詩の冒頭には、次のような引用が置かれている。

 
彼らの通る路々に花が一度に開く――ロオトレアモン


これは、今しがた見た、マルドロールへ手を差し出した若者について言われた言葉を少しアレンジしたものではないかと私は思うのだが、もしきちんとした出典をご存じの方がいらっしゃったらぜひご教示いただけると幸いである。この一文は、詩のなかで改めて引用される。

 僕は一つの列をぬけだした。そうしてもう一つ前の列の後尾に加わった。もう一つの列に追いつくために走りだそうとした。僕は探していた。〈彼らの通る路々に花が一度に開く〉そんな行列を探して、何処までも走ろうと身構えた。


マルドロールが拒絶したほうの生のあり方を、飯島は選ぼうとしたのだろうか。それとも、そんな明るさにうかうかと魅惑されている自分へ皮肉な憐憫を向けているのだろうか。あるいはついうっかり、マルドロールと若者を取り違えてしまったのだろうか。

 

 マルドロール自身は、昼とともに輝くこの若者を拒絶し、次に、夜の星明かりのもとで姿を見せた美しい女のことも、「きみはぼくの魂を知らない」といって拒絶する。

 それから彼は海岸の岩に腰掛ける。ちょうど大きな戦艦が岸を離れるところだった。そこへ稲妻が走り雷鳴のとどろく烈しい暴風雨が襲ってきた。船は碇を下ろすものの、逆巻く怒濤に船腹は裂け、ゆっくりと沈み始める。マルドロールは銃を構える。沈没船から岩場へと泳いでくる者を撃ち殺すためだ。彼は自分でも制御できない残酷さの発作にとらわれているいっぽうで、自分が何をしでかしているのかを意識してもいる。そして銃をぶっ放す。

 血の臭いを嗅ぎつけて六匹の雄のサメがやってきた。サメは海へ放り出された人間たちをオムレツのようにぱくついている。とそこへ、一匹の雌のサメがやってきた。人間のフォワグラに、冷製肉にありつくためだ。一匹の雌鮫と六匹の雄鮫とのあいだで、ご馳走をめぐる死闘が始まった。雌鮫は三匹の雄をやっつけた。マルドロールは、それまで感じたことのない心の高ぶりを覚え、銃を構えて雄の一匹を撃ち殺す。それから、海へ飛び込み、鋼のナイフを手に波をかきわけ、雄鮫へ近づくと、鋭い刃をその腹へ突き立てて仕留めた。動く要塞のような雌鮫も残る一匹の雄鮫を始末した。

 今やマルドロールと雌鮫は互いに見つめあう。

 
 それぞれが、相手の眼のなかにこれほどまでの残忍さを見出して驚いた。ふたりは泳ぎながら輪を描き、互いから眼を離さずに、ひそかに思うのだった。「これまで思い違いをしていた。自分よりも残酷なやつがここにいる」
 

ふたりは互いの方へ滑り寄り、互いに感嘆し合い、深い敬意を抱き合いながら、「生まれて初めて、生きた自分の肖像をとっくりと見つめていたく」なるのだった。そして3メートルの至近距離まで近づくと、だしぬけに、恋人同士のように、もんどりうって抱き合い、きょうだいのように優しく抱擁し、そしてその友愛に肉欲が続くのだった。

 深淵の未知の深みへと落ちてゆきながら、ふたりは長い、純潔な、おぞましい交尾のうちに一体となった!…とうとうぼくは、自分にそっくりの相手を見つけたところだった!…この先、人生で、もうひとりぼっちではなかった!…彼女はぼくと同じ考えを持っていた!…ぼくは初恋を目の前にしていた!


 マルドロールのような者にさえ、自分と同じ魂を持つ伴侶が必要なのだ。理性やロゴスで分かり合うのではなく、自分を最も深く特徴付ける性質において、マルドロールの場合だと残酷さにおいて、自分自身を映し出している相手。

 

 本に書かれている出会いのうちの、とくに美しいものを挙げよ、と言われたら、私はこの、マルドロールと雌鮫の出会いを、その筆頭に挙げるだろう。肉を介した、この凶暴で純潔な魂と魂の出会いを。

 

 実人生のなかでそんな相手に出会うチャンスはそう滅多にはないかも知れない。マルドロールでさえ、自分が息をする領域である地上は探し尽くして、結果は虚しかった。もう一人の自分が姿を見せたのは、自分にとっては別の生物圏である海のなか、人間ではない、自分とは違う性の生物としてだった。

 現実の世界とは違う世界、一篇の詩、一篇の小説、スクリーンのなか、舞台の上で、私たちは、マルドロールにとっての雌鮫のようなものに出会うことがあるかも知れない。自分を自分へと返してくれる他者。マルドロールの場合、それは、血に染まる海での雌鮫との出会いという、血なまぐさい女性性のイメージにひたりながらだったというのは面白い。あたかも新たな生へ生まれ出るための、裸の魂の、胎内回帰だったとでも言うように。

 ひとりぼっちの人が、人間性や、人間のなかに、自分をその孤独から救い出してくれる相手を探そうとしても、ますますひとりぼっちになることだってあるだろう。そんなとき、自分にはマルドロールやヒゼンダニがいる、と思い出すことは、心の健康に良い。マルドロールと鮫との出会いを心のなかに持っておけば、偽善やまやかしのにおいがするモラルや正義に毒されそうになったとき、そこから健康を救い出す解毒剤になる。

 

 

[1] ギリシャ神話の人物。山頂に運んではふたたび落ちる岩をまた運び上げるという永遠の罰をゼウスから受けた。

[2] 水中に投下し水深を測る器具。

[3] 「ひとり離れた墓地」の「ひとり離れた」は原文では« isolé »(英・isolated)、「ふかい孤独」の「孤独」は« solitude »。

[4] モーリス・ブランショ(1907–2003)。批評家、思想家。『文学空間』(1955年)において、作品の「本質的孤独」を論じている。

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著者略歴

  1. 岩切 正一郎

    フランス文学研究者・戯曲翻訳家・詩人。著書に『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』(書肆心水)他。詩集に『La Citrondelle』(らんか社)他。書籍化されている戯曲翻訳に、アヌイ『ひばり』、カミュ『カリギュラ』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(いずれもハヤカワ演劇文庫)他。日本を代表する演出家が手がける多くの舞台で戯曲翻訳を担当している。国際基督教大学教授。現在、学長。

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