照応と出発
1
大学で初級フランス語を学んでいたとき、文法を担当していた先生は、口癖のように、私なんかからフランス語を学んでもしょうがないんだから、本当にモノにしたければ、日仏学院へ行って学びなさい、と学生に言い含めていた。そのせいなのかどうか、クラスにも「日仏」へ通っている人がいて、その唇から出て来るフランス語にはどこか陰翳のある優美な音色が響いているようにも聞こえるのだった。そこで遅ればせながら私も、経堂駅前の喫茶店でサイフォンコーヒーを淹れたりメロンジュースを作ったりするアルバイトをして学費を貯め、日仏学院のコースを受講し始めた。
神田川の川風に吹かれながら桜の横を歩き――もちろんその風には光や雨にまじってアスファルトをこするタイヤの音やひっきりなしに打ち寄せるモーター音や排気ガスのにおいも溶け込んでいた――外堀通りを渡り、坂をのぼると、今はアンスティチュ・フランセ東京という名の日仏学院に着く。通い始めてしばらくすると、そこには、教室で学ぶ愉しみのほかに、別の愉しみもあることが分かった。図書室に言葉の魅力を声で伝えてくれる音声資料が揃っていたのだ。そして寛大にも、LPレコードを貸してくれるのである。コメディー・フランセーズ(フランス国立劇場)の俳優たちの朗読を録音した三十三回転のレコード。それを私は手提げ袋に入れ、心躍らせ、下宿している部屋へ持ち帰る。モリエールの喜劇、ラシーヌの悲劇、ボードレールやランボーの詩が、スピーカーから聞こえてくる。囁き、熱を帯び、やるせなく、また激しい、さまざまな声。それをカセットテープに録音し、テープから再生される声とリズムと抑揚に耳を傾け、それを自分でも真似しようと試み、そしてフレーズを暗記した。図書室で貸し出し係をしていたフランス人から、君は現代詩には興味ないの?と訊かれ、これなんか聞いてみたら、と勧めてくれたエリュアールのレコードを聞いたりもした。
日仏学院で取っていた語学コースは、教則本に小説や戯曲や詩がたくさん入っていて、コルネイユやアヌイやイヨネスコの戯曲とはそこで出会った。私のフランス語は、どちらかというと、文学作品を読みながら覚えたフランス語だった。
だから、二十代の半ばに初めてパリへ旅行したとき、地下鉄の駅で« correspondances »という単語を眼にしたときは驚いた。「コレスポンダンス」と言えばボードレールの詩のタイトルになっている、象徴派への扉を開いた単語で、香りと色と音が応え合いひとつに融ける「万物照応」か、そうでなければ、作家の「書簡集」を意味していた。さすがにパリはすごいな、地下鉄の壁に万物照応があるんだ、とわくわくする感動が私を包み、でもなんだか変だぞ、という気もするのだった。壁の掲示を眺めているうちに、なんとなく分かってきたのは、それは地下鉄の「乗り換え」という意味らしい、ということだった。
ひとつの言語(ラング)のなかには、書いたり読んだりしてやり取りされる言葉の使用もあれば、口にして耳で聞いて話を交わす言葉もある。日々、空気のなかに生まれては消える花や泡のような声のざわめきは、非連続で接触しながらメッセージを放出し受容する私たち個々の営みをつないで、文字と一緒に、言葉の、形なき生命体を形作っている。
書かれた文章から外国語へ入るのは、私が大学生の頃は、割と普通のやり方だったように思う。そして日常生活の話し言葉は、文法の教科書で学んだようには話されていない。
パスカル研究の世界的な学者の塩川徹也先生は、初めてパリでカフェに入ったとき、コーヒーは液体だから部分冠詞を使わなくては、と« Du café, s’il vous plaît. »(コーヒーください)と注文し、ウェイターはコーヒーを二カップ運んできた、と若い日の思い出を語り、私たち学生を笑わせていた。コーヒーも、喫茶店ではひとつ、ふたつと可算名詞になり、un café (a coffee)と注文する。そこでウェイターは、du caféと言ったのをdeux cafés (two coffees)の注文と思い、二杯持ってきたのだった。
それとは少し違うけれど、カフェで菩提樹の煎じ茶を頼もうとして、« un tilleul »と私が言うと、ほとんど決まって« un thé au lait »、ミルク・ティーが運ばれてくる。そして私は、ああまた、と自分の発音の悪さに苦笑する。でもしばらく前から、もしかすると菩提樹(tilleul)の「煎じ茶」(infusion)をください、と言えばいいのかも、と思い始めている。「菩提樹ひとつください」ではいかにも変だ。ここしばらくフランスへ行っていないけれど、今度行ったら確かめてみようと思う。するとカフェのテラス席の隣のテーブルには、二百年向こうのトゥルヌフォール通りから歩いてきたマダム・ヴォケーがいて、やはり菩提樹の煎じ茶を、「ティウィユ」(tieuille)と発音しながら注文しているかもしれない[注1]。
*
読むのを通じてフランス語を学ぶのは日本に限ったことではない。コンゴ出身の作家アラン・マバンクー(1966年生まれ)は、コンゴ政府の給費生となって他の三人と一緒にフランスのナント大学に留学したとき、自分たちのしゃべるフランス語を授業や学食でからかわれた、と『黒人の啜り泣き』(2012年)に書いている。彼らは、格調高い文章語で使用されるモードと時制である接続法半過去を使って話していたのだ。日本語だと文語でしゃべっているようなものだろうか。「もうそういう表現は使わないんだよ!」と言われても、マバンクーには、「土着の人たち」の言葉のほうが貧弱で、堕落しているように見えたらしい。
家でフランス語を学んだことはなく、というのもぼくらの親はいろいろなコンゴの言葉でしゃべっていたから、ぼくらがフランス語を見つけたのは読むことを通じてだった。それ以来、「本のなかでのようにしゃべっている」という印象をどうしても与えてしまうのだ。
とはいえ、古風な書き言葉でしゃべっているのはさすがに時代がかっているから、
ぼくらはへっぽこな話者というレッテルを貼られないように一段下のレベルへ降りざるを得なかった。
とユーモラスに書いている。そのコンゴ人留学生の非の打ち所のないフランス語に太刀打ちできなくなると、若い男性フランス人に残されているのは――「とりわけ女子学生がいる前では、とはいえ彼女たちのほうはむしろ好意的に思ってくれていたのだけれど」とマバンクーは書いている――アクセントをからかうことだった。
「生粋」のフランス人が言語面で外国人におびやかされるとき、[マウントをとるために]最後に頼るのは、アクセントをバカにする、ということだ。
アクセントやイントネーションは記憶の深部と舌や顔や喉の筋肉とがしっかり結びついていて、身体化された文化のようになっているから、これを手札として生粋の人に出されると、よそから来た者は必ず負ける。
一年後、コンゴ政府からの送金が途絶えたこともあり、マバンクーたちコンゴの留学生はナントを出てパリへ移る。彼が経済と社会の法律を学ぶパリ第九大学では、肌の色は問題にならず、口頭試験でもアクセントは問題ではなく、ただフランス法の知識だけが評価の対象になり、落第する白人もいるのに自分は合格し、そこで初めてフランスには教育における公正があるのだと思ったという。
最近私はコンゴ民主共和国の駐日代理大使を務めるカポンゴ・カポンゴ氏と話をする機会があったので、マバンクーのことを聞いてみた。彼は、その作家は知らない、と言っていた。マバンクーはコンゴ共和国の出身で、カポンゴ・カポンゴ一等書記官はコンゴ民主共和国の人なのだから、彼のことをまるで同国人の作家とでもいうように聞いたのは失礼なことだったのかも知れない。
*
同じように文章語から入ったのなら、マバンクーとまではいかなくても、きちんとしたフランス語を書ければいいのに、私は今も、定冠詞や不定冠詞の使い分けに苦労し、トンチンカンな表現を繰り出し、同僚のフランス人オリヴィエにネイティブ・チェックをしてもらわないと、自分で書いたものをそのまま外へは出せない。会話するときも、これから使おうとする単語が男性名詞なのか女性名詞なのか覚束なくなり、un? いや、uneだっけ? と相手に確かめる始末だ[注2]。
もっとも、それは私に限ったことではないらしい。ボスニア出身の作家ヴェリボル・チョリッチの『亡命マニュアル』(Manuel d’exil)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争で捕虜になったあと、二十八歳でフランスへ亡命した彼の半生を著した、苦いユーモア満載の奮闘記だ。副題に「亡命を成功させるための35のレッスン」とついている。
彼はフランスに着くとOFPRA(フランス難民及び無国籍保護局)に出向かなくてはならなかった。
OFPRAでの面接は、精神分析療法を受けるのに似ている。通訳に付き添われて、ぼくは大きな眼鏡をかけた婦人と対面している。
婦人は彼に言う。
「お宅の国は、戦争をしています。辛いですよね、分かっています、でもここでは、戦争の話は脇に置いておきます。今、私たちがここにいるのはですね、ヴェリボル・チョリッチさん、どうしてあなたはフランス政府の保護と政治的避難所を必要としているのか、それをご自身で説明するためなんです。どういう個人的な理由なんでしょうか、あなたの場合?」
そこで彼は、ここに到った身の上話を婦人に聞かせなくてはならなかった。「なんだか自分はシェエラザード[注3]のようだ、以前の生活の話は暗いおとぎ話にすぎない、そんな気がする」と思いながら。戦争前はラジオでロックやジャズの番組のジョッキーをしていた。心ならずも兵士になり、セルビア軍が攻めてきたときには空へ向かって銃を撃っていた、そうすれば誰も傷つけていないと確信できたから。その後捕まり、ボスニア系イスラム教徒、セルビア人、クロアチアの「裏切り者たち」、自分もその一人だったが、そのような三千人の集団と共に競技場に閉じ込められ、クロアチア兵にカラシニコフの銃床で殴られ軍靴で蹴られた…今では自分はもう誰にとっても何の意味もない。「戦争前、私はひとりの人間でした。今では、一個の侮辱の塊です」と彼は最後に吐き捨てるように婦人に言う。
OFPRAの婦人は、ぼくの話を聞き、メモを取る。
――あなた、フランス語は話せます?と、面接の最後に彼女はぼくに訊く。
ぼくは通訳が翻訳してくれるのを待って、それから英語で答える。
――ええ、私はフランス語話者です、完璧に。
彼の亡命は認められ、フランス語を学び始める。その彼は、ある日、パンを買おうとしてスーパーへ行ったものの売り場が分からず、売り子さんにパンはどこですか、と訊いた。すると肉売り場へ案内された、と書いている。painは女性名詞、と思い、男性名詞の定冠詞 le ではなく女性名詞の定冠詞 la をつけて「ラ・パン」と言ったために、lapin(ウサギ)の肉を探していると思われてしまったのだ。
『亡命マニュアル』は2016年に出版された。彼が五十二歳の時の作品で、まだ邦訳は出ていないようだ。誰も取り組んでいなければ自分で訳してみたい本である。
2
二十代後半の一年間、私は北フランスの地方都市アミアンに留学していた。修士課程に登録していたけれど修士論文を書かなかったので、留学というよりは遊学である。アミアンのピカルディー大学には、プルーストを研究している日本人の女子学生がいて、留学先をここにしたのは、プルーストがアミアンのことを北フランスのヴェネツィアと書いているから、と言っていた。運河は町外れにあって、自分でボートを漕いで水路巡りができる。私の住んでいた寮にはカミュを研究している日本人の男子学生もいて、ある日私は彼と貸しボートに乗って水路巡りをした。
*
アミアンへ来る前、私は夏の終わりのイタリアを一ヵ月ほど旅してヴェネツィアにも行っていた。アミアンにあるのは、プルーストが描いている「薔薇色に染まった側面に光と時刻を反映させながら少しずつ変化してゆく」(鈴木道彦訳)豪壮な館が両岸に立ち並ぶ、そのように都市的な運河ではなく、ボートはアーティチョーク畑のなかを進み、畑のはるか向こうにアミアン大聖堂が姿を見せているのだった。
アミアンからパリへは急行に乗ると小一時間で行けた。私は彼と良くパリへ出かけては、クジャス通りの安宿に泊まり、カフェでシャンティイ・クリーム添えのタルト・タタンを食べ、映画や芝居を観ていた。そして、北駅から列車に乗りアミアンへの帰途につく。列車が駅に到着すると、「アミアン、アミアン、五分間停車します」というアナウンスが流れる。ひなびたメランコリックな口調の駅員の声は、最初の「アミアン」を間延びした声で低く引っ張るように、次の「アミアン」は音程を少し上げ最初のよりは短く響かせたあと、一拍おいて、「五分間停車します」を吹き流しのようにたなびかせる。それを聞くと私はなにやら物悲しい気持ちになるのだった。
*
その日、北駅からアミアンへ向かう列車の車輌には、パリへ修学旅行に来ていた十数人の小学生たちも乗り合わせていた。私たちが日本人だと分かると、急にはしゃぎだし、口々にしゃべり始めた。「ねえねえ、テレビで見たよ、日本人ってヘビを食べるんでしょう?」「えー、ヘビは食べないけどなあ。ウナギじゃない?」「ぜったいヘビ!」ひょっとするとマムシのことかも、と思って私は言う、「毒ヘビをね、リキュールにつけてさ、そのリキュールを飲む人はいたりするけど。でも食べる人はいないんじゃないかと思うよ」
引率の先生が「すみませんねえ」と、私と友人に向かって言い、子どもたちへは、ほんとにもう呆れちゃうよあんたたちには、恥ずかしい、とでも言うような表情を浮かべ、男の子のひとりを示しながら、「突拍子もないことばかり言うんですよ、この子は、バカなんです」と断言し、私と友人は、なにもそこまで、と気圧されながら、「きっとゲテモノ食いの特番か何かやっていたんですよ」とフォローする。子どもたちはますます騒がしく、「ねえねえ、空手はできるの?」「できない」「柔道は?」「柔道も」
そのうちに、子どもたちは、仲良くなった徴を形であらわさなくては、と思い始めたらしい。おみやげに買ったエッフェル塔のミニチュアを取りだし、「これ、あげる」と差し出すのである。「いやいや、それはもらえないよ。しまっといて。ありがとう」
賑やかなことこの上ない。そのとき、ガタンと車輌が揺れ、列車は動き始めた。
« Ça démarre ! »
子どもたちの喚声が口々にあがった。「動いた!」「出発!」
その時の私の驚きといったら。え? それって、君たち、ランボー?
というのも、私はdémarrerという動詞を知ってはいたけれど、それはアルチュール・ランボーの詩「酔い痴れた船」に出て来る奇妙な表現のなかでだったからだ。
潮は怒り狂いぶつかって波音を立てるそのなかを
ぼくは、この前の冬、子どもの脳髄よりももっと何も聞かず
走った! 係留を解かれた〈半島〉も
それ以上の混沌に見舞われたことはなかった。
「係留を解かれた〈半島〉」のところが、原文の« Et les Péninsules démarrées »にあたる。「デマレ」という動詞はこの詩句と一緒に覚えていた。過去分詞の「デマレ」は半島にくっついた詩語だったのだ。それまで一度も、生活のなかで使われるところに遭遇したことがなかった。辞書には確かに「始動する。発進する」と書いてある。けれども私の心の辞書には海洋語としての意味しか載っていなかった。そしてそれは、酔い痴れた船よりも大人しいとはいえ、騒がしい響きをたてながら大海原へ船出してゆく半島のイメージと一体になっているランボー語で、生活圏からは超絶した詩の空間のなかに、潮(des marée)と韻を踏みながら響いていた。
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「小学生でも使う単語だったんだ……」
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『地獄の一季節』のなかの「錯乱II 言葉の錬金術」によって、私はランボーの錬金術的詩法に触れてはいた。絵画や近代詩の大家など取るに足りない、と豪語するランボー的語り手は、高級な文化の価値観からすれば低く見られそうな素材を愛していた。
ぼくはくだらない絵が好きだった。たとえば扉の上の装飾、舞台装置、辻芸人の幕、看板、色刷りの大衆的な挿絵。時代遅れの文学も。たとえば教会のラテン語、綴りもあやふやなエロ本、ぼくらのお婆ちゃんたちが読んでいた小説、おとぎ話、子ども向けの小型本、古めかしいオペラ、間抜けなリフレイン、素朴なリズム。
「詩の古くさいガラクタ」を使いながら、存在や言葉を「金の火花」や「永遠」へ変換してゆく。けれど、私はまだ頭のどこかで、それでもやっぱり、使われているのは詩の魔力を発散する特殊な単語の数々、と思い込み、そこから抜け切れていなかったようだ。
ヴィジョンのなかで言葉は夢想のエネルギーに満ちている。それは詩人が充当するエネルギーで、言葉そのものはみんなに分け持たれているもの。そのことを小学生の喚声は教えてくれた。
それから三十五年ほど経った今、職場のパソコンを起動して、WindowsのOSの画面左下にある「スタート」ボタンにポインターを合わせると、フランス語表示にしていれば、そこに« démarrer »という文字が現れる。
注
[1] バルザックの『ゴリオ爺さん』で下宿屋を営むヴォケー夫人はtilleulをtieuilleと発音してみんなから揶揄われている。この発音はバルザックの愛人でポーランド生まれのハンスカ夫人の発音を当てたもの。
[2] « un »は男性名詞、« une »は女性名詞に付く不定冠詞で、英語の« a »にあたる。
[3]シェエラザード:『千一夜物語』のなかの語り手。夜ごと王様に物語を語り聞かせる。