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精進料理のこころ 吉村昇洋

第9回 戒律にみる食事

律にみる薬

 

 釈尊の時代よりインド仏教では、しばしば食べ物を「薬」と表現してきた。仏教典籍は三蔵といって「経蔵(釈尊の教え)」「律蔵(仏教教団のルール)」「論蔵(経・律の解釈)」の三つに分類されるが、その中の律蔵に詳しく書かれている。

 しかし、この仏教教団のルールを記した律は複数あり、それぞれの中で書かれている内容が異なる。同じインド内でも、色んな地域・気候・習慣があるので、当然といえば当然なのだが、「薬」に関して、森章司氏の研究を中心に述べていきたい。

 まず、最初に取り上げるのは、仏教者には食事を許された時間と、そうではない時間があるという点。仏教僧は、夜明けから正午にかけてを「時(じ)」と呼び、この時間帯にのみいわゆる食事を摂ることが許され、この食事を「時薬(じやく)」と呼んだ。一方、それ以外の時間帯である「非時(ひじ)(正午から夜明けまで)」に食事を摂ることは許されなかったが、中には口にできる「非時薬(ひじやく)( 時分薬・夜分薬)」「七日薬(なのかやく)」「尽形寿薬(じんぎょうじゅやく)」といった薬の規定もなされた。

 

夜明けから正午までの食事

 

 まず時薬について。部派仏教の大衆部で用いられた『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』によれば、それは「一切の根、一切の穀、一切の肉なり」とある。詳しく見ていくと、五種の正食(しょうじき)と呼ばれるスタンダードな食事「蒲闍尼食(ほじゃにじき)」、よく噛んで食べる必要のある固形物の「佉陀尼食(きゃだにじき)」、それら以外の「似食(じじき)」の三種があり、これらは全て正式な食事として認識されていた。基本的に時薬は、乞食や在家信者からの招待を通じて食すわけだが、インドで仏教が隆盛を誇っていた時代には、調理後の食事を安全に保存する技術などないわけで、食料をもらい受けるタイミングは極めて重要となる。実際、律には午後以降に残した食事を食べてはいけないという規定があり、おそらく食中毒を防ぐことが目的であったと思われる。比較的涼しい午前中に乞食に行くのもそうした理由によるのであろう。

 そして、乞食で受け取るのは在家信者の家庭で出た余り物なので、各家庭が朝の食事を終えた時間帯に、僧院の外に乞食に出かける必要がある。それが大体十時半ぐらいからだったと言われている。となると、インドの僧侶はお昼時の一日一食だと思われるかもしれないが、実は夜明けとともに起きてすぐの食事(我々でいう朝食)も食べていた。

 律によって色々な定義がなされるが、起床後しばらくして粥や軽い食事を食べたと書かれている。しかし、これらの朝食がどのようにもたらされたかについては触れられていない。可能性としては、在家信者が僧院まで持ってくるか、僧院内で使役された在家の浄人が作っていたかのどちらかであろう。

 

非時に口にするもの

 

 では次に、しっかりとした食事を禁止された時間帯である非時(午後~翌朝の夜明けまで)に口にするものを見ていきたい。これには、おおまかに非時薬、七日薬、尽形寿薬の三種がある。

 簡単に言うと、「非時薬」は果物のジュースなどの浄く漉した飲料。「七日薬」は、食べても吐いたり、食欲が湧かず食べ物を受け付けなかったりする病人のみが口にできるもので、口当たりがよく栄養価も高い蜜や乳製品、油(植物性・動物性)など。衛生面から食べ物の保存は基本的に禁止されたが、病気に罹った際に七日以内であれば、これらの蓄えは許された。「尽形寿薬」は古代インドの伝統医学アーユルヴェーダの影響を受けた、病気の時に飲むいわゆる〝薬〞のことを指す。

 一方で、「嚼食(佉陀尼食)」と「噉食(蒲闍尼食)」を食べてはならないと規定されており、嚼食は「五種の正食、時分薬、七日薬、尽形寿薬を除く硬い食べ物」、噉食は「五種の正食、すなわち飯、麨(しょう)(煎り麦を挽いた粉)、糒(び)(乾飯。道明寺粉のようなもの)、魚、肉」とされる。

 つまり、通常は午後からは非時薬のみ口にできるということで、病人以外は固形のものを食べることが許されなかった。それゆえ、ジュースのもととなる果物そのものは嚼食(佉陀尼食)ゆえ、わざわざ絞って液状にする必要があったのである。ここまで固形のものが許されなかったのは、時薬が在家信者からの布施であったことと関係しており、仮に一日に何度も乞食に行くと、在家信者の負担になる可能性があるため、非時には町や村には入らず、僧院内や僧院の近くの園林などで瞑想をしたという。それに、時薬を午後にも許すとなると、随時の乞食を許すことにもなり、一切の生産活動が禁止され、その分瞑想修行に励む僧侶にとっては、本分と離れた時間を過ごすことになる本末転倒な状況になるので、固形のもの一切の摂取を禁止してしまったのであろう。

 ちなみに、遠く離れた日本の禅宗ではインド仏教の戒律がそのまま活用されることはなく、中国で成立した大乗菩薩戒や中国禅林で成立した清規(禅宗寺院独自の律)が取り入れられた。というのも、もともと聖者に布施をする文化のあったインドと違い、中国では自給自足なしに僧院にいる僧侶たちを食べさせていくことができないという事情があり、日本も同様の問題を抱えていた。にもかかわらず、日本の臨済宗・曹洞宗のどちらの禅道場においても、一年を通じて基本的に朝食は粥であり、こうした伝統的なインド律の片鱗を現在も見て取れる。

 

複数回の食事

 

 先にも述べたように、早朝には、あれば粥や軽食を食べ、十時半頃から乞食に行き、正午までに食事を済ませる。正餐(せいさん)としてはやはり乞食が基本となるが、在家の支援者に食事を招待されたり、僧院で食事を作ってもらったりすることもあった。

 このように、時薬として二度の食事が実行されていたわけであるが、律には「数々食」を禁止する記述が見られる。数々食とは、「五種正食中の一食をもって請ぜられ、これをさしおいて他の五種正食の一食を取ること」と定義される。これを見ると、何度も食事を摂ることを禁止しているように見えるが、そうではない。これは、支援者から招待を受けて食事を頂いた場合、その食事を持ち帰って食べたり、他家で再度招待を受けて食事をしたりしてはいけないという規定である。これらの行為は、接待の不十分さを施主に感じさせることにもなりかねず、失礼にあたると考えられたことから禁止された。

 こうして数々食は招待食であるがゆえに禁止されたが、一方で「残食」であれば再び食べても良いとされた。残食とは、乞食で持ち帰った食べ物を持ち上げ、「私は十分に満足したので、これ以上はいらぬ」と宣言されたものや、病人が食べなかった食事であり、これらは他の修行僧たちに分配され食された。

 

乞食の作法

 

 正餐の基本となる乞食であるが、これにも規定がある。「パーリ律」では、おおよそ次のようにある。

 弟子は和尚(教えを請う師)が乞食のため村に入ろうとしたら、内衣(腰から下を覆う、ひだの多い衣服)を渡し、代わりに着ていた物を受け取り、帯を渡し、僧迦梨(そうぎゃり)(体全体を覆う重衣・大衣)を畳んで渡し、鉢を洗って水を入れて渡す。和尚が随従を求めたら、弟子は三輪を覆い、内衣を着、帯を結び、畳んだ僧迦梨をまとい、紐を結び、鉢を洗って持ち、随従沙門となる。和尚との距離は近すぎず遠すぎず、鉢に入ったものをとる。

 乞食より戻ってきたら、弟子は和尚を迎えるため、座具、洗足水、足台、足布を用意する。鉢と僧迦梨を受け取り、代わりにもとの着物を渡し、内衣を受け取る。この時、衣が汗で湿っていたら熱いところで干す。乾いたらそのまま放置せず、取り込み、たたむ。持ち帰ったものを和尚が食す際には、水と食事を手渡す。

 和尚が食べ終えたら水を渡し、鉢を受け取って洗い、熱いところで乾かしてから衣鉢を収める。鉢は床の下に、衣は衣掛けにつるすか畳んで収め、いずれも露地には置かない。

 和尚が席を立った際には、座具を取り、洗足水、足台、足布を片付け、掃除をする。

 乞食を弟子のみで行う時には、和尚が準備を行う。

 この他、各部派で採用された律には、それぞれ乞食の作法が規定されている。紙幅の関係上、併記することはできないが、衣鉢を準備し、乞食から返ってきたら足を洗い、食事を摂り、片付けと洗濯をするという流れは、総じて共通する。

 

接待を受ける

 

 乞食は基本的に一人か、随従の弟子を連れた二人かで行われるものであったが、律には、在家の施食を四人以上の比丘で受けることは許されないという規定もある。事前に在家者より食事の接待の申し出がある場合もあるが、乞食中に突然招待されるケースもあるため、現在の東南アジアで見られるように、僧侶の集団が一列になって乞食を行うようなことはなかったと考えられる。

 さて、招待を受けた場合、両手で鉢を持って丁重に水を受け、鉢を洗い、その水を受水器に流し、食事を受ける準備をする。両手で鉢を持ち、スープの余地をつくって飯を受ける。過剰に盛ってはならないし、更に得ようとしてはいけない。この時、酥や油などの特別なご馳走が振る舞われたら、長老は平等に分けるように言う。スープは鉢から溢れないように受け、全員の配給がととのってから食べ始める。一心に順に食し、他人の鉢の中を覗いてはならない。といった具合に、招待を受けた際の作法も決まっていた。また、僧院の食堂で供応された時には、最長老と随長老の四、五人が施主に感謝の言葉を説いたという。

 余談ではあるが、この時代のスープは現在の辛いインドカレーとは別物である。唐辛子は中南米原産で、インドにもたらされたのは十六世紀と言われているので、唐辛子の辛味とは異なったスパイシーなスープであったのであろう。

 

 このように、僧の食事は、乞食を基本としながらも、乞食時の施主家での招待、事前連絡のある施主家での招待や僧院での供応など、いくつかパターンが見られる。乞食の途中で招待を受ける者もいるため、乞食で得た食事を僧院に持ち帰って全員で等しく分配したとは考えにくく、僧院に戻って来た者から順に食事を摂っていたとするのが妥当であろう。

 

『春秋』2018年6月号

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著者略歴

  1. 吉村昇洋

    1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺副住職。臨床心理士。相愛大学非常勤講師。曹洞宗大本山永平寺での2年2ヶ月間の修行経験をベースに、禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガについての講演、本や雑誌、新聞にて執筆活動を行う。NHK 総合『ごごナマ』やNHK Eテレ『きょうの料理』の講師として人気を博すほか、地元広島の情報番組RCC『イマなまっ!』にてコメンテーターを務める。また、地方紙『中国新聞』にて宗教コラムの連載「放てば手にみてり」を担当。近著に『禅に学ぶくらしの整え方』(オレンジページ)のほか、『心が疲れたらお粥を食べなさい』『気にしない生き方』(いずれも幻冬舎)、『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)など著書多数。

    曹洞宗八屋山普門寺 http://www.zen-fumonji.com/

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