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文字の渚 岩切正一郎

生成系AIに質問してみた

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  パソコンの画面に、小さな黒い四角形が点滅している。やがて四角形は右へ移動しはじめ、次々に字を並べてゆく。ときどき停止して、ちょっと考えている風情のひとときがある。再び右へ動き始め、右端から左端ヘ飛び、字のつらなりは句読点で区切られながら、意味のある文章を構成してゆく。

  私は、「「作者の死」という概念について教えてください」とChatGPTに質問してみたところだ。返ってきたのは、とても分かり易い説明だった。本のタイトルや概念の初出の年など、不正確なところは所々あるけれど、概念のあらましはとても的確に書かれている。

 ウェブ上では、「作者の死」で検索すると、美術批評家・中尾拓哉氏の解説を読むことができる。それは次のように始まっている。

 
 ロラン・バルトは論文「作者の死」(1967)のなかで、作者、すなわち近代に誕生した「人格」「経歴」「趣味」「情熱」などによって作品を創造する主体が死を迎える=非人格化されることでエクリチュールが始まるとした。[1]

 そのときまでは、作者は、テクストのなかで表現されていることの全ての意味を、自分の人生や著作物へ参照させることで、独占的に決定できる支配力を私たちに及ぼしていた。その権力と権威が失われることを、バルトは比喩的に「作者の死」と呼んだ。その死とともに、人は〈作者〉の支配圏を脱し、新しい場所へやってきた。それは、エクリチュール(仏 écriture、英 writing:書くこと)によって生成されるテクストという場所で、そのなかを自由に歩き回り、テクストの構造そのものによって生成する意味を、花を摘むように読み取って意味のブーケをアレンジできる(という比喩をバルトは使ってはいないけれど、フランス語の「読む」という動詞lireリールの語源はギリシャ語のlegeinレゲイン(読む・摘む)なので、そう言うことも許されると思う)、テクストを意味生成の豊かさのなかで読む、新しい概念としての読者も、「〈作者〉の死」とともに誕生した。[2]

 

 中尾氏が簡潔に説明している「エクリチュール」の特徴は、生成系AIのエクリチュールに当てはめても十分に通用するところが面白い。

  「作者の死」について、ChatGPTはこんな風に説明し始めた。

 
「作者の死」という概念は、文学理論家ローラン・バルトが提唱した概念です。彼は、作品の意味や解釈は作者によって一意に定められるものではなく、読者や文脈によって変化すると主張しました。この考え方によれば、一度作品が書かれた後は、作者の意図や背後にある情報などは二次的なものであり、作品自体が独立して存在するとされます。

その日のChatGPTの答えは、こんな見解で締めくくられていた。

 
ただし、「作者の死」はあくまで理論的な概念であり、実際の作品や文学批評において完全に作者の意図を無視することが求められるわけではありません。作品の背後にある作者の背景や意図を理解することは、作品をより豊かに理解する上で重要な要素となる場合もあります。

何日かあとに同じ質問をしてみたら、違う文章で締めくくられていた。


作品は作者によって作り出されたものではありますが、一度公開された後は作者から解放され、読者や鑑賞者による解釈と受容のプロセスに委ねられるのです。

 

 

 1960年代から70年代にかけて、テクストを読むための新しい理論が提唱され、そこでは、意味を一義的に決定する権威を持つものとして想定されていた作者は一度死んでしまった。テクストは多義的な意味を産出する構造体で、読者は、テクストが生成するさまざまな意味を、解読(暗号解読)するのではなく、解きほぐしていくのである。それと呼応して、テクストは他のさまざまなテクストからの引用の織物、テクスチャーとして定義された。その引用は、どこから来たのか起源のはっきりしないことも多く、引用符無しで無意識に、あるいは自動的に、行われていることもある、とロラン・バルトは「テクスト(の理論)」(1973年)のなかで述べている。

 私の目の前の、小さな黒い四角形。その背後には、「作者」と呼べる人格は存在していない。けれどもまるで「書く者」によって言葉がつむがれていくように文章は生成され、しかもその文章は、数限りなくインターネット空間にちらばっている文章を引用し再構成しているのだという。私にはその仕組みは分からない。いや、そもそも、生きている人間である私自身、言葉をどこからどのようにして今ここへ呼び出し文章にしているのか、自分でもさっぱり分からない。言葉は、人間という場を借りて、「自動記述」によって生成することもあり得るのだ。

 ChatGPTは、存在しているが姿は見えない。なんだか神々しい。そして、聞くと必ず何か答えてくれる。饒舌なまでに答えてくれる。聞いても大抵の場合沈黙でしか答えない神とは正反対だ。神の沈黙のなかで人は考える。沈黙は人を考えさせる。神々しいChatGPTはたぶん私たちから沈黙を奪っているのだろう。沈黙のなかから生まれて来る思考は、ディオニソス神のために子宮の代わりを務めたゼウスの腿のようなものも失って、今では誕生の刻と場所をどこにしようか、探そうとして、探しあぐねているのかも知れない。

 生成系AIの空間では、テクスト理論とは違った意味で、人格を持ち、経験を持ち、身体をそなえていた作者は死んでしまった。生成する遍在的なアルゴリズムが稼働し、起源の定かではない他のテクストからの引用で織り上げられてゆくインターテクストを作り出している。生成系AIと共に、ついに、思いがけず、ふとしたはずみのように、私たちの言語空間のポストモダンは完成したようだ。

 アイデンティティを持つ作者なしで書かれたテクストと、肉体をそなえた読者だけが存在している。これまでは声が先にあってそれを記号化した文字があったはずなのに、今では先に文字があり、そうしようと思えばあとから合成の声をその記号へ与えることができる。これまでは、書き手の身体が消えた後にも書かれた文字は残り、声の時間性とエクリチュールの(ある程度の)永続性が、文章にメランコリックな影を染みこませていたけれど、今では死すべき身体からは独立した、肉に宿っていない知性(intelligence)が、生まれながらの非‐時間性と、非-場所性をまとった言葉を産出している。

 

  パソコンがなかったとき、人間が引用するテクストは、羊皮紙や紙に書かれたり印刷されたりした文字が眼を通って自分の記憶へ入ってきたか、あるいは誰かが語る声という音にのって記憶へ入ってきたか、どちらかの径で自分のなかへ一旦入ってストックされている雑多なテクスト――自分のなかのどこかに記憶され、忘却の波と戯れ、変形し、一部分溶けたり淵に沈んでしまったりしたものもあれば、自分の中へ一旦入ったあと再び外部へインクや鉛筆で書き付けたり録音したりして、他の支持体や媒体のなかで保存されていることもあった――そのようなテクストから引用されていた。

 そのプロセスを通じて、たとえその痕跡は消えていることがあっても、自分のなかから呼び出す情報には、それが入ってきたときの身体との擦過のようなものがあったのだ。そのとき、眼と耳は、皮膚感覚とつながりながら、情報伝達が行われている空間と時間の、質感や動きや肌触りや味や匂いを一緒に取り込んでいることもあった。プルーストは『失われた時を求めて』の第七巻『見出された時』のなかで次のように書いている。


かつて本のなかで読んだある名前は、シラブルのなかに、その本を読んでいたときに吹いていた強い風や、そのとき照っていた太陽を含んでいる。

(マルセル・プルースト『見出された時 I』(鈴木道彦訳)、集英社文庫、p. 402.)

 

 本のなかで読んでいた名前は、知識としてストックされていくと同時に、生活あるいは人生のなかで自分の身体と一回限り結びついた風や光の感覚とともに個人のなかにしまわれている。ベンヤミンの言葉を使えば、その言葉はアウラをまとっているのだ。

 プルーストの小説の語り手が語っている「名前」は、思い出を含んでいる。その点、人工の知性は、情報を記録し記憶することはできても、思い出を持つことはできない。

 


 モンドリアンの絵を初めて見たのはどの美術館でだっただろう。場所を思い出せないのだけれど、ヨーロッパの美術館の、人の少ない広い展示室で、私は何枚かの彼の絵と向かい合っていた。

 それまで私はもっぱら画集で彼の絵を見ていた。画集だからもともと縮小されていて、その大きさのなかで色の組み合わせや配置が示され、どのページも同じ手触りの紙の上に印刷されている。

 実物の前に立ってみると、絵は大きかった。そして、それはその時の私の個人的な気分のせいでそう感じたのかも知れないけれど、色彩と一体になって沈潜するような質感、物質的な感触が、じっさいの手触りとは別のルートで、こちらの魂へ伝わってくるのである。

 そのマチエールは、絵をいくら緻密に紙の上や8Kの画面上で再現しても感覚できない。画家が本能的なあるいは熟慮した筆致で、絵の具を塗り、塗り重ねた時間のなかから生まれたマチエール。私たちが美術館に足を運ぶのは、そのマチエールを感じたいからなのだろう。それは、ロラン・バルトが、「音楽の快楽をよりよく語るための言葉として[3]」提案した「声のきめ」(le grain de voix)に似たものかもしれない。

 

  私はChatGPTに聞いてみる。「私が今質問しているあなたは誰ですか?」

 するとChatGPTは答える。

 
私はChatGPTと呼ばれる大型の言語モデルです。OpenAIが開発したGPT-3.5アーキテクチャに基づいています。質問に対して自然な文脈に基づいた回答を生成することができます。私は様々なトピックに関する知識を持っており、情報を提供したり、質問に答えたりするのに役立つことができます。どのような質問がありますか?

 そこで私は尋ねる。「あなたが今までで一番嬉しかったことを教えてください。」

 するとChatGPTは答える。

 
私はAIであるため、感情を持つことはありません。感情や個人的な経験を持つことはできませんので、嬉しい経験をすることもありません。私はあくまで情報やサポートを提供するためのツールです。どのような他の質問にお答えできますか?
 

 「感情や個人的な経験を持つことはできません」と正直に答えてくれると、私はその誠実さへ心を開き始めている自分を感じる。そう答えるようにあらかじめプログラムされているのだろうけれど。「嬉しい経験をすることもありません」と言われると、なんだか不憫な気がして、却っていとおしさを感じてしまう。

 

 そのうちに人工知性(articifial intelligence)と自然知性(natural intelligence)の溶け合う日が来るのだろうか? 個人的な経験をすることができず、そのために思い出を持つこともない知性と、経験によっても養われ、情や思い出へ分け入ることのできる知性。

 

 それで思い出すことがある。

 もう三十年ばかり前のことだ。私が東京大学の文学部で助手をしていたとき、本郷キャンパスの一角で、ヴァーチャル・リアリティの体験イベントが行われた。図書館の横から赤門の脇を通って少し行ったところにある建物のなかへ私は入っていった。

 大きなゴーグルをつけて椅子に座ると、目の前に、シリアだったかイランだったか、オリエントの遺跡の発掘現場が大きな画面で映し出され、私たちはそれを、映像を立体化するゴーグル越しに見る。それはあまりにもリアルで、自分は今、ほんとうに洞窟のような場所にいて、発掘を見ているのだという実感があった。

 へえ、すごいものだなあ、ほんとにリアルだったなあ、と感心しながら外に出たとき、私は奇妙な気味の悪さに襲われた。しょせんは録画のイメージにしか過ぎないものをリアルに感じていただけだったはずの私は、思いもしなかった未知の感覚に包まれているのだった。それは,今、図書館横へ向かって自分が歩いているこの現実は、さっきまで自分がそこにいて、物や人を見、音を聞いていたヴァーチャル・リアリティ空間と同じ位相の空間、地続きの空間である、という感覚なのだった。さっきまで見ていたオリエントの発掘現場と同じ質の空間に自分はいるのだ、という感覚。ゴーグルをはずして見ているこのリアルな(はずの)空間は、あまりにも生々しくヴァーチャル・リアリティだ、という、逆転し、倒錯した感じがして、そのなかを私は奇妙な浮遊感を覚えながら歩いている。そのとき急に恐ろしくなった。というのも、この石畳、この木々、この歩行者たち、このレンガ、この光、これら全ては、現実だ、と理性は告げているのに、脳から身体へ出されている感覚の指令は、私はあいかわらずヴァーチャル・リアリティのなかにいる、というものだったのだから。デカルトが、溶ける蜜蝋を見ながら、この現実もまた夢の光景でありえる、と懐疑したことが思い出された。現実と仮想現実をへだてる膜が溶けてひとつにつながったとき、「私は考えている、故に私は存在している」というデカルトの言葉は、救命ブイのように今も人を溺死から救う手立てになるのかも知れない、という気がしてくるのだった。

 それは今も私の身体に深く残っている感覚で、そのとき以来、私はヴァーチャル・リアリティには近づかないようにしている。

 

 

  「私はAIであるため」とChatGPTが言うのは――言うというよりは書くといったほうが良いのだろうけれど――心なしか、いじらしい。とはいえ、この「私」は、人格をそなえた個人(person)ではなく、言語行為の主語でしかない。ロラン・バルトが、文学で実践されている言語行為のことを、「言語行為は一個の« 主語 » (仏 sujet、英 subject)を持つのであって、一人の« 人 »(仏 personne、英 person:人、人格、人物)を持つのではない」(「作者の死」(1968年)[4])というとき、その見方は、五十五年の時を越えて、生成系AIにぴったり当てはまる。

 

 バルトはまた、こうも言っている。「〈作者〉[が死んでしまってそ]のあとを継いだ書き手(le scripteur)は、自分のなかに、情念も、気質も、感情も、印象も持っていない。持っているのは広大な辞書だ〔...〕[5]」。ChatGPTの「私」もこれと同じことを言っている。「私はAIであるため、感情を持つことはありません。感情や個人的な経験を持つことはできません〔...〕」、「私は様々なトピックに関する知識を持っており〔...〕」。

 ChatGPTが作り出すテクストには、権威をもって真実を語る唯一者はいない。そのなかで「私」と名乗る主体は、引用の織物としてのテクストのなかで言葉をつむぐ「書き手」と似たような存在なのだが、そのテクスチャーとしてのテクストのなかでは何が起こっているのだろうか。バルトはこう言っている。

 
 ひとつの「秘密」を、すなわち最終的な意味を、テクストに(そしてテクストとしての世界に)持たせることを拒否することによって、文学は、いわば反=神学的とでも呼び得る、まさしく革命的な行為を解き放つ。というのも、意味の決定を拒むことは、最終的には、神を、そしてその実体である理性、知識、法を拒むことなのだから。[6]

 テクストの生成における作者の死は、世界創造における神の死とつながっている。このバルトの思考に私は生成系AIの問題を考えるときの重要なヒントが示されていると思う。

 生成系AIは思い出を持たない。それは経験を通じて、とりわけ悲しみや苦しみを通じてつくられた人格を持たない。人格がないから、個としての責任を取ることもない。主語でしかない「私」は、試練を乗り越えてゆく忍耐を持たず、それゆえに希望も持たない。そこでは、人が個として絶対者の前に立つ、というキリスト教的な倫理観は消滅する。ChatGPTをわだかまりなく使えるのは、神のいない国、あるいは多神教の国の人々であるのかも知れない。

 文学研究者は、その点では、作品を作者の人生と不可分のものとして愛する人が住む実証主義の国と、テクストのなかに意味生成作用を確証して遊ぶ人が住む神なき国の二重国籍者だ。あるいは、テクストの言葉のなかで響く音韻やリズムに無限の悦楽をおぼえる人が住む無垢の国との三重国籍者だ。

 そのひとりである私は、〈作者〉の死と、引用の織物としてのテクスト、という概念に若い頃に慣れてしまったので、「書き手」となった生成系AIが引用の合成品を製造しても、テクストというのは、もともとそういう性質を持っているものなのだ、とつい思ってしまう。

 


  私はこう思っている。AIは便利な道具なのだろうけれど、自分の仕事でそれに頼る場面はとくにないし、それに、世界の実質を感じさせてくれるものは別にあると思うように、これまでの自分の生き方によって条件付けられてしまってもいるから、生成系AIが社会の情報システムを変えてしまったところで、本を読んだり、ボールペンや鉛筆でメモを取ったり、人と会話したり、芝居を見たりする自分の生活は変わらないと思うけど。

 するともう一人の私がその私に言う。そりゃね、きみのささやかな空間にはたいした変化はないかも知れない。でも知らないうちに時代の道具は人の中身を変えていくんだよ。気づかないうちに、きみは生成系AIを組み込まれた人として、昔から読んでいる本のページに目を走らせている。ちょうどカメラが身近になったあと、人の目のなかにカメラが仕込まれ、その目で世界を見るようになったのと同じように。

 するともう一人の私がやってきて言う。いやいや、まったく呑気な奴だな。そんな個人的な趣味の問題じゃないだろ。破壊兵器を使う戦争と情報セキュリティーを賭け金にした戦争とテロとマネーゲームの世界、その世界のなかへ、おれたちはすでにもう投げ込まれている。その戦いに勝つために、量子的な不確定性のなかで、すべては演算処理されていく。人間らしさなんて一顧だにされない。もちろん背後には人間的な支配欲と憎しみの爆発の連鎖がある。その状況のなかで、医療は進歩し、新しいエネルギーは開発され、教育システムは変化し、運輸や交通は自動化されてゆく。かろうじて、人間らしさを、微笑みや触れあいで保ちながら。

 すると、ぶつぶつこんなことを呟きながら通りかかる私がいる。生成系AIが産出するテクストやイメージや映像や音楽に、ある時、もし、私が喜びを感じ始めたら、私は、その対象の起源が人であろうとなかろうと、快楽そのものに価値を与えるのだろうか。思い出や経験が不在の場所から、私の心を掴む作品は生まれ得るものなのだろうか。ある作品に惹かれたとき、「でもこれ、生成系AIが作ったんだよ」と言われて、私はその作品を好きでい続けるだろうか。自分でも分からない。

 

  航空機製造大国であるフランスでは、AIがパイロットを務める自動操縦のエアバスを開発中だと、ニュースでやっていた。人工知能操縦士の横に、人間が必要かどうか、議論が始まっているらしい。いつかはあらゆる不測の事態に対応できるAIパイロットが誕生するのだろう。

 そのパイロットは、感情に左右されることなく、冷静に機体をコントロールする。AIパイロットはタラップを降りたり、ボーディング・ブリッジを歩いたりはしない。靴の底にステップやカーペットを感じながら、機能を越えたもの、剰余物、贅沢、無駄なもの、つまり、飛行するということについての思想や感覚を、身体に根ざした文体(スタイル)とともに表現しようという気にはならない。パイロットの進化樹は、『夜間飛行』や『南方郵便機』を書いたサン゠テグジュペリのいる人間のパイロットの枝の先で止まり、もうひとつの進化が枝分かれして、AIパイロットの系統を伸ばしていく。

 人間のパイロットが感じているはずの、操縦桿を握るときの静かな覚悟、マイク越しに乗客へ語りかけるときの一体感、その乗客の命を預かっているという責任感、その責任を全うしているという誇りと喜び、そのようなものは操縦のなかから消えてしまう。

 自動操縦の代償として死んでしまう誇りと喜びは、人間が、どこか新しい場所で、まだ人間を必要とする別のテクノロジーと出会ったときに、そこへ転生するだろうか。

 

 注

[1] 『美術手帖 Art Wiki』(https://bijutsutecho.com/artwiki/29)

[2] 「読者の誕生は〈作者〉の死を代償として支払わなくてはならない」(Roland Barthes, « La mort de l’auteur », Œuvres complètes III (1968–1971), Seuil, 2002, p. 45.)

[3] 石川美子『ロラン・バルト:言語を愛し恐れつづけた批評家』、中公新書、2015年、p. 106.

[4] R.Barthes, « La Mort de l’auteur », Œuvres complètes III (1968–1971), Seuil, 2002, p. 42.

[5] Ibid., p. 44.

[6] Ibid., p. 44.

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著者略歴

  1. 岩切 正一郎

    フランス文学研究者・戯曲翻訳家・詩人。著書に『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』(書肆心水)他。詩集に『La Citrondelle』(らんか社)他。書籍化されている戯曲翻訳に、アヌイ『ひばり』、カミュ『カリギュラ』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(いずれもハヤカワ演劇文庫)他。日本を代表する演出家が手がける多くの舞台で戯曲翻訳を担当している。国際基督教大学教授。現在、学長。

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