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名なしのカメはAIの舞に興味がない 田中真知

舞衣と芽衣の物語

ーー舞衣はなにが好き?

 遠くの方から声がした。聞き覚えのある声。

――走るのが好きだよ。

 幼い声が答える。なつかしい声。遠い声。

――舞衣は走るのが好きなのね。

 母の声だ。まだ若い頃の。

――うん。

 舞衣が元気よくうなずく。

――走ってどこへ行くの?

 舞衣はしばらく考え込む。

――わかんない。でも走るの!

 なんどか耳にした母と舞衣のやりとり。もう20年以上も前のことだし、これまで思い出すこともなかった。いや、じつは心のどこかで思い出すことを避けていたのかもしれない。

 目の前のモニターが暗い。画像も音も切れてしまった。さっきまで、トラックが往来する交差点が迫ってくる映像が映っていた。私はトラックパッドを操作して交差点にむかっていった。いつもの私だったら、あんな無謀な真似はしなかった。でも、あのあひる、あれを操作するようになって、ちょっと変わったんだ。なぜか、わからなかったけれど、いまわかった。舞衣のことを思い出したから。

 忘れていたわけじゃない。この奇妙な仕事を引き受けたとき、AIの名前がマイだと聞いて、もちろん舞衣のことがちらっと浮かんだ。でも、たまたま同じ名前だっただけ。それだけのこと。私の中では、舞衣は押入れの奥にしまいっぱなしの古いアルバムの中の色あせた写真みたいなものだった。そう思っていた。

 でも、本当はちがった。思い出すのが怖かっただけかもれない。そうやって、つらいことだけでなく、楽しいことや、だいじなことまで、蓋をして見ないようにしていたのかもしれない。いつもカーテンを閉め切ったままの、この部屋みたいに。

 トラックパッドにふれていた指を離して、私は椅子の背もたれに深く寄りかかった。暗い天井のスクリーンに記憶の奥に眠っていた舞衣との日々が映る。

 そう、舞衣は走るのが好きだった。

 あの頃、舞衣と母と私は、ずいぶんな田舎に暮らしていた。遠い親戚のもっている空き家だと母がいっていたのを覚えている。父は出稼ぎでほとんどいなかったし、その後、母と別れてしまった父のことは顔も思い出せない。

 母と舞と私は3人で手をつないで、夕暮れの田んぼ沿いをよく散歩した。そんなとき突然舞衣が母の手を離して走り出すことがあった。

 その日も、舞衣は突然走り出した。遠ざかる舞衣の背中に母が「気をつけてね」と呼びかけた。その声の響きは本当にやさしくて、私は母のそばにいるのに、母が舞衣とどこかに行ってしまうのではないかと不安になって、母の手をつよく握った。

 舞衣はいちど走り出すと、べつの生き物になったかのように夢中で走りつづけた。そして戻ってくると荒い息をつきながらいった。

――ねえ、お月さまがどこまでもついてくるんだよ。どんなに早く走ってもついてくるんだよ。どうして?

 母はしゃがんで舞衣の額の汗をぬぐうと、

――お月さまはあなたのことを心配しているのよ。

 といった。

 私は母の手をつよく握った。母もまた月のように、いつも私たちのそばにいた。

――芽衣も走ろうよ。

 舞衣が私を誘った。母も私を見た。私はどぎまぎして母の手にしがみついた。

 舞衣は私より背が高くて、言葉も達者で、血色もよかった。だれもが最初は舞衣をお姉さんだと思った。でも、生まれたのは私のほうが先だった。

 双子だから顔つきは似ていたけれど、私たちは性格も好みもまったくちがった。舞衣は活発で、外を走り回るのが好きだった。虫が好きで、裏山や雑木林でいろんな虫をつかまえてきた。

 それにひきかえ、私は外で遊ぶのも、虫も苦手だった。引っ込み思案で、怖がりで、舞衣に誘われても裏山や雑木林には近寄れなかった。唯一の楽しみは家で絵本を読むことだった。本に夢中なあまり、トイレに行くのも忘れるほどだった。

 雨の日は外で遊べないものだから、2人で部屋にこもり、いっしょに本を読んだ。舞衣はじっとしているのが苦手だから、退屈すると私をくすぐって絵本から気をそらせようとした。私が無視していると、絵本を奪って逃げていく。私が声を上げて泣き出すと、母がやってきた。でも母は舞衣を叱るでもなく、途方に暮れたような表情をした。母のそういう顔を見るのはつらかった。

 

――どうしてお母さんは私を叱らないのかな。

 舞衣がさびしそうにいった。それを聞くと、私もさびしくなった。

 



 月に1、2度、母に連れられて電車で1時間かけて町の病院まで出かけた。2両編成で、1時間に1本しか来ない電車だった。

 ある春の日、舞衣は電車に乗るといつものように靴を脱いでシートに正座して、窓の外を眺めた。電車が走り出すと、舞衣は遠ざかる田んぼや畑や雑木林を目で追った。私は電車の中でも絵本を広げた。母も舞衣も電車もたちまち消えて、絵本の世界だけが私を包み込んだ。

 舞衣の雄叫びが耳に入ってふと顔を上げると、舞衣が通路をかけぬけていくところだった。舞衣は車両の連結部分を通って先頭まで行くと、そこで方向転換して、いちばん後ろまで走っていく。すると、また向きを変えて先頭へと走っていく。

――山がついてくる! 電車の中でもついてくる!

 走りながら舞衣が叫んだ。

――走っちゃだめよ。ほかのお客さんに迷惑よ。

 母は立ち上がってまたいつものように途方に暮れた顔をしていた。

 2両編成の電車には、ほかの乗客はいなかったのに。

 

 

 町の病院の担当は、分厚い眼鏡をかけた柔和な表情をした高齢の医者だった。頬骨のあたりに大きな黒いほくろがあって、その山のてっぺんから長い毛が2本伸びていた。私はいつもその毛が気になっていた。なんで先生はあんな毛を伸ばしているんだろう。気になっていたのは舞衣もいっしょで、診察の後「あの毛を引っこ抜いてみたいね」と私にささやいた。

 診察を受けるのはおもに舞衣だった。注射を打たれたり、レントゲンを撮られたり、たくさんの薬を出されるのも舞衣だった。どうして丈夫な舞衣がお医者様に見てもらわなくてはならないのだろう。舞衣も不思議に思ったらしい。走るのが下手で、泣き虫の芽衣こそ、注射してもらったほうがいい。私のいる前でそう母にいった。

 ずいぶんなことをいう。でも、本当のことだからなにもいい返せなかった。そのとき、母は舞衣にこういった。

――舞衣は強い子ね。

 どういう意味かわからなかったけれど、この頃から、舞衣は私にやさしくなった。それまでの舞衣にはなかった、いたわりのようなものが、私への態度の中に感じられるようになった。なぜかはわからない。強い自分が怖がりの芽衣の代わりにお医者様に診てもらうんだ――母の言葉を、そう解釈したのかもしれない。あるいは芽衣は臆病で弱虫だから、自分が守ってやらなくてはと考えたのかもしれない。

 舞衣が走らなくなったのは、それからしばらくたってからだった。正確にいえば、走らなくなったのではない。走れなくなったのだ。舞衣の体が以前とはちがってきていることを、その頃にはうっすらとわかっていた。外に出て遊ぶ代わりに、2人でいっしょに本を読んだり、お人形遊びをすることが増えて、私はうれしかった。それまではお人形遊びなんか、興味を示さなかったのに。

 

 

 その日も雨が降っていた。本当は病院へ行く日だったのだけれど、前日から大雨で電車が運休になって、先延ばしになっていた。私はいつものように部屋で絵本を読みふけっていたが、舞衣はすっかり退屈していた。

 午後になって日が射してくると、いてもたってもいられなくなったのか、外へ行こうよと私にいった。数日ぶりの外出だった。いつもは気がつくと月のようにそばにいる母も、この日はいなかった。

 雨上がりの緑の匂いをふくんださわやかな空気。葉の先端の雨露が午後の日射しを反射してきらめいている。目の前には田植えを終えたばかりの田んぼが広がり、その向こうに雑木に覆われた小高い丘が見えた。丘の上には小さな神社があって、そのまわりにきれいな野花が咲いていた。いちど、母に連れられて行ったことがある。あの花を摘んで母にあげたら、きっと喜ぶだろう。

――行ってみようよ、芽衣。

――えっ?

――花を摘みに行こう。

――どうして?

 ふだんは双子であることを意識することなんてまったくなかった。でも、このときはちがった。舞衣は私の手をとると、水の張られた田んぼの畦道をたどった。そのうちに舞衣は私の手を放して、濡れた畦道を飛び跳ねるようにかけていった。それからくるりと方向を変えると飛び跳ねながら戻ってきた。以前の舞衣のようだった。

――体が軽い! 走れる! 走っても苦しくない!

 舞衣が肩で息をしながら、うれしそうにいった。

 田んぼの反対側までたどり着き、用水路の橋を渡ると、鬱蒼とした木々に覆われた丘が目の前に迫ってきた。草むらの中に丘をのぼる細い道が見えた。ふだんなら怖くて、とても足を踏み入れる気になれなかったが、この日はちがった。雨がやんだし、日射しがきれいだし、空気がさわやかだし、なによりこんなに生き生きとした舞衣を見るのは久しぶりだった。

 遠くから見たら、丘の上の神社までかんたんに辿り着けそうに思えたけれど、登るのは予想に反してたいへんだった。道は草で覆われて見えなくなっているし、雨上がりの斜面はつるつる滑る。木の枝や草のつるにつかまって、泥だらけになって急な坂道を登った。母が連れてきてくれたときは、こんな道じゃなかった。道をまちがえたのだ。

 さすがの舞衣も少し苦しそうだった。体力も運動神経も舞衣にはかなわないと思っていた私のほうが、思いのほか大丈夫だった。いつも舞衣に手を引かれていた私が、気がつくと坂道で舞衣に手を差し伸べていた。

 息をぜいぜいさせながら神社に着いたときは2人とも服も顔も泥だらけで、肘や膝には血が滲んでいた。

 祠の裏にまわると、ぽっかりと広がった空き地があり、白や紫や黄色など色とりどりの野花が咲き乱れていた。私と舞は疲れも忘れて花を摘んだ。

 そのとき舞衣が立ち上がって、大きな声を上げた。

――芽衣、虹だよ! 虹が見えるよ!

 私は顔を上げた。木々の枝の向こうに大きな虹が出ていた。

――ホントだ。虹だ!

 空き地の後ろに大きな岩があった。2人でその岩によじ登って腰を下ろした。くっきりとした虹の外側にもうひとつぼんやりとした虹が出ていた。二重の虹だった。

 どちらからともなく手をつないだ。それはまぎれもなく、私と舞衣にとってかけがえのない時間だった。つないだ手を通して、なにか言葉にならないものが通うのを感じた。それは静かな温かい流れというより、不安な予兆を思わせる切羽詰まった流れにも感じられた。私は舞衣の手を強く握った。舞衣も握りかえした。きっと舞衣も同じように感じていたのだろう。そして、まもなく予兆は現実になった。

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著者略歴

  1. 田中真知

    あひる商会CEO、作家、立教大学講師。慶應義塾大学経済学部卒。エジプトでの8年にわたる滞在経験や中東・アフリカの旅を扱った著書に『アフリカ旅物語』(北東部編・中南部編、1995年、凱風社)『ある夜、ピラミッドで』(2000年、旅行人)『孤独な鳥はやさしくうたう』(2008年、旅行人)『美しいをさがす旅にでよう』(2009年、白水社)『旅立つには最高の日』(2021年、三省堂)など。1997年、イラク国際写真展にて金賞受賞。アフリカのコンゴ河を丸木舟で下った経験をもとにした『たまたまザイール、またコンゴ』で第一回斎藤茂太賞特別賞を受賞。

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